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悟浄出世(ごじょうしゅっせ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:29:57  点击:  切换到繁體中文

寒蝉敗柳かんせんはいりゅうに鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵さんぞうは二人の弟子にいざなわれ嶮難けんなんしのぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧返わきかえりて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河りゅうさがの三字を篆字てんじにて彫付け、表に四行の小楷字かいじあり。

 八百流沙界はちひゃくりゅうさのかい
 三千弱水深さんぜんじゃくすいふかし
 鵞毛飄不起がもうただよいうかばず
 蘆花定底沈ろかそこによどみてしずむ

――西遊記――


       一

 そのころ流沙河りゅうさがの河底にんでおった妖怪ばけものの総数およそ一万三千、なかで、かればかり心弱きはなかった。かれに言わせると、自分は今までに九人の僧侶そうりょった罰で、それら九人の骸顱しゃれこうべが自分のくび周囲まわりについて離れないのだそうだが、他の妖怪ばけものらには誰にもそんな骸顱しゃれこうべは見えなかった。「見えない。それは※(「人べん+爾」、第3水準1-14-45)おまえの気の迷いだ」と言うと、かれは信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪ばけものらは互いに言合うた。「あいつは、僧侶そうりょどころか、ろくに人間さえったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。ふなざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らはかれ綽名あだなして、独言悟浄どくげんごじょうと呼んだ。かれが常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔にさいなまれ、心の中で反芻はんすうされるそのかなしい自己苛責かしゃくが、ついひとり言となってれるがゆえである。遠方から見ると小さなあわかれの口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼がかすかな声でつぶやいているのである。「おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使だてんしだ」とか。
 当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。悟浄がかつて天上界てんじょうかい霊霄殿りょうしょうでん捲簾けんれん大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての妖怪ばけものの中でかれ一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。身体からだが同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問をかれらすと、妖怪ばけものどもは「また、始まった」といってわらうのである。あるものは嘲弄ちょうろうするように、あるものは憐愍れんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。

 事実、かれは病気だった。
 いつのころから、また、何がもとでこんな病気になったか、悟浄ごじょうはそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このようないとわしいものが、周囲に重々しく立罩たちこめておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分がいとわしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も洞穴ほらあなこもって、食をらず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩きまわり、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠にはわからなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今までまとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
 医者でもあり・占星師せんせいしでもあり・祈祷者きとうしゃでもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。因果いんがな病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人まではみじめな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間をうようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘しょうしんしょうめいの・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜおれは俺を俺と思うのか? ほかの者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候ちょうこうじゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分でなおすよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」

       二

 文字の発明はくに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑けいべつする習慣があった。生きておる智慧ちえが、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしもけようが。)それは、煙をその形のままに手でらえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候しるしとしてしりぞけられた。悟浄が日ごろ憂鬱ゆううつなのも、畢竟ひっきょうかれが文字を解するために違いないと、妖怪ばけものどもの間では思われておった。
 文字はとうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙ごいははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河りゅうさがの河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想めいそうしておった。ある高貴な魚族は、美しいしまのある鮮緑のかげで、竪琴たてごとをかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和をたたえておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄ごじょうは、こうした知的な妖怪ばけものどもの間で、いいなぶりものになった。一人の聡明そうめいそうな怪物が、悟浄に向かい、真面目まじめくさって言うた。「真理とはなんぞや?」そしてかれの返辞をも待たず、嘲笑ちょうしょうを口辺に浮かべて大胯おおまたに歩み去った。また、一人の妖怪――これは※魚ふぐ[#「魚+台」、135-7]の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざたずねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これをわらおうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死いたれば、すでに我なし。また、何をかおそれん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、かれ自身けっして死をおそれていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。わらおうとしてやって来た※[#「魚+台」、135-12]魚の精は失望して帰って行った。

 妖怪ばけものの世界にあっては、身体からだと心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちにはげしい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。堪えがたくなったかれは、ついに意を決した。「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で愚弄ぐろうされわらわれようと、とにかく一応、この河の底にむあらゆる賢人けんじん、あらゆる医者、あらゆる占星師せんせいしに親しく会って、自分に納得なっとくのいくまで、教えをおう」と。
 かれは粗末な直綴じきとつまとうて、出発した。

 なぜ、妖怪ばけものは妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡つりあいを絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に貪食どんしょくで、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩いんとうで、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執こしゅうしていて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を辿たどるにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、流沙河りゅうさがの水底では、何百かの世界観や形而上けいじじょう学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望ねがいはあれど希望のぞみなき溜息ためいきをもって、揺動ゆれうごく無数の藻草もぐさのようにゆらゆらとたゆとうておった。

       三

 最初に悟浄ごじょうが訪ねたのは、黒卵道人こくらんどうじんとて、そのころ最も高名な幻術げんじゅつ大家たいかであった。あまり深くない水底に累々るいるいと岩石を積重ねて洞窟どうくつを作り、入口には斜月三星洞しゃげつさんせいどうの額が掛かっておった。庵主あんじゅは、魚面人身ぎょめんじんしん、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、飛者とりを走らしめ、走者けものを飛ばしめるといううわさである。悟浄はこの道人に月仕えた。幻術などどうでもいいのだが、幻術をくするくらいなら真人しんじんであろうし、真人なら宇宙の大道を会得えとくしていて、かれの病をいやすべき智慧ちえをも知っていようと思われたからだ。しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。ほらの奥で巨鼇きょごうの背に座った黒卵道人こくらんどうじんも、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議しんぺんふかしぎの法術のことばかり。また、その術を用いて敵をあざむこうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局、ばかにされわらいものになった揚句あげく、悟浄は三星洞を追出された。

 次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士しゃこういんしのところだった。これは、年を経たえびの精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。悟浄はまた、月の間、この老隠士に侍して、身のまわりの世話を焼きながら、その深奥しんおうな哲学に触れることができた。老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はなべてむなしい。この世に何か一つでもきことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟りくつを考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩おうのう、恐怖、幻滅、闘争、倦怠けんたい。まさに昏々昧々こんこんまいまい紛々若々ふんぷんじゃくじゃくとしてするところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
 悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士いんしは付加えた。
「だが、若い者よ。そうおそれることはない。なみにさらわれる者はおぼれるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変ういてんぺんをのり超えて不壊不動ふえふどうの境地に到ることもできぬではない。いにしえ真人しんじんは、く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生ふしふしょうの域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きもののつ楽しみもない。無味、無色。まこと味気あじけないことろうのごとく砂のごとしじゃ。」
 悟浄は控えめに口をはさんだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心ふどうしんの確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は目脂めやにたまった眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己をほかにして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射したまぼろしじゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見びゅうけんじゃ。世界が消えても、正体のわからぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
 悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢げりののちに、この老隠者いんじゃは、ついにたおれた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺まっさつできることを喜びながら……。
 悟浄はねんごろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。

 うわさによれば、坐忘ざぼう先生は常に坐禅ざぜんを組んだまま眠り続け、五十日に一度目をまされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生はねむっておられた。なにしろ流沙河りゅうさがで最も深い谷底で、上からの光もほとんどして来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐けっかふざしたまま睡っている僧形そうぎょうがぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前にすわって眼をつぶってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
 悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝らいはいをするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度まばたきをした。しばらく無言の対坐たいざを続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「とつ! 秦時しんじ※轢鑚たくらくさん[#「車+度」、139-16]!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒をくらった。かれはよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒がりて来なかった。厚いくちびるを開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが※(「人べん+爾」、第3水準1-14-45)おまえじゃ。冬になって寒さを感ずるものが※(「人べん+爾」、第3水準1-14-45)じゃ。」さて、それで厚いくちびるを閉じ、しばらく悟浄ごじょうのほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は辛抱強しんぼうづよく待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前にすわっている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄はつつしんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種をくことじゃろう。大椿たいちん寿じゅも、朝菌ちょうきんようも、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置しかけじゃわい」
 そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々うやうやしく頭を下げてから、立去った。

「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
 と、流沙河りゅうさがの最も繁華な四つつじに立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い生涯しょうがいが、その前とあととに続く無限の大永劫だいえいごうの中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤だいこうぼうの中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖につながれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞ぎまん酩酊めいていとに過ごそうとするのか? のろわれた卑怯者ひきょうものめ! その間をなんじみじめな理性をたのんで自惚うぬぼれ返っているつもりか? 傲慢ごうまんな身のほど知らずめ! 噴嚏くしゃみ一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
 白皙はくせきの青年はほおを紅潮させ、声をらして叱咤しったした。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しいひとみに見入った。かれは青年の言葉から火のようなきよい矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々のしうるのは、ただ神を愛しおのれを憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚うぬぼれてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
 確かにこれはきよすぐれた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言おしえは薬のようなもので、※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)おこりを病む者の前に※(「やまいだれ+重」、第4水準2-81-58)はれものの薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。

 その四つつじから程遠からぬ路傍ろぼうで、悟浄は醜い乞食こじきを見た。恐ろしい佝僂せむしで、高く盛上がった背骨にられて五臓ごぞうはすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、おとがいへそを隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤くただれた腫物はれものが崩れている有様に、悟浄は思わず足をめて溜息ためいきらした。すると、うずくまっているその乞食こじきは、くびが自由にならぬままに、赤く濁った眼玉めだまじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に吊上つりあがった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、かれを見上げて言った。
僭越せんえつじゃな、わしあわれみなさるとは。若いかたよ。わし可哀想かわいそうなやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主をめとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好かっこうになるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左ひじが鶏になったら、時を告げさせようし、右臂がはじき弓になったら、それで※(「号+鳥」、第3水準1-94-57)ふくろうでもとってあぶり肉をこしらえようし、わししりが車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、重宝ちょうほうじゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿しよというてな、子祀しし子犁しれい子来しらいという三人の莫逆ばくぎゃくの友がありますじゃ。みんな女※じょう[#「人べん+禹」、142-16]氏の弟子での、ものの形を超えて不生不死ふしょうふしきょうに入ったれば、水にもれず火にもけず、寝て夢見ず、覚めてうれいなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもってかしらとし、生をもって背とし、死をもってしりとしとるわけじゃとな。アハハハ……。」
 気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人しんじんというものかもしれんと思うた。この言葉が本物ほんものだとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さとうみくささとが悟浄に生理的な反撥はんぱつを与えた。かれはだいぶ心をかれながらも、ここで乞食こじきに仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女※[#「人べん+禹」、144-7]氏とやらについて教えをいたく思うたので、そのことをらした。
「ああ、師父しふか。師父はな、これより北のかた、二千八百里、この流沙河りゅうさが赤水せきすい墨水ぼくすいと落合うあたりに、いおりを結んでおられる。お前さんの道心どうしんさえ堅固なら、ずいぶんと、教訓おしえも垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな佝僂せむしは、とがった肩を精一杯いからせて横柄おうへいに言うた。

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