您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 夏目 漱石 >> 正文

野分(のわき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:09:38  点击:  切换到繁體中文


        三

 ひのきとびらに銀のようなかわらせた門を這入はいると、御影みかげの敷石に水を打って、ななめに十歩ばかりあゆませる。敷石の尽きた所に硝子ガラスの開き戸が左右から寂然じゃくねんとざされて、秋のくるに任すがごとく邸内は物静かである。
 みがき上げた、まさの柱に象牙ぞうげへそをちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃとかぎをひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周囲まわり尺余しゃくよ朱泥しゅでいまがいのはちがあって、鉢のなかには棕梠竹しゅろちくが二三本なびくべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金屏きんびょうに、三条さんじょう小鍛冶こかじが、異形いぎょうのものを相槌あいづちに、霊夢れいむかなう、御門みかど太刀たちちょうと打ち、丁と打っている。
 取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也しらいどうやう名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首をかたむけてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかもはかられん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生涯しょうがいそれぎりになるかも知れない。今まで訪問に出懸でかけて、年寄か、小供か、ちんばか、眼っかちか、要領を得る前に門前から追いかえされた事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろとせまらるる事は賢者けんじゃ愚物ぐぶつに対して払う租税である。
「大学を御卒業になったほうの……」とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀おじぎをして立って行く。白足袋しろたびの裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳抜いぬいた、かな灯籠どうろうがぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたらがつけられるのかと、先生は仰向あおむいて長いくさりをながめながら考えた。
 下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指のくぼんで、前緒まえおのゆるんだ下駄を立派な沓脱くつぬぎへ残して、ひょろ長い糸瓜へちまのようなからだを下女の後ろから運んで行く。
 応接間は西洋式に出来ている。丸いテーブルには、薔薇ばらの花を模様にくずした五六輪を、淡い色で織り出したテーブルかけを、雑作ぞうさもなく引きかぶせて、末は同じ色合の絨毯じゅうたんと、づくがごとく、切れたるがごとく、波をえがいてゆかの上に落ちている。暖炉だんろふさいだままの一尺前に、二枚折にまいおり小屏風こびょうぶを穴隠しに立ててある。窓掛は緞子どんす海老茶色えびちゃいろだから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼にはらない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇麗きれいへや這入はいった事はないのである。
 先生は仰いで壁間へきかんの額を見た。京の舞子が友禅ゆうぜん振袖ふりそでつづみを調べている。今打って、鼓から、白い指がはじき返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のないを掛けたものだと思ったばかりである。むこうすみにヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間すきまかられてす光線に、金文字の甲羅こうらしている。なかなか立派である。しかし道也先生これにはごう辟易へきえきしなかった。
 ところへ中野君が出てくる。つむぎの綿入に縮緬ちりめん兵子帯へこおびをぐるぐる巻きつけて、金縁きんぶち眼鏡越めがねごしに、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
 道也先生は、あやしげな、銘仙めいせんの上をおおうに黒木綿くろもめんの紋付をもってして、嘉平次平かへいじひらの下へ両手を入れたまま、
「どうも御邪魔をします」と挨拶あいさつをする。泰然たいぜんたるものだ。
 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」とおおいなる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世馴よなれぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあてははずれた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可哀想かわいそうだと云う念頭に尾羽おはうち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞きただしたくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには「あなたが白井道也とおっしゃるんで」と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる「はい」のために無駄死むだじにをしてしまった。初心しょしんなる文学士は二の句をつぐ元気も作略さりゃくもないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、むこうが泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角いっかくを針で突きとおしてもおもいげる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
「実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。
「はあ、何でも出来ます事なら」と中野君は快く承知した。
「実は今度江湖雑誌こうこざっしで現代青年の煩悶はんもんに対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支おさしつかえがなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
 道也先生は静かにふところから手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければいて話させたい景色けしきも見えない。彼はかかるな問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀かがやく眼をげて、道也先生を見たが、先生は宵越よいごし麦酒ビールのごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へせる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃまとまった話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇ちゅうちょしている。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主みっかぼうずのものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上をすべらす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ずおちいる、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
 鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
 道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶はんもんおおいなる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである」
 道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白あおじろ相貌そうぼう一微塵いちみじんだも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。
「我々が生涯しょうがいを通じて受ける煩悶はんもんのうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度ひとたびこの煩悶の炎火えんかのうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭めいりょうになるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯さとる事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋のくるしみをめて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人ごじんをして煩悶せしめて、また吾人をして解脱げだつせしむるのである。……」
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔をげた。
「まだ少しあるんですが……」
うけたまわるのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削除さくじょすると失礼になりますから」
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳をふところへ入れた。
 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言いちごんにして云えば中野君はひまなのである。
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子いすを離れて、一歩テーブルを退しりぞいた。いかにひまな中野君も「それでは」とついに降参して御辞儀おじぎをする。玄関まで送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作たかやなぎしゅうさくと云う男を御存じじゃないですか」と念晴ねんばらしのため聞いて見る。
「高柳? どうも知らんようです」と沓脱くつぬぎから片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへじ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車のきしる音がして梶棒かじぼう硝子ガラスとびらの前にとまった。道也先生が扉を開く途端とたんに車上の人はひらり厚い雪駄せった御影みかげの上に落した。五色の雲がわが眼をかすめて過ぎた心持ちで往来へ出る。
 時計はもう四時過ぎである。深いみどりの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬとびが一羽舞っている。かりはまだ渡って来ぬ。むこうからはかま股立ももだちを取った小供が唱歌をうたいながら愉快そうにあるいて来た。肩にかついだささの枝には草の穂で作ったふくろうが踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑子ぞうしへでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋くだものやの奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
 薬王寺前やくおうじまえに来たのは、帽子のひさしの下から往来ゆききの人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三じょってある石標せきひょうを右に見て、紺屋こんやの横町を半丁ほど西へ這入はいるとわが門口かどぐちへ出る、いえのなかは暗い。
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行きました」と細君はまた台所へ引き返す。
 道也先生は正面のとこの片隅に寄せてあった、洋灯ランプを取って、椽側えんがわへ出て、手ずから掃除そうじを始めた。何か原稿用紙のようなもので、油壺あぶらつぼき、ほやを拭き、最後にしんの黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へてた。庭は暗くなって様子がとんとわからない。
 机の前へ坐った先生は燐寸マッチって、しゅっと云うに火をランプに移した。へやはたちまちあきらかになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言訳いいわけばかりで、げんふくも何もかかっておらん。その代り累々るいるいと書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白木しらき三宝さんぽうを大きくしたくらいな単簡たんかんなもので、インキつぼと粗末な筆硯ひっけんのほかには何物をもせておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれにふける余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温気おんきなき陋室ろうしつに、晏如あんじょとして筆硯をするの勇気あるは、外部より見て争うべからざる事実である。ことによると先生は装飾以外のあるものを目的にして、生活しているのかも知れない。ただこの争うべからざる事実を確めれば、確かめるほど細君は不愉快である。女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視してはばからぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。いな、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己をもくしてくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世をかんずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏綿てんめんする事物や人間がこの装飾用の目的にかなわぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。道也の細君がここまで進歩しているかは疑問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息せいそくする結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
 道也先生はやがてふところから例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。はかまを着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一なかのきいちの恋愛論を筆記している。恋とこのへや、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁きんぶち眼鏡めがねを掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。とこうしろで※(「虫+車」、第3水準1-91-55)こおろぎが鳴いている。
 細君がふすまをすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
 下女は帰ったようである。煮豆にまめが切れたから、てっか味噌みそを買って来たと云っている。豆腐とうふが五厘高くなったと云っている。裏の専念寺でゆうべ御務おつとめをかあんかあんやっている。
 細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
 道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心にしたためている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
 道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆をいて、そばへ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一ページ」と独語した。著述でもしていると見える。
 立って次の間へ這入はいる。小さな長火鉢ながひばち平鍋ひらなべがかかって、白い豆腐が煙りをいて、ぷるぷるふるえている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、ぜんにして重箱じゅうばこをかねたるごとき四角なものの前へ坐ってはしる。
「あら、まだはかまを御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
いそがしいものだから、つい忘れた」
「求めて、忙がしいおもいをしていらっしゃるのだから、……」と云ったぎり、細君は、湯豆腐のなべ鉄瓶てつびんとをえる。
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興すいきょうと思いますわ」
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかしわたくしは……」
「御前は主義がきらいだと云うのかね」
「嫌もすきもないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢ぜいたくや誰だって際限はない」
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構おかまいなすっちゃ下さらないのでしょう」
「このてっか味噌は非常にからいな。どこで買って来たのだ」
「どこですか」
 道也先生は頭をあげてむこうの壁を見た。鼠色ねずみいろの寒い色の上に大きな細君の影が写っている。その影と妻君とは同じように無意義に道也の眼に映じた。
 影の隣りに糸織いとおりかとも思われる、女の晴衣はれぎ衣紋竹えもんだけにつるしてかけてある。細君のものにしては少し派出はで過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎いなかで買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。おのれと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先そっせんして世間を警醒けいせいしようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌おうかする、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮うわかわたる附属物をもってすべてを律しようとする。この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同らいどうして他の人格を蹂躙じゅうりんせんと試みる。天下一人いちにんの公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商しんしょう、百の博士をもってするもつぐないがたきほどたっときものである。われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。かんし、うえしょくするはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆をすずりするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。この信念をいだいて世に処する道也は細君の御機嫌ごきげんばかり取ってはおれぬ。
 壁に掛けてあった小袖こそでを眺めていた道也はしばらくして、夕飯ゆうめしを済ましながら、
「どこぞへ行ったのかい」と聞く。
「ええ」と細君は二字の返事を与えた。道也は黙って、茶を飲んでいる。末枯うらがるる秋の時節だけにすこぶる閑静な問答である。
「そう、べんべんと真田さなだの方を引っ張っとくわけにも行きませず、家主の方もどうかしなければならず、今月の末になると米薪こめまきはらいでまた心配しなくっちゃなりませんから、算段さんだん出掛でかけたんです」と今度は細君の方から切り出した。
「そうか、質屋へでも行ったのかい」
「質に入れるようなものは、もうありゃしませんわ」と細君はうらめしそうに夫の顔を見る。
「じゃ、どこへ行ったんだい」
「どこって、別に行く所もありませんから、御兄おあにいさんの所へ行きました」
「兄のとこ? 駄目だめだよ。兄のところなんぞへ行ったって、何になるものか」
「そう、あなたは、何でも始から、けなしておしまいなさるから、よくないんです。いくら教育が違うからって、気性きしょうが合わないからって、血を分けた兄弟じゃありませんか」
「兄弟は兄弟さ。兄弟でないとは云わん」
「だからさ、ひざとも談合と云うじゃありませんか。こんな時には、ちっと相談にいらっしゃるがいいじゃありませんか」
「おれは、行かんよ」
「それが痩我慢やせがまんですよ。あなたはそれが癖なんですよ。損じゃあ、ありませんか、好んで人にきらわれて……」
 道也先生は空然くうぜんとして壁に動く細君の影を見ている。
「それで才覚が出来たのかい」
「あなたは何でも一足飛いっそくとびね」
「なにが」
「だって、才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆こんたんもあれば工面くめんもあるじゃありませんか」
「そうか、それじゃ最初から聞き直そう。で、御前が兄のうちへ行ったんだね。おれに内所ないしょで」
「内所だって、あなたのためじゃありませんか」
「いいよ、ためでいいよ。それから」
「で御兄おあにいさんに、御目にかかっていろいろ今までの御無沙汰ごぶさた御詫おわびやら、何やらして、それから一部始終いちぶしじゅうの御話をしたんです」
「それから」
「すると御兄おあにいさんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変わたくしに同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――ちょっとその炭取を取れ。炭をつがないと火種ひだねが切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今までほうって置いたんだっておっしゃるんです」
うまい事を云わあ」
「まだ、あなたは御兄おあにいさんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ」
「それで、金でも貸したのかい」
「ほらまた一足飛いっそくとびをなさる」
 道也先生は少々おかしくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどのくらいあれば、これまでの穴が奇麗きれいうまるのかと御聞きになるから、――よっぽど言いにくかったんですけれども――とうとう思い切ってね……」でちょっと留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いていらっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気かっきで赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円ばかりと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、なかなか容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」
「まあ聞いていらっしゃい。まだ、あとが有るんです。――しかし、ほかの事とは違うから、是非なければ困ると云うならおれが保証人になって、人から借りてやってもいいって仰しゃるんです」
「あやしいものだ」
「まあさ、しまいまで御聞きなさい。――それで、ともかくも本人に逢ってとく了簡りょうけんを聞いた上にしようと云うところまでにぎつけて来たのです」
 細君は大功名をしたように頬骨ほおぼねの高い顔を持ち上げて、おっとのぞき込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地いくじなしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々こつこつ出精しゅっせいしながら、さいと自分を安らかに養うほどの働きもない。
「そうか」と道也は云ったぎり、この手腕に対して、別段に感謝の意を表しようともせぬ。
「そうかじゃ困りますわ。私がここまでこしらえたのだから、あとは、あなたが、どうともさらなくっちゃあ。あなたのかじのとりようでせっかくの私の苦心も何の役にも立たなくなりますわ」
「いいさ、そう心配するな。もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入はいる見込があるから」と道也先生は何の苦もなく云って退けた。
 江湖雑誌こうこざっし編輯へんしゅうで二十円、英和字典の編纂へんさんで十五円、これが道也のきまった収入である。ただしこのほかに仕事はいくらでもする。新聞にかく、雑誌にかく。かく事においては毎日毎夜筆を休ませた事はないくらいである。しかし金にはならない。たまさか二円、三円の報酬が彼のふところに落つる時、彼はかえって不思議に思うのみである。
 この物質的に何らの功能もない述作的労力のうちには彼の生命がある。彼の気魄きはく滴々てきてき墨汁ぼくじゅうと化して、一字一画に満腔まんこうの精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏とうりに一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那せつなふるえかしと念じて、道也は筆をる。吾輩は道をす。道をさえぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭しとうよりほとばしって、とが毛穎もうえいたんに紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句をつづる。白紙が人格と化して、淋漓りんりとして飛騰ひとうする文章があるとすれば道也の文章はまさにこれである。されども世は華族、紳商、博士、学士の世である。附属物が本体を踏みつぶす世である。道也の文章は出るたびに黙殺せられている。妻君は金にならぬ文章を道楽文章と云う。道楽文章を作るものを意気地いくじなしと云う。
 道也の言葉を聞いた妻君は、火箸ひばしを灰のなかに刺したまま、
「今でも、そんな御金が這入はいる見込があるんですか」と不思議そうに尋ねた。
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気どっきを抜かれて口をあける。
「どうりゃ一勉強ひとべんきょうやろうか」と道也は立ち上がる。その夜彼は彼の著述人格論を二百五十頁までかいた。寝たのは二時過である。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告