六
「私は高柳周作と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今まで何度もある。しかしこの時のように快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、その他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。せんだって中野のおやじに紹介された時などはいよいよもって丁寧に頭をさげた。しかし頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じている。位地、年輩、服装、住居が睥睨して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首するのである。道也先生に対しては全く趣が違う。先生の服装は中野君の説明したごとく、自分と伯仲の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点において自分の室と同様である。先生の机は白木なるの点において、丸裸なるの点において、またもっとも無趣味に四角張ったる点において自分の机と同様である。先生の顔は蒼い点において瘠せた点において自分と同様である。すべてこれらの諸点において、先生と弟たりがたく兄たりがたき間柄にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにもかかわらず、こっちの好意をもって下げるのである。同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀である。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極めたる虚偽の御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚ったかどうか知らぬ。
「ああ、そうですか、私が白井道也で……」とつくろった景色もなく云う。高柳君にはこの挨拶振りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開けて、一刻も早く同類相憐むの間柄になりたい。しかしあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、そのためにかく零落したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんなところになるとすこぶる勇気に乏しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、いよいよと云う段になると少々怖くて罪滅しが出来かねる。心にいろいろな冒頭を作って見たが、どれもこれもきまりがわるい。
「だんだん寒くなりますね」と道也先生は、こっちの了簡を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、だいぶ寒くなったようで……」
高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。
「先生御忙がしいですか……」
「ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏閑なしで」
高柳君はやり損なったと思う。再び出直さねばならん。
「少し御話を承りたいと思って上がったんですが……」
「はあ、何か雑誌へでも御載せになるんですか」
あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向には酌み取れないと見えると青年は心中少しく残念に思った。
「いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……」
「いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ」
「いいえ」と青年は妙な言葉をもって先生の辞を否定した。
「あなたは何の学問をなさるですか」
「文学の方を――今年大学を出たばかりです」
「はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね」
「やれれば、やりたいのですが、暇がなくって……」
「暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗にほのめかした。
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋の影がさす。
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
青年は唖然として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目である。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲き込もうとする。
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇む狐のように探りを入れた。
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎たる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何人の前に出てもひるまぬつもりである。
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜですと突き込むのも、何だか伏兵に罹る気持がして厭である。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗に催促の意を籠めて見たのである。
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。――文学はほかの学問とは違うのです」と道也先生は凛然と云い放った。
「はあ」と高柳君は覚えず応答をした。
「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。これがあると学問が出来ない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならんように思われていた。おかしいのは当人自身までがその気でいた。しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっているような閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けて、しだいに人世に遠かるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります」
「なるほど」と高柳君は妙な顔をして云った。
「あなたは、そうは考えませんか」
そう考えるにも、考えぬにも生れて始めて聞いた説である。批評的の返事が出るときは大抵用意のある場合に限る。不意撃に応ずる事が出来れば不意撃ではない。
「ふうん」と云って高柳君は首を低れた。文学は自己の本領である。自己の本領について、他人が答弁さえ出来ぬほどの説を吐くならばその本領はあまり鞏固なものではない。道也先生さえ、こんな見すぼらしい家に住んで、こんな、きたならしい着物をきているならば、おれは当然二十円五十銭の月給で沢山だと思った。何だか急に広い世界へ引き出されたような感じがする。
「先生はだいぶ御忙しいようですが……」
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興な苦労をします。ハハハハ」と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。
「失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……」
「今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」
「随分御面倒でしょう」
「面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気ています。まあいい加減に書いては来ますが」
「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗に中野春台の事を釣り出そうとする。
「面白いの何のって、この間はうま、うまの講釈を聞かされました」
「うま、うまですか?」
「ええ、あの小供が食物の事をうまうまと云いましょう。あれの来歴ですね。その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうまだそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何にもつけなくてもいいのだそうだが、そこが小供に取って一番大切なものは食物だから、とうとう食物の方で、うまうまを専有してしまったのだそうです。そこで大人もその癖がのこって、美味なものをうまいと云うようになった。だから人生の煩悶は要するに元へ還ってうまうまの二字に帰着すると云うのです。何だか寄席へでも行ったようじゃないですか」
「馬鹿にしていますね」
「ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ」
「しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね」
「なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真面目だけれどもなかなか突飛なのがあってね。この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。もっとも若い人ですがね」
「中野じゃありませんか」
「君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった」
「私の同級生です」
「ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから」
「金持ちです」
「うん立派な家にいますね。君はあの男と親密なのですか」
「ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです」
「いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ」
「何だかしかし、こう、一人坊っちのような気がして淋しくっていけません」
「一人坊っちで、いいでさあ」と道也先生またいいでさあを担ぎ出した。高柳君はもう「先生ならいいでしょう」と突き込む勇気が出なかった。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」
高柳君はだまって下を向いた。
「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」
高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋いでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋し気に笑った。
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在りか」
「母だけ田舎にいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母さんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖えちゃ、ちょっと、口を得るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ?」と道也は何も知らぬ気である。
「先生は――あの――江湖雑誌を御編輯になると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱と拘泥と云うのがありましたが、あの憂世子と云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出したようなもので、利益を享けた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一の知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目に云った。
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞めるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望だが――随分頓珍漢な事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴ですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水とか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向けば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭でも生やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体何物でしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気なものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲ぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片っ端から撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋の影はいつしか消えて、開け放った一枚の間から、靴刷毛の端が見える。椽は泥だらけである。手の平ほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧を照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉垣の遥か向に大きな柿の木が見えて、空のなかへ五分珠の珊瑚をかためて嵌め込んだように奇麗に赤く映る。鳴子の音がして烏がぱっと飛んだ。
「閑静な御住居ですね」
「ええ。蛸寺の和尚が烏を追っているんです。毎日がらんがらん云わして、烏ばかり追っている。ああ云う生涯も閑静でいいな」
「大変たくさん柿が生っていますね」
「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳を時々するが、身体は丈夫ですか。だいぶ瘠せてるようじゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから」
「しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」
「わたし? わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫」
七
白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。
と女はうたい了る。銀椀に珠を盛りて、白魚の指に揺かしたらば、こんな声がでようと、男は聴きとれていた。
「うまく、唱えました。もう少し稽古して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしにやって見ませんか」
「厭だわ、ためしだなんて」
「それじゃ本式に」
「本式にゃなおできませんわ」
「それじゃ、つまりおやめと云う訳ですか」
「だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ」
「その新体詩はいいでしょう」
「ええ、わたし大好き」
「あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか」
「写真に?」
「ええ、厭ですか」
「厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう」
「見せてわるければ、わたし一人で見ています」
女は何にも云わずに眼を横に向けた。こぼれ梅を一枚の半襟の表に掃き集めた真中に、明星と見まがうほどの留針が的と耀いて、男の眼を射る。
女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交趾の鉢に細き蘭が揺るがんとして、香の煙りのたなびくを待っている。上段にはメロスの愛神の模像を、ほの暗き室の隅に夢かとばかり据えてある。女の眼は端なくもこの裸体像の上に落ちた。
「あの像は」と聞く。
「無論模造です。本物は巴理のルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます」
「本物も欠けてるんですか」
「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」
「何の像でしょう」
「ヴィーナス。愛の神です」と男はことさらに愛と云う字を強く云った。
「ヴィーナス!」
深い眼睫の奥から、ヴィーナスは溶けるばかりに見詰められている。冷やかなる石膏の暖まるほど、丸き乳首の、呼吸につれて、かすかに動くかと疑しまるるほど、女は瞳を凝らしている。女自身も艶なるヴィーナスである。
「そう」と女はやがて、かすかな声で云う。
「あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ」
「これで愛の神でしょうか」と女はようやく頭を回らした。
あなたの方が愛の神らしいと云おうとしたが、女と顔を見合した時、男は急に躊躇した。云えば女の表情が崩れる。この、訝るがごとく、訴うるがごとく、深い眼のうちに我を頼るがごとき女の表情を一瞬たりとも、我から働きかけて打ち壊すのは、メロスのヴィーナスの腕を折ると同じく大なる罪科である。
「気高過ぎて……」と男の我を援けぬをもどかしがって女は首を傾けながら、我からと顔の上なる姿を変えた。男はしまったと思う。
「そう、すこし堅過ぎます。愛と云う感じがあまり現われていない」
「何だか冷めたいような心持がしますわ」
「その通りだ。冷めたいと云うのが適評だ。何だか妙だと思っていたが、どうも、いい言葉が出て来なかったんです。冷めたい――冷めたい、と云うのが一番いい」
「なぜこんなに、拵らえたんでしょう」
「やっぱりフジアス式だから厳格なんでしょう」
「あなたは、こう云うのが御好き」
女は石像をさえ、自分と比較して愛人の心を窺って見る。ヴィーナスを愛するものは、自分を愛してはくれまいと云う掛念がある。女はヴィーナスの、神である事を忘れている。
「好きって、いいじゃありませんか、古今の傑作ですよ」
女の批判は直覚的である。男の好尚は半ば伝説的である。なまじいに美学などを聴いた因果で、男はすぐ女に同意するだけの勇気を失っている。学問は己れを欺くとは心づかぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。
「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
「そう」と女は云ったばかりである。石火を交えざる刹那に、はっと受けた印象は、学者の一言のために打ち消されるものではない。
「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想がある」
「どんな聯想なの」と女はおとなしく聞きつつ、双の手を立ちながら膝の上に重ねる。手頸からさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣のうちに隠れる。衣は薄紅に銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らしたような縞柄である。
上になった手の甲の、五つに岐れた先の、しだいに細まりてかつ丸く、つやある爪に蔽われたのが好い感じである。指は細く長く、すらりとした姿を崩さぬほどに、柔らかな肉を持たねばならぬ。この調える姿が五本ごとに異ならねばならぬ。異なる五本が一つにかたまって、纏まる調子をつくらねばならぬ。美くしき手を持つ人は、美くしき顔を持つ人よりも少ない。美くしき手を持つ人には貴き飾りが必要である。
女は燦たるものを、細き肉に戴いている。
「その指輪は見馴れませんね」
「これ?」と重ねた手は解けて、右の指に耀くものをなぶる。
「この間父様に買っていただいたの」
「金剛石ですか」
「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」
「あんまり御父さんを苛めちゃいけませんよ」
「あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ」
「そりゃ珍らしい現象ですね」
「ホホホホ本当ね。あなたその訳を知ってて」
「知るものですか、探偵じゃあるまいし」
「だから御存じないでしょうと云うのですよ」
「だから知りませんよ」
「教えて上げましょうか」
「ええ教えて下さい」
「教えて上げるから笑っちゃいけませんよ」
「笑やしません。この通り真面目でさあ」
「この間ね、池上に競馬があったでしょう。あの時父様があすこへいらしってね。そうして……」
「そうして、どうしたんです。――拾って来たんですか」
「あら、いやだ。あなたは失敬ね」
「だって、待っててもあとをおっしゃらないですもの」
「今云うところなのよ。そうして賭をなすったんですって」
「こいつは驚ろいた。あなたの御父さんもやるんですか」
「いえ、やらないんだけれども、試しにやって見たんだって」
「やっぱりやったんじゃありませんか」
「やった事はやったの。それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって」
「へえ。それで買って頂いたのですか」
「まあ、そうよ」
「ちょっと拝見」と手を出す。男は耀くものを軽く抑えた。
指輪は魔物である。沙翁は指輪を種に幾多の波瀾を描いた。若い男と若い女を目に見えぬ空裏に繋ぐものは恋である。恋をそのまま手にとらすものは指輪である。
三重にうねる細き金の波の、環と合うて膨れ上るただ中を穿ちて、動くなよと、安らかに据えたる宝石の、眩ゆさは天が下を射れど、毀たねば波の中より奪いがたき運命は、君ありての妾、妾故にの君である。男は白き指もろ共に指輪を見詰めている。
「こんな指輪だったのか知らん」と男が云う。女は寄り添うて同じ長椅子を二人の間に分つ。
「昔しさる好事家がヴィーナスの銅像を掘り出して、吾が庭の眺めにと橄欖の香の濃く吹くあたりに据えたそうです」
「それは御話? 突然なのね」
「それから或日テニスをしていたら……」
「あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの?」
「銅像を掘り出したのは人足で、テニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です」
「どっちだって同じじゃありませんか」
「主人と人足と同じじゃ少し困る」
「いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう」
「そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」
「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方がテニスをするの、ね。いいでしょう」
「どっちでも同じでさあ」
「あら、あなた、御怒りなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか」
「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納の指輪なんです」
「誰と結婚をなさるの?」
「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」
「あら、お話しになってもいじゃありませんか」
「隠す訳じゃないが……」
「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」
「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」
「それじゃ、ずるいわ」
「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」
「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」
「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」
「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」
「だって名前を知らないんですもの」
「だからその先を話してちょうだいな」
「名前はなくってもいいのですか」
「ええ」
「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」
「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」
「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎へ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合の指環を買って結納にしたのです」
「厭な方ね。不人情だわ」
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人だから忘れちまったんです」
「ホホホホ異人だって」
「そこで結納も滞りなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の晩に――」でわざと句を切る。
「結婚の晩にどうしたの」
「結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……」
「おおいやだ」
「どたりどたりと二階を上がって」
「怖いわ」
「寝室の戸をあけて」
「気味がわるいわ」
「気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう」
「だけれど、しまいにどうなるの」
「だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて」
「そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの」
「では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷めたくなって死んでたそうです。ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います」
「おお、厭だ」と眉をあつめる。艶なる人の眉をあつめたるは愛嬌に醋をかけたようなものである。甘き恋に酔い過ぎたる男は折々のこの酸味に舌を打つ。
濃くひける新月の寄り合いて、互に頭を擡げたる、うねりの下に、朧に見ゆる情けの波のかがやきを男はひたすらに打ち守る。
「奥さんはどうしたでしょう」女を憐むものは女である。
「奥さんは病気になって、病院に這入るのです」
「癒るのですか」
「そうさ。そこまでは覚えていない。どうしたっけかな」
「癒らない法はないでしょう。罪も何もないのに」
薄きにもかかわらず豊なる下唇はぷりぷりと動いた。男は女の不平を愚かなりとは思わず、情け深しと興がる。二人の世界は愛の世界である。愛はもっとも真面目なる遊戯である。遊戯なるが故に絶体絶命の時には必ず姿を隠す。愛に戯むるる余裕のある人は至幸である。
愛は真面目である。真面目であるから深い。同時に愛は遊戯である。遊戯であるから浮いている。深くして浮いているものは水底の藻と青年の愛である。
「ハハハハ心配なさらんでもいいです。奥さんはきっと癒ります」と男はメリメに相談もせず受合った。
愛は迷である。また悟りである。愛は天地万有をその中に吸収して刻下に異様の生命を与える。故に迷である。愛の眼を放つとき、大千世界はことごとく黄金である。愛の心に映る宇宙は深き情けの宇宙である。故に愛は悟りである。しかして愛の空気を呼吸するものは迷とも悟とも知らぬ。ただおのずから人を引きまた人に引かるる。自然は真空を忌み愛は孤立を嫌う。
「わたし、本当に御気の毒だと思いますわ。わたしが、そんなになったら、どうしようと思うと」
愛は己れに対して深刻なる同情を有している。ただあまりに深刻なるが故に、享楽の満足ある場合に限りて、自己を貫き出でて、人の身の上にもまた普通以上の同情を寄せる事ができる。あまりに深刻なるが故に失恋の場合において、自己を貫き出でて、人の身の上にもまた普通以上の怨恨を寄せる事が出来る。愛に成功するものは必ず自己を善人と思う。愛に失敗するものもまた必ず自己を善人と思う。成敗に論なく、愛は一直線である。ただ愛の尺度をもって万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬車馬である。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬車馬である。愛はもっともわがままなるものである。
もっともわがままなる善人が二人、美くしく飾りたる室に、深刻なる遊戯を演じている。室外の天下は蕭寥たる秋である。天下の秋は幾多の道也先生を苦しめつつある。幾多の高柳君を淋しがらせつつある。しかして二人はあくまでも善人である。
「この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね」
「ええ、別に約束した訳でもないんですが、途中で逢ったものですから誘ったのです。何だか動物園の前で悲しそうに立って、桜の落葉を眺めているんです。気の毒になってね」
「よく誘って御上げになったのね。御病気じゃなくって」
「少し咳をしていたようです。たいした事じゃないでしょう」
「顔の色が大変御わるかったわ」
「あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、かえって皮肉を云うのです。何だか近来はますます変になるようです」
「御気の毒ね。どうなすったんでしょう」
「どうしたって、好んで一人坊っちになって、世の中をみんな敵のように思うんだから、手のつけようがないです」
「失恋なの」
「そんな話もきいた事もないですがね。いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない」
「御世話をして上げたらいいでしょう」
「世話をするって、ああ気六ずかしくっちゃ、駄目ですよ。細君が可哀想だ」
「でも。御持ちになったら癒るでしょう」
「少しは癒るかも知れないが、元来が性分なんですからね。悲観する癖があるんです。悲観病に罹ってるんです」
「ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう」
「どうしてですかね。遺伝かも知れません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう」
「何か御聞になった事はなくって」
「いいえ、僕ああまりそんな事を聞くのが嫌だから、それに、あの男はいっこう何にも打ち明けない男でね。あれがもっと淡泊に思った事を云う風だと慰めようもあるんだけれども」
「困っていらっしゃるんじゃなくって」
「生活にですか、ええ、そりゃ困ってるんです。しかし無暗に金をやろうなんていったら擲きつけますよ」
「だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか、文学士だから」
「取れるですとも。だからもう少し待ってるといいですが、どうも性急で卒業したあくる日からして、立派な創作家になって、有名になって、そうして楽に暮らそうって云うのだから六ずかしい」
「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。やっぱり御百姓なの」
「農、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。この間あなたが御出のとき行き違に出て行った男があるでしょう」
「ええ、あの長い顔の髭を生やした。あれはなに、わたしあの人の下駄を見て吃驚したわ。随分薄っぺらなのね。まるで草履よ」
「あれで泰然たるものですよ。そうしてちっとも愛嬌のない男でね。こっちから何か話しかけても、何にも応答をしない」
「それで何しに来たの」
「江湖雑誌の記者と云うんで、談話の筆記に来たんです」
「あなたの? 何か話しておやりになって?」
「ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――それであの男について妙な話しがあるんです。高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ」
「あれで? まあ」
「ところが高柳なんぞが、いろいろな、いたずらをして、苛めて追い出してしまったんです」
「あの人を? ひどい事をするのね」
「それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、さぞ先生も追い出されたために難義をしたろう、逢ったら謝罪するって云ってましたよ」
「全く追い出されたために、あんなに零落したんでしょうか。そうすると気の毒ね」
「それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。だから音楽会の帰りに教えてやったんです」
「高柳さんはいらしったでしょうか」
「行ったかも知れませんよ」
「追い出したんなら、本当に早く御詫をなさる方がいいわね」
善人の会話はこれで一段落を告げる。
「どうです、あっちへ行って、少しみんなと遊ぼうじゃありませんか。いやですか」
「写真は御やめなの」
「あ、すっかり忘れていた。写真は是非取らして下さい。僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。うん、商売人の取るのは下等ですよ。――写真も五六年この方大変進歩してね。今じゃ立派な美術です。普通の写真はだれが取ったって同じでしょう。近頃のは個人個人の趣味で調子がまるで違ってくるんです。いらないものを抜いたり、いったいの調子を和げたり、際どい光線の作用を全景にあらわしたり、いろいろな事をやるんです。早いものでもう景色専門家や人物専門家が出来てるんですからね」
「あなたは人物の専門家なの」
「僕? 僕は――そうさ、――あなただけの専門家になろうと思うのです」
「厭なかたね」
金剛石がきらりとひらめいて、薄紅の袖のゆるる中から細い腕が男の膝の方に落ちて来た。軽くあたったのは指先ばかりである。
善人の会話は写真撮影に終る。
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