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幻影の盾(まぼろしのたて)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:25:04  点击:  切换到繁體中文

一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲ひょうびょうたる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書きおろさなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従って叙事妥当を欠き、描景真相を失する所が多かろう、読者のおしえを待つ。

 遠き世の物語である。バロンと名乗るものの城を構えほりめぐらして、人をほふり天におごれる昔に帰れ。今代きんだいの話しではない。
 何時いつの頃とも知らぬ。只アーサー大王たいおうの御代とのみ言い伝えたる世に、ブレトンの一士人がブレトンの一女子に懸想けそうした事がある。その頃の恋はあだには出来ぬ。思う人のくちびるに燃ゆる情けの息を吹く為には、わがひじをも折らねばならぬ、吾くびをもくじかねばならぬ、時としては吾血潮さえ容赦もなく流さねばならなかった。懸想されたるブレトンの女は懸想せるブレトンの男に向って云う、君が恋、かなえんとならば、残りなく円卓の勇士を倒して、われを世にたぐいなき美しき女と名乗り給え、アーサーの養える名高きたかを獲て吾もとに送り届け給えと、男心得たりと腰に帯びたる長きつるぎちかえば、天上天下に吾志を妨ぐるものなく、つい仙姫せんきたすけを得てことごとく女の言うところを果す。鷹の足をまとえる細き金の鎖のはしに結びつけたる羊皮紙を読めば、三十一カ条の愛に関する法章であった。所謂いわゆる「愛の庁」の憲法とはこれである。……たての話しはこの憲法の盛に行われた時代に起った事と思え。
 行くみちやくすとは、そのかみ騎士の間に行われた習慣である。幅広からぬ往還に立ちて、通り掛りの武士にたたかいいどむ。二人のやりの穂先がしわって馬と馬の鼻頭はなづらが合うとき、鞍壺くらつぼにたまらず落ちたが最後無難にこの関をゆる事は出来ぬ。よろいかぶと、馬諸共もろともに召し上げらるる。路を扼する侍は武士の名をる山賊の様なものである。期限は三十日、かたえの木立に吾旗を翻えし、喇叭らっぱを吹いて人や来ると待つ。今日も待ち明日あすも待ち明後日あさっても待つ。五六三十日の期が満つるまでは必ず待つ。時には我意中の美人と共に待つ事もある。通り掛りの上臈じょうろうは吾をまもる侍の鎧のそでに隠れて関を抜ける。守護の侍は必ず路を扼する武士と槍を交える。交えねば自身は無論の事、二世にせかけて誓える女性にょしょうをすら通す事は出来ぬ。千四百四十九年にバーガンデの私生子と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守りおおせたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子と起居を共にせる美人は只「清き巡礼の子」という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾いかんである。……盾の話しはこの時代の事と思え。
 この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角をさかしまにして全身をおおう位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐かわひもにて肩から釣るす種類でもない。上部に鉄の格子こうし穿けて中央の孔から鉄砲を打つと云う仕懸しかけの後世のものでは無論ない。いずれの時、何者がきたえた盾かは盾の主人なるウィリアムさえ知らぬ。ウィリアムはこの盾を自己のへやの壁に懸けて朝夕ちょうせき眺めている。人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来にわたって吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只幻影まぼろしの盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。
 盾の形はもちの夜の月の如く丸い。はがね饅頭まんじゅう形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。ふちめぐりて小指の先程のびょうが奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円をかくして匠人の巧を尽したる唐草からくさが彫り付けてある。模様があまり細か過ぎるので一寸ちょっと見ると只不規則の※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)れんいが、はだに答えぬ程の微風に、数え難きしわを寄する如くである。花かつたあるは葉か、所々がはげしく光線を反射して余所よそよりも際立きわだちて視線を襲うのは昔し象嵌ぞうがんのあった名残でもあろう。猶内側へ這入はいると延板のべいたの平らな地になる。そこは今も猶鏡の如く輝やいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウィリアムの甲の挿毛さしげのふわふわと風になびく様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう。鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻しゅんこつの影も写そう。時には壁から卸してみがくかとウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムはひとごとの様に云う。
 盾の真中まんなかが五寸ばかりの円を描いて浮き上る。これには怖ろしき夜叉やしゃの顔が隙間すきまもなくいだされている。その顔はとこしえに天と地と中間にある人とをのろう。右から盾を見るときは右に向って呪い、左から盾をのぞくときは左に向って呪い、正面から盾にむかう敵にはもとより正面を見て呪う。ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせぬかと思わるる程怖しい。かしらの毛は春夏秋冬の風に一度に吹かれた様に残りなく逆立っている。しかもその一本一本の末は丸く平たいへびの頭となってその裂け目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出している。毛と云う毛は悉く蛇で、その蛇は悉く首をもたげて舌を吐いてもつるるのも、じ合うのも、じあがるのも、にじり出るのも見らるる。五寸の円の内部に獰悪どうあくなる夜叉の顔を辛うじて残して、額際から顔の左右を残なくうずめて自然じねんに円の輪廓りんかくを形ちづくっているのはこの毛髪の蛇、蛇の毛髪である。遠き昔しのゴーゴンとはこれであろうかと思わるる位だ。ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時のことわざであるが、この盾を熟視する者は何人なんびともその諺のあながちならぬをさとるであろう。
 盾にはきずがある。右の肩から左へはすに切りつけた刀のあとが見える。玉を並べた様なびょうの一つを半ばつぶして、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりをまとう蛇の頭を叩いて、横に延板の平な地へかすかな細長いくぼみが出来ている。ウィリアムにこのきずの因縁を聞くとなんにも云わぬ。知らぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。
 人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史のうちには世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱がつながれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の覊絆きずなで結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引きいだして明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障ごうしょうの風の、すき多き胸にれて目に見えぬ波の、立ちてはくずれ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である。この盾だにあらばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ。天地人を呪うべき夜叉の姿も、彼が眼には画ける天女てんにょの微かにえみを帯べるが如く思わるる。時にはわが思う人の肖像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。
 思う人! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つわたりて二十マイル先の夜鴉よがらすの城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは時々考える事がある。然しその夜鴉の城へ、彼は小児の時度々たびたび遊びに行った事がある。小児の時のみではない成人してからも始終訪問おとずれた。クララの居る所なら海の底でも行かずにはいられぬ。彼はつい近頃まで夜鴉の城へ行っては終日クララと語り暮したのである。恋と名がつけば千里も行く。二十哩は云うに足らぬ。夜を守る星の影がおのずと消えて、東の空に紅殻べにがらみ込んだ様な時刻に、白城の刎橋はねばしの上に騎馬の侍が一人あらわれる。……宵の明星が本丸のやぐらの北角にピカと見えむる時、遠き方より又ひづめの音が昼と夜の境を破って白城の方へ近づいて来る。馬は総身に汗をかいて、白い泡を吹いているに、乗手はむちを鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で人と成ったのである。
 去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方あけがたの武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野にせまる黒きもののうちに吸い取られてか、聞えなくなった。その頃からウィリアムは、おのれを己れのうちへ引き入るる様に、内へ内へと深く食い入る気色であった。花も春も余所よそに見て、只心の中に貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても外界に気を転ぜぬ様に見受けられた。武士の命は女と酒といくさである。吾思う人の為めにとはしの上げ下しに云う誰彼たれかれならって、わがクララの為めにと云わぬ事はないが、その声の咽喉のどを出る時は、ふさがる声帯を無理に押し分ける様であった。血の如き葡萄の酒を髑髏どくろ形のさかずきにうけて、縁越すことをゆるさじと、ひげの尾までらして呑み干す人の中に、彼は只額を抑えて、斜めに泡を吹くことが多かった。山と盛る鹿の肉に好味のとうふるう左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折もあった。皿の上にうずたかき肉塊の残らぬ事は少ない。武士の命を三ぶんして女と酒といくさがその三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三二は既に死んだ様なものである。残る三分一は? いくさはまだない。
 ウィリアムは身のたけ六尺一寸、せてはいるが満身の筋肉を骨格の上へたたき付けて出来上った様な男である。四年前のたたかいに甲も棄て、鎧も脱いで丸裸になって城壁のうちに仕掛けたる、カタパルトをいた事がある。戦が済んでからその有様を見ていた者がウィリアムの腕には鉄のこぶが出るといった。彼の眼と髪は石炭の様に黒い。その髪は渦を巻いて、彼がかしらる度にきらきらする。彼のまなこの奥には又一双のまなこがあって重なり合っている様な光りと深さとが見える。酒の味に命を失い、未了の恋に命を失いつつある彼はきたるべき戦場にもまた命を失うだろうか。彼は馬に乗って終日終夜野を行くに疲れた事のない男である。彼は一片の麺麭パンも食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それでいくさが出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影まぼろしの盾をかざして戦う機会があれば……と思っている。
 白城の城主狼のルーファスと夜鴉の城主とは二十年来のよしみで家の子郎党ろうどうの末に至るまでたがいに往き来せぬはまれな位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年こぞの春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵きょうえんに、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろにゆるむ時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高こわだかののしる声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆるおおかみの……ほざくは」と手にしたる盃を地になげうって、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の、まだらに床を染めて飽きたらず、くだけたる※(「角+光」、第3水準1-91-91)こうへんと共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上る。「い烏の黒き翼を、切って落せば、地獄のやみぞ」とルーファスは革に釣る重き剣に手を懸けてするすると四五寸ばかり抜く。一座の視線は悉く二人の上に集まる。高き窓洩る夕日を脊に負う、二人の黒き姿の、この世の様とも思われぬ中に、抜きかけた剣のみが寒き光を放つ。この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが「渾名あだなこそ狼なれ、君が剣にきざめる文字にじずや」と右手めてを延ばしてルーファスの腰のあたりをゆびさす。幅広きやいばつばの真下に pro gloria et patria と云う銘が刻んである。水を打った様な静かな中に、只ルーファスが抜きかけた剣を元のさやに収むる声のみが高く響いた。これより両家の間は長く中絶えて、ウィリアムの乗りれた栗毛くりげの馬は少しく肥えた様に見えた。
 近頃は戦さのうわささえしきりである。睚眦がいさいうらみは人を欺くえみの衣に包めども、解け難き胸の乱れは空吹く風の音にもざわつく。夜となく日となく磨きに磨く刃のさえは、人をほふる遺恨の刃を磨くのである。君の為め国の為めなる美しき名をりて、毫釐ごうりの争に千里の恨を報ぜんとする心からである。正義と云い人道と云うは朝あらしに翻がえす旗にのみ染めいだすべき文字もんじで、繰り出す槍の穂先には瞋恚しんい※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)ほむらが焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼をゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えてほとばしりたる酒のしずくの、胸を染めたる恨を晴さでやとルーファスがセント・ジョージに誓えるは事実である。尊き銘は剣にこそ彫れ、抜き放ちたる光のうちに遠吠ゆる狼を屠らしめたまえとありとあらゆるセイントに夜鴉の城主が祈念をこらしたるも事実である。両家の間の戦は到底免かれない。いつというだけが問題である。
 末の世の尽きて、その末の世の残るまでと誓いたる、クララの一門に弓をひくはウィリアムの好まぬところである。手創てきず負いてたおれんとする父とたよりなきわれとを、敵の中より救いたるルーファスの一家いっけに事ありと云う日に、ひざを組んで動かぬのはウィリアムの猶好まぬところである。封建の代のならい、主と呼び従と名乗る身の危きにおもむかで、人に卑怯ひきょうあざけらるるは彼のもっとも好まぬところである。かぶとも着よう、よろいも繕おう、槍も磨こう、すわという時は真先に行こう……然しクララはどうなるだろう。負ければ打死をする。クララには逢えぬ。勝てばクララが死ぬかも知れぬ。ウィリアムは覚えず空に向って十字を切る。今の内姿をやつして、クララと落ち延びて北のかたへでも行こうか。落ちた後で朋輩ほうばいが何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐うちぶところからクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻をきぬたで打って柔かにした様にゆるくうねってウィリアムの手から下がる。ウィリアムは髪を見詰めていた視線を茫然ぼうぜんとわきへそらす。それが器械的に壁の上へ落ちる。壁の上にかけてある盾の真中で優しいクララの顔が笑っている。去年分れた時の顔と寸分たがわぬ。顔の周囲を巻いている髪の毛が……ウィリアムは呪われたる人の如くに、千里の遠きを眺めている様な眼付で石の如く盾を見ている。日の加減か色が真青だ。……顔の周囲を巻いている髪の毛が、っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部がわずかに動きやんで、すぐその隣りが動く。見る間に次へ次へと波動が伝わる様にもある。動くたびに舌のれ合う音でもあろう微かな声が出る。微かではあるが只一つの声ではない、ようやく鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定かに見えぬ如く、出る音もかすかであららかには鳴らぬのである。……ウィリアムは手に下げたるクララの金毛を三たび盾に向って振りながら「盾! 最後の望は幻影まぼろしの盾にある」と叫んだ。
 戦はうしおの河に上る如く次第に近付いて来る。鉄を打つ音、はがねきたえる響、つちの音、やすりの響は絶えず中庭の一隅に聞える。ウィリアムも人に劣らじと出陣の用意はするが、時には殺伐な物音に耳をふさいで、高き角櫓すみやぐらのぼってはるかに夜鴉の城の方を眺める事がある。霧深い国の事だから眼にさえぎる程の物はなくても、天気の好い日に二十マイル先は見えぬ。一面に茶渋を流した様なこうせまらぬ波を描いて続く間に、白金しろがねの筋があざやかに割り込んでいるのは、日毎の様に浅瀬を馬で渡した河であろう。白い流れの際立ちて目をくに付けて、夜鴉の城はあの見当だなと見送る。城らしきものはかすみの奥に閉じられて眸底ぼうていには写らぬが、流るるしろがねの、けむりと化しはせぬかと疑わるまで末広に薄れて、空と雲との境に入る程は、かざしたる小手こての下より遙かに双のまなこあつまってくる。あの空とあの雲の間が海で、浪の切立きったち岩の上に巨巌きょがんを刻んで地から生えた様なのが夜鴉の城であると、ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す。しその薄黒く潮風に吹きさらされた角窓のうちに一人物を画き足したなら死竜しりょうたちまきて天にのぼるのである。天晴てんせいに比すべきものは何人なんびとであろう、ウィリアムは聞かんでもく知っている。
 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床ふしどの上に六尺一寸の長躯ちょうくを投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった。只髪の毛は今の様に金色であった……ウィリアムは又内懐うちぶところからクララの髪の毛を出して眺める。クララはウィリアムを黒い眼の子、黒い眼の子と云ってからかった。クララの説によると黒い眼の子は意地が悪い、人がよくない、猶太ユダヤ人かジプシイでなければ黒い眼色のものはない。ウィリアムは怒って夜鴉の城へはもう来ぬと云ったらクララは泣き出して堪忍かんにんしてくれと謝した事がある。……二人して城の庭へ出て花を摘んだ事もある。赤い花、黄な花、紫の花――花の名は覚えておらん――色々の花でクララの頭と胸と袖を飾ってクイーンだクイーンだとその前にひざまずいたら、槍を持たない者はナイトでないとクララが笑った。……今は槍もある、ナイトでもある、然しクララの前に跪く機会はもうあるまい。ある時は野へ出て蒲公英たんぽぽしべを吹きくらをした。花が散ってあとに残る、むく毛をつかねた様に透明な球をとってふっと吹く。残った種の数でうらないをする。思う事が成るかならぬかと云いながらクララが一吹きふくと種の数が一つ足りないので思う事が成らぬと云うつじうらであった。するとクララは急に元気がなくなって俯向うつむいてしまった。何を思って吹いたのかと尋ねたら何でもいいと何時になく邪慳じゃけんな返事をした。その日は碌々ろくろく口もきかないでふさぎ込んでいた。……春の野にありとあらゆる蒲公英をむしって息の続づかぬまで吹き飛ばしても思う様な辻占は出ぬ筈だとウィリアムは怒る如くに云う。然しまだ盾と云う頼みがあるからと打消すように添える。……これは互に成人してからの事である。夏をいろどる薔薇ばらの茂みに二人座をしめて瑠璃るりに似た青空の、鼠色に変るまで語り暮した事があった。騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇ちゅうちょの時期と名づける、これは女の方でこの恋をしりぞけようか、受けようかと思いわずらう間の名である」といいながらクララの方を見た時に、クララは俯向うつむいて、頬のあたりにかすかなるえみもらした。「この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許されぬ。只眼にあまる情けと、息に漏るる嘆きとにより、昼は女のかたえを、夜は女の住居すまいの辺りを去らぬ誠によりて、我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す」クララはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく見ていた。「第二を祈念の時期と云う。男、女の前に伏してねんごろに我が恋かなえたまえと願う」クララは顔をそむけてくれないの薔薇の花を唇につけて吹く。一弁ひとひらは飛んで波なき池のみぎわに浮ぶ。一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲える石の欄干にあたりて敷石の上に落ちた。「次に来るは応諾の時期である。誠ありと見抜く男の心を猶も確めん為め女、男に草々くさぐさの課役をかける。剣の力、槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない」クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫もののふが君の前に額付ぬかずいてかわらじと誓う如く男、女の膝下しっかひざまずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如く愛の式を返して男に接吻する」クララ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問う。思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりになげうつ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Druerie の時期はもう望めないわとウィリアムは六尺一寸の身を挙げてどさと寝返りを打つ。けんにあまる壁を切りて、高く穿うがてる細き窓から薄暗き曙光しょこうが漏れて、物の色の定かに見えぬ中に幻影の盾のみが闇に懸る大蜘蛛おおぐもまなこの如く光る。「盾がある、まだ盾がある」とウィリアムはからすの羽の様ななめらかな髪の毛を握ってがばと跳ね起る。中庭の隅では鉄を打つ音、はがねを鍛える響、槌の音やすりの響が聞え出す。戦は日一日とせまってくる。

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