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模倣と独立(もほうとどくりつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:30:34  点击:  切换到繁體中文


 元来私はこういう考えをっています。泥棒をして懲役ちょうえきにされた者、人殺をして絞首台こうしゅだいのぞんだもの、――法律上罪になるというのは徳義上の罪であるからおおやけ所刑しょけいせらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の径路けいろをありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、すべての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということをおこなったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳くどくに依ってまさ成仏じょうぶつすることが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。けれどもこれは、世の中に法律とか何とかいうものはらない、懲役にすることも要らない、そういう意味ではありませんよ。それはく申しますると、如何にはたから見て気狂きちがいじみた不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても、その経過を何にも隠さずにてらわずに腹の中をすっかりそのままに描き得たならば、その人はその人の罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っているから、さっきいったような、インデペンデントの主義標準を曲げないということはゆるすべきものがあるといったような意味において、立派に恕すべきであるという事が出来ると、私は考えるのであります。
 しかしこういう風にインデペンデントの人というものは、恕すべく或時はたっとむべきものであるかも知れないけれども、その代りインデペンデントの精神というものは非常に強烈でなければならぬ。のみならずその強烈な上に持って来て、その背後には大変深い背景を背負った思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、もし薄弱なる背景があるだけならば、いたずらにインデペンデントを悪用して、唯世の中に弊害を与えるだけで、成功はとても出来ないからである。
 此処ここに成功という意味についても説明を要する。また強い背景という事についても説明を要するが、強い背景というものは何だというと、それは別なものではありません。例えば私なら私が世の中の仕来しきたりに反したことを、断言し、宣言し、そうしてそれを実行する。その時に、もしそれが根柢のない事をっているならば、如何に私自身にはそれが必然の結果であり、私自身には必要であろうとも、人間として他の人のためにならない。何らの影響を与える事が出来ない。何らの影響を与える事が出来なければ、私は文字に現われたるインデペンデントであって、その文字に現われたるインデペンデントなことをして、最後に文字に現われたるインデペンデントで死ななければならない。人には何らの影響を与えざるのみならず、そのインデペンデントは人の感情を害し、法則というものに一種の波動を起して、人に一種の不愉快をかもさせるに過ぎないのであります。それではどんな風な深い背景をっていなければならないかというと、例えば非常に個人主義のような仏蘭西フランス革命でも、明治改革でもよろしゅう御座います。徳川家が将軍にった末で余り勢いは強くなかったけれども、とにかく将軍というものが政権を持っておってその上に天子様てんしさまがおられるという。これは一般の法則でないという処から、習慣的に続いて来た幕府というものを引っ繰り返したというのは、その引っ繰り返るという時の人の胸中きょうちゅうに同情があって、その同情をき起すという事が出来なければ、あれは成功は出来ないのである。だからいたずらにインデペンデントということは不可いけない。人間の自覚というものは一歩先へ先へと来るものである。一歩遅れたら人より一歩遅れて歩行あるかなければならない。人は相当の時期が来ればその通りになるべき運命を持っているのだから、一歩先に啓発しなければならぬ。それが強い深い背景といえばいえる。それがなければ成功は出来ない。
 成功ということについて歴史などの例を挙げたが、誤解されるといけないからここに手近い例をもう一つ挙げて置きたい。学校騒動があってその学校の校長さんが代る。この学校ではありませんよ。そうすると後に新しい校長さんが来ましょう。そうしてその学校騒動をしずめにかかる。その時は色々思案もやりましょう計画もりましょう。刷新さっしんも色々ありましょう。そうしてうまけばあの人は成功したといわれる。成功したというと、その人の遣口やりくちが刷新でもなく、改革でもなく、整理でもなくても、その結果が宜いと、唯その結果だけを見て、あの人は成功した、なるほどあの人は偉いということになる。ところが騒動がますます大きくなる。そうすると今までったその人の一切の事が非難せられる。同じ事を同じように遣っても、結果に行って好ければ成功だというが、同じ事をしても結果に行って悪いと、直ぐにあの人の遣口は悪いという。その遣方やりかたの実際を見ないで、結果ばかりを見ていうのである。その遣方のしなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。それであの人は成功したとか失敗したとかいうけれども、私の成功というのはそういう単純な意味ではない。仮令たといその結果は失敗に終っても、その遣ることが善いことを行い、それが同情に値いし、敬服に値いする観念を起させれば、それは成功である。そういう意味の成功を私は成功といいたい。十字架の上にはりつけにされても成功である。こういうのは余りい成功ではないかも知らぬが、成功には相違ない。これはテンポラルな意味で宗教的の意味ではない。乃木のぎさんが死にましたろう。あの乃木さんの死というものは至誠しせいよりでたものである。けれども一部には悪い結果が出た。それを真似して死ぬ奴が大変出た。乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを真似する人が多いと思う。そういう奴が出たのは仮に悪いとしても、乃木さんは決して不成功ではない。結果には多少悪いところがあっても、乃木さんの行為の至誠であるということはあなた方を感動せしめる。それが私には成功だと認められる。そういう意味の成功である。だからインデペンデントになるのは宜いけれども、それには深い背景を持ったインデペンデントとならなければ成功は出来ない。成功という意味はそう言う意味でいっている。
 それで人間というものには二通りの色合いろあいがあるということは今申した通りですが、このイミテーションとインデペンデントですが、片方はユニテー――人の真似をしたり、法則にとらわれたりする人である。片方は自由、独立の径路を通って行く。これは人間のそのバライエテーを形作っている。こういう両面を持っているのではありますけれども、先ず今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、そういうような意味で、知識なり感情なり経験なりを豊富にされる土台は、インデペンデントな人が出て来なければ出来ない事である。もしそれが出来なかったならば、われわれはわれわれの過去の歴史をかえりみて如何に貧弱であるかということを考えれば、その人は如何にわれわれの経験を豊富にしてくれたかということがく分るのであります。その意味でインデペンデントというものは大変必要なものである。私はイミテーションを非難しているのではないけれども、人間の持って生れた高尚な良いものを、もしそれだけ取り去ったならば、心の発展は出来ない。心の発展はそのインデペンデントという向上心なり、自由という感情から来るので、われわれもあなた方もこの方面に修養する必要がある。そういうことをしないでも生きてはいられます。また自分の内心にそういう要求のないのに、唯その表面だけ突飛とっぴなことをる必要は無論ない。イミテーションで済まし得る人はそれでよろしい。インデペンデントで働きたい人はインデペンデントで遣って行くが宜しい。インデペンデントの資格を持っておって、それをほうって置くのは惜しいから、それを持っている人はそれを発達させて行くのが、自己のため日本のため社会のために幸福である。こういうのです。
 繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。画かきの人の絵などについて言っても、そう新しい絵ばかり描けるものではない。ゴーガンという人は仏蘭西フランスの人ですが、野蛮人の妙な絵を描きます。仏蘭西に生れたけれども野蛮地に這入って行って、あれだけの絵を描いたのも、前に仏蘭西におった時に色々の絵を見ているから、野蛮地に這入ってからあれだけの絵を描くことが出来たのである。いくらオリヂナルの人でも前に外の絵を見ておらなかったならば、あれだけのヒントを得ることは出来なかったと思う。ヒントを得るということとイミテートするということとは相違があるが、ヒントも一歩進めばイミテーションとなるのである。しかしイミテーションは啓発するようなものではないと私は考えている。
 それから、イミテーションは外圧的の法則であり、規則であるという点から、唯こわしていというものではない。必要がなくなれば自然に毀れる。唯、利益、存在の意義の軽重けいちょうによって、それが予期したより十年前にみずから倒れるか、十年後に倒れるかである。またオリヂナルの方が早く自然に滅亡するか、イミテーションの方が先に滅亡するかであって、大した違いはない。片方だけを悪いとは決して言わない。両方とも※(二の字点、1-2-22)おのおの存在するには存在すべき理由があって存在しているのである。殊に教育を受ける諸君の如きものに向って規則をなくしたらとても始末が付かない。また兵式体操なども出来ない。子供の内は親のいうことばかり聞いておっても、段々一人前いちにんまえになって来るとインデペンデントというものは自然に発達して来る。また発達してもしかるべきような時期に到着するのであります。一概いちがいに唯インデペンデントであるということを主張するのではないのであります。
 けれども近来の傾向を見て、世の中の調子を見て、大体はインデペンデントに賛成である。今日の状況を以て学校の規則を蔑視して自分勝手にしろというのではありません。それは別問題ですが、今の日本の現在の有様ありさまから見て、どっちに重きを置くべきかというと、インデペンデントという方に重きを置いて、その覚悟を以てわれわれは進んで行くべきものではないかと思う。われわれ日本人民は人真似をする国民としてみずから許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通りらなければ茲処ここに達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来てもよろしい。また来るべきはずである。
 日露戦争というものははなはだオリヂナルなものであります。インデペンデントなものであります。あれをもう少し遣っておったならば負けたかも知れない。い時に切り上げた。その代り沢山金は取れなかった。けれどもとにかく軍人がインデペンデントであるということはあれで証拠立てられている。西洋に対して日本が芸術においてもインデペンデントであるという事ももう証拠立てられてもい時である。日本はややもすれば恐露病きょうろびょうかかったり、支那のような国までも恐れているけれども、私は軽蔑している。そんなに恐しいものではないと思っている。これはあなた方を奨励するためにこういうことを言っているのである。それからまた日本人は雑誌などに出るちょっとした作物さくぶつを見て、西洋のものと殆ど比較にならぬというが、それは嘘です。私の書いた小説なども雑誌に出ますが、それをいうのじゃない。間違えられては困る。それ以外のもので、文壇の偉い人の書いたものは大抵偉いのです。決して悪いものじゃありません。西洋のものに比べてちっとも驚くに足らぬ。唯たてに読むと横に読むだけの違いである。横に読むと大変巧いように見えるというのは誤解であります。自分でそれほどのオリヂナリテーを持っていながら、自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いと言わなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の方から例を引くが、その他においても決してかないものはない。金の問題では追っ着かないか知らぬが、頭の問題ではそんなものではないと思っている。あなた方も大学を御遣おやりになって、そうしてますますインデペンデントに御遣りになって、新しい方の、本当の新しい人にならなければ不可いけない。蒸返むしかえしの新しいものではない。そういうものではいけない。
 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況から言えば大切であろうと思うのであります。
 文展を見てもどうもそっちの方が欠乏しているように見えるので、特にそういう点に重きを置いて、御参考のために申し上げたような次第であります。

(第一高等学校校友会雑誌所載の筆記による)
――大正二年十二月十二日第一高等学校において――





底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   1998(平成10)年7月24日第26刷発行
※底本で、表題に続いて配置されていた講演の日時と場所に関する情報は、ファイル末に地付きで置きました。
入力:柴田卓治
校正:双沢薫
2001年3月26日公開
2004年2月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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