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幸福の彼方(こうふくのかなた)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 12:58:29  点击:  切换到繁體中文



 三年目に戦争から戻つて来ても、子供は丈夫にそだつてゐた。信一が逢ひに行つても、子供は信一の黒い眼鏡を恐がつて仲々なついては来ないのである。――里子の家でも、信一の子供を自分の子供のやうに可愛がつてゐてくれたせゐか、子供をかへしてくれと云はれるのが辛いと云つてお神さんが泣いて信一にうつたへるのであつた。
 信一は絹子と結婚してからも子供の事が忘れられなかつた。忘れようと思へば思ふほど、子供とたつた二人で辛い生活をしたかつての日の事を思ひ出すのである。去つた妻の事は少しも思ひ出さないのに、別れた子供の事だけは、夢のなかでも涙をこぼすくらゐに恋しくてならなかつた。
 人蔘を買つて来て、夜おそくそれをうでながら、子供と二人で遊んだ。子供は少しも泣かない丈夫さで、畳に放つておいてももぐもぐと唇をうごかして一人で寝転んだまま遊んでゐてくれた。
 うでた人蔘をすり鉢ですつて、牛乳でどろどろにのばして、その瓶を赤ん坊のそばへ持つて行つてやると、赤ん坊は可愛い足をばたばたさせてよろこんだものだ。
 信一は、きやつきやつと一人で笑つてゐる赤ん坊のそばで少しばかり酒をのむのが無上の愉しみであつた。うでのこりの人蔘に醤油をつけて酒の肴にしたりした。
 戦場へ出てゐても、信一は子供の写真を見ると、嗚咽[#「嗚咽」は底本では「鳴咽」]が出るほど哀しく切なかつた。女々しいほど子供に逢ひたくて仕方がなかつたのだ。黄梅の激しい戦ひの時であつた、信一は小学校の窓からそつと敵の状勢を眺めてゐた。立つてゐてはいまにあぶないよ。お父さんあぶないですよツと、さかんに、空中で赤ン坊の柔らかい手が自分の方へ泳いで来るやうに見えた。戦争最中には赤ん坊の事なぞは忘れてしまつてゐるはずだのに、さかんに赤ん坊の姿が激しく弾の飛んで来る空中に浮んでゐる。
 信一はどんどん撃つた。
 子供の手なぞは払ひのけながら、窓へ顔を出してどんどん撃つたが、急に頭の上へ何かどかんと落ちかかる音がしたかと思ふと、信一は顔面を熱い刀で切られたやうな感じがした。
 暗い穴のなかへ体がめり込むやうだつた。
 赤ん坊の泣き声が烈しく耳についてゐるやうであつたが、そのまま信一は気が遠くなつてしまつてゐたのだ。
 子供の柔らかい声が渦のやうに地の底から響いてくる。その音に誘はれるやうに信一はぐんぐん地の底へ落ちこんで行つた。
 内地の病院へ戻つて来ると、満洲へ行つてゐたはずの妻がひよつこり病院へ尋ねて来た。信一は腹立ちで口もきけなかつた。信一が黙つてゐるので、妻は最後に子供のゐる処を教へてくれと云つた。信一は妻に対してはもう何の気持もなかつたけれども、子供の事を云はれると妙に腹が立つて来て仕方がなかつた。

     五

「仏門の言葉に、煩悩は無尽なり、誓つて之を断たんことを願ふと云ふ言葉があるが、僕はいま、この子供の事だけはどうしても煩悩を断ちがたいのだ‥‥これをしつかりと絹子さんに話して、よかつたら来て貰つて下さいと、僕はくれぐれも吉尾さんへ云つておいたンだ‥‥世間の人は、傷ついて戻つて来た表面の僕だけに同情をしてくれて、何も彼も本当のものを隠して一時をとりつくろつてくれるンだけれど、――僕は、そんな事は将来に到つて、お互の不幸だと思ふ‥‥。と云つて、君と結婚してしまつていまさら、こんな事でどうにもならないけれど‥‥それにしても、結婚のはじめに、僕は本当は、君にこの話を、僕の口からもう一度しておかうと思つた。吉尾さんが、ひよいとしたら、君に云はないかも知れないとは思はないでもなかつたンだけど‥‥でも、僕も何だか弱い気持になつてゐて、君がほしくて仕方がなかつたンだらう‥‥。君はこの気持をわらふだらうが、これが人間の心と云ふものさ‥‥寿司に醤油をつけてくれたのが、僕はとてもうれしかつた。醤油の匂ひが涙の出るほどなつかしかつた‥‥」
 信一は話してしまふと吻としたやうに、砂をつかんでゐた手から、湿つて熱くなつた砂を膝の上へこぼしてゐる。
 絹子は海の上へいつぱい黒い烏が舞ひおりてゐるやうな錯覚にとらはれてゐた。私の良人にはかつて妻があり子供がある‥‥。信一の家へ着いた晩に、信一と兄が何かひそひそ話しあつてゐたことがあつたけれども‥‥絹子は、自分の前途が薄暗くなつたやうな気がしないでもない。
 絹子は暫く海の向ふをみつめてゐた。
 子供と二人で二階住ひをして、人蔘やほうれん草で赤ん坊をそだててゐたと云ふ信一の佗しい生活の暗さは、現在眼の前にゐる信一には少しもうかがへなかつた。
「ねえ‥‥」
「うん‥‥」
 うんと応へてくれた信一の言葉の中にはにじみ出るやうな温かいものがある。絹子はどうすればいいのか判らなかつた。十六の年から奉公をしてゐて、大家の奥ふかい処に勤めてゐたせゐか、絹子は自分が一足飛びに不幸な渕へ立つたやうな気がしないでもないのである。
「赤ちやんはいくつなの?」
「もう四ツだ。歌をうたふよ」
「逢ひたいでせう?」
「うん‥‥」
「奥さまはこつちなンでせう?」
「さア、何処にゐるンだか知らないねえ‥‥そんなものはどうでもいいさ‥‥」
「だつて‥‥」
「君は、僕と結婚した事を後悔してるンぢやないだらうね‥‥」
「‥‥」
 絹子はそつとハンカチをといて、また煙草とマツチを出した。「光」の箱からチヨークのやうな煙草を一本出して信一の唇に咥へさしてやると、信一は急に熱い手で絹子の指をつかんで、人差指だの、中指、薬指、小指と順々に絹子の爪を自分の歯で噛んでいつた。
 絹子は溢れるやうな涙で、咽喉がぐうつと押されさうだつた。

     六

 二人が御前崎から名古屋へ帰つて来たのは一週間ぶりである。
 暮れ近い街の姿は戦時といへども流石に忙しさうな気配をみせてゐた。
 二人の新居は四軒長屋の一番はじの家で、まだ建つたばかりなので木の香が四囲にただようてゐた。芯の柔らかい畳だつたけれども、それでも畳がぎゆうぎゆうと鳴つた。
 二人はまるで長い間連れ添つた夫婦のやうに、何も彼も打ちとけあつてゐる。
 信一は昔の陶器会社へ勤めをもつやうになつた。そして会社では薄呆んやりした片眼の視力をたよりに毎日ろくろを廻して働いてゐた。
 絹子が結婚をした知らせを二宮へ知らせてやると、東京のお嬢さんから美しい小さい鏡台が贈りとどけられた。さうして添へられた手紙の中には、絹さんのやうな幸福なひとはないと思ふ、自分は結婚して始めて、実家にゐた時の何十倍と云ふ苦労をしてゐます。もう、再び娘にもどる事は出来ないけれども、あの時がなつかしいと思ひますと云ふ事が書いてあつた。美しいお嬢さんではあつたけれども、結婚した相手のひとは、仲々の道楽家で、お嬢さんもやつれてしまはれたと店のひとが絹子に話してゐた。
 二階が六畳一間に、階下が六畳に四畳半に三畳。それに小さい風呂場もついてゐたし、狭いながらも小菊の咲いてゐる庭もある。
 千種町の駅も近かつたし、この辺は割合物価も安かつた。
 絹子は自分一人で信一の子供に逢ひに行つてみようと思つた。信一が何も云はないだけに信一の淋しさが自分の胸に響いて来たし、御前崎の砂浜でのことがはつきりと胸に浮んで来るのである。
 子供は大曾根と云ふところの雑貨屋にあづけてあつた。
 絹子が一人で大曾根まで子供に逢ひに行つてみたいと云ふと、信一も一緒に行かうと云ひ出して、二人は暮れの迫つた或る日曜日に、電車へ乗つて大曾根町へ行つた。電車の中は割合空いてゐた。絹子と信一の腰をかけてゐる前には、三人の子供を連れた夫婦が腰をかけてゐた。一番上の子は中学生らしく、胸に金釦のいつぱいついた外套を着てゐる。中は小学校六年生ぐらゐ、下は二年生ぐらゐででもあらうか、三人の男の子達は、父と母の間に腰をかけて熱田神宮へお参りをした話をしてゐた。父親は四十五六歳ぐらゐの年配で、肩から写真機をぶらさげたまま腕組みをして眠りこけてゐた。母親はよく肥えた柄の大きい婦人で、股を開いたやうにして窓へそり身になつて凭れてゐる。小さい子供が、吊革へぶらさがつたりするのを、時々たしなめては叱つてゐたが、子供達は時々母親の首へ手をかけては何か向ふへ着いてからのことをねだつてゐる風である。見てゐて、ほほゑましくなる風景であつた。絹子は、背中に汗がにじむやうな、くすぐつたいものを感じた。自分達の将来も、あの人達のやうに幸福にうまくゆくかしらと考へるのである。
 信一は、窓外の方へ顔をむけてうつらうつらしてゐた。
 絹子は前の親子を眺めてゐるのは愉しかつた。
 眠つてゐた良人は、眼をつぶつたままの姿で、ぽけつとから鼻紙を出すと、大きい音をさせて鼻をかんだ。鼻をかんでからも、丁寧に鼻を拭いて、その鼻紙を眼をつぶつたまま自分の膝のところへ持つてゆくと、横あひから肥えた妻君が逞しい腕を子供の膝ごしににゆつと突き出してその鼻紙を取つて自分の袂へ入れてしまつた。
 絹子はまるで、自分がした事を人に見られてでもゐるかのやうに赧くなりながら微笑してゐた。御主人は、鼻紙を妻君に渡してしまふと、また、手を膝の上へだらりとさげてよく眠つてゐる。子供達は走つてゆく窓外を眺めながら、きやつきやつとふざけあつてゐた。太つた妻君は股を開いたままの姿勢で、如何にも、三人の子供の母らしい貫禄をみせて悠々としてゐた。
 絹子はふつと、信一の方へ首を向けた。明るい世間へ出ると、何かに卑下してしまつてゐる、そんな淋し気な信一の姿を見ると、絹子は、自分の眼の前にゐる奥さんのやうに、雄々しく信一をかばつて、これからも末長く生活してゆかなければならないと思ふのであつた。この信一を捨てていつてしまつた女のひとへ激しく報いる為にも‥‥。
 絹子は自分もやがて幾人かの子供を産んで、あの女の人のやうに股を拡げて腰をかける日のことを考へるとほほ笑ましい気持であつた。その姿が少しもいやらしくは見えなかつたしかへつて三人の母として頼もしさへ見えた。絹子は自分もそつと下駄を離してそり身になつてみたけれども、若い絹子にはそれは何だか妙なものである。絹子は、無性にをかしくなつて来て、肩で信一の体を二三度強く押しつけた。何も知らない信一は窓外の方を向いたまま唇辺でくすくす笑つてゐるやうであつた。





底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
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