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清修館挿話(せいしゅうかんそうわ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:02:52  点击:  切换到繁體中文

 1 長い夏休みを終えて、東京へ帰つた谷村さんは、郊外の下宿を引き上げると、学校に近い街裏に下宿を見つけて越しました。
 今までのように、朝起きると窓を開けて、櫟林を眺めたり、バンガロの美しい娘さんのピアノを聞いたりと云う風な、そんな訳にはゆきませんでしたが、夕方窓を開けると、低い街の灯がキラキラして、秋らしい街の風景が、まことに眼に凉しく、大都会に住んでいるほこらしさが胸に来ました。
 谷村さんは、根が山の寺の息子でありましたせいか、食物について不平をならべるような事はありませんでした。ですが、越して来た翌朝の、蜆汁の中に長い長い女の髪の毛がはいつているのには神経の太い谷村さんも、一寸うんざりしてしまいました。
 谷村さんは、強度の近眼鏡をずり上げて、まず、その髪の毛が、太つちよの下女のであろうか、干鮭のようなスガメの下女のであろうかと、箸を持つた手でそツと蜆汁の中から引き上げて見ました。

 谷村さんは、寺の息子でありながら、医学の方を一生懸命勉強していたのであります。しかし外科の方が大変好きなのでありましたので部屋の本箱の上には、外科につかう色々なメスがまるで優勝カップのように並べてありました。
 谷村さんは、まず、御飯を頬ばつたまゝ、その長い髪の毛を小さく剪つて、顕微鏡でそつと覗いて見ました。かなり鉱物性の油がついています。鎖のような細胞が、芋虫のようにひつくり返つて、さながら「私は太つちよの下女の方でございますよ」と、云つているようでありました。
 谷村さんはムカムカする胸をおさえて、出がらしの冷い番茶をガブガブ呑み込むと、そゝくさと、帽子を被つて、広い廊下を歩いて玄関へ出ました。
 玄関では、丁度太つちよの下女が、谷村さんの靴を磨いていました。
 谷村さんは、昨日越して来た時に一人ずつにやつた五拾銭玉のきゝめであつたのであろうと思いましたが、蜆汁の中の長い髪の毛の事を思うと、ふと憂愁がこみ上げて来ました。
「お早うございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「なぜ?」
「でも……初めて越して来た方は眠られないものだそうでございますよ」
「そうかね僕はよく寝られた」
 谷村さんはグッと押し上げる不快さを隠して、太つちよの下女がそろえてくれた靴に足をかけました。と、まだその下女は朝の髪に櫛を入れないのでありましよう、蓬々として、朝風に何日も洗わない臭い匂いをたゞよわせていました。谷村さんは何気なく胸に風呂敷包みをズリ上げてまるで夢でも見ているような気持ちで、ちよいと下女の髪の毛を一本抜いたのであります。
「アラ! まあ、御冗談を……」
 下女はさつと顔を赤らめて、両手で乳房を抱くと、キッキッと笑つて台所の方へ走つて隠れて行きました。
 谷村さんは抜いた一筋の毛を捨てもやらずに、持つたまゝ呆やり立つていましたが、丁度その時お上さんが帳場の方から出て来ました。
「あゝ、お早うございます。お序にこれをちよいと、名札掛けにかけて下さいませんですか、おつかいだてして済みません。――どうです、うまいもんでございましよう」
 黒塗りの板に朱で、「谷村三四郎」と書いてある札を持つて来て、お上さんは妙に笑つています。
 谷村さんはホッとして、その自分の名札を受取ると、そゝくさと、名札掛けにそれを掛けて下宿の石の段々をあわてゝ降りました。

 2 長安一片の月
 万戸衣を擣つの声
 秋風吹き尽くさず
 総じて是れはこれ玉関の情なりき
 何れの日にか胡虜を平げて
 良人は遠征を罷めなん

 谷村さんは、夏中愛読した唐詩選の中の、李白の詩を心よげに口ずさんで歩きました。
 下宿から学校までは、五町あまりのものでありましたが、大変谷村さんには腹具合のいゝ散歩で、その学校までの道筋には、麻雀荘だの、安カフエー、古本屋、魚屋、床屋、玉突場なぞ何か安直な肩の張らない店が、煤けて並んでいました。

 大変いゝお天気です。空には飛行機が、ブンブン唸つて、五色の広告をヒラヒラ撒いている様子でありました。
「あのウ、一寸おうかゞいいたしますけれど……」
 街路樹の下を、詩をぎんじて歩いていた谷村さんは、田舎の厨でよく聞くこほろぎの声のように凉し気な女の人の声を耳にして、ハッと立ち止まつて振り返りました。
「あのウ……六十一番地の清修館と云う下宿を御存じでいらつしやいませんでしようか?」
 清修館、何か聞いたような……谷村さんは首筋を赤くして考えました。
 女のひとは、長めな断髪で、手には大きな紅色の風呂敷包みを二ツもかゝえていました。
「清修館?」
「ハア!」
「清修館と云うと……」
「あのウ、何でも郵便局と八幡様がありますそうで……」
 谷村さんは急に、体中がジンジンと熱くなつて来ました。
「イヤア! そうだ、それは、そのウ、よく知つています」
「まあ、左様でございますか、小さい下宿屋さんだつて聞いていたのですが、此の辺は初めてだもので、見当がつきませんの」
「御案内しましよう」
「マア、それは、でも……御道順でございますか?」
「いゝえ後返りですが、僕はひまですから帰りましよう」
「済みませんわ、そんなにして戴いて……」
 街路樹のすゞかけがさわさわと谷村さんの頭の上で鳴つていました。谷村さんは凉しい風に何気なく帽子を取りましたが、一夏中被つたカンカン帽子が黄に焼けて、一寸気恥ずかしい思いでありました。
 その断髪の女のひとは、女給のようにも見えました。昨夜からのでありましよう、衿白粉が黒ずんで、顔が蒼くむくんでいました。それでも、眉も眼も唇もはつきりして、大変美しいひとで、谷村さんは、此の様な若い女のひとと歩くのは初めてでありますから、一寸まぶしい思いがいたしました。
「その風呂敷ひとつ僕が持つて上げましよう、お出しなさい」
「いゝえいゝんでございますよ」
 女のひとの美しい指には青い静脈が浮いて、谷村さんには、それが大変いたいたしく見え、谷村さんは無理に、女のひとからその風呂敷包みの一ツを取つて持ちました。谷村さんに取つて、それはなぜか心楽しい事でありました。

「あゝあれですか?」
 八幡様のダラダラ道を上ると、一番高いところに、清修館と云う、白ペンキの看板が出ていました。心長閑な谷村さんは、昨夜越して来たばかりのせいか、自分の泊つている下宿の名前さへも忘れていたのでありました。
「あれです」
 谷村さんは蜆汁の事を考えて、又、フッと憂欝になりました。
「ありがとうございましたわ、本当に……」
 女のひとの眼は空の色を写していたせいか、美しく、またなくなまめかしく谷村さんの心をかすめました。
 谷村さんは、下宿の下まで来ると、またきびすを返して、女のひとに別れました。

 3 もう、街にはあの谷村さんの好きな、夕暮の燈火がつきそめていました。谷村さんは、さらに声高く李白の詩をうたつて、下宿へ帰つて来ました。下宿の軒にも灯がついています。軒の下宿人の名札のビリッコに、「谷村三四郎」と云う、自分の名が見えました。谷村さんは、十二三人の下宿人の名札をそつとしらべて見ました。今日の女のひとは、どの男を訪ねて行つたのであろうかと、ですが、どれもこれもあの美しい女の訪ねて行きそうな男の名前なんぞはなく、只一人これであろうかと思つたのは、「小松百合子」と云う優しい女名前でありました。
「ハハン、さては、女の友達を訪ねて来たのであろう」
 谷村さんは、心が何か静まつて、一寸うれしく肩で笑いました。と、ふと自分の名札を見ますと、女の髪の毛が、三四郎の三の字のところへくつついて、フワフワ風に吹かれていました。
 谷村さんは、今朝、太つちよの女の髪の毛を一本抜いて、のつぴきならなかつたあの気持を思い出して、また憂欝になりましたが、此の髪の毛を取つて、顕微鏡でしらべたならば、あの太つちよの下女に、しかと訓戒を与える事も出来るであろうと、三の字にくつゝいていた、その髪の毛を摘んで、中へはいりました。
「お帰んなさいまし」
 又、太つちよの下女です。
 下女は朝と違つて、大変さつぱりと髪を結つて、豚のように太つた襟筋に、うつすりと白粉をはいて、衿にレースのついた白いかつぽう着を着ていました。
「お部屋へじきに御飯持つて参りましようかね」
 谷村さんは、夕飯を持つて来るまでに調べておきたかつたので、気むずかしく声を荒げて云いました。
「僕アおなかいつぱいだ、もう一時間位してからにして下さい」
 太つちよの女中は、谷村さんを見ても、朝のようにキッキッと笑いませんで、淋しそうに大きい溜息をついて、手紙箱の方をしらべに立つて行きました。二階から空のお膳を持つて降りて来たスガメの下女が、谷村さんを見て、くすりツと盗み笑いをして台所へ行きます。
 谷村さんは、大変眼が近いので、スガメの下女の盗み笑いを見逃して、郊外から持ち越しのスリッパをペタンペタンはいて、洗面所の方へ手を洗いに行きました。

「まア!」
「やア、さつきは……」
「まア、本当に私こそさつきはありがとうございました。お蔭様で、あのウ……どなたかお友達でもお訪ねになつてこゝへいらつしやいましたの」
「いゝえ、僕ア実は昨夜こゝへ越して来たんですが、清修館と云うのが自分の下宿だとは思いませんでしたから……」
「オホッホ……まア呑気な方、私二階の四号室です、どうぞ遊びにいらつして下さいませ」
「ハア、ありがとうございます」
 谷村さんは何か子供つぽくうれしくなつて、水道の栓も忘れた位、勇んで部屋へかえりますと、もう顕微鏡の事なんぞも忘れ果てて、ジリジリと釦を押しました。
「お呼びですか」
「あゝお腹が空いたんだ」
「まア、谷村さんたら随分憎らしいわ、御飯上げましようかと云つたら、もう一時間位して持つて来てくれつて云うし、ゆつくりしていると、じきに釦を押すし……」
「たのむ、僕が悪いんだよ」
 谷村さんは髪に練り油をつけながら、また肩で笑つて見せました。

 4 清修館へ越して二度目の夕飯です。めじまぐろの焼いたのに、油揚げと大根の汁と、葱蒟蒻の味噌なます、谷村さんはどれも好物ではありませんでしたが、太つちよの下女の持つて来るお櫃が待ち切れないで、そつと、味噌なますなんぞ摘んでみたりしました。
「あゝ急がしいこつた」
「大丈夫だと思つたンだけど、とても空いちやつたんだよ」
「何だ、谷村さんは子供と同じこんだ」
 太つちよの女中は、きわめて小さく見えるお櫃を置くと、谷村さんの前に肉づきの厚い手を差し出して、
「さア、一杯飯ついであげようかね」
「いゝよ、僕つぐから」
 それでも、太つちよの下女は優しげな手つきで、谷村さんに御飯を一杯お給仕しました。そして、何だかもじもじと去りがたくしておりますので、谷村さんは眉をひそめて云いました。
「もういゝよ」
「そうですか……」
 太つちよの女中は、レースの衿のところから、自分のふところへ手を差し入れると、小さい卵を二つばかり出して、谷村さんの膳の上にのせました。
「何するの?」
 谷村さんは顔を真赤にして、その卵を睨みましたが、もう太つちよの下女は障子の外に出ていました。
 台所の方では、何事があつたのか、女達がガヤガヤと笑つていました。
 谷村さんは医学上から見ても、あのように太つた女は好きではありませんでしたので、卵の親切を受けるとどうしてよいものか、胸がコトコト鳴りました。
 卵を食べないで、此のまゝ返してやれば、あの女が怒るだろうし、谷村さんはその二ツの小さい卵を着物のはいつている竹行李の中へ入れておきました。
 二階の四号室、美しい彼女、もう谷村さんは気が気ではなく、ぷいつと障子を開けると、玄関へまわつて、わざと大きい音を立てゝ二階へ上つて行きました。
 四号室は、丁度谷村さんの部屋の真上です。谷村さんは猫のように、一寸とりすまして、眼鏡をズリ上げました。
「先程は失礼しました」
 部屋の中には電気がついているようでしたが、大変静かです。
「先程は失礼いたしました」
 すると、隣りの五号室の障子が開いて、眉の太い男が顔を出しました。
「隣りの人達、いま出掛けられたようですよ」
「ア、そうですか」
 谷村さんは、大変自分のやつている事を浅薄だと思いました。部屋へ帰つて一生懸命勉強しようと思いました。谷村さんは、下へ降りる時は、まるで、鼡のようにチロチロと足音をしのばせましたが、別に誰も谷村さんが二階へ上つたのを見た人はありませんでしたし、降りたのも見た人はありませんようでした。
 部屋へはいると、膳はもう下げてありました。谷村さんは落ちついて机の前に坐ると、ふとまた髪の毛の事が気にかゝつて、そつと電気の下に顕微鏡を持ち出して、本の間にはさんでおいた太つちよの下女の髪の毛を小さく剪つて覗いて見るのです。
 鉱物性の油が沢山ついているのに変りはありませんでしたが、どうも蜆汁の中から出た髪の毛とは質が違つていて、非常に細く柔かそうでした。
 スガメのかしら、谷村さんは太つちよの女がフッとおかしい程いとしいと思いました。四号室の女の人のように、美しい姿、美しい顔ではありませんが、動物的な人のよさを持つていました。谷村さんは変な幻想を払いのけるように畳に横になると、二階の四号室の女の人達が帰つて来たのででもありましよう、谷村さんの顔へ、ぱらぱらと埃が落ちて来ました。

 5 谷村さんは、それから四五日は、学校にも出ないで毎日呆やりしていました。
 二階で、一寸誰かあばれて埃が落ちても、谷村さんは狂人のように口を開けて、その埃を吸うのです。
 美しい女のひとは一度も谷村さんを訪ねてくれようとはしませんでした。洗面所で、あの翌日会つた時も女のひとは手をしやぼんで洗いながら、「少し急がしいものですから、もう出歩いてばかり居ります」 そんな風な事を云つて、谷村さんを予防するかのような口吻でさえありました。でも、谷村さんには、その女のひとに会えないながらも、もうひとつの、甘い出来事が心の片隅に残してあつたのです。

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