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瀑布(ばくふ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:11:09  点击:  切换到繁體中文


 里子はくすくす笑ひながら、洋品屋の前や、呉服屋の前に立ちどまつた。冨子のやうに骨太でなく、すらつとした肉づきだつた。たつぷりした髪の毛をひつゝめた桃割に結つて、セルロイドでつくつた飛行機の簪を前髪に差してゐた。
 上野駅で別れて以来、一度も逢はなかつたので、里子の成長ぶりが直吉には感慨無量だつた。二人は瓢箪池へ出て、大衆的な広い喫茶店に這入つた。隅の方に席をみつけて、差し向ひに腰をかけたが、四囲のものがじろじろ見てゐるやうで、直吉は何となくそれが嬉しかつた。がつちりした胸元のまるみや、なだらかな肩の線が、如何にも初々しい。白い襟をきつちり引き締めて、胸に婦人会の裂地のマークを縫ひつけてゐた。赤つぽい髪だつたが、油で艶々してゐた。
「私ね、色んな事があつたわ。酒匂さんに云つたら軽蔑されさうなのよ」
「何? 何があつたの? かまわないから云つて御覧よ。軽蔑しやしないよ」
「でも、云へないわ。これだけは‥‥。酒匂さん立派におなりになつたわねえ。兵隊さんらしくなつてよ?――姉さんも死んぢやつて、私、随分淋しいの。‥‥だから、酒匂さんがなつかしかつたンですわ。時々、逢ひに来て戴くと嬉しいけど‥‥」
 真紅なソーダ水を、ストローでぶくぶく泡立てながら、里子は色つぽく品をつくつて云つた。化粧のない蒼い顔だつた。襟首だけに昨夜の白粉の汚れが残つてゐたが、それがかへつて清潔に見えた。喫茶店を出て、二人は観音様へお参りして、団十郎の銅像の前の陽溜りに躑踞んで、暫く話をした。公園の立木はみな薄く芽をふき、澄み透つた青い空だつた。
「君に逢ひに行くには、相当金がいるのかね?」
「さうでもないわ。でも、酒匂さんは、そんな所に来なくてもいいのよ」
「でも、夜、そんなところで一ぺん、君に逢つてみたいね‥‥」
「私ね、もう、処女ぢやアないのよ‥‥」
 突然、里子は直吉の耳に顔を寄せるやうにして、小さい声で云つた。直吉は赤くなつた。
「だつてね、いまの家のかあさんが、その客の云ふ事を聞いたら、ルビーの指輪を買つてくれるつて云ふのよ。田舎にも五百円送つてくれるつて云ふし、映画も毎日観に行つていゝつて云ふでせう‥‥だから、私、そのひとの云ふ事聞いちやつたンだけど、その晩は、私は、はゞかりへ行つて随分長い事、ナムアミダブツ、ナムアミダブツつて拝んぢやつた。私、震へちやつたわ。とつてもおつかないと思つたンですもの‥‥」
 里子は散らばつてゐる線香の屑をひらつて、それを嚊ぎながら、真面目な顔をしてゐた。あるがままの出発点から、里子はかざり気なく酒匂に話したい様子だ。直吉は辛かつた。亡くなつた冨子との交渉の様々が、ぐるぐると頭に明滅した。
「ねえ芸者つてつまらないのね。これで、私、毎晩いやらしい事してるの‥‥。厭になつちやつたわ。面白くもをかしくもないのね。悪い事ばかりしてお金持つてるのね。そんなひと、ちつとも罰があたらないンだから不思議だわ。私、酒匂さんにとても逢ひたかつたのよ」
 昼過ぎになつてから、公園は大変な人出だつた。広い廻廊を、お参りの人達がぞろぞろ歩いてゐる。豆売りの店もなくなつてゐるのに、鳩の群が土に降りては、何かを探してついばんでゐる。赤い出征の※(「ころもへん+挙」、第4水準2-88-28)をかけた背広の男が、子供を抱いて、直吉達のそばに来た。若い細君は棒縞のセルを着て、大きな風呂敷包を抱くやうにしてかゝへてゐる。子供に鳩を見せると見えて、父親は何か子供と無心に喋つてゐた[#「ゐた」は底本では「いゐた」]が、子供を降すと、子供のパンツの横から、小指程のものを不器用に引つぱり出して、「しいつ、しいつ」と唸るやうに云つた。子供は鳩を眼で追ひながら、きらきら光る噴水を、銅像の石の台に放出してゐる。

 その夜、直吉は寮へ戻つてからも、仲々寝つかれなかつた。里子の初々しい姿がしつこく眼の中をうろつきまはつてゐる。夢にも見た。――戦争は段々激しくなり、また再応召が来るやうな話だつたが、直吉は、そんな事はどうでもよかつた。里子のおもかげが、毎日息苦しく脳裡を去らなかつた。これが、ぼんのうと云ふものであらうかと、直吉は里子に毎日のやうに手紙を書いてみた。別に出すつもりはなかつたが、手紙を書いてゐると気が安まつた。私は処女ではないのよと、小さい声で云つた里子の言葉が、直吉の胸に悩ましく押しつけて来る。里子の、その時のしどけない姿が空想された。浅草の花屋の芍薬を思ひ出して、直吉は友人の家の庭から、芍薬の花を貰つて来て、コツプに差して、机の上に飾つてみた。花など、一度も飾つた事がなかつただけに、その花の薄桃色は、直吉の心をなごやかにしてくれた。夜業に追はれて疲れた日なぞは、床に就いてからもしつこく里子の影像を描いて、ひそかにさうした夢を愉しむやうになり、翌る朝はきまつて頭の芯がづきづきした。直吉は工場で配給係りの手伝ひもしてゐたので、上手に配給物品をごまかす事も覚えて、ゴム長を三足ほどくすねて、それを売り飛ばして、六月の或る夜、浅草に出掛け、何時か里子にここへ呼んでほしいと云はれた志茂代と云ふ待合へ行つてみた。[#「。」は底本では「、」]雀を呼んでくれと頼むと、約束の座敷に行つてゐるので、他の妓はどうだと聞かれたが、直吉は里子の雀が来るまではどうしても待つと云つて、女中相手に独りで酒を呑んだ。電灯に黒い覆ひがかゝり、窓の障子にも黒い紙の幕がさがつてゐる。十一時頃里子はやつて来た。涼しさうな水色の着物を着て、洋髪に結つてゐた。
「あら、酒匂さんだつたの。‥‥誰かと思つたわ。よく来てくれたのね‥‥」
 里子は酒に酔つてゐるとみえて、蓮つぱに直吉のそばに坐つて、両手を直吉の腿の上へ置いた。そして下からぢいつと直吉を覗き込むやうにした。直吉は腿が焼けつくやうだつた。直吉は照れて、まともに里子の顔を見る事が出来ない。白い指にルビーの指輪が光つてゐるのを直吉は掠めるやうに眼にとめて妬ましかつた。職業的な本能で、里子は浮はの空で、何とかだから憎らしいわとか、何とかだから泊つていらつしやいねとか云つて、直吉の腿を時々きつくゆすぶるのである。雨もよひのひつそりとした晩であつた。食べものも乏しくなつてゐたが、それでも、色の悪い刺身やコロツケが二人の前へ運ばれて来た。直吉は初めての客だつたので、部屋代や料理や酒の代を、里子に云はれて前金で払はさせられた。
「泊つて行く」
「あゝ」
「ぢやア、私、お約束のお座敷断つて来るわね。病気だつて云つてくればいゝから‥‥」
 さう云つて、里子は階下へ降りて行つたが、暫くして、買物籠のやうなものを持つて二階へ上つて来た。軈て、女中が次の間で蒲団を敷いてゐる様子だつたが、女中が、また泊り料の前金を里子の口を借りて催足[#「催足」はママ]した。泊り料を払つて、直吉が便所へ立つて行くと、里子がすぐついて来る。直吉は、かうした場所へ来るのは初めてだつたが、心中ひそかに仲々金のかゝる処だと思ひ、これでは、どんなに里子に逢ひたくても、めつたに来られる場所ではないと淋しく思つた。寝巻もなかつたので、直吉は襯衣一枚で蒲団にもぐり込んだ。むし暑い夜だつたので、酒に酔つた体には、人絹の蒲団が冷々して気持ちがよかつた。里子は物馴れた手つきで、買物籠から、モンペ一揃ひを出して枕元に並べ、赤い花模様の長襦袢姿になり、電灯を消して直吉の蒲団へ這入つて来た。直吉は、浮舟楼での冨子との交渉を思ひ出してゐた。因縁らしいものを感じるのだ。妙なめぐりあひであり、あの若松町からのつながりが、今日まで、何処かで結ばれてゐたのだと不思議な気持ちだつた。灯火の消えた真暗いなかで、直吉はむせるやうな女の匂ひを嗅いでゐた。どの女も、蒲団の中の匂ひは同じなのだなと、直吉は、遠く杳かに、どよめくやうな、万歳々々の声を耳にしてゐた。また、何処かで出征があるのだらう‥‥。夜まはりの金棒を突く金輪の音がじやらんじやらんと枕に響いて、このごろは、かうした花柳の巷も、早くから雨戸を閉してしまふのであらうかと佗しく思はれる。暗闇の中で話をしてゐると、里子の声が冨子の声音にそつくりだつた。里子は、何を思つてか、
「戦争つて厭だわ。どうして、こんなに長い戦争なンか始めたンでせうね。いゝ着物も着られないし、代用食ばつかり食べて、何がよくて戦争なンかするンでせう? 私達も、二三日して、水兵の制服のテープかゞりに勤労奉仕に行くンだけど、くさくさしちやふわ‥‥」
 と、云つた。
「ねえ、私のうちに松葉さんつて姐さんがゐたのンだけど、此間、川治温泉で兵隊さんと心中しちやつたのよ。新聞には出なかつたけれど、松葉さんの死骸引取りに行つたうちのかあさんの話では、とても可哀想だつたつて云つてたわ。遺書も何もなくつて、松葉さんが刀で乳のとこ突かれてるし、軍服ぬいで、襯衣一枚になつてる兵隊さんは、首をくゝつてたンだつて、雑木林で死んでたンですよ‥‥二人とも勇気があつていゝわね。――松葉姐さんは、前からよく死にたいつて云つてたンだけど、本当にやつちやつたのね。兵隊さんは赤羽の工兵隊の人ですつて、お家は商売してるつて云つてたけど、何屋さんなンだか。‥‥雑木林のなかの一重の桜の花が、薄い硝子の破片をくつゝけたみたいにびつちり咲いてたンですとさ。‥‥とても哀れだつたつて。憲兵隊も来たりして、誰も寄せつけない程きびしかつたつて話なのよ‥‥。でも、二人とも、死んぢやつたから本望だわね。二人はいゝ気味だと云つてるでせう‥‥。冥土へ行つて、吻つとしてるわね。きつとそうよ。生きてちや息苦しい世の中ですもの‥‥」
 兵隊の心中と聞いて、直吉は身につまされる気がした。兵隊の身分で芸者と心中をするなぞとは、いまの世間は非国民として眉をひそめる事件に違ひない。直吉は、心中の美しい場面を空想した。むしろ同情的であり、羨しくもあつた。何の為に生きてゐるのか、此頃は規則づくめの責めたてられるやうな生活だつたので、直吉も幾分か生きてゐる事にやぶれかぶれな気持ちだつたのだ。――日々の気持ちが荒み果てて来ると、寮では、精神修業に唐手が流行しだしたが、唐手をやり出してから、便所の壁には拳大の穴が明き、障子の桟は折れ、硝子は破られて、寮内の所々方々が、誰のしわざともなく荒されて行つた。時には畳を一枚々々はすかひに剪られてゐる時もあつた。部屋々々の品物も、ひんぴんと紛失した。喧嘩は絶え間なかつたし、女と見れば追ひかけまはして手込めにするものもあつた。若いものにとつては、生死の問題に就いては、あまりに無雑作であり過ぎたために、新聞に出ない事件が、直吉の工場にも幾つかあつた。盗みや、強姦や、殺人が、直吉の工場にもひんぴんと演じられた。一億玉砕と云ふスローガンは、やぶれかぶれになれと命令されたやうにも錯覚したのだらう。兵隊が芸者を殺して自殺したと云ふ事件は、直吉にとつては、怖しい事件でも何でもなかつたが、その心中の場面が、直吉には、清純な人間の最後の対決を見たやうな気がしたのだつた。美しいのだ。
「ねえ、さうだと思はない?新聞には出ないけど、松葉姐さんも、こんな世の中に反抗しちやつたのね。――私だつて、時々、とても生きてゐるの厭になる時があるわ。でも、死にたいなンで考へた事はないけど‥‥。本当に、こんな戦争つて厭になつちまふのよ。――此間も、弟の手紙を見たら、早く飛行機に乗つて、敵をやつつけて戦争へ行つて、九段の華と散りたいなンて書いてあるの‥‥。私、がつかりしちやつたわ。此頃は、学校で、みんなそンな事を云つてるのね、きつと、さうだわ。私、返事も出してやらないの。こんなに身を粉にして、私、家へお金を送つてゐるのに、甘い事考へて、九段の華と散るなンて考へるの厭だわ。九段の華と散るのはいゝけど、あとにはずるい人間ばかりが残つちやふぢやないの‥‥」
 里子はさう云つて、小さな声で、「つまらない世の中ね」と云つた。二人は枕を一つにして、暗がりで頬を差し寄せてゐた。里子につまらない世の中ねと云はれるまでもなく、直吉も亦、つくづく人の世の佗しさを感じてもゐるのだ。このまゝ歩いてみたところで、何処へ突き抜けて行ける当てもない。
 朝、里子は死人のやうに蒼ざめた顔をして眠つてゐた。直吉は煙草を吸ひたくなり、腹這ひになつて、枕もとの煙草を取つて、吸ひつけたが、ぱさぱさと紙臭い匂ひがして、舌に煙草の味が乗らなかつた。時間も判らなかつたが、暗幕を透かしてにぶい光が部屋の中に縞になつて射してゐた。考へる事もなく、乾いた煙草を吸ひながら、呆んやり里子の寝顔を見てゐると、小鼻に白い膏の浮いた汗つぽい肌が、果物のやうにも見えた。心中をした兵隊のやうに、直吉は里子を連れ出して、二三日、気楽な旅に出てみたい気がしてゐた。何故ともなく、大輪の牡丹の咲いてゐる華麗な花畑が瞼のなかに浮いて見える。にぶい爆音がした。音を聞いただけで、直吉は飛行機の種類を聴き分ける事が出来た。ふつと瞼を開けて、里子が直吉の方へ寝返へりをして、「起きていらつしたの」と聞いた。陶器のやうに光つ顔[#「光つ顔」はママ]に、小さく羽音をたてて、蝿がうるさく飛び立つてゐる。――里子を連れ出して、誰もゐないところで、数日でも自由な生活をしてみたかつたが、配給暮しのなかに生きてゐる以上は、さうして食べるだけの自由さも与へられないと思ふと、直吉は苦笑してしまふのである。
「何を笑つてゐるの?」
「何でもない‥‥」
「だつて笑つたわよ」
「色々とをかしな事を考へてゐたンだ」
「どんな事‥‥」
「不忠不義の事を考へてゐたのさ。君を連れて逃げ出したいなンて思つてゐたのさ」
「まア、そンなに、私のこと好き? 逃げてもいゝわ‥‥」
 直吉は、それから二月位は浅草に行く折もなかつた。金もなかつたが、仕事も段々激しくなり、工場は建物を増築して、学徒の勤労奉仕も大勢来るやうになつた。朝の工場の門に立つてゐると、まるで雪崩れのやうに、大群集が吸ひこまれて来る。一人々々が物々しい姿であつた。血液型と名前を書いた白布を胸につけた男女の群が、工場の門の中へコールタールの流れのやうに押しこまれて来る。カーキ色の星のマークのついた自動車が、ガソリンの匂ひを撒き散らして群集の真中を押し切つて、何台も工場へ這入つて来る。直吉は事務所の窓からかうした異状な景色を眺めながら、心の満たされない空虚なものを感じた。人気のない茫漠とした処へ行つてみたくなるのだ。南方への進出も段々勢ひをまして、日に日に戦果が大きく発表された。
――三月あまりたつて、何時か、里子と何気なく約束しておいたとほりに、里子を連れ出して、千駄ヶ谷の友人の二階に里子をかくまつてしまつた。売れツ妓だつたので、別に大した借金もあるわけではなかつたが、それでも、当分は、里子は外出もしなかつた。直吉は寮を出て、千駄ヶ谷の里子の処へ同居するやうになり、里子の配給なしの生活を見てやるのに生甲斐のある苦労もした。あわたゞしい世の中だつたので、浅草からの追手もそのまゝになり半年も[#「なり半年も」は底本では「なり 半年も」]するうちには、里子は平気で外へ出歩くやうになつてゐた。
 直吉が再度の出征をするまで、貧しいながらも直吉の生涯にとつて、平和な月日が流れた。直吉は会社の物品を時々くすねて来ては、配給のない里子の生活を見てやつてゐた。会社の物品をくすねて来るのも、段々大胆になつて行つた。時々はきはどい危険な手段も講じるやうになり、直吉自身もさうした悪事に就いては、毎日冷々して暮さなければならなかつたが、さうした追ひつめられた生活は反逆的に生甲斐もあり面白かつた。間もなく直吉は再度の召集令状が来て、千駄ヶ谷の二階借りから満州へ出征して行つた。

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