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美しき死の岸に(うつくしきしのきしに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:39:40  点击:  切换到繁體中文

何かうっとりさせるような生温かい底に不思議に冷気を含んだ空気が、彼のほおに触れては動いてゆくようだった。図書館の窓からこちらへ流れてくる気流なのだが、じっと頬をその風にあてていると、魂は魅せられたように彼は何を考えるともなく思いふけっているのだった。一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、一秒、一秒のひそやかな空気がむこうから流れてくる。世界は澄みきっているのではあるまいか。それにしても、この澄みきった時刻がこんなにかなしく心にみるのはどうしたわけなのだろう……。
 ふと、視線を窓の外の家屋の屋根にとめると、彼にはこの街から少し離れたところにある自分の家の姿がすぐ眼に浮んできた。その家のなかでは容態のおもわしくない妻が今も寝床にいる。妻も今の今、何かうっとりと魅せられた世界のなかに呼吸いきづいているのだろうか。容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活のならわしから、澄みきった世界のなかに呼吸いきづくことも身につけているようだった。だが、荒々しいものや、あばれ狂うものは、日毎ひごとその家のへいの外まで押し寄せていた。塀の内の小さな庭には、小さな防空壕ぼうくうごうのまわりにしげるままに繁った雑草や、あかく色づいた酸漿ほおずきや、はぎの枝についた小粒の花が、――それはその年も季節があって夏の終ろうとすることを示していたが、――ひっそりと内側の世界のように静まっていた。それから、障子の内側には妻の病床をとりかこんで、見なれた調度や、小さな装飾品が、病人の神経をしずめるような表情をもって静かに呼吸いきづいているのだ。――そうして、妻が病床にいるということだけが、現在彼の生きている世界のなかに、とにかくりどころを与えているようだった。
 彼の呼吸づいている外側の世界は、ぼんやりと魔ものの影におおわれてもの悲しく廻転しているのだった。週に一度、電車に乗って彼は東京まで出掛けて行くのだが、人々の服装も表情も重苦しいものに満たされていた。その文化映画社に入社してまだ間もない彼には、そこの運転は漠然ばくぜんとしかわからなかったが、ここでも何かもう追い詰められてゆくものの影があった。試写が終ると、演出課のルームで、だらだらと合評会がつづけられる。どの椅子からも、さまざまの言いまわしで何ごとかが論じられている。だが、それらは彼にとって、ほとんど何のかかわりもないことのようだった。殆ど何のかかわりもない男が黙りこくって椅子に掛けている。その男の脳裏には、家に残した病妻と、それから、眼には見えないが、刻々に迫ってくる巨大な機械力の流れが描かれていた。すると、ある日その演出課のルームでは何か浮々と話がはずんでいた。フランスではじまったマキ匪団ひだんの抵抗が一しきりはなやかな話題となっていたのだ。――彼はその映画会社の瀟洒しょうしゃな建物を出て、さびれた鋤道すきみちを歩いていると、日まわりの花が咲誇っていて、半裸体で遊んでいる子供の姿が目にとまる。まだ、日まわりの花はあって、子供もいる、と彼は目にとめてながめた。都会の上にひろがる夏空はうそのように明るい光線だった。虚妄きょもうの世界は彼が歩いて行くあちこちにあった。黒い迷彩を施されてネオンの取除かれた劇場街の狭いみちを人々はぞろぞろ歩いている。
「大変なことになるだろうね、今に……」
 彼と一緒に歩いている友は低い声でつぶやいた。と、それは無限の嘆きと恐怖のこもった声となって彼の耳に残った。
 混みあう階段や混濁したホームをくぐり抜けて、彼を乗せた電車が青々とした野づらに、出ると、窓から吹込んでくる風もほっさわやかになる。だが、混濁した虚妄の世界は、やはり彼の脳裏にまつわりついていた。入社して彼に与えられた仕事は差当って書物を読みあさることだけだった。が、にわ仕込じこみに集積される朧気おぼろげな知識は焦点のない空白をさまよっていた。紙の上で学んだ機械の構造が、工場の組織が、技術の流れが……彼にはただ悪夢か何かのようにおもわれる。空白のなかを押進んでゆく機械力の流れ――それはやがて刻々に破滅にむかって突入している――その流れが、動揺する電車の床にも、彼の靴さきにも、ひびいてくるようだ。だが、電車を降りて彼の家の方へその露次を這入はいって行くと、疲労感とともに吻と何かよみがえる別のものがある。それが何であるかは彼には分りすぎるぐらい分っていた。
 家を一歩外にすれば、彼には殆ど絶え間なしに、どこかの片隅かたすみで妻の神経が働きかけ追かけてくるような気がした。寝たままで動けない姿勢の彼女が何を考え、何を感じているのか、しきりと何かに祈っているらしい気配が、それがいつも彼の方へ伝わってくる。どうかすると、彼は生の圧迫にえかねて、静かに死の岸に招かれたくなる。だが、そうした弱々しい神経の彼に、絶えず気をくばり励まそうとしているのは、寝たまま動けない妻であった。起きて動きまわっている彼の方がむしろ病人の心に似ていた。妻は彼が家の外の世界から身につけて戻って来る空気をすっかり吸集するのではないかとおもわれた。それから、彼が枕頭ちんとうで語る言葉から、彼の読み漁っている本のなかの知織の輪郭まで感じとっているような気もした。
 昨日も彼はリュックを肩にして、ある知りあいの農家のところまで茫々ぼうぼうとした野らを歩いていた。茫々とした草原に細い白い路が走っていて、真昼の静謐せいひつはあたりの空気を麻痺まひさせているようだった。が、ふと彼の眼の四五メートル彼方かなたで、杉の木が小さく揺らいだかとおもうと、そのまま根元からパタリと倒れた。気がつくと誰かがそれをのこぎりで切倒していたのだが、今、青空を背景に斜に倒れてゆく静かな樹木の一瞬の姿は、フィルムの一こまではないかとおもわれた。こんな、ひっそりとした死……それは一瞬そのままあざやかに彼の感覚に残ったが、その一齣はそのまま家にいる妻の方に伝わっているのではないかとおもえた。……農家からけてもらったトマトは庭の防空壕ぼうくうごうの底にかごに入れてたくわえられた。冷やりとする仄暗ほのぐらい地下におかれたトマトの赤い皮が、上から斜にれてくるの光のため彼の眼に泌みるようだった。すると、彼には寝床にいる妻にこの仄暗い場所の情景が透視できるのではないかしらとおもえた。
 ……生暖かい底に不思議な冷気を含んだ風がうっとりと何か現在を追憶させていた。彼はその街にある小さな図書館に入って、ぼんやりといこうことが近頃の習慣となっていたのだ。
 書物を閉じると、彼は窓際まどぎわの椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。
 それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかなきざしなら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっとはるかなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。
(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。人通りの少ない、こぢんまりした路は静かな光線のなかにあった。煉瓦塀れんがべいや小さな溝川みぞがわかえでの樹などが落着いた陰翳いんえいをもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。

ほとんどすべての物から 感受への合図が来る。
向きを変えるごとに 追憶を吹き起す風が来る。
何気なく見逃みのがして過ぎた一日が
やがて自分へのはっきりとした贈りものに成って蘇る。


 いつも頭に浮ぶリルケの詩の一節を繰返していた。

 その春、その街の大学病院を退院して以来、自宅で養生をつづけるようになってからも、妻の容態はおもわしくなかった。夜ひどいせきの発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。その部屋一杯にこもっている病人の雰囲気ふんいきも、どうかすると彼にはれて安らかな空気のようにおもえた。と、夏が急に衰えて、秋の気配のただよう日がやって来た。その日、彼女の母親は東京へ用足しに出掛けて行ったので、家の中は久しぶりに彼と妻の二人きりになっていた。
 寝たままで動けない姿勢で、妻は彼の方を見上げた。と、彼もまた寝たままで動けない姿勢で、何ものかを見上げているような心持がするのだったが……。
「死んで行ってしまった方がいいのでしょう。こんなに長わずらいをしているよりか」
 それは弱々しい冗談の調子を含みながら、彼の返事を待ちうけている真面目まじめな顔つきであった。だが、彼には死んでゆく妻というものが、まだ容易に考えられなかった。四年前の発病以来、寝たり起きたりの療養をつづけているその姿は、彼にとってはもう不変のもののようにさえ思えていたのだ。
「もとどおりの健康には戻れないかもしれないが、だが寝たり起きたり位の状態で、とにかく生きつづけていてもらいたいね」
 それは彼にとって淡い慰めの言葉ではなかった。と妻の眼には吻と安心らしい翳りがひろがった。
「お母さんもそれと同じことを云っていました」
 今、家のうちはひっそりとして、庭さきには秋めいた陽光がチラついていた。そういう穏かな時刻なら、彼は昔から何度もめぐりあっていた。だから、この屋根の下の暮しが、いつかぷつりとち切られる時のことは、それに脅かされながらも、どう想像していいのかわからなかった。
 どうかすると妻の衰えた顔にはかすかながら活々いきいきとしたひらめきが現れ、弱々しい声のなかに一つのはずみが含まれている。すると、彼は昔のあふれるばかりのものが蘇ってくるのを夢みるのだった。まだ元気だった頃、一緒に旅をしたことがある、あの旅に出かける前の快活な身のこなしが、どこかに潜んでいるようにおもえた。綺麗好きれいずきの妻のまわりには、自然にこまごましたものが居心地いごこちよく整えられていたし、夜具もシイツも清潔な色をたたえていた。それらには長い病苦に耐えた時間の祈りがこもっているようだった。壁に掛けた小さな額縁には、つたからんだバルコニーの上にくっきりとあおい空がのぞいていた。それはいつか旅で見上げた碧空のように美しかった。

 今にも降りだしそうな冷え冷えしたものが朝から空気のなかにふるえていた。電車の窓から見える泥海や野づらの調子が、ふと彼に昨年の秋を回想させるのだった。……一年前の秋、彼と妻の生活は二つに切離されていた。糖尿病を併発した妻は大学病院に入院したが、これからはじまる新しい療養生活に悲壮な決意の姿をしていた。その時から孤独のきびしい世界が二人の眼の前に見えて来たようだった。彼は追詰められた気分のなかにも何か新しく心ががれて澄んでゆくようだった。それは多少の甘え心地を含んだ世界ではあったが、ぼんやりと夢のような救いがどこかにたたずんでいるのではないかと思えた。……熱にうるんだ妻の眼はベッドのなかでふるえていた。
「こないだ、三階から身投げした女がいるのです。あなたの病気は死ななきゃなおらないと云われて……」
 冷え冷えとした内庭に面した病室の窓から向側のむねをのぞむと、夕ぐれ近い乳白色の空気がかたい建物のまわりにおりて来て、内庭の柱の鈴蘭灯すずらんとうに、ほっと吐息のような灯がついていた。あのもの云わぬ灯の色は今でも彼の眼に残っているのだったが……。

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