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氷花(こおりばな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:49:31  点击:  切换到繁體中文

三畳足らずの板敷の部屋で、どうかすると息も窒がりさうになるのであつた。雨が降ると、隙間の多い硝子窓からしぶきが吹込むので、却つて落着かず、よく街を出歩いた。「僕をいれてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の眼にしみるのだ」――以前読んだ書物の言葉が今はそのまま彼の身についてゐるのだつた。有楽町駅のコンクリートの上に寝そべつてゐる女を見かけたことがある。乳飲児を抱へて、筵も何もない処で臆びれもせず虚空な眸を見ひらいてゐた。それは少し前まで普通な暮しをしてゐたことの分る顔だつた。さういふ顔が何といつても一番いけなかつた。朝、目が覚めると、彼の部屋の固い寝床は、そのまま放心状態で寝そべつてゐるコンクリートになつてゐる。はつとして彼は自分にむかつて叫ぶのであつた。「此処で死んではならない、今はまだ死んではならないぞ」だが、彼を支へてゐる二階の薄い一枚の板張は今にも墜落しさうだつたし、突然、木端微塵に飛散るものの幻影があつた……。
 家の焼跡に建ててゐるバラツクももう殆ど落成しさうだ――。
 広島からそんな便りを受取ると、彼は一度郷里へ行つてみたくなつた。今年の二月、彼は八幡村から広島の焼跡へ掘出しに行つたのだが、あの時の情景が思ひ出された。眼のとどく処には粗末な小屋が二つ三つあるばかりで焼跡の貌ばかりがほしいままに見渡せたが、彼は青い水を湛へてゐる庭の池の底を覗きながら、まだ八月六日の朝の不思議な瞬間のことを思ひ耽つてゐた。だが、長兄はせつせと瓦礫を拾つては外に放りながら、大工たちを指図してゐるのだつた。大工たちは焼残つた庭樹を焚いて、そのまはりで弁当を食べた。すると、すぐ近くに見える山脈に嶮しい翳りが拡がつて、粉雪がチラつきだした。彼が庭に埋めておいた木箱からは、黒い水に汚れた茶碗や皿が出て来た。それは彼が妻と死別れて、広島に戻る時まで旅先の家で使つてゐた品だつた。が、そんなものは差当つて何にもならなかつたので、彼は姉のところへ預けに行つた。
 川口町の焼残つた破屋で最近夫と死別れた姉は、彼の顔を見るたびに、「どうするつもりなの、うかうかしてゐる場合ではないよ」と云ふのであつた。この姉は、これから押寄せてくる恐ろしいものに脅えながら、突落された悲境のなかをどうにかかうにかくぐり抜けてゆく気組を見せてゐた。ところが、彼は罹災以来、八幡村で次兄の家に厄介になつてゐて、飢ゑに苛まれ衰弱してゆく体を視つめながら、漠然と何かを待つてゐたのである。
 新シイ人間ガ生レツツアル ソレヲ見ルノハ※(「喩」の「口」に代えて「女」、読みは「たの」、第3水準1-15-86、88-上-7)シイ 早クヤツテキタマヘ と、東京の友は云つて来た。汽車の制限がなくなるのを待つてゐると、間もなく六大都市転入禁止となつた。
 新しい人間が見たいといふ熱望は彼にもあつた。彼があの原子爆弾で受けた感動は、人間に対する新しい憐憫と興味といつていい位だつた。急に貪婪の眼が開かれ、彼は廃墟のなかを歩く人間をよく視詰めた。廃墟の入口のべとべとの広場に出来た闇市には頭髪をてらてら光らし派手なマフラを纏つてゐる青年や、安つぽい衣裳の女を見かけるやうになつた。憩へる場所の一つもない死の街を人はぞろぞろ歩いて居り、ガタガタの電車は軋みながら走つた。彼はその電車のなかで、漁師らしい男が不逞な腕組みをしながら、こんなことを唸つてゐるのをきいた。
「ヘツ! 着物を持つて来て煮干とかへてくれといふやうになりやがつたかツ。もう奴等の底は見えて来たわい」
 それは獲物の血を啜つてゐる蜘蛛の姿を連想さすのだつた。だが、さういふ蜘蛛の巣は今にいたるところに張りめぐらされてくるかもしれなかつた。
「もうこれからは百姓になるか、闇屋になるかしなくては、どつちみち生きては行けませんぞ」
 以前は敏腕な社員だつたが、今は百姓になつてゐる後藤は、皆を前にして熱心に説くのであつた。それは廿日市の長兄のところで、製作所の解散式が行はれた日のことだつた。彼も半年ほどその製作所にゐたので、次兄と一緒にこの席へ加はつた。罹災以来、製作所の者が顔を合はすのは、それが最初の最後であつた。奇蹟的に皆無事に助かつてゐた。ひどい火傷で生死が気づかはれてゐた西田まで今はピンピンしてゐた。だが、これから皆は何を仕始めたらいいのか、かなり迷つてゐるのだつた。
「たとへまあ商店をやるにしたところで、その脇にちよつと汁粉屋などを兼ねて、二段にも三段にもこまめにせつせと立働くことですな」
 後藤がこんなことを面白をかしく喋つてゐると、縁側に自転車の停まる音がして、誰かがのそつと入つて来た。
「バターぢや、雪印が四十五円、どうぢや、要るかなあ」
 その男は勝誇つたやうに皆を見下ろしてゐたが、「まあ、まあ、一寸休んで行きなさい」と後藤に云はれると、漸くそこへ腰を下ろし、それから人を小馬鹿にしたやうな調子で喋りだした。
「ははん、これからいよいよ暮し難うなると仰しやるのか、あたりまへよ。大体、十あるものを十人に分けるといふのなら道理も立つが、三つしかないものを十人に分けろなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいわい。何もこの際、弱い奴や乞食どもを養つてやるのが政府の方針でもあるまいて。……ははん、ところでまあ聞いてもくれたまへ。こなひだも荷物を送出すのに儂はいきなり駅長室へ掛合に行つた。あたりには人もゐたから、そろつと二十円ほど駅長の机の上に差出して筆談したわけさ。駅長もよく心得たもので早速それは許可してくれた。ははん、近頃は万事まあこの調子さ。……ところで、まあ聞いてもくれたまへ。たつたこの間まで儂もよく知つてゐるピイピイの小僧子がひよつくり儂に声をかけて云ふことには、この頃はお蔭で大きな商売やつてます、何しろ月五千円からかかりますつてな、笑はしやあがるが、まあまあ人間万事からくり一つさ」
 その赭ら顔のむかつくやうな表情の男を、彼は茫然と傍から眺めてゐた。喋り足りると、その男は勝誇つたやうに自転車に乗つて去つて行つた。――その時から、彼はその男が残して行つた奇怪な調子を忘れることが出来なかつた。以前も二三度見かけたことはある男だつたが、あれは一体何といふ人間なのだらう。「ははん」と自棄くその調子が彼を嘲るやうであつた。
 煙草に餓ゑて、彼は八幡村から廿日市まで一里半の路を吸殻を探して歩いて行つた。田舎路のことで一片の吸殻も見つからなかつた。廿日市の嫂のところで一本の煙草にありついた時には、さきほどまで滅入りきつてゐた気分が急に胸にこみあげて来た。
「何だか僕は死ぬるのではないかと思つてゐた」彼はふと溜息をついた。
「悪いことは云はないから、再婚なさい。主人とも話してゐるのですが、もし病気されたら、誰が今どきみてくれるでせうか」
 長兄もときどき八幡村に立寄つた序には彼にそのことを持ちかけるのだつた。
「結局、それではどうするつもりなのだ」
「近いうち東京へ出たいと思つてゐる」
 彼は兄の追求を避けるやうに、かう口籠るのであつた。「いつまであそこへ迷惑かけてゐるつもりなのですか。もう大概何とかなさつたらいいでせうね」――彼と一緒に次兄の家で一時厄介になつてゐた寡婦の妹からこんな手紙が来た。……
「誠がよくやつてくれるのよ、お母さんが愚痴云ふと躍気になつて、それはそれは何でもかでも引受けたやうな口振りで、一生懸命やつてくれるよ」
 川口町の姉は彼の顔を見ると、息子のことを話しだした。父親と死別れたこの中学二年生の少年は急に物腰も大人じみてゐたが、いつの間にか物資の穴とルートを探り当てて、それを巧みに回転さすのだつた。さうして得た金では屋根を修繕させたり、鱈腹飯を食べたり、闇煙草を吸ふのであつた。彼は殆ど驚嘆に近い気持で、十六歳の甥を眺めた。かうした少年は、しかし、今いたるところの廃墟の上で育つてゐるのかもしれなかつた。
 彼が漫然と上京の計画をしてゐると、モラトリウムの発表があつた。一体どういふことになるのか見とほしもつかないので、廿日市の長兄の許へ行つてみた。「君のやうに政府の打つ手を後から後から拝んで行く馬鹿があるか」と長兄は彼を顧みて云ふ。何のことか彼にはよく分らなかつたが、「ははん」といふ嘲笑が耳許でききとれた。
 大森の知人から「宿が見つかるまでなら置いてやつてもいい」といふ返事をもらふと、彼は必死になつて上京の準備をした。転入禁止も封鎖も大変な障碍物だつた。それをどう乗越えていいのか、てんで成算もなかつたが、唯めくら滅法に現在ゐる処から脱出しようとした。
「荷造なんか、あんた自分でおやんなさい」村の運送屋は冷然と彼の嘆願を拒まうとした。
「荷を預つておいても集団強盗が来るから駄目ですよ。持つて帰つて下さい」駅の運送屋は漸くの思ひで運んで来た荷を突返さうとした。
 広島発東京行の列車なら席があるだらうと思つて、彼がその朝、広島駅のホームで緊張しながら待つてゐると、その列車は急に大竹からの復員列車になつてゐた。どの昇降口の扉も固く鎖ざされ、乗るものを拒まうとしてゐた。彼は夢中で走り廻り、漸く昇降口の一隅に身を滑り込ますことが出来た。滅茶苦茶の汽車だつたが、横浜で省線に乗替へると、彼は窓の外を珍しげに眺めてゐた。焼けてゐるとはいつても、広島の荒廃とはちがつてゐるのだつた。

 東京へ来たその日から彼は何かそはそはしたものに憑かれてゐた。三田の学校を訪れようと思つて省線に乗ると、隙間のない車内はぐいぐいと人の肩が胸を押して来た。大混乱の電車は故障のため品川で降ろされてしまつた。ホームにはどつと人が真黒に溢れてしまつた。へとへとに疲れながら彼は身内に何か奮然としたものを呼びおこされた。次の電車で田町に降りた時には、熱湯からあがつたやうに全身がすーつとしてゐた。それから三田の学校にO先生を訪ねたのだが不在だつたので、彼はすぐまた電車でひきかへした。帰りの電車も物凄い混雑だ。ふと、すぐ側にゐるジヤンパーの男が、滑らかな口調で、乗りものの混乱を罵倒しだした。彼は珍しげに眺めた。その男の顔は敗戦の陽気さを湛へてゐて、人間と人間とが滅茶苦茶に摩擦し合ふ映画のなかの俳優か何かのやうにおもへた。
 翌日、彼は目白の方へO先生の自宅を探して行つた。焼跡と焼けてゐないところが頻りに彼の興味を惹いてゐたが、O先生の宅も無事に残つてゐる一郭にあつた。静かな庭に面した書斎には、ぎつしりと書棚に本が詰まつてゐる。かうした落着いた部屋を眺めるのも実に彼には久振りであつた。
「教師の口ならあるかもしれない。そのかはりサラリーはてんでお話になりませんよ」
 O先生は気の毒げに彼を眺めてゐたが、「広島にゐた方がよかつたかもしれんね」と呟いた。
 それから二三日して、三田の学校へO先生を訪ねて行くと、その時も先生は不在だつた。まだ転入のとれない彼はひどく不安定な気分だつたが、ふと新橋行の切符を買ふと、銀座へ行つてみる気になつた。……来てみるとそこは柳の新緑と人波と飾窓が柔かい陽光のなかに渦巻いてゐる。飾窓の銀皿に盛られた真紅な苺が彼をハツとさせた。どの飾窓からも、彼の昔の記憶にあるものや、今新しく見るものがチラチラしてゐた。彼はふらふらとデパートに入るとスピード籤を引く人の列に加はつてゐた。まるで家出した田舎娘のやうな気持だつた。これはどうしたことなのだらう、いつたい、これからどうなるのだらう、と彼は人混のなかで見失ひさうになる自分を怪しんだ。
 文化学院に知人を訪ねようと思つて、大森駅から省線に乗ると、その朝は珍しく席がゆつくりしてゐた。だが、次の駅でどかどかとプラツカードを抱へた一群が乗込んで来ると、車内は異様な空気に満たされた。「三菱の婿、幣原を倒せ」そんな文字の読みとられるプラツカードは電車の天井の方へ捧げられ、窓から吹込む風にハタハタと飜つてゐる。背広を着た若い男が小さな紙片を覗き込みながら、インターナシヨナルを歌つてゐる。爽やかな風が絶えず窓から吹込み、電車は快適な速度に乗つてゐた。新しい人間はあのなかにゐるのだらうか……彼も何となしに晴々した気持にされさうであつた。お茶の水駅で電車を降りると、焼けてゐない街が眼の前にあつた。彼はまた浮々とした気分ですぐその方へ吸込まれさうになつた。だが、不意と転入のことが気になりだすと、急に目白のO先生を訪ねようと思つた。彼は駅に引返すと目白行の切符を求めた。

 三田の学校の夜間部へ彼が就職できたのは、それから二週間位後のことであつた。ある夕方、そこの運動場で入場式が行はれると、新入生はぞろぞろと電燈の点いてゐる廊下に集まり彼を取囲んだ。声をはりあげて彼は時間割を読んできかせねばならなかつた。
 翌日から出勤が始まつた。大森から田町まで、夕方の物凄い電車が彼を揉みくちやにするのだつた。彼は「交通地獄に関するノート」を書きだした。……長らく彼を脅かしてゐた転入のことも就職とともに間もなく許可になつた。が、こんどは食糧危機が暗い青葉の蔭から、それこそ白い牙を剥いて迫つて来るのだつた。
 雨に濡れた青葉の坂路は、米はなく、菜つぱばかりで満たされた胃袋のやうに暗澹としてゐた。三田の学校の石段を昇つて行くとき彼の足はふらふらと力なく戦く。教室に入ると、彼は椅子に腰を下ろした儘、なるべく立つことをすまいとする。だが、教科書がないので、いやでも黒板に書いて教へねばならなかつた。チヨークを使つてゐると、彼の肩は疼くやうにだるかつた。
 彼は「飢ゑに関するノート」もとつておかうと思つた。だが、飢餓なら、殆ど四六時中彼を苛んでゐるので、それは刻々奇怪な幻想となつてゐた。どこかで死にかかつてゐる老婆の独白が耳にきこえる。どういふ訳で、こんな、こんな、ひだるい目にあはねばならないのかしら……食べものに絡まる老婆の哀唱は連綿として尽きないのだつた。床屋へ行つて、そこの椅子に腰を下ろし、目をとぢた瞬間、ふいと彼が昔飼つてゐた犬の姿が浮かぶ。尻尾を振り振り、ガツガツと残飯に啖ひつく犬が自分自身の姿のやうに痛切であつた。

 ふと、彼はその頃読んだセルバンテスの短篇から思ひついて、「新びいどろ学士」といふ小説を書かうと考へだした。セルバンテスの「びいどろ学士」は自分の全身が硝子でできてゐると思ひ込んでゐるので、他からその体に触られることを何よりも恐れてゐる。そのかはり、彼の体を構成してゐる、その精巧微妙な物質のお蔭で、彼の精神は的確敏捷に働き、誰の質問に対しても驚くべき才智の閃きを示して即答できるのであつた。たとへば、一人の男が他人を一切羨まない方法はどうしたらいいのかと質問すると、
「眠ることだ、眠つてゐる間は、少くとも君は君の羨む相手と同等のはずだからね」と答へる。しかし、この不幸な、びいどろ学士は遂に次のやうな歎声を洩らさねばならなかつた。
「おお、首府よ、お前は無謀な乱暴者の希望は伸すくせに、臆病な有徳の士の希望を断つのか! 無恥な賭博者どもをゆたかに養ふのに、恥を知る真面目な人々を餓死させて顧みないのか!」

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