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火の唇(ひのくちびる)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 14:02:03  点击:  切换到繁體中文

 いぶきが彼のなかを突抜けて行った。一つの物語は終ろうとしていた。世界は彼にとってまだ終ろうとしていなかった。すべてが終るところからすべては新しく始る、すべてが終るところからすべては新しく……と繰返しながら彼はいつもの時刻にいつものみちを歩いていた。女はもういなかった、手袋をはずして彼のために別れの握手をとりかわした女は。……あのてのひらの感触は熱かったのだろうか冷やりとしていたのだろうか……彼はオーバーのポケットに突込んでいる両手を内側に握り締めてみた。が何ものもとらえることは出来なかった。影のような女だったのだが、彼もまた女にとって影のような男にすぎなかったのだ。影と影はひっそりとした足どりで濠端ほりばたに添う鋪道ほどうを歩いていた。そして、最後にたった一度、別れの握手をとりかわした、たったそれだけの交渉にすぎなかった、さびしい淋しい物語だった。
 いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追うように、彼は濠端に添う鋪道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔かな影や、かたわらにある静かな水の姿が彼をうっとりと涙ぐまそうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴のかかとをかえして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかって、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する鋪装道路や高層ビルの一れんが、その上にひろがる茜色あかねいろの水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終ってはいないのだ。世界はあの時もまた新しく始ろうとしていた。あの時……原子爆弾で破滅した、あの街は、銀色にくすぶる破片と赤くただれた死体で酸鼻さんびきわめていた。傾いた夏のざしで空は夢のようにぼうと明るかった。橋梁きょうりょうくずちず不思議と川の上に残されていた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽さっそうと風に頭髪を翻しながら自転車でやって来る若い健康そうな女をた。それは悲惨に抵抗しようとする生存者の奇妙なリズムを含んでいた。だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははっきりとしないが、広漠こうばくたる空間を横切る新しい女の幻影がひらめいた。

イヴ
ニュー・イヴ

 イヴは今も彼が見上げる空の一角を横切ってゆくようだ。茜色の水々しい空にはかすかに横雲が浮んでいて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。

 彼がその女と知遇しりあったのは、ある会合の席上であった。火の気のないビルの一室は煙で濛々もうもうと悲しそうだった。女は赤いマフラをしていた。その眼はビルの窓ガラスのように冷たかった。二度目に遇ったのも、やはりそのわびしいビルの一室であった。会合が終ったとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
「わたしと交際つきあってみて下さい。またいつかお会い致しましょう」
 みて下さい……という言葉が彼の意識にからまった。が、彼はさり気なく冷やかにうなずいた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さえ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮していた。そんな部屋の片隅かたすみでノートに書いていた。
〈踏みはずすべき階段もなく、足は宙に浮いている。もしかすると彼は墜落しているのだろうか。だが、彼の眼は真さかさまに上を向いていて、墜落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓声もかない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉
 女は彼と反対側の電車で帰った。淋しそうな女だが、とにかくああして帰って行く場所はあるのかと、何となしに彼はほっとした。人間が地上にはっきりした巣をもっていること(それは妻が生きていた頃なら別に不思議でもなかったが)今では彼にとってほとんど驚異に近かった。あの時……彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちるとその時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のように揺れ迫った。その時から、彼は地上の巣をうしない、空間はひっきりなしに揺れ返ったのだ。……火焔かえんのなかを突切って、河原かわらまで逃げて来ると、そこには異形いぎょうの裸体の重傷者がずらりと並んでいる。彼はそのなかから変りはてた少女を見つける。それは兄の家の女中なのだ。彼はその時から、苦しがる少女に附添って面倒をみる。ふくふくにれ上った四肢ししささえてやると、少女のからだとも思えぬほど無気味だが、水を欲しがるくちびる嬰児えいじのように哀れだ。やがて、二晩の野宿の挙句あげく、彼はきずついた兄の家族と一緒に寒村の農家に避難する。だが、この少女だけは家に収容しきれず村の収容所に移される。ある日、彼はその女中のために蒲団ふとんを持って収容所を訪れる。板の間のむしろの上にごろごろしている重傷者のなかに黒く腫れ上った少女の顔がある。その眼が、彼の姿を認めると、眼だけが少女らしくパッとよみがえる。
「連れて帰って下さい、連れて帰って、みんなのところへ」
 その眼は、眼だけで彼にとりすがろうとしていた。
「それはそうしてあげたいのだが……」
 彼はかすかに泣くようにつぶやくと、持って来た蒲団をおくと、まるで逃げるようにして立去る。その後、少女は死亡したのだ。だが、あの悲しげな少女の眼つきはいつまでも彼のなかに突立っていた。
 わたしと交際ってみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思い出そうとしていた。その眼は祈りを含んだ眼だろうか、彼のなかに突立ってくるだろうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のようにおもえた。
 轟音ごうおんもろとも船は転覆する。巨濤きょとうが人間をさら閃光せんこうやみ截切たちきる。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶように波をき分け、わめくように波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はいる。しぶきが頬桁ほおげたなぐり、水が手足をぎとろうとする、刻々に苦しくなってゆく波に、ふと仄明ほのあかりにただよっているボートが映る。と、その方向へひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動ぜんどうしてゆく。が、ようやく近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、たちまち頭上で鋭い怒声がする。
「離せ! この野郎!」
 だが、彼は必死で船の方へい上ろうとする。
「こん畜生! その手をぶった切るぞ!」
 いま相手はほんとになたを振上げて彼の手をねらっているのだ。彼は縋りつくように、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくように、波間から……波間から……波間から……。
 宿なしの彼は同室者に対する気兼ねから、ひもじい体をむち打ちながら、いつも用ありげにちまた雑沓ざっとうのなかを歩いていた。金はなく、彼の関係している雑誌も久しく休刊したままだった。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらえるかもしれないという微かな望みがあったが、いつも波間に漾っているような気持で雑沓のなかを歩いていた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたっぷり降りそそぎ、人通りは密になっていた。省線駅の広場の方まで来ていたのだ。その時、恰度ちょうど電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散って行くのだった。彼は何気なく一かたまりの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカッと一直線にひらめくものがあった。赤いマフラをした女の眼だ。……あの女かもしれないと思った瞬間、彼はもう視線を他へらしていた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められていた。
「平井さん……かしらと思いました」
 女はそう云ったまま笑おうとしなかった。彼も無表情に立っていた。
「今日はこれからたずねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢いできるでしょう」
 ふと女は忙しそうに立去って行った。彼も呼び留めようとはしなかった。

 そのビルの一室が開けてもらえるかどうかはっきりしなかったが、彼の全財産を積んで一台のリヤカーはもうその建物の前にとまっていた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々もうもうと煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下して云った。
「部屋なんか開ける約束になっていない」
 彼はドキリとした。とにかくKに逢ってみればわかることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらわねば、差当って他へ持って行ける所もなかった。
「それなら土間のところへ勝手に置きなさい」
 夜具と行李こうりとトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行った。たちまち揺れ返る空間が大きくなっていた。なたを振るって彼の手首を断ち切ろうとするのが、先刻の老人のようにおもえたりする。ふらふら歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだっているのに出喰でくわした。Kはその所有しているビルを他に貸していたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねていた。約束の日は今日だった。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらったのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲していた。ふすまと廊下を隔てて向側にある事務所は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間をじ伏せたり、人間が人間をでまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかわりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下をねずみの一群が跳梁ちょうりょうする。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かをあおり、何かが何かと交錯して来た。
 そのビルの一室に移ってから、彼はあのさびしげな女とよく出逢うようになっていた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分った。電車通りから少しはずれると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いていることがあった。路でばったりと彼と出逢うと、女はすぐ人懐ひとなつこそうに彼にいて歩いた。
「お忙しいでしょう、失礼します」
 女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しそうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残った。何度、行逢っても、あっけない遭遇にすぎなかったが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑沓のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考していること、それは一たい僕にとって何なのだ? と急にパセチックな波がたかまって、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパッと閃光を放つ。
 ……火の唇   火の唇
 ふと彼はその頃、書きたいと思っている一つの小説のささやきをきいたようにおもった。
    …………………………………………………………………………………
 燃え狂う真紅のほのおしずまったかとおもうと、やがて、あの冷たい透きとおった不思議な焔がやって来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されていた。それは台所の汚れかえった畳の上でも、すすけた穴だらけの障子のかげでもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向うに見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みにふるえて、頭のしんぼうとして来る。このような時――人間は何を考えるのか――このような時、人間は人間の……人間の白いきばがさっと現れた。妹とあによめは絶えず何ごとか云って争っていた。
口惜くやしくて、口惜しくて、あの嫁をいちぎってやりたい」
 飢えてはいない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしていた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打った。喰いちぎってやりたい……人間が人間を喰いちぎる……一瞬にして変貌へんぼうする女の顔がパッと僕のなかで破裂したようだった。
 悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでいる時、しかし、人々は軽ろやかに動いていた。爆心地で罹災りさいして毛髪がすっかり脱けた親戚しんせきの男は、田舎いなかの奥で奇蹟きせき的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明けないうちに、田舎から新しい細君をめとった。無数の変り果てた顔の渦巻いていた廃墟はいきょを、無数の生存者が歩き廻った。廃墟の泥濘の上の闇市やみいちは祭日のようであった。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだろうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶっ倒れそうな痩男やせおとこがひらひらと紙幣を屋台に差出し、手でつかんだものをもう口に入れていた。めらめらとゆらぐ焔はいたところにあった。復員者はそこここに戻って来て、崩壊した駅は雑沓してにぎわった。その妻子を閃光せんこうさらわれた男は晴着を飾る新妻にいづまを伴って歩いていた。すみやかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。

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