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平凡(へいぼん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 15:12:33  点击:  切换到繁體中文


          五十三

 廊下へ出て耳を澄して見たが、三味線さみせんは聞えても、矢張やっぱり歌が能く聞えない。が、いよいよ例のに違いないから、私は意を決して裏梯子うらばしごを降りて、大廻りをして、こっそり台所近くへ来て見ると、たれも居ない。皆其隣のうちの者の住居すまいにしてある座敷にかたまっているらしい。塩梅あんばいだと、私は椽側に佇立たたずんで、庭を眺めているふりで、歌に耳をかたぶけていた。
 い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹すきとおるように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味うまみのある声だ。力を入れると、りんと響く。くと、スウと細く、果ははすの糸のようになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時のはかなさ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたいような、もうもうたまらぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。い声だ。節廻しもたくみだが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと又浮上うきあがるその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体新内しんないをやってるのだか、清元きよもとをやってるのだか、私は夢中だった。
 俗曲ぞっきょくは分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうような物が、髣髴ほうふつとして意気な声や微妙な節廻しの上にあらわれて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かしい心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、ただちに人の肉声に乗って、無形の儘で人心にきたせまるのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様そんなように思われて、人生のすいな味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込しみこんで、生命の髄に触れて、全存在をゆるがされるような気がする。
 お糸さんの顔は椽側からは見えないけれど屹度きっと少しボッと上気して、薄目をいて、恍惚として我か人かの境を迷いつつ、歌っているに違いない。所謂いわゆる神来しんらいの興がうちに動いて、歌にうつつかしているのは歌う声に魂のっているので分る。恐らくもうそばでお神さんや下女の聴いてることも忘れているだろう。お糸さんは最う人間のお糸さんでない。人間のお糸さんは何処へか行って了って、体に俗曲の精霊が宿っている、そうしてお糸さんの美音をとおして直接に人間と交渉している。お糸さんは今俗曲の巫女いちこである、薩満シャマンである。平生のお糸さんは知らず、此瞬間のお糸さんはお糸さん以上である、いや、人間以上で神に近い人である。
 斯う思うと、時としては斯うして人間を離れて芸術の神境に出入しゅつにゅうし得るお糸さんは尋常ただの人間でないように思われる。お糸さんの人と為りは知らないが、歌に於て三味線に於てお糸さんは確に一個の芸術家である、事に寄ると、芸術家と自覚せぬ芸術家である。要するに、俗物でない。
 私も不肖ながら芸術家のはしくれと信ずる。お糸さんの人となりは知らないでも、芸術家の心は唯芸術家のみく之を知る。此下宿に客多しと雖も、くお糸さんを知る者は私の外にあるまい。私の心を解し得る者も、お糸さんの外には無い筈である……と思うと、まだ碌に物を言た事もないお糸さんだけれど、何だかお糸さんが生れぬさきからの友のように思われて、私は……ああ、私は……

          五十四

 私の下宿ではいつも朝飯あさめしが済んで下宿人が皆出払った跡で、ゆッくり掃除や雑巾掛ぞうきんがけをする事になっていた。お糸さんは奉公人でないから雑巾掛ぞうきんがけには関係しなかったが、掃除だけは手伝っていたので、いつも其時分になると、お掃除致しましょうと言っては私の部屋へ来る。私は内々ないない其を心待にしていて、来ると急いで部屋を出て椽側を彷徨うろつく。彷徨うろつきながら、見ぬ振をして横目でチョイチョイ見ていると、お糸さんが赤いたすきに白地の手拭を姉様冠あねさまかぶりという甲斐々々しい出立いでたちで、私の机や本箱へパタパタと払塵はたきを掛けている。其を此方こッちから見て居ると、お糸さんが何だか斯う私の何かのような気がして、嬉しくなって、斯うした処も悪くないなと思う。
 ところが、お糸さんが三味線さみせんいた翌朝あくるあさの事であった。万事が常よりも不手廻ふてまわりで、掃除にもいつも来るお糸さんが来ないで、小女ちびが代りに来たから、私は不平に思って、如何どうしたのだとなじるようにいうと、今日はお竹どんが病気で寝ているので、受持なんぞの事を言っていられないのだと云う。其なら仕方が無いようなものだけれど、小女ちびのは掃除するのじゃなくて、ほこりをほだてて行くのだから、私が叱り付けてやったら、小女ちびは何だか沸々ぶつぶつ言って出て行った。
 暫くして用をしにこうと思って、ヒョイと私が部屋を出ると、何時いつ来たのか、お糸さんがツイ其処で、着物の裾をクルッとまくった下から、華美はでな長襦袢だか腰巻だかを出し掛けて、さかさになって切々せっせっ雑巾掛ぞうきんがけをしていた。私の足音に振向いて、お邪魔様といって、身を開いて通して呉れて、お糸さんは何とも思っていぬ様だったが、私は何だか気の毒らしくて、急いで二階を降りて了った。
 用をしてから出て来て見ると、手水鉢ちょうずばちに水が無い。小女ちびは居ないかと視廻みまわす向うへお糸さんが、もう雑巾掛ぞうきんがけも済んだのか、バケツを提げてやって来たが、ト見ると、直ぐ気が附いて、
「おや、そうだッけ……只今直ぐ持って参りますよ。」
 と駈出して行って、台所から手桶を提げて来て、
「お待遠様。」
 とザッと水をける時、何処の部屋から仕掛けたベルだか、帳場で気短に消魂けたたましくチリリリリリンと鳴る。
 お神さんが台所からかおを出して、
「誰も居ないのかい? 十番さんで先刻さっきからお呼なさるじゃないか。」
「へい、只今……」
 とお糸さんが矢張やっぱり下女並の返事をして、
「お三どん新参で大狼狽おおまごつき……」
 と私のかおを見て微笑にッこりしながら、一寸ちょいと滑稽おどけた手附をしたが、其儘所体しょていくずして駈出して、表梯子おもてはしごをトントントンとあがって行く。
 私が手を洗って二階へあがって見たら、お糸さんはう裾をおろしたり、たすきを外したりして、整然ちゃんとした常の姿なりになって、突当りの部屋の前で膝を突いて、何か用を聴いていた。
 私は部屋へ帰って来て感服して了った。お糸さんは歌が旨い、三味線も旨い、女ながらも立派な一個の芸術家だ。その芸術家が今日は如何どうだろう? お竹が病気なら仕方がないようなものの、まるで下女同様に追使われている。下女同様に追使われて、慣れぬ雑巾掛ぞうきんがけまでさせられた上に、無理な小言を言われても、格別厭なかおもせずに、何とか言ったッけ? 然う然う、お三どん新参で大狼狽おおまごつきといって微笑にっこり……偉い! 余程よっぽど気の練れた者でなければ、如彼ああかぬ。これがお竹ででも有ろうものなら、直ぐ見たくでもないつらふくらして、沸々ぶつぶつ口小言を言う所だ。それを常談事じょうだんごとにして了って、お三どん新参で大狼狽おおまごつきといって微笑にっこり……偉い!

          五十五

 感服の余り、私は何とかして此自覚せぬ芸術家に敬意を表したいと思ったが、併し奉公人同様に金など包んでは出されない、何でも品物を呈するに限ると、何故だか独りでめて掛って、惨澹たる苦心の末、雪江せっこう一代の智慧を絞り尽して、其翌日の昼過ぎ本郷の一友人を尋ねて、うそ八百をならべ立て、其細君をそそのかして半襟を二掛見立てて買って来て貰った。値段の処も私にしては一寸ちょっとはずんだつもりだった。
 早く之をお糸さんに呈して其喜ぶ顔を見たいと、此処らは未来の大文豪も俗物と余りちがわぬ心持になって、何だかしきりに嬉しがって、莞爾にこにこして下宿へ帰ったのは丁度夕飯ゆうはん時分じぶんだったが、火を持って来たのは小女ちび、膳を運んで来たのはお竹どんで、お糸さんは笑声が余所の部屋でするけれど、顔も見せない、私は何となく本意ほいなかった。
 待侘びて独りでれていると、やがて目差すお糸さんが膳を下げに来たから、此処ぞと思って、きまりが悪かったが、思切って例の品を呈した。おおいに喜ぶかと思いの外、お糸さんはして色を動かさず、軽く礼を言って、一寸ちょっと包みを戴いて、膳と一緒に持って行って了った。唯其切それぎりで、何だか余り飽気あっけなかった。
 何時間ったか、しばらくすると、部屋の障子がスッといた。振向いて見ると、思いがけずお糸さんが入口にうずくまって、両手を突いて、先刻さっきの礼を又言ってお辞儀をする。私は何となく嬉しかった。お床を延べましょうかというから、って呉れというと、例の通り戸棚から夜具を出す時、昨夜ゆうべも今朝も手に掛けて知っている筈の枕皮まくらがわの汚に始めて気が附いて、明日あした洗いましょうという。なに、洗濯屋に出すからいと言っても、此様こんな物を洗うのは雑作ぞうさもないといって聴かなかった。私は又嬉しくなって、此様こんな事ならもっと早く敬意を表すれば好かったと思った。
 お糸さんは床をって了うと、火鉢のそば膝行いざり寄って火を直しながら、
本当ほんとさぞ御不自由でございましょうねえ、みんな気の附かない者ばかりの寄合よりあいなんですから。どうぞ何なりと御遠慮なく仰有おっしゃって下さいまし。然う申しちゃ何ですけど、ほかのお客様は随分ツケツケお小言をおっしゃいますけど、一番さん(私の事だ)は御遠慮深くッて何にもおっしゃらないから、ああいうお客様は余計気を附けて上げなきゃ不好いけない本当ほんとにお客様がみんな一番さんのようだと、下宿屋も如何様どんなに助かるか知れないッてね、始終しょっちゅう下でもお噂を申してるンでございますよ……」
 無論半襟二掛の効能ききめとは迂濶うかつの私にも知れた。平生の私の主義から言えば、お糸さんは卑劣だと謂わなければならんのに、何故だか私は左程にも思わないで、唯お糸さんのびて呉れるのが嬉しかった。
 小女ちびがバタバタと駈けて来て、卒然いきなり障子をガラッと開けて、
「あの八番さんで、御用が済んだら、お糸さんに入らッしゃいッて。」
「何だい?」
 小女ちびが生意気になけ無しの鼻を指して、
「これ……」
「そう。」
 お糸さんは挨拶も※(「勹/夕」、第3水準1-14-76)そこそこに私の部屋を出て行ったが、ツイ其処らで立止った様子で、
「今お帰り? 大変御緩ごゆっくりでしたね。」
 帰って来たのは隣の俗物らしく、其声で何だか言うと、又お糸さんの声で、
「あら、本当ほんと? 本当ほんとに買って来て下すったの? まあ、嬉しいこと! だから、貴方あなたじつが有るッていうンだよ……」
 してみると、お糸さんにむかって敬意を表するのは私ばかりでないと見える。

          五十六

 私がお糸さんに接近する目的は人生研究の為で、表面上性慾問題とは関係はなかった。が、お糸さんも活物いきもの、私も死んだ思想に捉われていたけれど、矢張やっぱり活物いきものだ。活物いきもの同志が活きた世界で顔を合せれば、直ぐ其処に人生の諸要素が相轢あいれきしてハズミという物を生ずる。即ちいきおいだ。此いきおいを制する人でなければ、人間一疋の通用が出来ぬけれど、私の様な※(「竹かんむり/肖」、第3水準1-89-66)やくざものになると、直ぐ其いきおいに制せられて了って、吾は吾の吾ではなくなって、いきおいの自由になる吾、いきおいの吾になって了う。困ったものだが、仕方がない。私は人生研究の為お糸さんに接近しようと思ったのだけれど、接近しようとすると、忽ち妙なハメになって、二番さんだの八番さんだのという番号附けになってる俗物共の競争圏内に不覚つい捲込まきこまれて了った。又捲込まきこまれざるを得ないのは、半襟二掛ばかりの効能ききめじゃ三日と持たない。すぐ消えて又元の木阿弥になる。二掛の半襟は惜しくはないが、もう斯うなると、いきおいに乗せられた吾が承知せぬ。憤然やっきとなって二日二晩も考えた末、又一策を案じ出して、今度は昼のお糸さんの手隙てすきの時に、何とか好加減いいかげんな口実を設けて酒を命じた。酒を命ずればお糸さんが持って来る、お糸さんが持って来れば、ちっとのならお酌もして呉れる、お糸さんのお酌で、酒を飲んで酔えば、私にだってちっとは思う事も言えて打解うちとけられる。思う事を言って打解うちとけて如何どうする気だったか、それは不分明だったけれども、兎に角打解うちとけたかったので、酒を命じたら、果してお糸さんが来て呉れて、思う通りになった。
「じゃ、何ですね」、と未だ一本も明けぬうちから、私は真紅まっかになって、「貴女あなたは一杯喰わされたのだ。」
大喰おおくわされ!」とお糸さんは烟管きせるを火鉢のかどでポンと叩いて、「正可まさか女房子にょうぼこの有る人た思いませんでしたもの。好加減いいかげんなチャラッポコをに受けて、仙台くんだり迄引張り出されて、独身ひとりでない事が知れた時にゃ、如何様どんな口惜くやしかったでしょう。いっそ其時帰ッちまや好かったんですけど、帰って来たって、うちが有るンじゃ有りませんしさ、人の厄介やっかいになって苦労する位なら、日陰者でもまだ其方がましかと思ったもんですからね、馬鹿さねえ、貴方あなた、言いなり次第になって半歳はんとしも然うして居たんですよ。そうすると、あたしの事がいつかお神さんに知れて、死ぬのいきるのという騒ぎが起ってみると、元々養子の事だから……」
「養子なんですか?」
「ええ、養子なんですとも。養子だから、ほら、あたしを棄てなきゃ、す何万という身台を棒に振らなきゃならんでしょう? ですから、出るの引くのと揉め返した挙句が、詰るとこあたしはお金で如何どうにでもなると見括みくびったんでしょう、人を入て別話わかればなしを持出したから、あたしゃもう踏んだりたりの目に逢わされて、口惜くやしくッて口惜しくッて、何だかもうカッと逆上のぼせッちまって、本当ほんとに一井戸川いどかわへでも飛込んじまおうかと思いましたよ。」
御尤ごもっともです。」
「ですけどあたしが死んじまや、幸手屋さってや血統ちすじは絶えるでしょう? それでは御先祖様にも、又ね、死んだ親達にも済まないと思って、無分別は出しませんでしたけど、あんまり口惜くやしかったから、お金も出そうと言ったのを、そんなお金なんぞに目をくれるお糸さんじゃない何か言って、タンカを切ってね、一もんも貰わずに、頭の物なんか売飛ばして、其を持って帰って来たは好かったけど、其代り今じゃスッテンテンで、髪結銭かみゆいせんも伯母さん済みませんがという始末ですのさ。余程よっぽど馬鹿ですわねえ。」
「いや。面白い気象だ。」
「ですから、あたしは、貴方あなたの前ですけど、もうもう男は懲々こりごり。そりゃあね、たまには旦那のような優しい親切なお方も有りますけど、どうせあたしのようなもんの相手になる者ですもの、みんな其様そんな薄情な碌でなしばかしですわ。」
「いや、御尤ごもっともです。」
「まあ、自分の勝手なお饒舌しゃべりばかりしていて、おかん全然すっかりちゃった。一寸ちょっと直して参りましょう。」
御尤ごもっともです……」

          五十七

 お糸さんがおかんを直しにったひまに、ここ一寸ちょっと国元の事情を吹聴ふいちょうして置く。甞て私が学校を除籍せられた時、父が学資の仕送りを絶ったのは、こうもしたら或は帰って来るかと思ったからだ。ところが、私が如何どうにか斯うにか取続とりつづいて帰らなかったので、両親は独息子ひとりむすこたまなしにしたように歎いて、父の白髪しらがも其時分僅のあいだ滅切めっきえたと云う。伯父が見兼ねて、態々わざわざ上京して、もう小説家になるなとは言わぬ、唯是非一度帰省して両親の心を安めろとねんごろさとして呉れた。そう言われて見ると、それでもとも言兼ねて、私は其時伯父に連れられて久振で帰省したが、父のかおを見るより、心配を掛けた詫をするどころか、卒然いきなり先ず文学のたっと所以ゆえんを説いて聴かせて、私は堕落したのじゃない、文学に於て向上の一路を看出みいだしたのだ、堕落なんぞと思われては心外だと喰って懸ると、気の練れた父は敢てさからわずに、昔者むかしものおれには然ういうむずかしい事は分らぬから、おれはもう何にも言わぬ、お前の思う通りにしろだが、東京へ出てから二年許りのあいだつかった金は、地所を抵当に入れて借りた金だ。おれは無学で働きがないから、おれの手では到底とても返せない。何とかしてお前の手で償却の道をたてて呉れ。之を償却せん時には、先祖の遺産を人手に渡さねばならぬ。それではどうもお位牌に対しても済まぬから、おれ始終しょっちゅう其が苦になっての……と眼をしばだたかれた時には、私も妙な心持がした。で、何にもあてはなかったけれど、其式それしきの負債はき償却して見せるように広言を吐き、月々なし崩しの金額をもめて再び出京したが、出京して見ると、物価騰貴に付き下宿料は上る、小遣も余計にる、負債償却の約束は不知つい空約束になって了った。そのやや実行のしょに就いたのは当り作が出来てからで、それからは原稿料の手にる度に多少の送金はしていたけれど、夫とても残らず負債の方へ入れて了うので、少しも家計の足しにはならなかった。父はうに県庁の方もめられて、其後そのご一寸ちょっと学校の事務員のような事もしていたが、それも直き又められて全く収入の道が絶えたので、父も母も近頃は心細さの余り、遂に内職に観世撚かんぜよりり出したと云う。私は其頃新進作家で多少売出した頃だったから、急に気が大きくなり、それに天性の見栄坊みえぼうも手伝って、矢張やっぱり某大家のように、仮令たとい襟垢えりあかの附いた物にもせよ、兎に角羽織も着物もつい飛白かすりの銘仙物で、縮緬ちりめん兵児帯へこおびをグルグル巻にし、左程さほど悪くもない眼に金縁眼鏡きんぶちめがねを掛け、原稿料を手に入れた時だけ、急に下宿の飯を不味まずがって、晩飯には近所の西洋料理店レストーラントへ行き、髭の先に麦酒ビヤーの泡を着けて、万丈の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを吐いていたのだから、両親が内職に観世撚かんぜよりるという手紙をた時には、又一寸ちょっと妙な心持がした。若し此事が六号活字子ごうかつじしの耳に入って、雪江せっこうの親達は観世撚かんぜよりってるそうだ、一寸ちょっとちんだね、なぞと素破抜すっぱぬかれては余り名誉でないと、名誉心も手伝って、急に始末気しまつぎを出し、それからは原稿料が手にると、直ぐ多少余分の送金もして、ほかの物をっても、観世撚かんぜよりだけはって呉れるなと言ってった。
 で、此時もつい二三日ぜんいささかばかり原稿料が入った。先月は都合が悪くて送金しなかったから、せめて此内十円だけは送ろうと、紙入の奥に別に紙に包んで入れて置いたのが、お糸さんの事や何ややに取紛とりまぎれてまだ其儘になっている。それをお糸さんの身上話を聴くと、ふと想い出して、国への送金は此次に延期し、いっそ之をお糸さんに呈して又敬意を表そうかと思った。が、何だか其ではいささか相済まぬような気もして何となく躊躇ちゅうちょせられる一方で、矢張やっぱり何だかしきりに……こう……敬意を表したくてたまらない。で、お糸さんがやがておかんを直して持って来て、さ、旦那、お熱い所を、と徳利とくりの口を向けた時だった、私は到頭たまらなくなって、しかし何故だか節倹して、十円の半額金五円也を呈して、不覚つい又敬意を表して了った。

          五十八

 お糸さんに敬意を表して見ると、もう半端はんぱになったから、国への送金は見合せていると、母から催促の手紙が来た。其中そのうちに何だか父の加減が悪くて医者に掛っているとかで、物入が多くて困るとかいうような事も書いてあったが、例の愚痴ぐちだと思って、其内に都合して送ると返事を出して置いた。其時はしんに其積りであながち気休めではなかったのだが、彼此かれこれ取紛とりまぎれて不覚つい其儘になっている一方では、五円の金は半襟二掛より効能ききめがあって、それ以来お糸さんが非常に優待して呉れるが嬉しい。追々馴染なじみも重なって常談じょうだんの一つも言うようになる。もう少しで如何どうにかなりそうに思えるけれど、何時迄いつまでっても如何どうにもならんので、少しれ出して、又欲しそうな物を買ってったり、連出つれだしてうまい物を食べさせたり、種々いろいろしてみたが、矢張やっぱり同じ事で手が出せない。お糸さんという人は滅多に手を出せば、屹度きっとひどい恥を掻かすけれど、一度手に入れたら、命懸けになる女だと、何故だか私は独りでめていたから、危険けんのんで手が出せなかったが、はたから観れば、もう余程妙に見えたと見えて、の客はワイワイいって騒ぐ。下女迄が私の部屋を覗込んでお糸さんが見えないと、奥様おくさんは、なぞといって調戯からかうようになる。こうなると、お神さんも目に余って、或時何だか厭な事をお糸さんに言ったとかで、お糸さんがおこっていた事もある。私は何だか面白いような焦心じれったいような妙な心持がする。それで夢中になって金ばかりつかっていたから、一度申訳にいささかばかり送金したぎりで、不覚つい国へは無沙汰になっているうちに、父の病気が矢張やっぱり好くないとて母からは又送金を求めて来る。遂に伯父からも注意が来た。其時だけは私も少し気が附いて、急いで、書掛けた小説を書上げて若干なにがしかの原稿料を受取ったから、明日あすは早速送金しようと思っていた晩に、お糸さんがしきりに新富座しんとみざの当り狂言のうわさをして観たそうな事を言う。と、私も何だか観せてやりたくなって、芝居だって観ように由っては幾何いくら掛るもんかと、不覚つい口を滑らせると、お糸さんがいつになく大層喜んだ。お糸さんは何を貰っても、澄して礼を言って、其場では左程嬉しそうなかおもせぬ女だったが、此時ばかりは余程嬉しかったと見えて、大層喜んだ。
 もう後悔しても取反とりかえしが附かなくなって、むことを得ず好加減いいかげんな口実を設けて別々に内を出て、新富座を見物した其夜そのよの事。お糸さんを一足先へかえし、私一人あとから漫然ぶらりと下宿へ帰ったのは、彼此かれこれ十二時近くであったろう。もう雨戸を引寄せて、入口のおおランプも消してあった。跡仕舞あとじまいをしているお竹がねむたそうな声でお帰ンなさいと言ったが、お糸さんの姿は見えなかった。
 部屋へ来てみると、ランプを細くしてう床もってある。私はますでお糸さんと膝を列べている時から、妙に気がいらって、今夜こそは日頃の望をと、芝居も碌に身にみなかった。時々ふと気が変って、此様こんな女に関係しては結果が面白くあるまいと危ぶむ。其側そのそばから直ぐ又今夜こそは是が非でもという気になる。で、今我部屋へ来て床のってあるのを見ると、もう気もそぞろになって、の事なぞは考えられん。今にも屹度きっと来るに違いない、来たら……と其事ばかりを考えながら、急いで寝衣ねまき着易きかえて床へ入ろうとして、ふと机の上を見ると、手紙が載せてある。手に取って見ると、国からの手紙だ。心は狂っていても、流石さすがに父の事は気になるから、手早く封を切って読むと、まず驚いた。

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