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響(ひびき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 17:03:56  点击:  切换到繁體中文


        四

 あなたに取つてこれはよしない事を言ひ出したのかも知れませんね、けれども何も彼も私に取つてはお名殘であるといふ事によつてどうか許して下さい。毎日かうして少しづつ少しづつなけなしの精力を盡して書き續けたのも、遺して行く人のために殘る思がそれをさせるのです。愚にも夫に先だたれるものとばかり思つてゐた私が、二年とたゝぬ間に思ひもしなかつたこんな病氣に罹つて、今はその命も消えゆく燈火のしづかなゆらぎをしてゐるとは、今更に寂しい微笑がこの色褪せた唇にのぼります。かはいさうなものは人間ですね、なんにも知らないで、ほんとになんにも知らないであくせくと……けれども、今はそれでいゝのだといふ事がやうやくわかりかけました。自分の運命を知るやうになつてからはもうおしまひです、それを確實に知るやうになつては。今の私ですらも、まだまだどうかすると萬一を思ふ心があればこそ、かうして人間のお仲間入をしてゐる譯なのでせうが、死ぬ事を知るのではなくて、死そのものを――それこそあの捕捉すべからざるものを――しかと知り得る時には、人はもうその死に融和し、合體し、いやいや既に「死」そのものとなつてゐます。「死す」といふ事は何といふ簡明な、それでいて[#「それでいて」は底本では「それでて」]動かす事の出來ない、かはりを用ゐる事の出來ない力でせう、間一髪を入れない、迅速な、明確な、おごそかな、極めて弱くて極めて強い力ではありませんか……「死す。」
 死といふ事を無暗に問題にすると思はないで下さい、それを考へないではゐられないのだと思つて下さい、自分の爲にも亦あの人のためにも。私自身についてはどうやら解決がついたと思つてゐます、それが間違つてゐるか間違つてゐないかは別問題として。たゞ私の亡いあとのあの人のために、私は今さまざまに思ひ量つてゐます。恐らくこれは餘計な事でせう、來年の事を言つてすら鬼が笑ふと云ふのに、まして死にゆく者が生きて殘る人の生活に干渉するなんて、ほんとにいらざるおせつかいです。ですけれども、さう思ひながらやつぱりいろんな事を考へます。自分でもそれが空想で、決して事實はそんな風になつてゆくものではないといふ事を百も承知しながら。ではそれは私の遊なのでせうか、いえいえ決してさうでは[#「さうでは」は底本では「さううでは」]ありません。たゞ私は、せめてはあの人の上にかくあつてほしいと思ふ事を思ふばかりなのです。それを願ひはするけれども、神樣にだつて運命にだつてそれを請求しようとはさらさら思ひません。瞑するものはたゞ目をつぶりさへすればそれでいゝではないか、その默從の外に私の爲すべきことはない筈と、頭ではよく心得てゐますもの。
 けれども百合さん、その時が來るまでは、やつぱり哀れな人間の本性として、とやかくくだらぬ思ひやりや思ひ過しをするものだと見えます。氣にしないといひながら氣になるのですね、何だかあの人の姿が寂しさうです。春になつたらどうしよう、夏が來たらどうするだらう、秋が來たら、冬になつたらと、些細な日常生活の事まで、自分がない後の事を氣にする私を笑はないで下さい。親が無くても子は育つといふ譬がある位ですのに、殊に大の男一人を何と心得てゐるのだと人は笑ふかも知れません、けれども百合さん、どうかあなたゞけはそれを笑はないで下さいな。
 つくづく省れば、私はあの人に取つて決してよい妻ではありませんでした[#「ありませんでした」は底本では「ありまんでした」]。それにも拘らずあの人は當分寂しくなるでせう。幸か不幸か私達の間は一人の子供すらもなかつたので、あの人は全くのひとりぼつちとなります。自分が愛された事を信じてやすらかに眠つてゆく事の出來る私は、死ぬといふ事が自分一人易きにつくやうで、何だかそれが心苦しくて仕方がありません。せめては私の亡い方が、あの人の生活に取つて、藝術にとつて、幸福であつてくれるやうに! さうでなかつたら、ではどうかよりよき者があの人のために與へられるやうに! 私は少しも無理な心持なしにそれを願つてゐます。そしてもしも死後の生活に於てこの世の消息を知り得る事が出來たならば、あの人がどんなに他の女を愛しようとも、それがあの人を慰め、また幸福にするのならば、私は喜んでその二人のために祈るでせう。
 爭も、嫉妬も、憎しみも、さうした陰なる醜い感情は、命に先立つてだんだん私の肉體をはなれつゝあります。すべてが私を見はなして行く……たゞどうかこの愛だけは、最後までも、願はくばその骸にまでも踏みとゞまつてくれ!
 寂しい世ではありました。私に取つてそれは廿六年間、樂しい事も嬉しい事もすべてつきくるめて人世は寂しかつたと思ひます。私達は又貧しかつた。けれども燃えて盡きる事のない愛の焔でお互が温め合ひました。ある時は濕り、ある時は突風の危機に遇つて、僅に消え殘つた事もありますけれど、そしてそれを私達は最初ごくわづかしか[#「わづかしか」は底本では「わつかしか」]持つてゐませんでしたけれど、いろいろな艱難や寂しい目に遇ふ度にだんだん、だんだん[#「だんだん、だんだん」は底本では「だん、だんだんだん」]焔は強められて行きました。お互に援けあひ暖めあはないで、どうしてこのなやみの多い世に滿足して生きる事が出來ませう、それだのに今あの人はその伴侶を失はうとしてゐます。

        五

 あなたの籍も、たうとう籾山にかへりましたのですつてね、勿論弘一さんを喪つてからの佐瀬家にあなたの執着はない筈ですけれど、夫の姓を捨てる事の苦しさ寂しさはどんなであつたらうかとお察してゐます。あの家は決して操正しい寡婦のとゞまるに適當した家ではなかつたけれど、體は實家に寄せながらも、いつまでも佐瀬の姓をあなたは名乗るつもりでゐらしたのにね。あなたの行末を思ふ伯母さん從兄にいさんの深慮は、既にあの不幸當時からその事を考へてゐらしたのでせう。いつぞや伯母さんが弘一さんのお墓の前でかう仰しやいました。『彼女あれがね、この石碑をたてる時に、どうしても自分の名前も一所に刻むのだと言ひ張つて聽かなかつたんですよ。ですけれども純太郎が、それは斷じていけないつてね、許しませんでしたけどもね……』伯母さんも目にいつぱい涙を溜めてゐらしたつけ。
 思ひのまゝにならぬのが世の中だとは言ひながら、よしない再縁のすゝめに困じ果てゝ、獨立の道をひそかに捜してゐるといつかのあなたのお手紙にありましたが、ほんとにあなたの運命もどうなるのでせう、まだ達者で元氣なお母さんと立派な兄さんとを持ちながら、あなたもやつぱり寂しい人ですねえ。到底自分には忘れる事の出來ぬ亡き人の思を抱いて、再び人に嫁がうとは思はないと仰しやつてゐるあなたの心を私は嬉しく思つてゐます。けれどもそれは何といふ悲しく寂しい生涯でせう、あなたがその境涯に堪へ得るかどうかなどゝいふ事は決して問題にしないでも、私はあなたの再婚に就いて考へてみたいやうな氣がしてゐます。
 もしもねえ百合さん、あなたが大事に大事に胸に抱いてゐるその思に、少しも手を加へる事をしないでも、そしてその爲にあなたの良心が責めらるゝ事なしに出來る結婚があるとしたら、それに就てはどうお思ひになりますか。勿論さうした場合は、やはり同じやうな心の状態にある人との間に於てのみ可能な事です……明敏なあなたは[#「あなたは」は底本では「あたは」]もう既に私が何を言ひたいと思つてゐるのかお察しになつたでせうね、どうか惡く思はないで下さいな、そして願はくば死者の口に耳を寄せてものを聞かうとするやうな注意をもつてこの事を考へて下さいませんか。はじめからそれが無理な事だとはわかつてゐても、無理は無理かも知れませんけれど、しかしそれは理不盡な事でも、また決して不自然な事でもないだらうと私には思はれるのです。運命の仕事には決して不自然といふ事がありません。たとへ不自然に見える事があつたとしても、よくよく辿つてみれば、その不自然らしく見えるのが却つて最も自然な状態である場合がよくあります。
 私は今運命といふ言葉を使ひました。さうした考が、恰も暗示のやうに私の腦裡を過ぎていつたものですから……けれどもこれを具體的な話にして見た時に、何といふそれは突飛な思ひつきでせう、もしも伯母さんがこんなことをお聞きになつたら、あきれておしまひになるどころか、きつと『人を馬鹿にしてる!』とお腹立になるかも知れませんね、伯母さんは私達の貧乏を憐れんでは下すつたけれど、私達を祝福し、またあの人を認めては下さいませんでした。あの人は全く社會的には地位もない、財産もない、たゞ一介の貧乏な繪かきに過ぎません。そして空しき名聲は勿論のことまたその藝術に大天才の閃をもつてゐる譯でもありません。けれどもあの性格の中に持つてゐる純眞なものが、やがてはその藝術を清め、小さければ小さいだけの眞實をそこから見出し得る事だらうと私は思つてゐます。そして人間としての生活を誰に憚るところもなく、また耻づる事もなく、靜に寂しく生きて行く人です。體の方も私とは反對にだんだんだんだん丈夫になつて行くやうです。私はそれを何より嬉しく、涙ぐましく見まもつてゐます。
 けれどもかうした人が、あなたの行末を相當な富と地位とで固めようと心配してゐられる伯母さんや從兄にいさんに取つて、一顧の値もない事をよく承知してゐながら、そしてそれをちつとも無理だとは思はないで、猶且こんな考をあなたに打ち明けるといふのは、私もよつぽど夢想家ですことね、たゞ小さい時からの仲よしで、同い年のせいかよく氣があつて、大抵何事にも私に同意し、また理解してくれたあなたを信じ、百合さん、あなたゞからこそ安心してこんな取りとめもない事を書き置いて行くのですよ。私はあなたを自分の半身のやうに心得て、しかも私の短所を補ふものをあなたがふんだんに持つてるだけに、そのよりよき半身に私はあの人を托して行きたいと、勝手な事を空想したのです。
 もしもこの事があなたを侮辱する事に當つたらどうぞ堪忍して頂戴。私は決してこの事をあなたに強ひるのでも、お願するのでもありません。たゞもしもどうかした運命でそんなことにもなつたらばと、私の夢をお話してゐるところなのです。どうか責任をもつてこの手紙を讀まないで下さい。そしてあなたの自由意志をもつて、あなたのこの後の幸福に就いて敏感であつて下さい。
 誰でもこの世に心強く生きるためには、一つのなぐさめが必要な筈です。それは人によつてその求めるものが違ふとほりに、そのなぐさめも違ふでせうけれど、貧富を超越してお互に容し合ひ援け合ふ愛のなぐさめこそは、一番揺ぎのない力だらうと私は信じてゐます。そして夫妻の結合が、お互に最初であり最後であられる人は何よりも幸福です、けれども大抵は皆その胸に一度半度の愛のいたでを受けてゐます、この事はどう思つても寂しい事ではありませんか、悲しきは誰しも遂にその運命に支配さるゝ人間であるよ! せめてはお互に何事をも容しあひ、慰めあうて、更にそこから生れて來る愛の泉でその傷を洗はなくては!

        六

 私の大ずきな愛する從姉の百合さん、もう左樣ならにしませうね、どうか幸福で送つて下さい、私が死んでもあんまり力を落さないで頂戴。あなたの純な心持をいつまでも失はないやうに祈ります。この手紙を見てしまつたら燒いて下さいね、あなたに打ち明けた私の心持は、あなたの自由を縛らないやうに私自身片つぱしから忘れて行く事にしませう、大きな大きな忘却が來るその前に。
 すべては導くものゝ手にあるのだけれど、もしもあなたを眞に幸福にする縁があつたなら、皆樣の安心のためにも再縁なすつた方がよくはないかと思ひます。今更つれない事をいふとお思ひかも知れませんけれど、獨身で過さうといふ事があなたに取つて自然な安易な心持であるならば、寂しいといふ事を不幸のうちだとは思つてゐない私は、その心持を踏み躙つてもおすゝめはしないけれど、もし死者に對する感情とか義理とかいふものがそれを阻むのだつたら、それは無益な事だといひたく思ひます。もしもあなたが死者から嘗て愛されてゐた事を信ずるならば、安心して幸福へと導く手に腕をまかせてよいと思ひます。死んでゆく者は、たゞたゞわが愛する者のより多く幸福である事より外は思ひのこさないのですから……
 書けば書くほど名殘が惜しくなつて來ます、胸がいつぱいになつて來ます……それでは左樣なら!……

一九一六年一一月 澄子





底本:「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」不二出版
   1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷発行
底本の親本:「水野仙子集」叢文閣
   1920(大正9)年5月31日発行
入力:小林徹
校正:田尻幹二
1999年4月29日公開
2006年4月20日修正
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