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細木香以(さいきこうい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:30:27  点击:  切换到繁體中文


       一

 細木香以は津藤つとうである。摂津国屋つのくにや藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池りゅうちの事に関していた。摂津国屋藤次郎のとなえは二代続いているのである。
 わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読たんどくした。貸本屋がおいの如くに積みかさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本よみほん書本かきほん、人情本の三種を主としていた。読本は京伝きょうでん馬琴ばきんの諸作、人情本は春水しゅんすい金水きんすいの諸作の類で、書本は今う講釈だねである。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈ていじょうの故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。
 わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイツの本を読むことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云うと同じ心持で、そう云う愛憎をしたのである。
 春水の人情本には、デウス・エクス・マキナアとして、所々しょしょに津藤さんと云う人物が出る。情知なさけしりで金持で、相愛あいあいする二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦うめごよみ千藤ちとうである。千葉の藤兵衛である。
 当時小倉袴こくらばかま仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。
 この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城河岸がし檀那だんなと呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、うじは細木、定紋はひいらぎであるが、店の暖簾のれんには一文字の下に三角の鱗形うろこがたを染めさせるので、一鱗堂いちりんどうと号し、書を作るときは竜池りゅうちと署し、俳句を吟じては仙塢せんうと云い、狂歌を詠じては桃江園とうこうえんまたつる門雛亀とひなかめ、後に源僊みなもとのやまひとと云った。
 竜池は父を伊兵衛いへえと云った。伊兵衛は竜池が祖父の番頭であったのを、祖父が人物を見込んで養子にした。摂津国屋の店を蔵造くらづくりにしたのはこの伊兵衛である。奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。
 伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋ふるわらじを拾って帰り、水に洗い日にさらして自ら※(「坐+りっとう」、第3水準1-14-62)きざみ、出入の左官に与えなどした。しかし伊兵衛は卑吝ひりんでは無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓にもうでて、納所なつしょに金百両を寄附し、氏名を告げずして去った。寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。

       二

 竜池は家を継いでから酒店さかみせを閉じて、二三の諸侯の用達ようたしを専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田かすみせきの松平少将家の三家がそのおもなるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命していて、そこへ子婦よめ某氏が来ていた。竜池は金兵衛以下数人の手代てだいを諸家へ用聞にり、三日式日さんじつしきじつには自身も邸々やしきやしき挨拶あいさつに廻った。加賀家は肥前守斉広卿ひぜんのかみなりのりきょうの代が斉泰卿なりやすきょうの代に改まる直前である。上杉家は弾正大弼斉定だんじょうのたいひつなりさだ、浅野家は安芸守斉賢あきのかみなりかたの代である。
 父伊兵衛は恐らくは帳簿と書出とにしか文字を書いたことはあるまい。しかるに竜池は秦星池はたせいちを師として手習をした。狂歌は初代弥生庵雛麿やよいあんひなまろの門人で雛亀ひなかめと称し、晩年にはもも本鶴廬もとかくろまた源仙げんせんと云った。また俳諧をもして仙塢せんうと号した。
 父伊兵衛は恐らくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池は劇場に往き、妓楼ぎろうに往った。竜池は中村、市村、森田の三座に見物に往く毎に、名題なだい役者を茶屋に呼んで杯を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜ひさき万字屋の明石あかしと云うお職であった。
 竜池が遊ぶ時の取巻は深川の遊民であった。桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見ますみ和十、乾坤坊けんこんぼう良斎、岩窪いわくぼ北渓、尾の丸小兼こかね竹内ちくない三竺さんちく、喜斎等がその主なるものである。由次郎は後に吉原に遷って二代目善孝ぜんこうと云った。和十は河東節かとうぶしの太夫、良斎は落語家、北渓は狩野かの家から出て北斎門に入った浮世絵師、竹内は医師、三竺、喜斎は按摩あんまである。
 竜池は祝儀の金を奉書につつみ、水引を掛けて、大三方にうずたかく積み上げて出させた。
 竜池は涓滴けんてきの量だになかった。杯は手に取っても、飲むまねをするに過ぎなかった。またいまだかつて妓楼に宿泊したことがなかった。
 為永春水はまだ三鷺さんろと云い、楚満人そまびとと云った時代から竜池と相識になってこの遊の供をした。竜池が人情本中に名をとどむるに至ったのはここもとづいている。
 竜池は我名のかくの如くに伝播でんぱせらるるを忌まなかった。ただにそれのみではない。竜池は自ら津国名所と題する小冊子をあらわして印刷せしめ、これを知友にわかった。これは自分の遊の取巻供を名所に見立てたもので、北渓の画がさしはさんであった。
 文政五年に竜池の妻が男子を生んだ。これは摂津国屋の嗣子で、小字おさなな子之助ねのすけと云った。文政五年はうまであるので、俗習にしたがって、それから七つ目のを以て[#「以て」は底本では「似て」]名となしたのである。二代目津藤として出藍しゅつらんほまれをいかがわしい境に馳せた香以散人はこの子之助である。

       三

 わたくしが香以の名を聞いたのは、かの人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。いなあるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度いくたびであったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、たちまち聞き忽ち忘れていた。そしてそのあいだ竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それをめてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望のい家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道そばみちに似た小径こみちがある。これを藪下やぶしたの道と云う。そして所謂いわゆる藪下の人家は、当時根津のやしろに近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道はがけの上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺いたぶきの小家であった。
 崖の上は向岡むこうがおかから王子に連る丘陵である。そして崖の下のはたけや水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山のはなが見え、この端と向岡との間が豁然かつぜんとして開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓のうちにはいつも円頂のおうながいた。「綺麗な比丘尼びくに」と父は云った。
 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、もと世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしをいざなって崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もしおうなをも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主のたれなるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉はもと質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。

       四

 千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易たやすまとまった。高木ぎんの地所はもとやや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形かぎなりに残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店かしだなになって居り、一つは高木の地所に鳶頭とびがしらの石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。
 父は千住の大きい家を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住の家は徳川将軍が鷹野たかのに出る時、小休所こやすみじょにしたと云う岡田氏の家で、これにほとんど小さい病院のような設備がしてあったのである。父は小家に入って「身軽になったようだ」と云った。そこへわたくしは太田の原の借家から来て一しょになった。
 小家は三間に台所が附いている。三間は六畳に、三畳に、四畳半で、四畳半は茶室造である。後にこの茶室が父の終焉しゅうえんの所となった。
 茶室の隣の三畳に反古張ほぐばりふすまが二枚立ててある。反古は俳文の紀行で、文字と挿画さしえとが相半あいなかばしている。巻首には香以散人の半身像がある。草画ではあるが、円顔の胖大漢はんだいかんだと云うことだけは看取せられる。
 崖の上の小家は父の歿後に敗屋となって、補繕し難いためにこぼたれた。反古張りの襖も剥落はくらくし尽していた。今にして思えばこれは安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉をめぐった紀行の草稿であったらしい。
 崖の上の小家のあとは、今は過半空地になっている。大正四年に母が七十の賀をするかわりに、部屋を建ててもらいたいと云ったので、わたくしは母の指図に従って四畳半の見積を大工に命じた。そのうち母が大病になった。わたくしは母の存命中に部屋を落成させようとして工事を急いだ。五年三月に部屋は出来て、壁の中塗だけ済んだ。母はこれに臥所ふしどうつして喜んだが、間もなく世を去った。今わたくしが書斎にしているのがこの部屋で、壁は中塗のままである。昔崖の上の小家の台所であった辺が、この部屋の敷地である。
 父母と共に崖の上の小家に移った時から、わたくしは香以の名を牢記ろうきしている。既にしてわたくしはこの家の旧主人小倉が後に名を是阿弥ぜあみと云ったことを知った。香以は相摸国さがみのくに高座郡藤沢の清浄光寺の遊行上人ゆうぎょうしょうにんから、許多あまたの阿弥号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次でこれを河竹其水かわたけきすいに譲って梅阿弥ばいあみと称し、その後また方阿弥と改め、その他の阿弥号は取巻の人々に分贈した。是阿弥はその一つだそうである。
 香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚しんせきがした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込こまごめ願行寺がんぎょうじの香以が墓にもうでた。この法要の場所はすなわち崖の上の小家であったのである。

       五

 香以の子之助は少年の時けい北静廬きたせいろに学び、筆札を松本董斎とうさいに学んだ。静廬は子之助が十四歳の時、既に七十に達して、竹川町西裏町に隠居していた。子之助はわずかに字を識るに及んで、主に老荘の道を問うたそうである。董斎は董其昌とうきしょう風の書を以って名を得た人で、本石町塩河岸に住んでいた。
 子之助が生れてから人と成るまでの間には、年月をつまびらかにすべき事実が甚だ少い。文政六年には父竜池の師はた星池が六十一歳で歿した。子之助がはじめて二歳の時である。八年七月二十九日には祖父伊兵衛の妻が歿した。法諡ほうしを臨照院相誉迎月大姉だいしと云う。子之助が四歳の時である。十一年には父の友楚満人そまびとが狂訓亭春水と号した。子之助が七歳の時である。
 父竜池がこのころの友には、春水、良斎、北渓よりして外、なお勝田諸持もろもちがあった。諏訪町すわちょうの狂歌師千種庵ちくさあん川口霜翁そうおうの後をいで、二世千種庵と云う。一中節の名は都一閑斎である。後に別派を立てて宇治紫文とあらため、いけはたに住んだのがこの人である。竜池は当時北渓に席画を作らせ、諸持に狂歌の判をさせ、春水、良斎等を引き連れて花柳のちまたに遊んでいた。
 子之助は天保九年に十七歳になった頃から、料理屋、船宿に出入し、芸者に馴染なじみが出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
 天保十二年の頃には竜池、香以の父子が相踵あいついでクリジスに遭ったらしい。子之助とその姉とを生んだ竜池の妻はこの頃離縁になった。子之助の姉は外桜田堀通の上杉弾正大弼斉憲うえすぎだんじょうのたいひつなりのり[#ルビの「だんじょう」は底本では「だんじゅう」]の奥に仕えていた。竜池はついで三十間堀住の十人衆三村清左衛門の分家、竹川町の鳥羽屋三村清吉の姉すみをれて後妻とし、同時に山王町に別宅を構えてしょうを置いた。
 未だいくばくならぬに、竜池はまさ刑辟けいへきに触れむとしてわずかに免れた。これは女郎買案内を作って上梓じょうしし、知友の間にわかった事が町奉行の耳に入ったのである。さいわいに加賀町の名主田中平四郎がこれを知って、ひそかに竜池に告げた。竜池は急に諸役人に金をおくって弥縫びほうし、妾に暇をつかわし、別宅を売り、遊所通ゆうしょがよいを止めた。内山町の盲人百島勾当ももしまこうとうの家を遊所あそびどころとして諸持等をここつどえることになったのは当時の事である。
 子之助はこの年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
 然るに竜池の遊所通はんでも、子之助のは罷まなかった。天保十三年三月の頃から五分月題ぶさかやきの子之助は丁稚でっち兼吉を連れて、鳥羽屋をで、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等をうことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号あだなを鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌ようぼうが奇怪であったからの名であろう。即ち後の仮名垣魯文かながきろぶんである。
 劇場は木挽町こびきちょうの河原崎座であった。贔屓ひいきの俳優は八代目団十郎である。作者勝諺蔵かつげんぞうをば部屋に訪うてまじわりを結んだ。諺蔵は後の河竹新七である。
 妓楼は主に品川の島崎湊屋みなとや土蔵相摸どぞうさがみで、引手茶屋は大野屋万治方であった。湊屋のお染はもっとも久しい馴染であった。
 取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間ほうかん富本登名太夫となたゆうおなじく熨斗太夫のしたゆう、桜川善二坊、その他俳諧師牧乙芽まきおつが、力士勢藤吾いきおいとうご等であった。紫玉は後の正伝節家元春富士、乙芽は後の冬映である。

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