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細木香以(さいきこうい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:30:27  点击:  切换到繁體中文


       六

 竜池の水引を掛けた祝儀は壮観ではあっても、費す所は甚だ多きに至らなかった。これに反して子之助は、人に※(「嚊のつくり-自」、第4水準2-81-24)あたうる物に種々の趣向を凝らし、その値の高下を問わなかった。丸利、丸上、山田屋等の袋物店に払う紙入、煙草入の代は莫大ばくだいであった。既にして更衣ころもがえの節となった。子之助はひとえ羽織とあわせとを遊所に持て来させて著更え、脱ぎ棄てた古渡唐桟こわたりとうざんの袷羽織、糸織の綿入、琉球紬りゅうきゅうつむぎの下著、縮緬ちりめんの胴著等を籤引くじびきで幇間芸妓に与えた。
 竜池は子之助の遊蕩がいよいよ募って、三村氏が放任して顧みぬことを聞き知り、自ら手を下してこれを制せようとした。六月中旬の事である。子之助が品川の湊屋にいると、竜池は四手よつでを飛ばして大野屋に来た。そして子之助に急用があるから来いと言って遣った。
 子之助は父をおそれて、湊屋の下座敷から庭に飛び下り、海岸の浅瀬をわたって逃げようとしたが、使のものに見附けられてとらえられた。
 竜池は子之助をらっして帰り、幸町さいわいちょうの持地面に置いてある差配人佐兵衛に預けた。そして勘当の手続をしようとした。しかし手代等の扱によって、子之助は山城河岸に帰り、父の監督を受けることとなった。
 さいわいに竜池は偽善を以て子を篏制かんせいしようとはしなかった。自分の地味な遊には子之助を侍せしめて、これに教うるに酒色のむしろにあっても品位をおとさぬ心掛を以てした。子之助の態度はここに一変した。これが子之助の二十一歳になった時の事である。
 竜池の贔屓にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死ろうしした。これも間接に山城河岸の父子をして忌諱ききを知らしむるなかだちとなったであろう。
 これから安政三年に至るまでの間には記すべき事が少い。しばらく二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町さるわかちょうに移って、勝諺蔵が立作者柴晋助しばしんすけとなった。芝宇田川町にいたからである。河竹新七の名はしばらく立ってから、三代目桜田治助の勧に依っていだ。嘉永元年六月二十七日に、子之助の祖父伊兵衛が七十余歳で歿した。法諡ほうしは繁誉宝寿徳昌善士である。墓は願行寺先塋せんえいの中にある。竜池の師、静廬もこの年八十三歳で歿した。寿阿弥曇※(「大/周」、第3水準1-15-73)じゅあみどんちょうの歿したのも同年である。寿阿弥と竜池父子とは相識ではあっただろうが、そのまじわり奈何いかんつまびらかにしない。しかし後に子之助は清浄光寺から寿阿弥号を受けて、間接に真志屋の阿弥号を襲いだのである。三年に竜池の友諸持が都派を脱して宇治紫文と称した。安政元年に竜池父子の贔屓にした八代目団十郎が自刃した。二年は地震の年である。江戸遊所の不景気は未曾有で、幇間は露肆ろし天麩羅てんぷらを売り、町芸妓は葭簀張よしずばりにおでん燗酒かんざけひさいだそうである。山城河岸の雨露はこれをうるおし尽すことが出来なかったであろう。
 安政三年の夏竜池は病にした。次で九月二十日に世を去った。法諡は白誉雲外竜池善士と云う。また願行寺に葬られた。手代等は若檀那子之助の前途を気遣って、大坂町に書肆を開いている子之助の姉婿あねむこ摂津国屋伊三郎を迎えて、家督相続をさせようとした。子之助の姉は上杉家の奥をさがって婿を取り、分家を立てていたのである。然るに子之助の継母三村氏すみは、義理ある子之助を廃嫡の否運に逢わせては、自分の庇護ひごが至らぬように世間の目から見られようと云って、手代等の議を拒んだ。子之助はついに山城河岸の本家をいだ。時に年三十五である。ついでに云う、竜池の狂歌の師初代弥生庵雛麿ひなまろは竜池と同年同月に歿した。

       七

 父竜池の後を継いで二世藤次郎となった子之助は、継母三村氏すみその他の親族、最故参の金兵衛以下大勢の手代の手前があるので、暫くは謹慎を守っていたが、四十九日の配物くばりものが済んだ頃から遊所に通いはじめ、ようやく馴れては傍人ぼうじんの思わくをも顧みぬようになった。女房はまだ部屋住でいた時に迎えて、もう子供が二人ある。里方は深川木場の遠州屋太右衛門である。しかし女房も岳父しゅうともただ手をつかねて傍看する外無かった。
 王侯貴人が往々文芸の士を羅致らちして、声威を張り儀容を飾る具となすように、藤次郎は俳諧師、狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工と交って、その多数を待つことほとんど幇間とえらぶことが無かった。父竜池はつねに狂歌をもてあそんだが、藤次郎はこれに反しておもに俳諧に遊んだ。その友をつどえた席は、長谷川町の梅の家、万町よろずちょう柏木亭かしわぎてい等であった。
 藤次郎は子之助時代に鯉角りかくと号し、一に李蠖りかくとも署していたが、家を継いだ後、関為山いざんから梅の本の称を受け、更に晋永機しんえいきに晋の字を貰い、自ら香以と号し、また好以、交以、孝以とも署した。たまたま狂歌を作るときは何廼屋なにのやと署した。
 劇場では香以は河原崎権十郎を贔屓にした。後の九代目団十郎である。香以は贔屓の連中を組織して、荒磯連あらいそれんなづけ、その掟文おきてぶみと云うものを勝田諸持に書かせた。九代目の他日の成功は半香以の庇蔭ひいんったのである。また八代目が自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にした。この父子のほか、俳優にして香以の雨露に浴したものには、なお市川小団次、中村鴻蔵こうぞう、市川米五郎、松本国五郎等がある。
 香以の通った妓楼は初め吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方で、後角町すみまち稲本楼である。玉屋には濃紫こむらさき、稲本には二世小稲がいた。引手茶屋は玉屋に通った時、初め近江屋おうみや半四郎、後大坂屋忠兵衛、稲本に通った時仲の町の鶴彦つるひこであった。
 香以が取巻はほとんど数え尽されぬ程あった。中にはこれを取巻にまじうるはあるいは酷に失するかも知れぬと思われる人もある。しかし区別して論ずることもまた容易でない。
 俳諧師には既に挙げた為山、永機の外、鳥越等栽、原田梅年、牧冬映、野村守一がある。梅年は後六世雪中庵と称した。嵐雪、吏登、蓼太りょうた、完来、対山、梅年と云う順序だそうである。守一、通称は新蔵、鶴歩庵かくほあんと云った。
 狂歌師には勝田諸持とその子福太郎と、室田鶴寿、石橋真国がある。福太郎は綽号あだなを油徳利と云った。後に一中節において父の名をぎ、二世紫文となった人である。鶴寿は梅屋と云った。通称は又兵衛、長谷川町の待合茶屋である。真国は通称七兵衛である。
 狂言作者には河竹新七、次で瀬川如皐じょこうがある。新七は元の柴晋助しばしんすけである。
 彫工には石黒某がある。画家には取巻に算すべからざる人もあるが、松本交山、狩野晏川あんせん、月岡芳年、柴田是真、鳥居清満、辻花雪、福島隣春ちかはる、四方梅彦がある。傭書家には宮城玄魚がある。
 商人もしくは商家の隠居には先ず小倉阿猿おさるがある。団子坂の質屋の隠居で、後に是阿弥と云った。阿心庵是仏がある。谷中三河屋の主人である。大津屋古朴こぼくがある。船宿の隠居である。金屋仙之助の竺仙ちくせんがある。竹川町のせり呉服商である。
 医師に石川甫淳ほじゅんがある。外科専門であった。俳諧の号を雁伍がんごと云った。
 落語家には乾坤坊良斎、五明楼玉輔たますけ、春風亭柳枝、入船米蔵がある。玉輔は馬生ばしょうの後の名である。講談師には二代目文車、桃川燕国えんこく、松林伯円がある。燕国は後の如燕じょえんである。

       八

 専業の幇間ほうかんで、当時山城河岸の家へ出入していたものは、桜川善孝、荻江おぎえ千代作、都千国、菅野すがののん子等である。千国は初の名が荻江露助、後に千中と云う。玄冶店げんやだなに住んでいた。また吉原に往った時に呼ばれたものは都有中うちゅうおなじく権平、同米八、清元千蔵、同仲助、桜川寿六、花柳鳴助等である。中にも有中は香以がその頓才とんさいを称して、常にかたわらに侍せしめた。
 吉原の女芸者は見番大黒屋庄六方から、きわ、ぎん、春、つる等が招かれた。きわは後花柳寿輔の妻になった。春は当時既に都権平の妻になっていた。駿河屋の鶴は間もなく香以の囲物かこいものにせられた。
 香以は暫く吉原に通っているうちに、玉屋の濃紫を根引した。その時濃紫が書いたのだと云って「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短冊が玉屋に残っていた。本妻は濃紫との折合が悪いと云って木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくのかかえ鶴が引かせられたより前の事である。
 家にいての香以の生活は余り贅沢ぜいたくではなかった。料理は不断南鍋町みなみなべちょうの伊勢勘から取った。蒲焼かばやきが好で、尾張屋、喜多川が常に出入した。特に人に馳走ちそうをする時などは、大抵数寄屋町の島村半七方へ往った。香以を得意の檀那としていた駕籠屋かごやは銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使ふみづかいに毎日二人ずつの輿丁よていが摂津国屋に詰めていた。
 濃紫が家に来た後も、香以の吉原通はまなかった。遊に慣れたものは燈燭とうしょくつらねた筵席えんせきの趣味を忘るることを得ない。次の相手は同じ玉屋の若紫であった。
 ある日香以は松本交山を深川富が岡八幡宮はちまんぐうの境内に訪うて、交山が松竹を一双の金屏風きんびょうぶに画いたのを見た。これはそれがしが江戸町一丁目和泉屋平左衛門の抱泉州に贈らむがために画かせたものであった。
 香以はこの屏風を横奪して、交山には竹川町点心堂のあんに、銀二十五両を切餅きりもちとして添えておくった。当時二十五両包を切餅と称したからである。交山は下戸であった。
 香以は屏風巻上始末を書いて悪摺あくずりらせ、知友の間にわかった。そして屏風を玉屋山三郎に遺った。しかし山三郎にはこの屏風は女郎の床には立てぬと云う一札を入れさせたのである。
 安政四年になって銀鎖ぎんぐさり煙草入たばこいれ流行はやった。香以は丸利にあつらえて数十箇を作らせ、取巻一同に与えた。古渡唐桟こわたりとうざんの羽織をそろい為立したてさせて、一同に※(「嚊のつくり-自」、第4水準2-81-24)あたえたのもこの頃である。
 この年の春竹川町の三村氏が香以に応挙のこい一幅を贈った。香以はこれを獲て応挙の鯉三十六幅を集めようと思い立った。書画骨董商等こつとうしょうらは京阪地方をまで捜して幅数を揃えた。しかし交山、柴田是真等に示すに、その大半は贋物がんぶつであった。香以は憤って更に現存の画家三十六人を選んで鯉を画かせた。そして十一月に永機を招いて鯉の聯句を興行した。その時配った半歌仙には鳥居清満が鯉の表紙画をかき、香以がしばらくのつらねに擬した序を作った。その末段はこうである。「点ならござれ即点に、素襖すあをかきのへたながら、大刀たちの切字や手爾遠波てにをはを、正して点をかけ烏帽子ゑぼし、悪くそしらば片つはし、棒を背負しよつた挙句の果、此世の名残執筆の荒事、筆のそつ首引つこ抜き、すゞりの海へはふり込むと、ほゝうやまつてまうす。」
 この年の秋猿若町市村座で、河竹新七作網摸様燈籠菊桐あみもようとうろのきくきりが興行せられた。享保中の遊女玉菊の事に網打七五郎の事を併せて作ったものである。香以は河原崎権十郎、市川小団次の二人に引幕一張ずつを贈り、芸者おさんに扮した市川米五郎と桜川善孝に扮した中村鴻蔵との衣裳いしょう持物を寄附した。これは皆権十郎を引き立てるためであった。
 香以が浅草日輪寺で遊行上人に謁し、阿弥号許多あまたを貰い受けたのもこの頃の事である。香以自己は寿阿弥と号し、いくばくもなくこれを河竹新七に譲って、梅阿弥と更めた。この年香以は三十六歳であった。

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