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細木香以(さいきこうい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:30:27  点击:  切换到繁體中文


       九

 安政五年の三月市村座に、江戸桜清水清玄と云う狂言が演ぜられた。場面は仲の町引手茶屋の前である。源之助の番頭新造が吉六の俳諧師東栄の胸倉を取っている。これは東栄が所謂いわゆる性悪しょうわるをして、新造花川にそむいたために、曲輪くるわの法でまゆり落されそうになっているところである。鴫蔵しぎぞう竹助の妓夫ぎふが東栄を引き立てて暖簾のれんの奥に入る。次で国五郎、米五郎、小半次、三太郎、島蔵の侍等さぶらいらが花道を出て、妓夫に案内せられて奥に入る。三十郎の遊女揚巻父押上村新兵衛が白酒売となって出る。侍等が出て白酒を飲んで価を償わずに花道へ入る。小団次の黒手組助六が一人の侍の手をじ上げて花道から出て侍等をこらす。侍等は花道を逃げ入る。この時権十郎の紀伊国屋文左衛門が暖簾をかかげて出る。そのこしらえは唐桟の羽織を著、脇差わきざしを差し駒下駄こまげた穿いている。背後うしろには東栄が蛇の目傘を持って附いている。合方は一中節を奏する。文左衛門は助六を呼んで戒飭かいちょくする。舞台が廻ると、揚巻の座敷である。文左衛門が揚巻の身受をして助六にめあわせる。揚巻は初め栄三郎、後梅幸であった。
 狂言の文左衛門は、この頃遊所で香以を今紀文ととなえ出したにちなんで、この名をりて香以を写したものである。東栄は牧冬映である。二人の衣裳持物はすべて香以のおくりもので文左衛門の銀装ぎんごしらえの脇差は香以の常にびた物である。この狂言の作者は香以の取巻の一人河竹新七であった。吉六は東栄にふんした後、畢生ひっせい東鯉と号したが、東は東栄の役を記念したので、鯉は香以の鯉角から取ったのである。
 この年八月二十六日に市川権十郎は芸道にはげみ、贔屓に負かぬと云う誓文せいもんを書き、父七代目団十郎の寿海老人に奥書をさせて香以に贈った。
 香以のこの頃往った妓楼は稲本、相方は二代目小稲であった。所謂いわゆる側去そばさらずの取巻は冬映、最も愛せられていた幇間は都有中であった。
 有中はもと更紗染屋さらさそめやの出身で、遊芸には通じていても文字を識らなかった。そこで貸本に由って知識を求め、最も三国志を喜んだ。香以は有中が口を開けば孔明を称するのを面白がって、金を出して遣って孔明祭を修せしめた。今の富豪が乃木祭を行う類である。それからは有中に陣大鼓の綽号あだなが附けられた。
 香以はこの年三十七歳であった。恐らくはその盛名の絶頂に達した時であっただろう。取巻の一人勝田諸持は、この年二月二十二日に六十八歳で歿した。かの学者の渋江抽斎しぶえちゅうさい、書家の市河米庵、ないし狂歌師仲間の六朶園ろくだえん荒井雅重、家元仲間の三世清元延寿太夫等と同じく、虎列拉コレラに冒されたのかも知れない。諸持は即ち初代宇治紫文である。
 安政六年には香以の身代がやや傾きはじめたらしい。前田家、上杉家等の貸附はほぼ取り立ててしまい、家に貯えた古金銀はおおむ沽却こきゃくせられたそうである。しかし香以の豪遊は未だ衰えなかった。
 香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙等であった。小倉是阿弥の茶室の張交はりまぜになっていた紀行が果してこの遊を叙したものであったなら、一行には女も二三人加わっていたはずである。有中は供に立つ約束をして置きながら、出発の間に合わなかったので、三枚肩の早打で神奈川台へ駆け附け、小判五枚の褒美を貰い、駕籠舁かごかきも二枚貰った。
 香以は途次藤沢の清浄光寺にもうで、更に九つの阿弥号を遊行上人から受けて人に与えた。

       十

 香以は旅から帰った後、旧に依って稲本に通っていた。相方は小稲であった。然るにこの頃同じ家に花鳥と云う昼三ちゅうさんがいた。花鳥は恐るべき経歴を有していた。ある時は人の囲いものとなっていて情夫と密会し、いとまを取る日に及んで、手切金を強請した。ある時は支度金を取って諸侯のしょうに住み込み、故意に臥所ふしどいばりして暇になった。そしてその姿態は妖艶ようえんであった。
 花鳥は廊下で香以に逢うごとに秋波しゅうはを送った。あるゆうべ小稲が名代床みょうだいどこへ往って、香以がひとり無聊ぶりょうに苦んでいると、花鳥の使に禿かぶろが来た。香以はうっかり花鳥の術中に陥った。
 数日の後であった。大引過おおびけすぎの夜は寂としていた。香以は約をんで花鳥の屏風の中に入った。たちまち屏風をあららかに引き退けて飛び込んだものがある。それは小稲の番新ばんしん豊花であった。
 香以は豊花にいて往かれて座敷に坐った。鶴彦は急使を以て迎えられた。巽育たつみそだちの豊花が甲走った声にいざなわれて、無遠慮な男女は廊下に集まり、次の間の障子は所々らした指尖で穿たれた。
 この時留女とめおんなとして現われたのは芸者きわである。豊花と鶴彦とを次の間に連れて往って、小稲花鳥へ百両ずつの内済金を出すことに話を附け、それを香以に取り次いだ。しかし香以のふところには即金二百両の持合せがなかった。
 きわは豊花を待たせて置いて、稲本をで、兼て香以の恩を受けた有中、米八、権平等を座敷々々に歴訪して、財布の底をはたかせたが、その金は合計五十両には足らなかった。きわは高利の金を借りて不足を補った。
 香以はやみに紛れて茶屋へ引き取り、きわにはことばを尽して謝し、「金は店からすぐ届ける」と云いおわって四手よつでに乗り、山城河岸へ急がせた。
 これは香以が三十八歳の時の事であった。この年三月二十三日に、贔屓役者七代目団十郎の寿海老人が、猿若町一丁目の家に歿した。香以は鶴寿と謀って追善の摺物すりものを配った。画は蓮生坊れんしょうぼうに扮した肖像で、豊国がかいた。香以の追悼の句の中に「かへりみる春の姿や海老えびから」と云うのがあった。
 文久元年の夏深川に仮宅のある時であった。香以は旧交をたずねて玄魚、魯文の二人を数寄屋町すきやちょうの島村半七方に招いた。取持には有中、米八が来た。宴を撤してから舟を鞘町河岸さやちょうがしし、松井町の稲本に往った。小稲花鳥はもういなかった。三代目小稲と称していたのは前の小稲の突出つきだし右近である。香以は玄魚と魯文との相方あいかたを極めさせ、自分は有中、米八を連れて辞し去った。
 この年香以は四十歳であった。香以は旧に依って讌遊えんゆうを事としながら、漸く自己の運命を知るに至った。「年四十露に気の附く花野かな。」山城河岸の酒席に森枳園きえんが人をしっしたと云う話も、この頃の事であったらしい。
 文久二年は山城河岸没落の年である。香以は店を継母に渡し、自分は隠居して店から為送しおくりを受けることとし、妾鶴にはいとまり、妻ふさとせがれ慶次郎とを連れて、浅草馬道の猿寺さるでら境内に移った。蕭条しょうじょうたる草のいおかどには梅阿弥の標札が掛かっていた。

       十一

 猿寺の侘住わびずまいに遷った香以は、山城河岸の店から受ける為送しおくりの補足を売文の一途に求めた。河竹新七の紹介に由って、市村座の作者になり、番附に梅阿弥の名を列する。梅の本の名を以てして俳諧の判をする。何廼屋なにのやの名を以てして狂歌の判をする。注文に依って店開の散しを書く。此等はもとよりこの時に始まったのではない。文淵堂ぶんえんどう所蔵の「狂歌本朝二十四孝」「狂歌調子笛」等は早く嘉永六年に印刷せられたものである。ただそれが職業となったのである。しかしこの職業は幾何いくばくの利益をももたらさなかった。
 これに反して所謂いわゆる庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、おなじく市蔵、同九蔵、板東家橘かきつ等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。香以は今芸人等と対等の交際をする身の上になって、祝儀と云うものは出さぬが、これにきょうする酒飯の価はいささかの売文銭のく償う所ではなかった。何時頃いつごろからの事か知らぬが、香以の家の客には必ずぜんが据えられ、さい塩辛しおからなど一二品に過ぎぬが、膳の一隅には必ず小い紙包が置いてあった。それには二分金がはいっていたそうである。香以はまた負債にくるしめられて、猿寺の収容陣地から更に退却しなくてはならなくなった。これが香以の四十一歳になった年である。
 文久三年の春であった。親戚某が世話をして、香以は下総国千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識って俳諧の心得などのあるものは、わずかに二三人に過ぎない。香以は浜の砂地に土俵を作らせ、村の子供を集めて相撲を取らせて、勝ったものには天保銭一枚の纏頭はなを遣りなどした。
 しかし寒川と日本橋との間をば魚介を運ぶ舟が往来する。それに託して河竹新七、永機、竺仙等は書を寄せて香以を慰めた。またたまには便船して自ら訪うこともあった。当時この人々は濃紫のおふさが木綿著物にたすきを掛けて、かいがいしく立ち働くのを見て感心したそうである。「針持つて遊女老いけり雨の月」は香以が実境の句であった。
 ある日天気が好くて海がおだやかなので、香以は浜辺に出ていた。そこへ一隻の舟が著いて、中から江戸の相撲が大勢出た。香以が物めずらしさに顔を見ると、小結以上の知人しるひともいた。相撲は香以を認むるや否やうなずき合って進み寄って、砂の上に平伏した。「これはこれは、河岸の檀那、御機嫌宜ごきげんよろしゅう、こちらに御逗留ごとうりゅうでございますか。どうぞ初日には御見物を。」相撲を迎えに出た土地の人達は、皆驚いて目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「摂津国屋の隠居はえらい人だと見えて、関取衆が土下座をさっしゃる」と囁き合ったそうである。香以は交肴まぜざかなかごを相撲等に贈って、これがために一月余の節倹をした。
 香以は文久三年から慶応二年まで、足掛四年寒川に住んでいた。四十二歳から四十五歳に至る間である。この間元治元年には梅屋鶴寿が歿した。慶応元年には辻花雪が歿した。花雪は狂歌合と云うことを始めた人である。
 慶応二年に香以は山城河岸に帰った。今は家業の振わぬ店の隠居で、昔の友にも往来ゆききするものが少かった。この頃新堀に後藤進一と云うものがあって、新堀小僧の綽名あだなを花柳のちまたに歌われ、すこぶる豪遊に誇っていた。後藤は香以の帰京を聞いて、先輩としてこれを饗せむと思い立ち、木場の岡田竜吟りゅうぎんと云うものにはかり、香以が昔の取巻、芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、この席におもてさらすことを喜ばなかったが、忍んで後藤等の請を容れた。

       十二

 主人側の後藤等はこの宴会の興を添えむために、当時流行の幇間松廼家花山まつのやかざんを呼んだ。花山は裸踊を以て名を博した男である。犢鼻褌とくびこんをだに著けずに真裸になって踊った。しかのみならず裸のままで筆にし難い事をもした。主人側のこれを呼んだのは、もとより流に随って波を揚げたのであるが、その中で紫玉一人は兼て花山の所為しょいにくんでいたので、もし我目前で尾籠びろうの振舞をしたら、懲して遣ろうと待ち構えていた。
 芳年が紫玉の意をはかって、これを花山に告げた。花山はすくいを茶弘に求めた。茶弘は新橋界隈かいわいに幅を利かせていた侠客きょうかくで、花山が親分として戴いていたのである。
 茶弘は花山の請を容れた。筵会の場所は自分の縄張の内である。単身これに赴いてまさに屈辱を受けんとしているものは自分の子分である。この請を容れぬわけには行かない。しかし何の手段を以てこれを救おうか。茶弘はこう考えて、最も簡易な買収の法を取った。後藤の取巻一同には茶弘の祝儀包が配られた。
 紫玉は包を座上になげうって茶弘をののしった。後藤が折角の催もこの殺風景のために興を破られて客は程なく散じた。
 香以は累を後藤に及さんことを恐れて、翌日紫玉を家に呼んで諭した。紫玉をして罪を茶弘に謝せしめようとしたのである。しかし紫玉は聴かなかった。材能さいのう伎芸ぎげいを以て奉承するは男芸者の職分である。廉恥を棄てて金銭を貪るものとするは、そのあえてせざる所である。紫玉が花山を排したのは曲が花山にあったのである。紫玉が祝儀をしりぞけたのは曲が茶弘にあったのである。紫玉は堅くこの説を持して動かなかった。
 香以はむことを得ぬので、人に託して後藤と茶弘との和解を謀った。二人は久保町の売茶亭に会見して、所謂いわゆる手打をしたそうである。これは香以が四十五歳の時の事である。後藤は後に名を庄吉と改めて米の仲買を業としていた。
 慶応三年に辻花雪三回忌の影画合かげえあわせ「くまなきかげ」が刊行せられて、香以は自らこれに序した。巻中の香以の影画にはかみに引いた「針持つて」の句の短冊がしてある。わたくしの看たこの書は文淵堂の所蔵である。
 明治元年に山城河岸の店はとざされた。当時香以の姉夫あねむこは細木伊三郎と称して、山王町に書肆しょしを開いていた。山王町は今の宋十郎町である。香以はふさと慶次郎とを連れて、この伊三郎方に同居した。時に年四十七であった。
 明治三年九月に香以は病に臥して、十日に瞑目めいもくした。年四十九。法諡ほうしは梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域えいいきに葬られた。遺稿の中に。

冬枯れてゐたは貴様か梅の花
紅梅に雪も好けれど加減もの
只遊ぶうきくさも経る月日かな
つごもりや由なき芥子けしの花あかり
盗まれむねぎも作りて後の月
待事のありげに残るのみかな
の高い水に砂吐くしゞみかな
地に著かぬ中ぞ長閑のどけき舞ふ木葉
 自像
花に売る一本物や江戸鰹えどがつを
 自傲じごう
霧晴て皆こちら向く山のなり
 寒川さむかわ
鰺切あぢきりの鈍くも光る寒さかな
 所思
わびぬれば河豚ふぐを見棄てて菜大根
 絶筆
おのれにもきての上か破芭蕉やればせう
 明治四年十月十日の事である。親戚の営むべき一周忌にわざと一月遅れて、昔香以の恩蔭をこうむった人々が、団子坂の小倉是阿弥の家に集まって旧を話し、打連れて墓に詣でた。諸持、鶴寿、花雪、交山は死して既に久しく、書家董斎とうさいの如きは、香以と同じ年の四月に死んでいる。狩野晏川かのうあんせん、河竹新七、其角堂きかくどう永機、竺仙、紫玉、善孝等はこのむれうちにいた。
此墓の落葉むかしの小判哉  永機

 香以去後に凋落ちょうらくして行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春ちかはるは十五年、等栽は二十三年、是真は二十四年、晏川あんせんと清満とは二十五年、永機は三十七年である。
 香以の履歴はおもに資料を仮名垣魯文の「再来紀文廓花街」に仰いだ。今紀文曲輪くるわの花道とむのだそうである。鈴木春浦さんが小説の種にもと云って貸してくれた本を、遺忘のために手抄して置いたのである。
 その他根本吐芳とほうさんの「大通人香以」の如きも、わたくしは参照した。しかし根本氏といえども、わたくしと同じく魯文の文に拠ったことであろう。鈴木氏の筆記にかかる益田香遠、久保田米仙二家の談話、弟潤三郎の蔵儲ぞうちょに係る竺仙事橋本素行の刊本「恩」はわたくしのために有益であった。

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