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寿阿弥の手紙(じゅあみのてがみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:39:34  点击:  切换到繁體中文

     一

 わたくしは澀江抽齋しぶえちうさいの事蹟を書いた時、抽齋の父定所ていしよの友で、抽齋に劇神仙げきしんせんの號を讓つた壽阿彌陀佛じゆあみだぶつの事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章をくした證據としてその手紙を引用した。
 壽阿彌じゆあみの手紙は※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)ひつだうと云ふ人にてたものであつた。わたくしは初め※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂はたれかわからぬと書いた。
 さうすると早速其人は駿河するがの桑原※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂であらうと云つて、友人賀古鶴所がこつるどさんのもとに報じてくれた人がある。それは二宮孤松にのみやこしようさんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。
 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇において、一たび※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂を説いて詩二首を擧げ、再び説いて、又四首を擧げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を擧げてゐる。詩の采録さいろくを經たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅こうけいしよはふはかんが兼善音律かねておんりつをよくす其人温厚謙恪そのひとはをんこうけんかく一望而知爲君子いちばうしてくんしたるをしる」と云ふのである。公圭は※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂のあざなである。
 次で置鹽棠園おしほたうゑんさんの手紙が來て、わたくしは※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の事を一層くはしく知ることが出來た。
 桑原※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂、名は正瑞せいずゐあざな公圭こうけい、通稱は古作こさくである。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河國するがのくに島田驛の素封家そほうかで、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは爲換方かはせかたふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。
 菊池五山は※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の詩と書と音律とを稱してゐる。※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂は詩を以て梁川星巖やながはせいがん柏木如亭かしはぎじよてい及五山と交つた。書は子昂すがうそうとし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又をも學んで、崋山くわざん門下の福田半香、その他勾田臺嶺まがたたいれい高久隆古たかひさりゆうこ等と交つた。
 ※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の妻は置鹽蘆庵おしほろあんの二女ためで、石川依平よりひらの門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。
 ※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の子は長を霜崖さうがいと云ふ。名は正旭せいきよくである。書をくした。次を桂叢けいそうと云ふ。名は正望せいばうである。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂がえらんだ。
 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里ばかりの傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て建立こんりふした禪寺で、寺祿じろくをも有してゐる。桑原氏累代るゐだい菩提所ぼだいしよである。
 以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置鹽氏おしほうぢ、名は維裕ゐゆうあざな季餘きよ、通稱は藤四郎である。居る所を聽雲樓ていうんろうと云ふ。川田甕江をうこうの門人で、明治三十三年に靜岡縣周智すち郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市岩淵町いはぶちちやうに住んでゐる。わたくしの舊知内田魯庵ろあんさんは棠園さんの妻の姪夫めひむこださうである。
 わたくしは壽阿彌の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。

     二

 壽阿彌の手紙の宛名あてな桑原※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つてほゞ知ることが出來、置鹽棠園さんに由つてくはしく知ることが出來たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。しかるに正誤文にたま/\誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。
 三陽さんは祖父米庵が※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂と交はつてゐたので、※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乘中せいせいにちじようちゆう癸亥きがい十月十七日の條に、「十七日、到島田、訪桑原※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂已宿」と記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの米庵が二十五歳、天明四年生の※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂が二十歳の時である。客も主人も壯年であつた。わたくしは主客の關係をつまびらかにせぬが、※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の詩を詩話中に收めた菊池五山が米庵の父寛齋の門人であつたことを思へば、米庵は※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂がためには、たゞおのれより長ずること五歳なる友であつたのみではなく、すこぶたふとい賓客であつただらう。
 三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが澀江抽齋の死を記するに當つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽齋と米庵とは共に安政五年の虎列拉コレラに侵された。抽齋は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしはほゞ抽齋の病状をつくしてゐて、その虎列拉コレラたることを斷じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。
 わたくしの推測はさいはひにして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に從へば、神惟徳しんゐとくの米庵略傳にしもの如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱劇甚げきじんにして、良醫※(二の字点、1-2-22)こも/″\きたしんし苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日溘然かふぜん※(「糸+廣」、第3水準1-90-23)ぞくくわう哀悼あいたうを至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、ならびに皆米庵を載せてゐるさうである。
 壽阿彌の※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂につた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。
 手紙には考ふべき人物九人と※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の親戚しんせき知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪おほくぼ天民、菊池五山、石野雲嶺うんれいがある。歌人には岸本弓弦ゆづるがある。畫家には喜多可庵がある。茶人には川上宗壽がある。醫師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた壽阿彌と其親戚と、手紙を受けた※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂と其親戚知人との外、此等これらの人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての價値があると云ふことは、何人も否定することが出來ぬであらう。

     三

 わたくしは壽阿彌の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、たとひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には讀み易くは無い。忍んでこれを讀むとしたところで、許多あまたの敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。
 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。
 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に寫し出す。「いつも餘り長い手紙にてかさばり候故そろゆゑ、當年は罫紙けいし認候したゝめそろ御免可被下候ごめんくださるべくそろ。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。當年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一年であることは、しもに明證がある。六十歳の壽阿彌が四十五歳の※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂に書いて遣つたのである。
 壽阿彌と※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂とのまじはりは餘程久しいものであつたらしいが、其つまびらかなることを知らない。たゞ此手紙の書かれた時より二年前に、壽阿彌が※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に隨つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌へいじゆつ二月三日の條に、「二日、藤枝に至り、荷溪かけいまた雲嶺うんれいを問ふ、到島田問※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂、壽阿彌爲客かくとなりこゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。歸途に米庵等は※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の家に宿したが、只「主島田※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。
 荷溪は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝※荷溪ふぢえだのちようかけいは[#「蒙-くさかんむり」、196-下-16]碧字風曉へきあざなはふうげうなり才調獨絶さいてふひとりぜつす工畫能詩ゑをたくみにししをよくす。(中略)於詩意期上乘しのいにおけるじやうじようをきす是以生平所作ここをもつてせいへいつくるところは多不慊己意おほくおのれのいにあきたらず撕毀摧燒せいきさいせうして留者無幾とゞめしものいくばくもなし。」菊池五山は西駿せいしゆんの知己二人として、荷溪と※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂とを並記してゐる。
 次に書中に見えてゐるのは、不音ぶいんのわび、時候の挨拶あいさつ、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間ごんぎやうつかまつりそろあひだ乍憚はゞかりながら御掛念被下間敷候ごけねんくださるまじくそろ」とある。勤行と書いたのは剃髮後ていはつごだからである。當時の武鑑をけみするに、連歌師の部に淺草日輪寺其阿きあと云ふものが載せてあつて、壽阿彌は執筆日輪寺うち壽阿※(「大/周」、第3水準1-15-73)どんてうと記してある。原來ぐわんらい時宗遊行派の阿彌號は相摸國高座郡さがみのくにかうざごほり藤澤の清淨光寺から出すもので、江戸では淺草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町しんこくちやうの菓子商で眞志屋五郎作と云つてゐた此人は、壽阿彌號を受けた後に、去つて日輪寺其阿のもとぐうしたのではあるまいか。
 壽阿彌は單に剃髮したばかりでは無い。僧衣を著けて托鉢たくはつにさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬うていえんばの八丁堀の家のかどに立つたさうである。江戸町與力のせがれ山崎賞次郎が焉馬えんばの名を襲いだのは、文政十一年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に壽阿彌は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。しさうだとすると、※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂に遣るこの遲馳おくればせの年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。
 壽阿彌が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、假名垣魯文かながきろぶんが書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許てもとには鈴木春浦しゆんぽさんの寫してくれたものがある。
 壽阿彌は焉馬の門に立つて、七代目團十郎の聲色で「厭離焉馬おんりえんば欣求淨土ごんぐじやうど壽阿彌陀佛じゆあみだぶつ々々々々々」と唱へた。
 深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が來て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。
 焉馬は棒を持つて玄關に出て、「なんだ」と叫んだ。
 壽阿彌は數歩退いてかさを取つた。
「先生惡い洒落しやれだ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」
「いや。けふは修行中の草鞋穿わらぢばきだから御免かうむる。焉馬あつたら又はう。」をはつて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、錫杖しやくぢやうき鳴らして去つたと云ふのである。
 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の戲作者げさくしや焉馬が、壽阿彌のためには自分の贔屓ひいきにしてる末輩であつたことは論をたない。

     四

 次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、弔書てうしよを遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事にかゝはらなかつた證につべきであらう。
 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。駿河國志太郡するがのくにしだごほり島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を大上おほかみと云ひ、此を大下おほしもと云つた。※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂は大上の檀那だんなと呼ばれてゐた。※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の妻ためは大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父すなは※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の岳父は置鹽蘆庵ろあんで、母即ち※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の岳母は蘆庵の妻すなである。
 さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音ぶいんに打ち過ぎた。その詫言わびことを言つたのである。
 次に「清右衞門樣まづはどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候なさるまじくそろ云々しか/″\と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でもなほ不明のかどがあるさうである。しかし大概はわかつてゐる。※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を公綽こうしやくと云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬國出石郡たじまのくにいづしごほり出石の城主仙石道之助久利ひさとしの世である。清右衞門は仙石家に仕へて、氏名を原はや一とあらためた。すこぶる氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。
 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話ぢきわを骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金をることも容易ならず、束脩そくしう謝金の高くなることを言つたものである。
 大窪天民は、「客歳かくさい」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼たびかせぎに出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家藏屋敷くらやしきの役人等が周旋して大賈たいこの書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚よしひろの抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとのかんちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。

     五

 天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通すぐどほりにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸じやうごは世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒をたしんだことがわかり、又※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜せいい、一に世夷せいいに作る、あざな希之きし、別に天均又皆梅かいばいと號した。また駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之はぎのよしゆきさんにたゞして知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を讀んでふと「皆梅園記」を見出だした。齋藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏らうじんのせいはせきし本爲市井人もとしせいじんたり住藤枝驛ふぢえだえきにすむ風流温藉ふうりうにしてをんせき以善詩聞於江湖上しをよくするをもつてこうこのうえにきこゆ庚子歳余東征かのえねのとしよとうせいす過憩驛亭相見すぎてえきていにいこひあひまみゆ間晤半日かんごはんじつ知其名不虚そのなのきよならざるをしる爾來毎門下生往來過驛じらいもんかせいのわうらいしてえきをすぐるごとに輙囑訪老人すなはちしよくしてらうじんをとはしめ得其近作以覽觀焉そのきんさくをえてもつてらんくわんす去年夏余復東征きよねんなつよまたとうせいす宿驛亭えきていにしゆくし首問老人近状はじめにらうじんのきんじやうをとふ驛吏曰えきりいはく數年前辭市務すうねんぜんしむをじし老於孤山下村ひとりやましたむらにおゆと余即往訪之よすなはちゆきてこれをとふ從驛中左折數武えきちゆうよりさせつしてすうぶ槐花滿地くわいくわちにみつ既覺非尋常行蹊すでにしてじんじやうのかうけいにあらざるをさとる竹籬茅屋間ちくりばうをくのかん得門而入もんをえている老人大喜らうじんおほいによろこぶ迎飮於其舍むかへられてそのしやにいんす園數畝えんすうほ經營位置甚工けいえいのゐちはなはだたくみなり皆出老人之意匠みならうじんのいしやうにいづ有菅神廟林仙祠くわんしんべうりんせんしあり各奉祀其主おのおのそのしゆをほうしす有賜春館ししゆんくわんあり傍植東叡王府所賜之梅かたはらにとうえいわうふたまふところのうめをうう其他皆以梅爲名そのほかみなうめをもつてなとなす有小香國鶴避茶寮鶯逕戞玉泉等勝せうかうこくかくひされうあうけいかつぎよくせんとうのしようあり前對巖田洞雲二山まへはがんでんどううんにざんにたいし風煙可愛ふうえんあいすべく使人徘徊賞之ひとをしてはいくわいしこれをしやうせしむ。」庚子かうしは天保十一年で、拙堂は藤堂高猷たかゆき扈隨こずゐして津から江戸におもむいたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。
 天民の年齡は、市河三陽さんのことに從へば、明和四年生で天保八年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂は四十四歳であつた。
 喜多可庵の直話を壽阿彌が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料てんさくれうの事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「畫人武清上州桐生きりふ遊候時あそびそろとき、桐生の何某なにがし申候には、數年玉池ぎよくちへ詩を直してもらひにつかはさふらども兎角とかく斧正ふせい※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)そろうにて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間ねがひまうすべくそろあひだ、先生御紹介可被下くださるべくと頼候時、武清申候には、隨分承知致候、歸府の上なり共、當地より文通にてなり共、五山へ可申込候まうしこむべくそろ、しかしながらこゝに一つの譯合あり、謝物が薄ければ、疎漏そろうは五山も同じ事なるべし、矢張馴染なじみの天民へ氣を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。文晁ぶんてう門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの稱である。菊池五山は壽阿彌と同じく明和六年生で、嘉永二年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、壽阿彌がこれを書いた時六十歳になつてゐた。
 壽阿彌は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩そくしうの高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならず、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾けいぎじゆくに居候時分、百ひき持た弟子入でしいりが參れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」壽阿彌は天民と共に山本北山に從學した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に滿たぬ天民、壽阿彌が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。
 次は壽阿彌が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容體、名倉の診察、治療、名倉のもと邂逅かいこうした怪我人等が頗る細かに書いてある。
 時は文政十年七月末で、壽阿彌はをひの家の板の間から落ちた。そして兩腕をいためた。「骨は不碎候くだけずさふらへ共、兩腕共強く痛め候故」云々しか/″\と云つてある。

     六

 壽阿彌が怪我をした家はをひの家ださうで、「愚姪方ぐてつかた」と云つてある。此姪は其名をつまびらかにせぬが、尋常の人では無かつたらしい。
 壽阿彌の姪は茶技ちやきには餘程くはしかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しのよし川上宗壽そうじゆ、三島の鯉昇りしようなどより傳聞仕候つかまつりそろ、宗壽と申候者風流なる人にて、平家をも相應にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂が一たびさしおいた茶を又もてあそぶのを、宗壽、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗壽の人物評に入り、宗壽を江戸一の茶博士と稱へ、姪も敬服してゐると云つたのである。
 川上宗壽は茶技の聞人ぶんじんである。宗壽は宗什そうじふに學び、宗什は不白に學んだ。安永六年に生れ、弘化元年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。壽阿彌は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗壽の重きをなさうとしてゐる。姪は餘程茶技にくはしかつたものとしなくてはならない。手紙に宗壽と並べて擧げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。
 壽阿彌は兩腕の打撲うちみを名倉彌次兵衞に診察して貰つた。「はじめ參候節に、彌次兵衞申候は、生得しやうとく下戸げこと、戒行の堅固な處と、氣の強い處と、三つのかね合故あひゆゑ、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ闕候かけさふらうても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日餘りかゝ可申まうすべく、目をばまはさずとも百五六十日の日數を經ねば治しがたしと申候。」流行醫の口吻こうふん、昔も今もことなることなく、實に其聲を聞くが如くである。
 壽阿彌は文政十年七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月ごくげつ末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而いまもつて全快と申には無御座候而ござなくさふらうて、少々麻痺まひ仕候氣味に御座候へ共、老體のこと故、元の通りには所詮しよせんなるまいと、そのまゝ此節は療治もやめ申候」と云ふ轉歸である。
 手紙には當時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉彌次兵衞やじべゑと申候而、此節高名の骨接ほねつぎ醫師、おほいに流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人參候故、早朝參候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行醫の待合の光景も亦古今同趣である。ついで壽阿彌が名倉の家に於て邂逅かいこうした人々の名が擧げてある。「岸本※(「木+在」、第4水準2-14-53)ざいゑん、牛込の東更とうかうなども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅かいこう、其節御噂おんうはさも申出候。」やまぶきぞのの岸本由豆流ゆづるは寛政元年に生れ、弘化三年に五十八歳で歿したから、壽阿彌に名倉で逢つた文政十年には三十九歳である。通稱は佐々木信綱さんに問ふに、大隅おほすみであつたさうであるが、此年の武鑑御弦師おんつるしもとには、五十俵白銀しろかね一丁目岸本能聲と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能聲と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸體さうたいの文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れぬが、その何人たるをつまびらかにしない。大塚父子も未だ考へ得ない。

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