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寿阿弥の手紙(じゅあみのてがみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:39:34  点击:  切换到繁體中文


     七

 壽阿彌は怪我の話をして、其末には不沙汰ぶさた詫言わびことを繰り返してゐる。「怪我かた/″\」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸燒後萬事不調」だと云ふことが言つてある。
 壽阿彌の家の燒けたのは、いつの事か明かでない。又その燒けた家もどこの家だか明かでない。しかしこゝろみに推測すればかうである。眞志屋ましやの菓子店は新石町にあつて、そこに壽阿彌の五郎作は住んでゐた。此家が文政九年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に燒けた。これが手紙に所謂いはゆる丸燒である。さて其跡に建てた家にをひを住まはせて菓子を賣らせ、壽阿彌は連歌仲間の淺草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、單にかくごとくに説くときは、餘りに空漠くうばくであるが、しもにある文政十一年の火事の段とあはせ考ふるときは、やゝプロバビリテエが増して來るのである。
 次に遊行上人いうぎやうしやうにんの事が書いてある。手紙を書いた文政十一年三月十日頃に、遊行上人は駿河國志太郡燒津するがのくにしだごほりやいづの普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程留錫りうしやくするはずである。さて島田驛の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の親戚しんせきが往く時※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)ざつたふのためにくるしまぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には證牛と云ふ僧に世話を頼んである。證牛は壽阿彌の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。壽阿彌は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を壽阿彌に問うて書き留めた文がある。
 次に文政十一年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。單に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時くれむつどきとしてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表よりくはしい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは微風であつたのだらう。
 延燒の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一圓に類燒し、又北風になりて、本銀町ほんしろかねちやう本町ほんちやう石町こくちやう駿河町するがちやう室町むろまちの邊に至り、夜下刻げこくしづまる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片かは燒申候、(中略)町數七十丁餘、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。
 わたくしの前に云つた推測は、壽阿彌が姪の家と此火事との關係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方ぐてつかたは大道一筋の境にて東神田故、このたびは免れ候へ共、向側は西神田故過半燒失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。

     八

 文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類燒を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる眞志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、壽阿彌は菓子店を姪に讓つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て來るのである。
 壽阿彌はし此火事に姪の家が燒けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難澁之段愁訴可仕しうそつかまつるべき水府も、先達而せんだつて丸燒故難澁申出候處無之、無宿に成候筈」云々うんぬんと云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句讀くとう次第でどうにも讀み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸燒は前年七月の眞志屋の丸燒をすものとしたい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸燒故の下で切ると、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田えいたいしんでん、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の用達ようたし商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。
 壽阿彌の手紙には、多町たちやうの火事の條下に、一の奇聞が載せてある。こゝに其全文を擧げる。「永富町ながとみちやうと申候處の銅物屋かなものや大釜おほがまの中にて、七人やけ死申候、(原註、親父おやぢ一人、息子むすこ一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉でつち三人、抱へのとびの者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方ぐてつかたにて去暮迄さるくれまで召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者なりそろは愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工のせがれに御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾どんよく強情にて、七年以前せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側ばかり燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ可申まうすべく、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、是迄これまではたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所ここよりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より御暇被下おんいとまくだされと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかくぐら、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故かた/″\ゆえ彼是かれこれ仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜のうちよといふやうな事にて釜へ入候處、釜は沸上わきあがり、けぶりは吹かけ、大釜故入るにはつばを足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成かた/″\にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋きねや佐吉が裏に親類御坐候而それ立退たちのき候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺だんなでらへ納候へ共、見物夥敷おびたゞしく參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺ちゆうかうじ一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは奉存ぞんじたてまつり候へ共書付申候。」

     九

 此銅物屋かなものやは屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説だうていとせつに由つて知られる。道聽途説は林若樹わかきさんの所藏の書である。
 釜の話は此手紙の中で最も欣賞きんしやうすべき文章である。叙事は精緻せいちを極めて一の剩語じようごをだに著けない。實につて文をる間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をもあらはさなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。
 次にふえ彦七ひこしちと云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出來ない。しかし「祭禮の節は不相變御厚情蒙あひかはらずごこうせいかうむ難有由時々申出候ありがたきよしじゞまうしいでそろ」と云つてあるから、江戸から神樂かぐらの笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。
「坂東彦三郎も御噂申出おんうはさまうしいで兎角とかく駿河へ參りたい/\とばかり申居候」の句は、人をして十三驛取締の勢力をしのばしむると同時に、※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の襟懷をもおもらせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論をたない。寛政十二年に生れて、明治六年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「さる夏狂言評好く拙作の所作事しよさごと勤候處、先づ勤めてのき候故、去顏見せには三座より抱へに參候仕合故しあはせゆゑ、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推稱する語の中に、壽阿彌の高く自ら標置してゐるのがうかゞはれて、頗る愛敬がある。
 次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覽に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡いつばうしてしまつた。
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事ながきこと故、まづ是にて擱筆かくひつ奉待後鴻候こうこうをまちたてまつりそろ頓首とんしゆ。」此に二月十九日の日附があり、壽阿と署してある。あて※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂先生座右としてある。
 次に※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)堂の親戚及同驛の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衞門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園たうゑんさんに小右衞門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。
 壽阿彌は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏いひわけに、「府城、沼津、燒津等所々認しよ/\したゝめ候故、自由ながら貴境は先生より御口達奉願候ねがひたてまつりそろ」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親戚故舊に不沙汰ばかりしてゐるので、讀んでこゝに到つた時壽阿彌のコルレスポンダンスの範圍に驚かされた。
 壽阿彌の生涯は多く暗黒のうちにある。抽齋文庫には秀鶴册子しうかくさうしと劇神仙話とがおの/\二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんのことに、劇神仙話の一本は現に安田横阿彌よこあみさんの藏※ざうきよ[#「去/廾」、204-下-9]する所となつてゐるさうである。若し其本に壽阿彌が上に光明を投射する書入がありはせぬか。
 抽齋文庫から出て世間に散らばつた書籍のうち、演劇に關するものは、意外に多く横阿彌さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會はかつて抽齋の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶ひてふの劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿彌さんの所藏本に據つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽齋の次男優善やすよし後のゆたか寄席よせに出た頃看板に書かせた藝名である。劇界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄寫したものではなからうか。

     十

 壽阿彌の生涯は多く暗黒の中にある。寫本刊本の文獻に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典據を知つてゐる。それは伊澤蘭軒らんけんの嗣子榛軒しんけんむすめで、棠軒の妻であつた曾能子刀自そのことじである。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳もなほさとく、言舌も猶さわやかである。そして壽阿彌の晩年の事を實驗して記憶してゐる。
 刀自の生れた天保六年には、壽阿彌は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は壽阿彌が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此畸人きじんの言行は少女の目に映じてゐたのである。
 刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた袱紗ふくさが知友の間に配られた。
 次に壽阿彌の奇行がをさなかつた刀自に驚異の念をさしめたことがある。それは壽阿彌が道にいばりする毎に手水てうづを使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
 わたくしは前に壽阿彌の托鉢たくはつの事を書いた。そこには一たび假名垣魯文かながきろぶんのタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の滑稽こつけいの一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事しよさごとをしくんだ壽阿彌にかくの如き滑稽のあつたことは怪むことをもちゐない。
 しかし壽阿彌の生活の全體、特にその僧侶そうりよとしての生活が、たゞに滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は眞面目しんめんぼくの僧侶である。眞面目の學者である。たゞ此僧侶學者は往々人に異なる行をあへてしたのである。
 壽阿彌は刀自のをさなかつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日にかさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日きにちである。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經どきやうを請ひ、それがをはつてから饗應してかへす例になつてゐた。饗饌きやうぜんには必ず蕃椒たうがらしさらに一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれをあまさずに食べた。「あの方は年に馬に一の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣ほふえであつたと刀自は云ふ。
 壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向ゑかうに往き、素封家そほうかへも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人をしやうずる家がことに多かつた。
 壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此講筵かうえんも亦獨り伊澤氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は壽阿彌が同じ講釋をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。
 永井えいはくは何人なるをつまびらかにしない。醫師か、さなくば所謂いはゆるお坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて檢したが、見當らなかつた。表坊主に横井榮伯があつて、氏名がやゝ似てゐるが、これは別人であらう。あるひは想ふに、永井氏は諸侯のかゝへ醫師もしくは江戸の町醫ではなからうか。

     十一

 壽阿彌が源氏物語の講釋をしたと云ふことにちなんだ話を、伊澤の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである。或時人々が壽阿彌の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奧さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方はおれに源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて觀れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻ぢよせいになつて出されたと云ふ、喜多村※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)ゐんていの説は疑はしい。
 壽阿彌は伊澤氏に來ても、囘向ゑかうに來た時には雜談などはしなかつた。しかし講釋に來た時には、事果てゝ後にしばらく世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時壽阿彌さんがどんな話をなさつたやら、わたくしはおぼえてゐません。どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事をおつしやらなかつたので、後にはわたくしは餘り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊澤氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた醫者である。當時阿部家は伊勢守正弘いせのかみまさひろの代であつた。
 刀自は壽阿彌のをひの事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔繪師まきゑしとしての姪の號で、それはすゐさいであつたさうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することゝしよう。壽阿彌が蒔繪師の株をもらつたことがあると云ふ※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)ゐんていの説は、これを誤り傳へたのではなからうか。
 刀自の識つてゐた頃には、壽阿彌は姪に御家人の株を買つて遣つて、淺草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持ふちが多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔繪をしてゐたのださうである。
 或るとき伊澤氏で、蚊母樹いすのきで作つたくしを澤山に病家から貰つたことがある。榛軒は壽阿彌の姪にあつらへて、それに蒔繪をさせ、知人しるひとに配つた。「大そうの長い櫛でございましたので、そのころの御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。
 菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に壽阿彌が七十七歳になつた時の事である。其頃からは壽阿彌は姪と同居してゐて、とう/\其家で亡くなつた。刀自はそれが盂蘭盆うらぼんの頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、ほゞ符合してゐる。
 壽阿彌の姪が茶技ちやきくはしかつたことは、伯父をぢの手紙に徴して知ることが出來るが、その蒔繪をくしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔繪師としての號をすゐさいと云つたこと、壽阿彌がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、また刀自の賜である。
 最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達ようたしであつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者の關係は必ず此用達の名義に盡きてゐるものとも云ひにくい。
 新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髮ていはつして壽阿彌となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これはやゝ暗黒なる一問題である。

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