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寿阿弥の手紙(じゅあみのてがみ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:39:34  点击:  切换到繁體中文


     十六

 わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「壽阿彌さんが水戸樣の落胤おとしだねだと云ふうはさがあつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」
 石は答へた。「水戸樣の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは壽阿彌さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも壽阿彌さんの先祖の事でございます。水戸樣のお屋敷へ御奉公に出てゐたむすめに、お上のお手が附いて姙娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて參るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの氣なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも眞志屋と云ふ屋號は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふこゝろであつたとか申すことでございます。その水戸樣のおたねの人は若くて亡くなりましたが、血筋は壽阿彌さんまで續いてゐるのだと、承りました。」
 このことに從へば、眞志屋は數世續いた家で、落胤問題と屋號の縁起とは其祖先の世に歸著する。
 次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に眞志屋の墓地にあるかを問うた。
 石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸樣のお手討ちになりました。所が親戚のものははゞかりがあつて葬式をいたすことが出來ませんでした。其時眞志屋の先祖が御用達ごようたしをいたしてゐますので、内々お許をいたゞいて死骸しがいを引き取りました。そして自分の菩提所ぼだいしよとぶらひをいたして進ぜたのだと申します。」
 わたくしは落胤問題、屋號の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋やほやお七の話をも考へ合せて見た。
 水戸家の初代威公頼房ゐこうよりふさは慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年にこうじた。二代義公光圀ぎこうみつくには元祿三年に致仕し、十三年に薨じた。三代肅公綱條しゆくこうつなえだは享保三年に薨じた。
 海録に據れば、八百屋お七の地主河内屋のむすめ島は眞志屋の祖先のもとへ嫁入して、其時お七のくれた袱帛ふくさを持つて來た。河内屋も眞志屋の祖先も水戸家の用達であつた。お七の刑死せられたのは天和三年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、眞志屋の祖先は當時既に水戸家の用達であつた。只眞志屋の屋號が何年から附けられたかは不明である。
 藤井紋太夫の手討になつたのは、元祿七年十一月二十三日ださうで、諸書に傳ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは肅公の世の事で、義公は隱居の身分で藤井をちゆうしたのである。
 此等の事實より推窮すれば、落胤問題や屋號の由來は威公の時代より遲れてはをらぬらしく、餘程古い事である。始て眞志屋と號した祖先某は、威公もしくは義公のたねであつたかも知れない。

     十七

 わたくしは以上の事實の斷片を湊合そうがふして、しばらしもの如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家のむすめが水戸家に仕へて、殿樣の胤をやどして下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、眞志屋と號した。しかし用達になつたのと、落胤問題とのいづれが先と云ふことは不明である。その後代々の眞志屋は水戸家の特別保護の下にある。壽阿彌の五郎作は此眞志屋の後である。
 わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ殘つた。それは力士谷の音の事である。
 石は問はれてかう答へた。「それは可笑をかしな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲すまふは眞志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓ひいきだつたと云つたつて、死骸しがいまで持つて來るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した擧句あげくに、一旦いつたんいけてしまつたものなら爲方しかたが無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は關口と云ふ後裔こうえいの名をだに知らぬのであつた。
 餘り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辭し去らむとしたが、ふと壽阿彌の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には數年間日輪寺其阿と壽阿曇※(「大/周」、第3水準1-15-73)とが列記せられてゐて、しかも壽阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、淺草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには壽阿彌の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の淺草公園の活動寫眞館の西で、昔は東南共にまちに面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝當つきあたりになつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳しよじよの地となり、を生じせりを生じてゐる。わたくしは墓を檢することを得ずして還つた。わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞きになつたことはありませんか。」
「存じてをります。日輪寺は壽阿彌さんの縁故のあるお寺ださうで、壽阿彌さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もございません。」
 わたくしはお石さんに暇乞いとまごひをして、小間物屋の帳場を辭した。小間物屋は牛込肴町さかなまちで當主を淺井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女ひとりむすめ京を生んだ。京は會津東山の人淺井善藏に嫁した。善藏の女おせいさんが婿むこ平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子をおぶつて門に立つてゐたお上さんである。
 壽阿彌の事は舊に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊澤の刀自や師岡の未亡人の如き長壽の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬ごびうを正すことを得たのを喜んだ。
 わたくしは再び此稿ををはらむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて來た。さきに淺井氏をうた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母ぐわいそぼに聞いて、今眞志屋の祖先の遺物や文書もんじよをわたくしに見せに來たのである。
 遺物も文書も、淺井氏に現存してゐるものゝ一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事實の證となすべきものがある。壽阿彌研究の道は幾度いくたびか窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗ふくさは、六十三年前の嘉永六年に壽阿彌が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達眞志屋十餘代の繼承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。

     十八

 わたくしはしばらく淺井氏所藏の文書を眞志屋文書と名づける。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公治紀はるとしが家督して、四年九月九日に十代目眞志屋五郎兵衞が先祖書を差し出した。「先祖儀御入國のみぎり御供仕來元和年中引續」云々うんぬんと書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は參河みかはの人で、過去帳に據ると、淺譽日水信士と法諡ほふしし、元和二年正月三日に歿した。屋號は眞志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衞であつた。
 二代は方譽清西信士で、寛永十九年九月十八日に歿した。後の數代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。
 三代は相譽清傳信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光圀の世になつてゐる。
 四代は西村清休居士である。清休の時、元祿三年に光圀は致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。
 この代替だいがはりさきだつて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。眞志屋の遺物の中に寫本西山遺事並附録三卷があつて、其附録の末一枚の表に「文政五年壬午みづのえうま秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君あゝかせんせいきうくん得知於公深こうにしらるゝのふかきをえて身庶人而俸賜三百石みしよじんにしてほうさんびやくこくをたまひ位列參政之後くらゐはさんせいののちにれつす」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。
 此俸祿の事は先祖書の方には、側女中そばぢよちゆう島をめとつた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐おそれながら御西山君樣御代御側向おんそばむき御召抱お島之御方のおんかた被申候まうされそろを妻に被下置くだしおかれ厚き奉蒙御重恩候而ごぢゆうおんをかうむりたてまつりそろて、年々御米百俵づゝ三季に享保年中迄頂戴仕來冥加至極難有仕合きやうはうねんちゆうまでちやうだいつかまつりきたりみやうがしごくありがたきしあはせ奉存候ぞんじたてまつりそろ」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦よめである。光圀は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸祿を與へたのであらう。
 八百屋お七の幼馴染をさななじみで、後に眞志屋祖先のもとに嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別せんべつであつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家からさがつて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とがともに島、其岳父、其夫の三人の上にあつまきたるのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。
 眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋かはちやと云ふものがある。眞志屋の祖先が代々五郎兵衞と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衞と云つた。眞志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、當時の半兵衞に一人の美しいむすめが生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。

     十九

 河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衞門にも、亦一人の美しいむすめがあつて、名を七と云つた。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬ひぢりめん、裏は紅絹もみであつた。
 島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に歸つた後、かの少年に再會したさに我家に放火し、そのとがつて天和三年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死をいたんで、七が遺物の袱紗に祐天上人いうてんしやうにん筆の名號みやうがうを包んで、大切にして持つてゐた。
 後に壽阿彌は此袱紗の一邊に、白羽二重のきれを縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。
 此袱紗は今淺井氏の所藏になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形ひうちぶくろなりに縫つた更紗縮緬さらさちりめん上被うはおほひうちに入れてある。上被には蓮華れんげと佛像とをゑがき、裏面中央に「倣尊澄法親王筆そんちようはふしんのうひつにならふ」、右邊に「保午浴佛日呈壽阿上人蓮座はうごよくぶつじつじゆあしやうにんれんざにていす」と題し、背面に心經しんぎやうの全文を寫し、其右に「天保五年甲午かふご二月廿五日佛弟子竹谷依田瑾薫沐書きんくんもくしてしよす」と記してある。依田竹谷よだちくこく、名はきんあざなは子長、盈科齋えいくわさい、三谷庵こくあん、又凌寒齋りようかんさいと號した。文晁ぶんてうの門人である。此上被うはおほひに畫いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は壽阿彌にさきだつて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。
 上被から引き出して見れば、袱紗は緋縮緬の表も、紅絹もみの裏も、皆淡い黄色にめて、後に壽阿彌が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。壽阿彌の假名文は海録に讓つてこゝに寫さない。末に「文政六年癸未きび四月眞志屋五郎作新發意しんぼつち壽阿彌陀佛」と署して、邦字の華押くわあふがしてある。
 わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名號をひらいて見た。中央に「南無阿彌陀佛」、其兩邊に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天いうてんと署し、華押がしてある。※(「さんずい+(廣-广)」、第3水準1-87-13)さうくわうにはあふひの紋のあるにしきが用ゐてある。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴さうあんに於て祐天のじやくしたのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名號は島が親しく祐天に受けたものであらう。
 島の年齡は今知ることが出來ない。遺物の中に縫薄ぬひはく振袖ふりそでがある。袖の一邊に「三譽妙清樣小石川御屋形江御上おんやかたへおんあがり之節縫箔ぬひはくの振袖、其頃の小唄にたんだ振れ/\六尺袖をと唄ひし物是也これなり、享保十一年丙辰へいしん六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるべし、裔孫えいそん西村氏所藏」と記してある。
 島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。
 さていつの事であつたか、つまびらかでないが、義公のなほ位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島にいとまつた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦よめ、廓清の妻になつて、一子東清を擧げた。若し島が下げられた時、義公のたねやどしてゐたとすると、東清は義公の庶子しよしであらう。

     二十

 既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。しばらくあつて藤井紋太夫の事があつた。隱居西山公が能の中入なかいれに樂屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。眞志屋の遺物寫本西山遺事の附録末二枚の欄外に、壽阿彌の手で書入がしてある。「家説云かせつにいはく、元祿七年十一月廿三日、御能有之おんのうこれあり、公羽衣のシテ被遊あそばさる、御中入之節御樂屋に、紋太夫を御手討に被遊候あそばされそろ、(中略)、御樂屋に有合ありあふ人々八方へ散亂せし内に、清休君一人公の御側おんそばをさらず、御刀のぬぐひ御手水おんてうづ一人にて相勤、さて申上けるは、私共愚眛ぐまい、かゝる奸惡之者共不存かんあくのものともぞんぜず入魂じゆつこんに立入仕候段只今に相成重々奉恐入候おそれいりたてまつりそろ思召次第如何樣共御咎仰付可被下置段申上おぼしめししだいいかやうともおんとがめおほせつけくだしおかるべきだんまうしあげける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへくらませし程のやつ、汝等なむぢらが欺かれたるはもつとものことなり、すこし咎申付とがめまうしつくる所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所ぼだいしよへなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候おほせこれありそろに付、すなはち菩提所傳通院寺中昌林院へうづめ、今猶墳墓あれども、一華を手向たむくる者もなし、僅に番町邊の人一人正忌日にのみ參詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」
 説いてこゝに至れば、ひとり所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、かの藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦よめ島との時代に當つてゐるのがわかる。
 清休は元祿十二年うるふ九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君樣御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味ぐわんみすれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遲れて享保十一年六月七日に歿した。眞志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つて、成公宗堯むねたかの世になつてゐた。
 六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公ぎこうより拜領、十五歳初御目見得はつおんめみえ依願ねがひによつて西村家相續被仰付おほせつけらる、眞志屋號拜領、高三百石被下置、俳名春局」と註してある。幼名拜領並に初御目見得から西村家相續に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる宗堯むねたかの世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。
 過去帳一本の註に據るに、五郎作の稱が此時より始まつてゐる。初代以來五郎兵衞と稱してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と稱し、後に壽阿彌もこれをいだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。
 眞志屋の屋號は、右の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤蒼夫さうふさんのことに從へば、マの字にかたどつたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。
 東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公宗翰むねもとの世になつてゐた。

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