惜しい鼻柱
「フウム。このカニウレを嵌めた奴は人間でも犬猫でもこの通りチョット高襟に見えるから、一つ流行らしてやろうかと思っていたところじゃが、そんなに有害なものかのう」
「人間の鼻というものは実に都合よく出来ておりますもので……」
「当り前だ。バレンチノだって鼻で持っているんだ。羽振先生だってそうだろう」
羽振先生、思わず自分の鼻を撫でた。聊かバレンチノを自覚していると見える。
「その……当り前でして……鼻の穴の一番前に鼻毛がありまして、その奥に粘膜があります。それから咽頭を通って空気を吸込みますので、その間に色々な黴菌や、塵埃が、鼻毛や粘膜に引っかかって空気がキレイになります上に、適当な温度と湿気を含んで、弱い、過敏な咽喉を害しないように出来ておりますので……」
「ウン。成る程のう……ところで加賀の国の何代目かの殿様は、家老や奥女中から笑われるのも構わずに鼻毛を一寸以上伸ばして御座ったという話だが、アレは君が教えたのか」
バレンチノが長い、ふるえたタメ息をした。
「ヘエ。存じませんが……そんな方……」
「よく知らん知らんと云うのう。それじゃ鼻毛のよく伸びる奴は、大てい女好きで長生きをするものだが……俺なんかは無論、例外だが……アレはやっぱりホルモンの関係じゃないのか」
「サア、わかりませんが。研究中ですから……」
「そんな研究ではアカンぞ」
「ヘエ、相済みません」
「俺に謝罪ったって始まらんが……それからドウしたんだ今の話は……」
「ヘエ、何のお話で……」
「アタマが悪いのう君は……イクラか蓄膿症の気味があるんじゃないか君は……それともアデノイドか……」
「そんな事は絶対に御座いません」
「成る程、君はその方の専門だったね、失敬失敬。今の鼻毛の話よ。鼻毛は健康の礎……ホルモンのメートルだという……」
「ヘエ、そうなんで……ところがその咽喉に有害な黴菌や塵埃を含んだ乾燥したつめたい空気をこのカニウレから直接に吸込みますと、直ぐに咽喉を害しますので、そこへ色々な黴菌がクッ付いて病気を起します。この犬なぞも御覧の通り切開手術をしてやりますと間もなく結核を感染しまして……」
「成る程。それが実験なのか」
「左様で。切開手術の練習にもなります」
「フン。余計なオセッカイずくめだな。君の実験は……」
「どうも相済みません」
「よくあやまるんだな君は……ところでこの犬結核はドウなるんだ」
「ハイ。いよいよカニウレが有害な事がわかれば、その次には羽振式のカニウレを作りまして、決してソンナ心配のないように致しますので……」
羽振学士の顔色が、ダンダンよくなって来た。
「ふうむ。ソレ位の事で博士になれるのか」
「なれる……だろうと思いますので……」
「うむ。マアなるつもりでセイゼイ鼻毛を伸ばすがいい。ところで改めて相談するが、この犬の結核を何とかして治癒す訳には行かんのか」
「さあ。コイツは一寸なおりかねます」
「博士になれる位なら、犬の結核ぐらいは何でもなく治癒せるじゃろう」
「ハハハ。なんぼ博士になりましても、コンナ重態の奴はドウモ……」
「モトモト君が結核にしたんじゃないか……この犬は……」
「……そ……それはそうですけれども、治癒すとなりますとドウモ……」
「ふうむ。そんなら君は病気にかける方の博士で、治癒す方の博士じゃないんだな」
「……そ……そんな乱暴なことを……モトモト実験用に買った犬ですから僕の勝手に……」
「……黙れ……」
「……………」
「いいか。耳の穴をほじくってよく聞けよ。貴様は空呆けているようだが、貴様がこの頃、婚約を申込んでいる山木のテル子嬢はなあ、この犬を洋行土産に呉れた唖川歌夫……知っているだろう、貴様の恋敵に対して済まないと云って、泣きの涙で日を暮らしているんだぞ。その犬が自宅に居ないと歌夫さんに来てもらえないと云って瘠せる程苦労しているんだぞ。その真情に対しても貴様はこの犬を全快させる義務があるんじゃないか。貴様は貴様の愛する女の犬を結核に罹らせてコンナに骨と皮ばかりに瘠せ衰えさせるのが気持がいいのか。それともこの犬が偶然に手に入ったのを幸いに、知らん顔をして実験にかけて弄り殺しに殺して、唖川小伯爵と山木テル子嬢の中を永久に割こうという卑劣手段を講じているのか」
「……そ……そんな乱暴な……メチャクチャです。貴方の云う事は……ボ……僕と……そ……そのテル子嬢とは……マ……全く無関係……」
「ナニ卑怯なッ……」
吾輩は思わず犬を放り出して羽振学士の横面を力一パイ啖らわせた。和製バレンチノが一尺ばかり飛上って、傍の猫の籠の上にブッ倒れて、そのままグッタリと伸びてしまった。その拍子に鉄網の蓋が開いて、猫が二三匹ハヤテのように外へ飛出した。
吾輩はその猫と一緒に動物飼養場を飛出した。
アトから聞いたところによると羽振学士は、大切な鼻の骨が砕けて重態に陥ったので、早速、直ぐ近くの大学耳鼻科へ担ぎ込んで、お手の物で修繕したので、間もなくモトの鼻以上の立派な鼻をオッ立ててピンピン歩き出したという事であるが、考えてみると殴った場所が悪かった。モット取返しの附かない処で、鼻柱を引っ剥しておけばよかった。アンナ卑怯な奴が博士になったら何をするかわからない。
街頭劇名監督
少々荒療治ではあったが山木断髪令嬢の愛犬UTAを中心として渦巻くピンク色ローマンスの半分は、これで片付いたようなもんだ。
吾々のルンペン道は甚だ簡明直截である。
名誉や金銭に縛られて心にもない妥協をしたり苟合したり、腐敗したり、堕落したりして、純真な恋を踏み蹂ったり、引歪めたり、売物買物にしたりする紳士淑女たちの所謂、社交道徳なんていうものとは根柢が違うんだ。アッパカットか……キッスか……この二つ以外に行く道はないんだ。天道様と青天井以外に頭を下げる者がないから自然、物事がそうなるんだ。清浄潔白なもんだ。
吾輩はそうしたルンペン道の代表者である。ユキアタリ・バッタリ映画、オール・トーキー、天然色、浮出し、街頭ローマンスの名監督である。純真生一本の恋以外には取上げない運命の神様である。だからその純真生一本の盲目の恋だったらイツ何時でも引受る。身分が何だ。財産が何だ。名誉が何だ。そんなものは犬に喰われろだ。丸裸になって青天井の下で抱き合えだ。……アハハハハ……と笑い出したら、そこいらで遊んでいた子供連がバラバラと軒の下へ逃込んだ。アハハ。少々キチガイじみていたかな。
裸体女四五人
ところで少々腹が北山になって来た。どこかで飯を喰って、将来の方針をトックリと一つ考えてみる事にしよう。何をいうにも羽振学士をナグリ飛ばして、肝腎カナメのUTAを放ったらかして万事を絶望状態に陥れて来たばかりのところで、将来の筋書がまだチットモ出来ていないんだから困る。野球なら満塁ツースリーというところだろう。ここで飯を喰って考えなくちゃ嘘だ。
篦棒めえ、キチガイだって腹は減るんだ。猿の出世したのが人間で、人間の立身したのがキチガイで、キチガイの上が神様なんだから、まだ全智全能とまでは行きかねる吾輩だ。腹が減って相談相手が欲しくなるのは当り前だ。
どこか美味そうな安いものを売っている店はないか知らんとそこいらを見まわしたが、何しろ学校の近くだから見渡す限り本屋、文具屋、牛乳店、雑貨商みたいなものばかりだ。腹の足しになりそうな店なんか一軒もない。
ところがそこから二三十歩あるく中に……見付かった。狭い横路地のズッと奥の行止りの処に赤い看板が見える。近寄ってみると真赤な硝子に金文字で「御支那料理」「上海亭」と書いて在る。どうせインチキの支那料理だろうと思って近寄ってみると豈計らんや、インチキでない証拠に、店の張出し窓の処にワンタン十銭、シウマイ十銭、チャアシュウ十銭、支那ソバ五十銭と書いた木札を立てて実物が陳列して在る。その上の棚に色んな形の洋酒の瓶がズラリと並んでいるが、コイツも本物とすれば大したものだ。
吾輩の咽喉がキューと鳴った。先ず劈頭のヒットを祝するつもりで一杯傾けるかナ。
表の硝子扉を押して中に這入ると真暗だ。おまけにシインとしていて鼠一匹動かない。コンナ飲食店はお客が這入ると直ぐに黄色い声で「イラッシャイ」と来ないと這入る気にならないもんだ。ドンナ名医でも病室に這入ると直ぐに「イカガデス」とニッコリしない奴は、病人の方でホッとしないもんだ……何かと考えながらアンマリ静かなので不思議に思って、直ぐ横の自由蝶番になった扉をグーッと押開くと驚いた。
瓦斯ストーブの臭気が火事かと思うほどパアッと顔を撲った。
同時に耳の穴に突刺さるような超ソプラノが、一斉に「キャーッ」と湧起ったと思うと、若い女の白い肉体が四ツ五ツ、揚板をメクられた溝鼠みたいに、奥の方へ逃込んで行った。
お客様を見てキャーッと云う手はない。しかもダンダン暗がりに慣れて来た眼でそいつ等の後姿を見ると、揃いも揃った赤い湯もじ一貫の丸裸体で髪をオドロに振乱しているのには仰天した。真昼さ中から化物屋敷に来たような気持になってしまった。
部屋の中は天井から床まで赤ずくめで、赤漆塗の卓が四ツ五ツ排列して在る間に、赤唐紙張の屏風が仕切ってある。その片隅の大きな瓦斯暖炉の前の空隙に、籐の安楽椅子が五ツ六ツ並んで、五月だというのに瓦斯の火がドロドロと燃えている。
四壁に沁み込んだ脂肪と薬味の異臭が引切りなしに食慾をそそる。
やっぱり支那料理屋かな。
クシャミ行列
めんくらった吾輩がポカンとなったまま部屋のマン中に突立っていると、奥の方の料理部屋らしい処で声がする。向うでは聞こえないつもりらしいが、よく聞こえる。今の女連中の声だ。
「……表の扉をナゼ掛けとかなかったの」
「困るわねえ。今頃来られちゃ」
「ああ怖かった。まるで熊みたい……ビックリしちゃったわ」
「まだ居るの」
「ええ。あそこに突立ってギョロギョロ睨みまわしているわよ」
「イヤアねえ。何でしょう、あの人……」
「あれルンペンよ。物貰いよ」
「誰か一銭遣って追払って頂戴よ」
「だってこの恰好じゃ出られやしないわ」
「お神さんどこに居んの」
「二階に午睡してんのよ」
「お初ちゃん呼んで頂戴……一銭遣って頂戴って……ね……」
「早くしないと何か持ってかれるわよ。早くさあ」
と云ううちにミシミシと二階へ上って行く足音がする。
きょうは妙な日だ。
百万長者の娘に平身低頭されて、支那料理屋の女に泥棒扱いにされる。
「ああ寒……急に寒くなっちゃった」
「ストーブの傍に居たからよ」
「……おお寒い。風邪を引いちゃった。ファックシン」
「あたしも寒くなっちゃった。ヘキスン……ヘッキスン……」
「ハックシン……フィックシイン。風邪が伝染ったよ」
「ファ――――クショォ――ン。ウハァ――クショ――ン……コラ……」
「ホホホ。乱暴な嚏ねえ。アンタのは……」
「ああ。涙が出ちゃった」
「まだ洗濯物……乾かないか知ら……」
「一度に洗濯するのは考えもんよ」
「だって隙がなけあ仕方がないわ」
「あんまりお天気が良過ぎたのが悪かったんだわ」
二階から二人ばかり足音が降りて来た。
「呆れたねえ。何故表の扉をシッカリ締めとかなかったの……折角ヒトが良い気持ちで寝てたのに……フィックシイン……」
と云う女将らしい声がして、コック部屋兼帳場の入口の浅黄色の垂幕の蔭から、色の青黒い、眦の釣上った、ヒステリの妖怪じみた年増女の顔が覗いたと思うと、茫然として突立ている吾輩とピッタリ視線を合わせた。
「アラッ……先生じゃ御座いませんの……まあ……お珍らしい……よくまあ」
と云ううちに浅黄色の垂幕を紮げて出て来た。生々しい青大将色の琉球飛白を素肌に着て、洗い髪の櫛巻に、女たちと同じ麻裏の上草履を穿いている。コンナ粋な女に識合いはない筈だがと、吾輩が首をひねっているにも拘わらず、女将は狃れ狃れしく近寄って来て、溢るるばかりの愛嬌を滴らしながら椅子をすすめた。
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