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山羊髯編輯長(やぎひげへんしゅうちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:25:35  点击:  切换到繁體中文

   女 箱 師


       一

「玄洋日報社」と筆太に書いた、真黒けな松板の看板を発見した吾輩はガッカリしてしまった。コンナ汚穢(きたな)い新聞社に俺は這入(はい)るのかと思って……。
 古腐ったバラック式二階建に塗った青い安ペンキがボロボロに剥(は)げチョロケている。四つしかない二階の窓硝子(ガラス)が新聞紙の膏薬(こうやく)だらけだ。右手に在る一間幅ぐらいの開(あ)けっ放しの入口が発送口だろう。紙屑だの縄切れだのが一パイに散らかっている。
 その前に掲示してある八頁(ページ)の新聞を見ただけで吾輩は読む気がしなくなった。旧五号の薄汚れた潰れ活字で、日清戦争頃の号外でも見るようだ。コンナ新聞が、まだ日本に残っているのかと思われる位だ。
 しかし吾輩自身の姿を振り返ってみるとアンマリ大きな事も云えなかった。
 東京一、日本一の東洋時報社で、給仕からタタキ上げた腕ッコキの新聞記者といえば、チョット立派に聞こえるかも知れないが、それがアンマリ腕ッコキ過ぎたのだろう。新聞記者としてアラン限りの悪い事を為尽(しつく)した揚句(あげく)、大正十一年の下半期に到って、東京中の新聞社からボイコットを喰った上に、警察という警察、下宿という下宿からお構いを蒙(こうむ)って逃げて来たんだから大したもんだ。モウ十一月というのに紺サージの合服と、汽車の中で拾った紅葉材(もみじざい)のステッキ一本フラットというんだから蟇口(がまぐち)の中味は説明に及ぶまい。タッタ今博多駅で赤い切符を駅員に渡したトタンに木から落ちた猿みたいな悲哀を感じて来た吾輩だ。三流か四流か知らないが、こんなボロ新聞社にでも押し込まなければ、押し込みどころのない身体(からだ)だ。
「ここを押……」と書いた白紙の下半分が「……して下さい」と一所(いっしょ)に切れ落ちている扉(ドア)を押すと、イキナリ販売兼、会計部らしい広間に這入った。しかし人間は一人も居ない。マン中の鉄火鉢の前に椅子を引き寄せた小使らしい禿頭(はげあたま)が、長閑(のどか)に煙草を燻(くゆ)らしているだけだ。
「きょうはお休みなんですか」
 と少々面喰った顔で吾輩が尋ねると、禿頭(はげあたま)の小使が悠々と鉈豆煙管(なたまめぎせる)をハタイた。
「イイエ。販売部は正午(おひる)切りであすが……何か用であすな……」
 と云い云い如何にも横柄(おうへい)な態度で、自分の背後の古ぼけたボンボン時計を見た。二時半をすこし廻わっている。少々心細くなって来た。
「アノ編輯長は居られるでしょうか」
「編輯長チウト……津守(つもり)さんだすな」
「ええ。そうです。そのツモリ先生に一寸(ちょっと)お眼にかかりたいんですが……」
「何の用であすか」
「新聞記事の事ですが」
「……………………………」
 小使は中々腰を上げない。苦り切った表情で又も一服詰めて悠々と鉄火鉢の中に突込んだ。吾輩は心細いのを通り越して腹が立って来た。コンナケチな新聞社にコンナ図々しい小使が居る。まさか社長が化けているのじゃあるまいに……と思いながら……。
 するとそのうちに小使がヤットコサと腰を上げた。煙管を腹がけの丼(どんぶり)に落し込みながら、悠々と俺の前に立塞がって、真黒な右手をニューと差し出した。俺は面喰って後退(あとずさ)りした。
「何ですか……」
「名刺をば……出しなさい」
 吾輩は街頭強盗(ホールドアップ)に出会った恰好で、恐る恐る名刺を渡した。「中央毎夕新聞編輯部羽束(はつか)友一」と印刷した最後の一枚を……。
 小使は、この名刺をギューと握り込んだまま、吾輩の直ぐ横に在る真暗い、泥だらけの階段を上って行った。その一足毎(ごと)に、そこいら中がギシリギシリと鳴って、頭の上の天井の隙間からポロポロとホコリが落ちて来たのにはイヨイヨ驚いた。
 たまらない不安な気持で待っているうちに、階段の上から大きな声がした。
「コチラへ上って来なさっせえ」
 どこの階段でも一気に駈け上るのが癖になっている吾輩もこの時ばかりは気が引けた。匐(は)い上るような恰好で、杖を突張り突張り段々を踏んだ。スッカリ毒気を抜かれていたばかりじゃない。古い板階段の一つ一つが、磨り残ってビィヨンビィヨンしている上に、下向きに反(そ)り返っているので、ウッカリすると辷(すべ)り落ちそうな気がしたからだ。今朝(けさ)早く、汽車弁当(べん)を一つ喰った切り、何も腹に入れていなかったせいかも知れないが……。
 ヤットの思いで上に登り付くと、小使が仁王立ちになって待っていた。それでも最上級の敬語であったろう……、
「ココへ這入って待って居(お)んなさい。今津守さんが見えますけにナ……」
 と云うと、又もドシンドシンと雷鳴を轟(とどろ)かしながら暗い階段を降りて行った。
 ……又、心細くなりそうだな……と思い思い出来るだけ心細くならないように……イヤ……出来るだけ威勢よく見せかけるために部屋の中を見まわした。
 多分、応接室のつもりだろう。穴だらけの青羅紗(ラシャ)を掛けた丸卓子(テーブル)の左右に、歪(ゆが)んだ椅子がタッタ二つ置いてある。右手の新聞原紙(ゲラ)で貼り詰めた壁の上に「南船北馬……朴泳孝(ぼくえいこう)」と書いた大額が煤(すす)け返っている。それに向い合(あい)に明治十二年発行の「曙(あけぼの)新聞」の四頁(ページ)が、硝子(ガラス)枠に入れて掛けてあるのはチョット珍らしかった。泥だらけの床の片隅に、古い銅版がガチャガチャと山積してあるのは、地金屋(じがねや)にでも売るつもりであろうか。……そんなものを見まわしているうちに思いがけなく腹がグーグーと鳴り出してタマラない空腹を感じ出した。そこで吾輩は意気地なく杖を突張って我慢しようとしているところへ、うしろの方に人の気はいがしたので、ビックリして振り向いてみると、すぐに奇妙な恰好をした小男と顔を合わせた。
 背の高さは五尺足らず……ちょっと一寸坊といった感じである。年は四十と七十の間ぐらいであろうか。色が真黒で、糸のように痩せこけているので見当が付きにくい。白髪頭を五分刈(ぶがり)にして分厚い近眼鏡をかけて、顎の下に黄色い細長い山羊髯(やぎひげ)をチョッピリと生やしている。それが灰色の郡山の羽織袴に、白足袋(たび)に竹の雪隠草履(せっちんぞうり)という、大道易者ソックリの扮装で、吾輩の直ぐ背後(うしろ)に突立っていたんだからギョッとさせられた。今の腹の音を聞かれたんじゃないかと思って……。
 その山羊髯の一寸坊爺(じい)は、身体(からだ)に釣合った蚊の泣くような声を出した。
「お待たせしました。わたし……津守です……」
 と云い云い傍(そば)の椅子を指したので、イキナリ腰をかけようとすると忽(たちま)ち引っくり返りそうになったから、慌てて両足を突張った。椅子の足がみんなグラグラになっているのだ。吾輩は下ッ腹を凹(へこ)ましてステッキを突張った。
 山羊髯の爺(おやじ)は、その吾輩の真正面に、丸卓子(テーブル)を隔ててチョコナンと尻を卸(おろ)した。向側(むかいがわ)の椅子も相当歪んでいるようであるが、引っくり返らないのは身体(からだ)が軽いせいであろう。その貧弱な事、踏台にハタキを立てかけた位にしか見えない。コンナ奴の下になって働らくのか……オヤオヤと思いながらも吾輩は、絶体絶命の雄弁を揮(ふる)って採用方を願い出た。今までの事を残らずブチ撒(ま)けてしまった。
「……だからモウすっかり屁古垂(へこた)れちゃったんです。編輯の給仕から、速記者から、社会部の外交まで通過して来るうちに、悪い事のアラン限りを遣り尽して来たんです。そうしてモウすっかり前非後悔しちゃったんです。これから一つ地道(じみち)になって働らいてみようと思いましてね……どんなボロ新聞社でもいいから……イヤナニその……何です……僕を買ってくれる人の下ならドンナ仕事でもいい……月給なんかイクラでもいい……やってみようと思ってお訪ねした訳なんですが……東京中の新聞社と警察と下宿屋連中にお構いを喰っちゃったんで行く処が無いんです……今年二十四なんですが……いかがでしょうか……」
 そう云う吾輩の顔を山羊髯はマジリマジリと見ていた。吾輩が臓腑(はらわた)のドン底の屁(へ)ッ滓(かす)の出るところまで饒舌(しゃべ)り尽してしまっても、わかったのか、わからないのかマルッキリ見当が付かない。朝鮮渡来の木像じみた表情で、眼をショボショボさせながら、片手で吾輩の名刺をヒネクリまわしているキリである。
 吾輩もその顔を見詰めて眼をショボショボさせた。真似をしたんじゃない。気味が悪くなって来たからだ。同時に中風病(ちゅうぶうや)みみたような椅子の上に、中腰になっている吾輩の両脚が痺(しび)れそうになって来た。汚れた名刺を取返して、諦らめて帰ろうかと思い思い、尻をモジモジさせていると、又も下ッ腹が大きな音を立ててグーグーと鳴った。今度こそ慥(たし)かに聞こえたに違いない。
 吾輩は心細いのを通越して涙ぐましくなった。見得も栄(は)えもなくステッキの前にうなだれてしまった。この間、酔っ払った勢いでナグリ倒した救世軍士官の顔が、眼の前にチラ付いて来た。
「……ヒッ……ヒッ……ヒ……」
 山羊髯が突然に妙な声を出したので、吾輩はビックリして顔を上げた。まるで山羊のような声だと思いながら……その時に山羊髯はヤッと咽喉(のど)に絡まった痰(たん)を嚥(の)み下して、蚊の啼くような声を切れ切れに出した。
「……まあ……何か……記事になりそうな話を……一つ……取って来て御覧なさい……ヒッ……ヒッ……ヒヒ……ゴロゴロゴロ……」
 と云ううちに又一つ痰(たん)を嚥(の)み下して眼をショボショボさした。生きている甲斐も御座いません……と云いたいような表情をしたと思うと、そのままスウスウと煙のように立上って廊下に出た。廊下の向うの、板壁の向うの編輯室らしい方向へ消えて行った。右足が曲っているらしく非道(ひど)いビッコを引きながら……。
 吾輩は呆気(あっけ)に取られてその背後(うしろすがた)を見送った。頭の芯(しん)がジイーンと鳴り出したような気がした。
「……山羊髯のオジサン。ちょっと待って下さい。実はその現在一文もお金が無いのです。僕を採用するならするでイクラカ前貸しして頂きたいのですが」
 と呼びかける勇気も無くしてしまったまま杖に縋(すが)ってヒョロヒョロと立ち上った。
 コンナ編輯長に出会った事は今までに一度も無い。
 コンナ屁ッポコ新聞社に跼(かが)まっているヨボヨボの編輯長が、吾輩のモノスゴイ、スバラシイ性格や技能をタッタ一眼で見貫(みぬ)き得る筈は絶対に無い訳なのに、何一つ尋ねるでもなければ、社としての希望を述べるでもない。おまけに採用するつもりか、そうでないのかテンデ見当の付かない事をタッタ一言、云いっ放しただけで、ビッコ引き引き引上げるなんて、無責任なのか、乱暴なのか、礼儀を知らないのか、それとも吾輩の事を同業者仲間の誰からか聞いて知っているのか……又は新聞記者を鉛筆担(かつ)いだ木ッ葉職人同然に心得ているのか……何が何だか見当が付かない……とに角にも編輯長をつとめている以上キチガイじゃないと思うが……。
 そんな事を考えてボンヤリ突立っているうちに編輯室の方向から電話にかかっている速記者らしい声が聞こえて来た。
「……何だア……武雄から急報……何だア……犯人は何だア……税関……税関がどうしたんだア……ナニイ……マージャン……マアジャンたあ何だあ……朝の雀と書くウ……チューチューという雀かア……何だアサ違いだア……着物の麻だア……わかったわかった。馬鹿にするナア」
 その声を聞いているうちに俺はブルブルと胴ぶるいがして来た。
「ヨシッ……何でも構わない。一つビックリするような記事を取って来てやろう。……こうなれば絶体絶命だ。どうするか見やがれ。……肝を潰すな山羊髯おやじ」
 と決心するとモウ一つブルブルと胴震いがした。持って生まれた新聞記者本能が、ツイ今しがたの電話の声で眼覚め初めたのだ。そうして腹の減ったのも忘れて一気に応接間の暗い階段を駈け降りた。
 当てどもない福岡の町のマン中へ飛び出した。生れ変ったような溌剌とした気持で……。

       二

 生れて初めて来た……知っている者が一人も居ない……西も東もわからない田舎の町でイキナリ新聞記事を探して来いと云われたら大抵の記者が屁古垂(へこた)れるだろう。
 ところが吾輩は屁古垂れなかった。
 ポケットに残っていた五十銭玉を、東中洲の盛り場で投出して、飯付(めしつき)十五銭の鋤焼(すきやき)を二人前詰込んだ吾輩は、悠々とステッキを振り振り停車場へ引返した。三等待合室へ張込んで、クチャクチャになった朝日の袋の中からモウ一本引出して美味(うま)い美味い煙を吸った。
 ……実際自信があったのだ。どんな小さな都会でも新聞記事が無ければ停車場に行くに限る。アトは眼と頭だ。それから足だ。
 煙草吸い吸い構内を一周(ひとめぐ)りして見ると、新聞記者らしい者の影が一つも見えない。町が小さいのか、新聞社が貧弱なのか。停車場専門の記者が居ないと見える。モウ四時半の上り下り急行列車が着く間際なのに……と思いながら一二等の改札口に来て左右を見まわすと……居た……。
 但、新聞記者じゃない。茶の中折に黒マントの日に焼けた男がタッタ一人駅長室の前に立っている。その引締まった横頬と、精悍(せいかん)なうしろ姿はドウ見ても刑事だ。ことに依ると毎日張込んでいる掏摸(すり)専門の刑事かも知れないと思ったが、それならタッタ今改札し初めた、改札口に気を付ける筈なのに、そんな気ぶりも無い。心持ち前屈(まえこご)みになって、古い駒下駄の泥をステッキの先で落している。たしかに大物を張込んでいるらしい態度だ。その態度を片目で注意しいしいプラットフォームに突立っている群集の姿を一人一人見まわしているうちに上り列車が着いて、こっちのプラットフォーム一パイに横たわった。……と思うとその刑事は、さり気ない風情(ふぜい)で、郵便車の前に佇(たたず)みながら、改札口の方向を監視し始めた。四十恰好の眼の鋭いチャップリン髭(ひげ)を生やした男だ。
 そのうちに下りの急行も着いたらしく改札口が次第にコミ合い初めた。駅員が三人で三処(みところ)の改札口を守っているが仲々捌(さば)き切れない。バスケットを差上げる田舎者。金切声を出して駈け出す令嬢。モシモシと呼び止める駅員。オーイオーイと帽子を振る学生なぞ。然し吾輩はソンナものには眼もくれないで刑事の眼付きを一心に注意していた。煙たそうに口付(くちつき)を吸いながら改札口を見守っているその眼付きを……。
 するとその口付が半分も立たない中(うち)にポイと刑事の口から吹き棄てられた。同時に刑事がノッソリと郵便車の前を離れて、群集に混っているモウ一人の刑事らしい男とうなずき合った。群集の中のどれか一人を眼で知らせ合いながら……どこからか跟(つ)けて来た犯人をリレーしている気はいである。
 吾輩はすぐに一二等改札口から引返して出口に向った。
 見るとチャップリン髭の刑事は大急ぎで駅前の青電車(東邦電力経営)の方へステッキを振って行く。その五六間先に、派手なハンチングを冠(かぶ)って、荒い格子縞の釣鐘(つりがね)マントを着た男が、やはり小急ぎしながら電車に乗りに行く恰好が眼に付いた。これが新聞記者特有の第六感というものであったろうか。それともその釣鐘マントが急ぐ速度と刑事が跟(つ)けて行く速度が似通っているせいであったろうか。その釣鐘マントの影に重たそうな風呂敷包を携(さ)げているのが見えた。結び目の隙間(すきま)から羊歯(しだ)の葉がハミ出しているところを見ると、果物の籠か何からしい。

 吾輩は足を宙に飛ばした。満員になって動きかけているその電車の前の方から飛び乗った。うしろの方のステップには刑事がブラ下がっているから遠慮した訳だ。「モット中へ這入って下さい」と運転手から怒鳴られるまにまに吾輩はグングンと中の方へ身体(からだ)を押し込んだ。マン中の釣革にブラ下っている縞(しま)の釣鐘マントの横に身体を押し付けながら、素早くマントの裾をマクリ上げて、風呂敷包みの横の隙間から気付かれないように手を突込んでみた。
 羊歯の葉が指の先に触った。それから柿……と思ううちに電車が駅前の交叉点のカーブを曲ったので車内が一斉にヨロヨロとよろめいた。その拍子に思わずグッと手を突込んでみると、固い、四角い、新聞包みらしい箱に触った。その箱の中央に何かしら金具らしいガタガタするもの……麻雀(マージャン)?……
 ……何をするんです……
 といわんばかりに若い男が眼を剥(む)いて吾輩を睨み付けた。青白い、鼻の高い、眉の一直線な、痩せこけた男だ。どこかで見たような顔だ……とは思ったがその時はどうしても思い出せなかった。まだ、さほど寒くもないのに黒い襟巻を腮(あご)の上まで巻き付けていたせいかも知れない。そうして慌てて果物? の包みを左に持ち換えた。その態度を見た瞬間にハハア……怪しいナ……と気付いた吾輩は、何気なく笑って見せた。
「イヤ失礼しました。田舎の電車は揺れますから……」
 ナアニ、東京の電車だって揺れるのだが、取りあえず、そんなチャラッポコを云って相手の顔をジロジロと見ると、その男は忽ち頬を真赤に染めて、ニヤリと笑い返しながらヒョコリと一つ頭を下げた。喧嘩したら損だと気付いたのであろう。そのまま何となく落付かない恰好で背中を丸くしながら、次第次第に前の方へ行くと、身動きも出来ない乗客の間を果物の籠で押分け押分け袖の下を潜るようにして運転台へ出て、呉服町交叉点から一つ手前の店屋町(みせやまち)停留場へ近づくと、まだ電車が停まらないうちに運転手台の反対の方からヒラリと車道へ飛び降りた。その時に果物の籠の中でガチャリと音がした。疑もない麻雀(マージャン)の音だ。……ここいらの奴はまだ麻雀なるものを知らないらしいが……それを聞いた瞬間に、最前新聞社で聞いた急報電話の内容がモウ一度耳の穴の中で繰り返された。……税関……税関がどうしたんだ……何だ……マージャン……マージャンたあ何だ……。
 吾輩は運転手に切符を渡すと、横っ飛びに電車から降りて、角の焼芋屋の活動ビラの蔭に佇んだ。向う側を見ると、飛び降りた若い男は、スレ違って停車した電車の蔭に隠れるようにして西門(にしもん)通りの横町に走り込んだ。
 走り込んだと思うと、取っ付きの薬屋に這入って仁丹(じんたん)を一袋買った。それから暑そうに汗を拭き拭き鳥打帽と釣鐘マントを脱いで、果物の包みの上に蔽いかけたが、今までの風呂敷では間に合わなくなったので、別の新しい大風呂敷を出してキューと包み上げながら店を出た。紺羅紗(こんラシャ)の筒ッポーに黒い鳥打帽、黒い前垂れに雪駄(せった)という扮装だから、どこかの店員が註文品でも届けに行く恰好にしか見えない。しかも、そうした前後の服装の態度の変化がチットも不自然じゃない。慣れ切っている風付(ふうつ)きを見ると、一筋縄で行く曲者(くせもの)じゃなさそうだ。二人の刑事が車掌台に頑張っていなかったら吾輩とても撒(ま)かれたであろう。
 若い男は大胆にも、タッタ今刑事を載せて行った電車のアトから電車道の大通りをこっちに渡って、吾輩が立っているのに気が付いてか付かないでか見向きもせずに通り抜けて、西門通りの横町に這入って行った。それから二三町行って小さな坂道を降りると、郵便局の前から又右に曲った。オヤオヤこの辺をグルリと一廻りするつもりかな……と思い思いあとから電車通りに出てみると、先に立った若い男は呉服町の停留場まで来て、ちょっと躊躇しながら、右手の博多ビルデングの中へスウッと消え込んだ。
 博多ビルデングというのは、この頃建った福岡一のルネッサンス式高層建築で、上層の三階が九州随一の豪華を誇る博多ホテルになっている。その下の方はカッフェ、理髪、玉突、食堂なぞいうデパートになっていて、いずれも福岡一流のダンデーな紳士が行く処だそうな。
 そんな処とは知らないもんだから、若い男の後(あと)から跟(つ)いて行った吾輩は、ビルの玄関に這入るとギョッとした。ナアニ、設備の立派なのに驚いたんじゃない。正面の大鏡に映った吾輩の立姿の見痿(みすぼ)らしいのに気が附くと、チャキチャキの江戸っ子もショゲ返らざるを得なかったのだ。同時に、今の田舎からポッと出の青年店員みたような男が這入る処じゃないと気が付いた。
「畜生。俺を撒く了簡(りょうけん)だな」
 と思うと直ぐ鼻の先に居る下足番に帽子(シャッポ)を脱いで聞いた。
「今ここへ若い店員風の男が這入って来たでしょう」
「ヘエ……」
 と下足番は眼を丸くして吾輩を見上げ見下(みおろ)した。やはり刑事か何かと思ったのであろう。
「そのエレベーターに乗って行きました」
 と指さす鼻の先へ、小さなエレベーターがスッと降りて来た。青い筋の制服を着たニキビだらけの小僧が運転している。
 吾輩は直ぐにその中に飛び込んだ。
「お待遠様。どちらまで……」
 とニキビ小僧が平べったい声を出した。
「今、ここへ店員みたような若い男が乗ったろう」
「ヘエ。……イイエ……」
「どっちだい。乗ったか乗らないか」
「若い断髪のお嬢さんならお乗りになりました」
「ナニ。若い断髪……」
 吾輩は下足番の顔とエレベーターボーイのニキビ面(づら)を見比べた。二人とも妙な顔をしている。吾輩も多分妙な顔であったろう。このビルデングの真昼さなかに幽霊が出るのじゃあるまいかと疑っていたから……。
「向うの洗面所(トイレット)から出て来られた方でしょう。大きな風呂敷包をお提げになった……」
「ウン。それだそれだ。鼻の高い、眉毛の一直線になった女だろう」
「ヘエ。ベレー帽を冠った、茶色のワンピースを召して、白い靴下にテニス靴をお穿きになった」
「畜生。早い変装だ。黒羅紗の筒ッポの下に着込んでいやがったんだ」
「ヘエ。変装ですか……今のは……」
「イヤ。こちらの事だ……君は東京かい」
「私ですか……」
「ウン君さ……」
「ヘエ。東京の丸ビルに居りました」
「道理でベレー帽なんか知っている……どこへ行ったいそのワンピースは……」
「四階の博多ホテルへお泊(とまり)になりました」
「フーン。支配人は何という人だい。ホテルの……」
「霜川さんですか。支配人ですが……」
「ありがとう。一泊イクラだい。ホテルは……」
「ヘエ。特等が十円、一等が七円、普通が四円で、ダブルの特等は十五円になっております。別にチップが一割……」
「フウン。安いな。俺も泊るかな」
 ボーイが吾輩の顔を見てニヤニヤと笑いやがった。どうも貧乏をすると余計な処へ来て、余計な恥を掻(か)く……畜生。どうするか見やがれ……。
「ヘイ。お待遠さま。ホテルで御座います」
 ボーイが開けた網戸から追い出されるように飛び出した吾輩は、久し振りに眼の醒(さ)めるようなサルーンに直面させられて、少なからず面喰らった。
 けれどもその次の瞬間にはモット面喰らわせられる大事件が持上った。そのサルーンの一番手近い向う向きになっている長椅子の派手な毛緞子(ダマスク)の上からスックリと立上った艶麗、花を欺くような令嬢……だか化生(けしょう)の女だかわからない女が吾輩と直面した。しかも、その直面した白い顔がタッタ今追いかけて来た若い店員の顔だったのには肝を潰した。ちょっとトイレットに這入って、黒い外套と、雪駄(せった)と、鳥打帽を風呂敷に包み込んで、テニス靴を穿いて、白い粉をポカポカッとハタいて、棒紅をチョコチョコと嘗(な)めただけの芸当には違いないが、それにしてもアンマリ早過ぎる。況(いわ)んやそれを玄関番が見た時は店員で、エレベーターボーイが見た時は令嬢だったというんだから大胆といおうか不敵といおうか、唯々舌を捲かざるを得ない。おまけにその容易ならぬ曲者(くせもの)は、吾輩の顔を見ると、溶(と)ろけるような心安さでイキナリニッコリと笑いかけたものだ。
「お久しう御座います。羽束さん」
 吾輩は二三歩ヨロヨロと後(うしろ)に退(さが)った。
 ……何がお久し振りだ。……何が羽束さんだ……。
 と唾液(つば)を嚥(の)み込み嚥み込み相手の顔を白眼(にら)み付けたが、その瞬間に……ヤアーッ……と叫んで天井に飛び上りたくなった。
 ……お久しい筈だ。この女こそ箱師のお玉といって名打ての女白浪(しらなみ)だ。東京で警視庁に上げられる度(たび)に、吾輩から感想を話させられた女だ。この女の身の上話を雑誌にヨタッたお蔭で吾輩は多量の原稿を稼いでいる。いわば吾輩の大恩人だ……と気が付くトタンに吾輩の心理状態がクルリと転向した。
 西洋の名探偵心理から、一足飛びに、純粋の江戸ッ子心理に寝返りを打った訳だ。もっとも好き好んで変化した訳じゃない。そうしなければ太刀打(たちうち)出来ない窮境に陥りかけている事を本能的に自覚したせいであったろう。トタンにお玉が差し伸べた手をシッカリと握ったものだ。お玉は吾輩の耳元に唇を寄せて囁いた。
「羽束さん。あんた非道(ひど)い人ね、あたしをどこまで苛(いじ)めるつもり……」
 可哀相にお玉の眼には涙が浮かんだ。あとの文句は聞かずともわかっている。東海道で稼げなくなって、上海(シャンハイ)、長崎の門管ラインに乗換えたところを又、古疵(きず)同然の吾輩に附き纏われてはトテモ叶(かな)わないというのだろう。吾輩は然(そぞ)ろにお玉の窮況に同情してしまった。
「ね。後生(ごしょう)だから今日だけ、お狃染甲斐(なじみがい)に妾(わたし)を助けて頂戴。ね。妾、武雄(たけお)の温泉で長崎から宝石入りの麻雀(マージャン)を抱えて来た男の荷物を置き換えて来たんだから。その男が税関の役人に押えられる間際によ。そうしたら、武雄の刑事が喰い付いて来たから、妾ここで振り撒(ま)くつもりで降りたらモウ一人福岡署から加勢が来ている上に、アンタまで跟(つ)けて来るんだもの。妾モウすっかり観念しちゃったけど、アンタの気心がまだわからないから、行くところまで行ってみるつもりでここまで来てみたのよ。……ね……アンタ後生だから今夜妾と一緒に泊って頂戴。アンタ今、どこかここいらの新聞社に這入っているんでしょ。だから妾を奥さんにでもして、一緒に泊めて頂戴。御恩は一生忘れないから。仕事は山分けにしてもいいから……ね……後生だから……ネッ……ネッ!」
 と云ううちに燃ゆるような熱情を籠めた眼付で、今一度、吾輩を見上げ見下(みおろ)した。吾輩はその瞬間純色透明になったような気がした。この素寒貧(すかんぴん)姿を見上げ見下ろされては、腸(はらわた)のドン底まで見透(みす)かされざるを得ない。純色透明にならざるを得ない。吾輩は黙って一つ大きくうなずいた。大いに引受けたところは誠に立派な男であったが、トタンに眼の前で、桃色と山吹色の夢の豪華版が渦巻いたのは吾ながら浅ましかった。事実この時に吾輩は夢ではないかと自分自身を疑ったくらいだ。地獄から極楽へ鞍替えをした亡者はコンナ気持ちだろうと思って、ひとりでに胸がドキドキした事を告白する。
 吾輩はそれから鷹揚(おうよう)な態度で、支配人の霜川なる人物を呼び出して特等の部屋を命じた。中禿(ちゅうはげ)の温厚らしい支配人は、叮嚀に分けた頭を叮嚀に下げて、紅茶を入れた魔法瓶を手ずから提げて来て最上階の見事な部屋に案内した。さながらに映画スターの私室(プライベート)然たる到れり尽せりの部屋だ。モット立派な部屋を見た事は何度もあるが、しかしそれは単に見ただけで泊った事は一度も無い事を念のため今一つ告白しておく。況んや、お玉みたような別嬪(べっぴん)と、同じ卓子(テーブル)でカクテルを傾けようなんて運命を、夢にも想像し得なかったのは無論であった。甚だ甘いところばかり告白して申訳ないが、事実は甚だ苦々しいんだから勘弁して頂きたい。
「ねえ御覧なさい。いい月夜じゃないの」
「ああ。博多湾ってコンナに景色のいい処たあ思わなかったね。玉ちゃん初めてかい」
「ええ。初めてよ。いわば商売讐(がたき)のアンタとコンナ処でコンナ景色を見ようなんて思わなかったわ。チイットばかりセンチになりそうだわ」
「――僕もセンチかミリになりそうだ。ねえ玉ちゃん。僕も実はスッカリ東京を喰い詰めちゃってね。はるばる九州クンダリまで河合又五郎をきめて来たんだ。そうしてタッタ今、玄洋新聞社に這入って、記事を取って来いって云われたもんだから、一気に飛び出して来たら君にぶつかっちゃったんだ」
「大変なものを自摸(ツモ)しちゃったのね」
「ウン、万一ヘマを遣ると君と一緒に新聞記事にされた上に、オマンマの種に喰付き損になるんだ」
「困るわね」
 お玉は真剣に吾輩の事を心配しているらしく、両手をワンピースの膝の上で拝み合わした。実は、吾輩もここでこの女に宿賃なんか払わしちゃ江戸ッ子の名折れになる。どうかして編輯長に電話をかけて、せめてここの宿賃だけでも月給の前貸しをしてくれと頼みたい一心でコンナ話を持ち出したのであったが、そこは相手が女だけに、吾輩のそうした腹を察し得なかったらしい。何か思案しながらジッと閉じていた眼を、やがて嬉しそうに見開くと、両手をポンとたたき合わして椅子をスリ寄せて来た。
「――それじゃアンタ……いい事があるわ。明日(あした)ね。妾が、この麻雀(マージャン)の籠を持って大阪へ行ったら、ここの警察へ思い切り馬鹿にした投書をするから、その投書を新聞に素(す)ッ破抜(ぱぬ)いてやったらいいじゃないの。アンタが書いた文句を妾が写して行ってもいいでしょう。そいつを記事にしたら警察でもビックリするにきまっているわよ」
「ウーム。それもそうだな」
「何とか面白い文句を考えて頂戴よ」
駕籠(かご)を抜けたが麻雀(マージャン)お玉。警察(さつ)のガチャガチャ置き土産。アラ行っちゃったア……っていうのはどうだい」
「――ナアニ。それ安来節!」
「ウン。今浅草で流行(はや)り出している」
「面白いわね。妾今夜踊るわ、その文句で――」
「止せよ。見っともない。ワンピースの鰌(どじょう)すくいなんかないぜ」
「新聞記者救いならワンピースで沢山よ」
巫戯化(ふざけ)るな」
「フザケやしないわ。真剣よ。東南西北(トンナンシーペー)苦労の種をツモリ自摸(つも)って四喜和(スーシーホー)っていう歌もあるわ」
「アラ。振っチャッタア……ってね」
「まあ憎くらしい」
「アハハハ……あやまったあやまった……」

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