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山羊髯編輯長(やぎひげへんしゅうちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:25:35  点击:  切换到繁體中文


   後家を殺して[#見出し文字]
      高飛びの計劃[#小見出し文字]
        =犯人の第三告白=[#前の行とは0.5行アキ、「犯人の第三告白」はゴシック体]

[#ここから1字下げ]
 犯人は箱崎署の厳重な取調べに包み切れず、次のような恐ろしい犯行の予定計劃を白状した。
 恐れ入りました。私の人殺しの真実の動機を教えてくれたものはあの後家さんです。ですからあの後家さんが生きている間は、枕を高くして寝る事が出来ません。現に後家さんは私を疑って、時々そんな口ぶりを洩らしている位ですから、後家さんから頼まれている地面の売れ次第、その金を捲上げて、後家さんの口を閉(ふさ)いで、高飛びするつもりでした。
 どうせ死刑になるんなら何も彼(か)も申上げて死にます。御手数をかけて済みません。云々。
[#ここで字下げ終わり]
 吾輩は呆れた。驚いた。昨日(きのう)、後家さんの話をした時に急に変った理髪屋(とこや)の親方の悪魔面(づら)を思い出して飛び上った。まるで名探偵の吾輩の行動を一から十までチャント見ていたような名記事だ……と思い思いその新聞を持って編輯室に押しかけて行った。
 安い弁当飯を頬張って山羊髯をモクモクと動かしているおやじ[#「おやじ」に傍点]の鼻の先へ新聞記事を差付けて指(ゆびさ)した。
「この記事は誰が書いたんですか」
「ムフムフ。わしが……書いたがナ……」
 と云い云い山羊髯にクッ付いた飯粒を抓(つま)んで口の中へ入れた。序(ついで)に総入歯の下の段を鼻の先へ抓み出して白茶気(しらちゃけ)た舌の先でペロペロと嘗(な)めまわした。
 不愉快なおやじ[#「おやじ」に傍点]だな……と思ったが、それどころではなかった。
「……冗談じゃない。コンナ馬鹿な事を犯人が喋舌(しゃべ)ったんですか」
「ムフムフ。第二の告白の方は昨日(きのう)の夕方箱崎の署長が当社へ礼云いに来た。お蔭で、永い間の不名誉を回復しましたチウテナ。法学士出のホヤホヤの署長じゃが、学生上りの無邪気な男でな。その序(ついで)に何も彼(か)も喋舌って行きよりましたよ」
「第三の告白の方も署長が喋舌ったんですか」
「イイヤ。それはわし[#「わし」に傍点]が署長に入れ智恵したことですわい。犯罪の定石ですからな。あの署長は無経験な正直者ですけにキットわし[#「わし」に傍点]が云うた通りに誘導訊問をしましょうて……」
「ヘエ……それじゃ、まだ実際に白状した訳じゃないんですね」
「……モウ今頃は白状しとりましょう。犯人もむろん後家さんと同棲する腹じゃないのじゃから、将来の考えが頭の中でチグハグになっとるに違いない。それじゃからどこかで返事をし損ねてキット誘導訊問に落ち込んで来ますてや。たとい犯人が否定し通しても箱崎署から文句を云うて来る気づかいはありません。君の手腕に恐れ入って感謝しとるのじゃから……実はこの朝刊の記事がすこし足りませんでしたからな。アンタのお株をチョット拝借したまでじゃ……ヒッヒッ……」
「驚いた。生馬(いきうま)の眼を抜く以上だ」
「あんたが昨夜(ゆうべ)の中(うち)に犯人と後家さんの写真を探して来とるとこの記事は満点じゃったが……」
 吾輩は唖然となった。吾輩以上のモノスゴイ、インチキ記事の名人に、生れて初めてお眼にかかったので……。
[#改頁]


   真実百%の与太


 今朝(けさ)の玄洋日報紙を見ると社会面に一大事件が持上っている。
 低い、うねりを打ったような丘陵続きの海岸に近く五艘(そう)の水雷駆逐艇が、重なり合って碇泊している。その横に三号活字でベタベタと「呉淞(ウースン)に着いた分捕(ぶんどり)、独逸(ドイツ)潜水艇」という説明が付いている。
「馬鹿ッ」と思わず口走りながら吾輩は、寝床の中から飛び起きた。「頓間(とんま)。間抜け。トンチキ。これあ潜水艇じゃねえやい……何という恥曝(はじさら)しだ。これあ……」
 大正の三四年頃だったか東京の某新聞社に居た時分に、桜島の大噴火、鹿児島市の大混乱と題して吉原の火事の写真を使ったことがある。その逃げ迷っている群集の足下に「吉原町」と一パイに書いた手提灯(ぢょうちん)が転っているのを、後から気が付いて冷汗を流した事があるがソレ以来の……イヤ、それ以上の大失敗だ。あんまりハッキリし過ぎているので頬返(ほおがえ)しが付かない。
 間違いのソモソモは昨夜の午後四時頃の事だ。警察種(だね)の記事を仕舞(しま)って帰りかけようとしている吾輩の処へ、眼をショボショボさせながら山羊髯編輯長がスリ寄って来た。
「君は写真の補筆が出来ますか」
 断っておくがこの時の吾輩は最早(もはや)、正式に入社していて、社長以下小使に到るまで顔が通っている。行く処、可ならざるなき吾輩の活躍ぶりに皆、舌を捲いているところだった。だから、もしやと思って山羊髯がコンナ事を頼みに来たのだろう。吾輩がうなずいて見せると山羊髯がモウ一度、眼をショボショボさした。
「それではこれを一つ直してくれませんか。上海(シャンハイ)○○新聞の切抜ですが。タテ二段ぐらいに縮めます。向うの海岸の形が大切ですからね。ヒッヒッ」
 受取ったのは極めて紙質の悪い新聞ザラに、目の荒いボヤケた六十線の銅版を、汚れたインキで印刷した切抜写真で、薄ボンヤリした雲みたような陸線のコチラ側に筏(いかだ)みたような船が五艘かかっている。どうやら水雷艇らしい恰好だ。上海○○新聞というのは最低級の邦字新聞と聞いたが、成る程、汚い紙面だ……なぞと思い思い、給仕に十銭のチャイニーズ・ホワイトのチューブを買って来さした。写真室に在る日本の水雷艇の写真と引合わせながら一生懸命に腕を揮(ふる)って、十銭の水彩顔料と、墨汁を塗りこくった。ところで、それから今一度、山羊髯に見せればよかったのだが、早く帰りたかったものだから、
「銅版屋へ廻わしてもいいですか」
 と怒鳴ったら朝刊の記事を直していた山羊髯が、手軽くうなずいた。そこで補筆価値百二十パーセントの堂々たる日章旗を翻した司令塔、信号マスト、水雷発射管、速射砲の設備整然たる五百噸(トン)級、乃至(ないし)二百噸級の水雷駆逐艇が五艘、九十線の銅版キメ細やかに浮き出しているとは夢にも知らずに、山羊髯が「分捕潜水艇」の標題を附けた版下(はんした)の寸法書(すんぽうがき)を印刷部へまわしたものだろう。
 近頃大評判の独逸(ドイツ)潜水艇の写真を、不思議に早く着いた上海○○新聞から切抜いて東京大阪の新聞をアッと云わせようという山羊髯の心算(つもり)だったのだろう。
「飛んでもない事をした。この新聞が佐世保へ廻わったらドンナに笑われるか……イヤ。大阪の新聞がドレ位腹を抱えるか。つまるところ、山羊髯と俺が同罪なんだ。チョットした不注意だったのだが。イヤ。ヒドイヒドイ」
 そう考えるとスッカリ眼が醒(さ)めてしまったが、何だか社に出るのが気まりが悪いような気がした。何とかして記事で正誤、訂正するか、取消しにする方法は無いものかと考えたが、生憎(あいにく)な事に写真ばっかりは一度掲載したが最後、取返しが絶対につかない事を覚った。
 弱ったな……と悲観しているところへ下宿の女将(かみさん)が、梯子段の下から顔を出した。
「羽束さん。もうお眼醒めだすな」
 その櫛巻(くしま)きの肥っちょう面(づら)を見ると思い出した。この女将(かみさん)は吾輩に度々特種を提供している。
 ……巡礼婆(ばばあ)の行倒おれ……
 ……近所のドクトルの淋病……
 ……タキシー屋の幽霊……
 ……町内の標札の紛失……
 なぞ、なかなか面白いが、今朝(けさ)も何か、そんなニュースが這入(はい)ったらしい。吾輩は頭のフケを狂人(きちがい)のように掻きまわしながら起上った。
「何ですか。お神(かみ)さん。又事件ですかい」
 女将(かみさん)は返事をする準備として、とりあえず取って付けたように魘(おび)えた顔をした。この辺には珍らしく眉を剃って鉄漿(おはぐろ)をつけているからトテモ珍妙だ。
「ヘエ。アナタ。向家(むかい)の煙草屋の二階だす。あの二階に下宿して御座った別嬪(べっぴん)さんなあ!」
「ウン。知ってるよ。二十二三の……」
「ヘエ。アナタ。あの人がカルモチンとかで自殺して御座るちうてアナタ……今朝……」
 話の終らないうちに吾輩は猿股一つになって立上った。顔も何も洗わないまま洋服に手足を突込んでしまった。スウェターに首を突込んで、靴下を穿いて、帽子を引っ掴むと、梯子段の途中に引っかかっている女将の巨体を飛び越すようにして上(あが)り框(かまち)から半靴を突かけると表の往来……千代町(ちよまち)の電車通りに飛出した。
「まあ。早さなあ。消防のごたる」
 と女将が感心している間(ま)に、モウ五六人、人だかりのしている向家の煙草屋に駈込んだ。

 いつも煙草を買うので新聞記者という事を知っていたのであろう。野次馬に覗かれないように表の板戸を卸(おろ)しかけていた博奕打(ばくちうち)の藤六という宿屋の親仁(おやじ)がヒョコリと頭を下げて通してくれた。こっちも頭を下げながら出会い頭(がしら)に問うた。
「どうしたんですか」
 親仁(おやじ)は妙に笑いながら表の戸をピッタリと閉め切った。上り框に腰をかけて声を潜めた。
 二階の女は此村(このむら)ヨリ子という別嬪(べっぴん)で二個月前から下宿している。毎日十時頃に起きて、朝湯に這入って、念入りにお化粧をしてから十二時頃飯を食う。それから午後の三時頃になって綺麗に着飾ってどこかへ出かけて、夜の十一時か十二時頃帰って来て、自分で表の入口の締りをして寝るだけが仕事で、宿主の方ではまことに手数がかからない。下宿料もキチンキチンと入れる。今朝はどこかへ奉公のお眼見得(めみえ)に行くのだから早く起してくれと云って寝たが、十時頃まで起きないから、起しに行ってみると、イクラゆすぶっても眼を開けない。どうも様子が怪訝(おか)しいようだから、近所の医者を呼んで来て診(み)てもらったら、睡り薬を服(の)み過ぎているらしい。自殺かも知れないという話。万一自殺となると身よりタヨリの事はヨリ子から一つも聞いていないし、第一何の商売だか全くわからないから、今も巡査に聞かれて困ったところだと云う。
「ナアンダイ。お爺(とっ)さん。胡麻化(ごまか)しちゃイケないぜ。大抵わかってんだろ」
 と一本啖(く)らわしてやったら親仁が禿頭(はげあたま)を掻いた。
「エヘヘ。済みません。実は新聞に書かれちゃ困りますけに……レコだすけにな」
 と小指を出して見せた。
「ヘエ。旦那は誰ですか」
 親仁は又頭を掻いた。両手を膝に置いて頭を一つ下げた。
「そ……そいつは御勘弁下さい。……わたくしが、お世話しましたとですけに……」
「アハハ」と今度は吾輩が頭を掻いたが、親仁(おやじ)がちょっと両手を合わせて拝む真似をしたのを見ると可哀相になった。
「失敬失敬。それじゃ本人が死んだらスッカリ事情を話して下さいよ。決してこちらさんに御迷惑になるような事は書きませんから……」
 親仁は苦笑して首肯(うなず)いた。その首肯き方で女の旦那というのはヨッポド大物らしいと思った。
 二階へ上ってみると六畳ばかりの床の間附の部屋の中央(まんなか)に、花模様のメリンスの布団を敷いて、半裸体の女が大の字に寝かしてある。
 その枕元に近所の医者……下宿の女将(おかみ)の報告に係る淋病のドクトルがタッタ一人坐って胃洗滌をやっている。
 金盥(かなだらい)の中を覗くとドロドロの飯粒と、糸蒟蒻(いとこんにゃく)が漂っている中に白い錠剤みたようなもののフヤケたのがフワフワと浮いている。
 患者は、
「ガワガワ……グルグル……ゴロゴロゴロ……」
 と二重腮(あご)をシャクリながら嘔(は)いているが、そのまま手足を長々と投出しながらスヤスヤと睡(ねむ)っている。
 変テコな状態だが、まだ相当麻酔しているのであろう。
 流行の庇髪(ひさしがみ)に真物(ほんもの)の真珠入の鼈甲櫛(べっこうぐし)、一重瞼(まぶた)の下膨(しもぶく)れ。年の頃は二十二三であろうか。
 顔から肩から胸元……背中はわからないが手首、足首まで真白に化粧して頬紅、口紅をさしているが、その色っぽい事。正に熟(う)れ切った、女盛りの肉体美だ。
 吾輩が上って行くと、ドクトル淋病氏が、ハッとしたらしい。
 吾輩が女のオデコの上に名刺を置いて見せたらドク・リン氏が叮嚀に頭を下げて説明してくれた。
 好人物らしい微笑を浮かべて、
「私はタッタ今来たんです。広矢(ひろや)と申します。今朝早く、夜中に、かなり多量のカルモチンを嚥下(えんか)したらしいですが、胃洗滌をやってみたら残りを出してしまいました。消化不良らしいですから大抵助かるでしょう」
「警察から誰か来ましたか」
「千代町の派出所から巡査が一人来ておりましたが大丈夫助かると云ったら、そのまま帰って行きました」
「成る程。死なない限り用は無いと思ったのでしょう」
 と云ううちに吾輩は、そこいらを探しまわったが、成る程遺書(かきおき)らしいものはどこにも無い。女の袂(たもと)から額縁の裏まで引っくり返してみたが、出て来たものは袂糞(たもとくそ)とホコリばかりだ。ただ机の曳出(ひきだし)から分厚い強度の近眼鏡と、カルモチンと同じ位のカスカラ錠の瓶を探し出しただけであった。そんな物を探しているうち偶然に、机の前に投出してある女の足袋(たび)を踏付けると、踵(かかと)の処が馬鹿に固いのに気が付いた。
 覗いてみると、背が高く見えるように女が入れるファインゴムだ。
 吾輩はソレを抓(つま)み上げて広矢氏に見せた。
「この足袋は貴方(あなた)が脱がせたんですね」
 広矢氏は海老(えび)のように赤くなって弁解した。
「そうです。足が冷えると見えて、穿いて寝てたんです。こんな場合には、全身の束縛を解くのが、手当の第一ですからね」
 そう云い云いドク・リン氏は新しい白襦袢(しろじゅばん)と、小浜の長襦袢をキチンと着せて、博多織の伊達巻を巻付けはじめた。
「アハハ。これあ自殺じゃありませんぜ」
「エッ。どうして……わかりますか」
 ドクトルが眼を丸くして振返った。
「カスカラ錠は下剤じゃないですか」
「そうです。緩下剤(かんげざい)です」
「ドレぐらい服(の)めば利きますか」
「そうですね。人に依りますが少い時で×粒ぐらい。多い人は×××粒ぐらい用いましょうな」
「カルモチンをソレ位服(の)めば死にますか」
「死にませんなあ。ちょうどコレ位の睡り加減でしょうなあ。人にもよりますが」
「この女は近眼ですね」
「どうしてわかります」
「ここに眼鏡があります。近眼だもんですからカスカラとカルモチンを間違えて服(の)んだんですね。朝寝の人間には常習便秘が多いんですから……」
「……ハハア……」
 と医者が感心してタメ息を吐(つ)いた。気味わるそうな顔をして吾輩を見上げた。
「まだ、なかなか醒めないでしょうね」
 ドク・リン氏はうなずいた。……というよりも吾輩に圧倒されたように頭を下げた。
「何時間ぐらい睡(ねむ)るでしょうか」
「わかりませんねえ。夕方までぐらい睡るかも知れません」
「助かりますか」
「大抵助かります」
「ハハア……そこんところを一つ、まだ助かるか助からぬか、わからない事にして書きたいですが、含んでおいてくれませんか。そう書かないと新聞記事になりませんから……」
 ドク・リン氏は眼をパチパチさせた。妙な顔をして不承不承にうなずいた。大して事実を偽る訳ではないし、吾輩に痛いところを見られているもんだから余儀なく承知したのだろう。
 押入から布団をモウ一枚出して掛けてやりながら考えた。何とかして女の旦那を探し出す工夫は無いか。下宿の親仁(おやじ)は遊び人だから滅多(めった)に口を割る気遣いが無いし、ドク・リン氏だって知らないにきまっている。身のまわりのものに見当をつける品物も無いし、手紙なんかも在りそうにないし……ハテ。困ったな。相手の旦那を見付けて「彼女自殺の感想談」を一席弁じさせなくちゃ、記事にならないんだが……と頻(しき)りに首をひねっているところへ、下から煙草店に坐っている小娘が上って来た。藤六の娘らしく鼻っ株が大きい。
「あの……お迎えの俥(くるま)が参りましたが」
「誰をお迎えに……」
「此村さんをお迎えと申しまして……」
「どこから来たんだい」
「存じませんが……」
「お父(とっ)つあんはどこへ行ったんだい」
「今ちょっとお電話をかけに……」
「立派な俥かい」
「ハイ。お抱えらしい御紋付の……」
占(し)めたっ」
 と云うなり吾輩は、階子段を二股に飛び降りて靴を穿いた。表に出るなり俥夫(しゃふ)に云った。
「急いで僕を、お邸まで乗せてってくれ給え。此村さんが自殺してんだから」
 面喰(めんくら)った俥屋が駈け出すと、吾輩は威勢よく仔熊の皮の中に反(そ)り返った。……ヘン。どんなもんだい。これだから新聞記者が止められないんだ……と云いたいくらいだ。おまけにどこへ連れて行かれるんだかテンキリわからないんだからイヨイヨ以て痛快だ。

 石堂橋を渡って電車通を東中洲、西中洲を抜けて春吉(はるよし)へ曲り込んで、渡辺通りから郊外へ出たと思うと、驚ろく勿(なか)れ、九州の炭坑王と呼ばれた、安島子爵家の門内に走り込んだ。
 流石(さすが)の吾輩も……コレハ……と驚いた。何かの間違いじゃないかと思ったが、まさかに俥(くるま)から飛降りて逃出す訳にも行かない。……ええ糞。どうでもなれ……と思って玄関に立つと俥夫が呼鈴(よびりん)を押してくれた。出て来た小間使に名刺を渡して、案内さるるままに美事な応接間に通った。まるでアラビヤン・ナイトだ。
 どうも美事なのに驚いた。青豆色(フーカスグリン)の天井。古黄金色(こもんいろ)の四壁。五色七彩の支那絨氈(じゅうたん)。蛇紋石(じゃもんせき)の大暖炉。その上に掛かった英国風の大風景画。グランドピアノ。紫檀(したん)の茶棚。螺鈿(らでん)の大卓子(テーブル)。ロココ風のクリスタル・シャンデリヤ。南洋材のキャビネット。黄緞子(きどんす)の長椅子(ソーファ)。安楽椅子(イージイチェア)。白麻ドロン・ウォークの窓掛などをキョロキョロと見まわしているうちに、フト傍(そば)の飾戸棚(キャビネット)の横に附いている小さな鏡の中に自分の顔を発見してギョッとした。頭髪(あたま)がまるで煙突の掃除棒だ。おまけに眼鏡を忘れて来ている面付(つらつき)のまずい事。分捕(ぶんどり)スコップに洋服を着せたってモウすこしは立派に見えるだろう。洗い直して来ようかしらんと思って、洗面所らしい処を見まわしているうちに背後の扉が音もなく開(あ)いた。スバラシイ幻影が音もなく辷(すべ)り込んで来て、しなやかに吾輩の前に立止まった。香水の匂いの棚引く中に恭(うやうや)しく頭を下げた。
 何という生地(きじ)かわからぬ金線入(きんせんいり)、刺繍裾模様の訪問着に金紗(きんしゃ)の黒紋付、水々しい大丸髷(おおまるまげ)だ。上げた顔を見ると夢二式の大きな眼。小さな唇。卵型の腮(あご)。とても気品のある貴婦人だ。年齢なんかわからない位だ。
 吾輩は二重三重に面喰って頭を下げた。
「僕は……私は……只今名刺を差上げました玄洋日報社の羽束という者ですが」
「わたくしは安島二郎の家内で御座います」
「あ……そうですか」
 やっとわかった。安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西(ちんぜい)電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王の家(うち)に同居していると見える。
「……あの……何か御用で……」
 そういう地声が、すこしシャ嗄(が)れているところをみると、どうやらこの夫人の素性がわかるようだ。無論、風邪を引いてるんじゃあるまい。
「……実は……その……」
 と吾輩は眼を白黒した。来るんじゃなかったかな……と思った。元来、何しにここへ来たんだか吾輩自身にもわからないので、いわば好奇心に駆られて来たに過ぎない。とりあえずこれから用向きを考え出さなければならないのだが、コンナ婦人に改まられると、考えて来た用向きでも引込んでしまうのが吾々、男性の弱点である。
「只今。千代町の藤六爺(じい)から電話がまいりましたが……生憎(あいにく)途中で切れましたが……」
 ああ助かったと吾輩は思った。チャンスチャンス……。
「……あの娘がどうか致しましたので……」
「ヘエ。実はその……此村……ヨリ子さんが……」
「どうしたんですか一体……」
 急(せ)き込んだ夫人の語気が、だんだんお里をあらわして来た。吾輩は思い切って打明けた。
「実は……その自殺未遂で……」
「エッ。自殺……」
 この時の夫人の驚きようの美くしかったこと……市川松蔦(しょうちょう)だって、こうは行くまい。細長い三日月眉(まゆ)の下で、大きな瞳をゆっくりとパチパチさした。唇を半分開いてワナワナと震わした。白い両手を胸の上でシッカリと握り合わしてヨロヨロと背後(うしろ)へよろめいた。たしかに西洋映画の影響だ……と思ううちに、美しい幻影は、そのまま扉(ドア)を開いてスウと応接間の外へ辷り出た。
 ……が間もなくその幻影が、黒ずくめの風采堂々たる紳士の手を引いて這入って来た。四十四五の新調モーニングの白金(プラチナ)鎖だ。新聞で知っている電力重役、安島二郎氏だ。
 二人は吾輩の眼の前に立並んで威厳を正した。瓦斯器修繕屋(ガスなおしや)然たる吾輩を二人で、マジリマジリと見上げ見下(みおろ)し初めた。何だか新派悲劇じみて来たようだ。
 手に持った吾輩の名刺をチラリと見た安島二郎氏はブッスリと唇を動かした。
「私は安島二郎です。何か……その……此村とかいう娘が自殺したと云わるるのですか」
「そうです。あの下宿の二階でカルモチンを服(の)んで、目下手当中です。まだ生死不明ですが、とりあえず、お知らせに……」
 二郎氏は今一度、吾輩を見上げ見下(みおろ)した。新聞記者の機敏なのに驚いたらしい。
「ハハア。どうして私の家(うち)と関係がある事が、おわかりになりましたかな」
「お迎えの人力車が参りましたので、それに乗って参りました」
 夫婦は顔を見合わせた。今度は図々しいのに驚いたらしい。
 二郎氏が貴族風に肩を一つゆすり上げた。苦り切って夫人を睨み付けた。
「だから云わん事(こっ)ちゃない。余計な事をするもんじゃから……」
「イヤ。どうも済みません。その俥(くるま)を利用した僕が悪いんです」
「イイエ。貴方がお悪いのじゃ御座いません。主人が悪いのです」
「コレ。余計な事を……」
「イイエ……」
 夫人の眼がギリギリと釣上った。純然たる新派悲劇式の、キチンとした立姿になって主人と吾輩を等分に見比べた。鬢(びん)の毛が二三本ホツレかかってトテモ凄(すご)い。
 主人の二郎氏が吾輩にチラチラと眼くばせをした。早く出て行ってくれ……と云いたい意味がよくわかったが、吾輩は出て行かなかった。何だかわからないがトテモ面白かったので……。
 夫人は人形のように冷静に、唇を動かした。

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