その時に校長先生が、どんなに
「いいえ、間違いとは言わせません。貴方は妾ばかりじゃない。コンナ風にして何人も何人も女を
そればっかりじゃ御座いませんよ。今の五年の優等生の殿宮アイ子さんは、貴方の実のお子さんではありませんか。イイエ。お隠しになっても駄目です。毎日毎日お顔を見ているうちにはハッキリとわかって参ります。メンデルの法則って恐ろしいものじゃありませんか。女の児は父親に男の児は母親に似るってほんとうですわね。よく御覧なさい。貴方に
こんな事を知っているのは今のところ妾と舞坂トメ子さん……今の殿宮夫人と二人だけで、御本人のアイ子さんもまだ、お気づきにならないようです。ただ一途に貴方の事を立派な人格の校長さんとばかり思い込んで尊敬してお出でになるようです。そうした有難い舞坂トメ子さんの心遣いが貴方におわかりになりますか。私と舞坂さんとは、二人でこの学校の寄宿舎にいた時分から、大切な大切な親友だったのですからね。その大切な大切な舞坂さんをお泣かせになったのが貴方ですから、どうして知らないでおられましょう。……私はソンナ処から貴方の御生活に興味を持って、いろいろと苦心しながら、貴方に近付く機会を狙っていたのですからね。ね、おわかりになったでしょう。女の一心というものは怖いものですよ。オホホ……。
いいえいいえ。妾は黙っておる訳には参りません。私は
それから先の問答は、気が
それに引き続いて今度は、私の口を
「よう御座いますか森栖さん。万一、貴方が奏任待遇と昇給のお約束をお忘れになると、貴方が大変な御損をなさる事になるのですよ。妾はもうこの春に二人の子供が大学と専門学校を一緒に卒業するばっかりになっておりますし、一生喰べるくらいの貯えは今でも持っているのですから、世間からドンナ事を言われても怖い事はありません。ただこの上の欲には二人の息子の結婚費用と恩給を稼がせて頂けばいいのですから……どんな事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」
「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」
「それにしてもあの
これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で
その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。
あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後で
その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼を
けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。
校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。
それが道ならぬ、
「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」
と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。
私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。
……底の知れないほど愚かな私……。
「大阪に行かんか」
と父から相談をかけられたのはその
倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした
「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」
「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」
「写真も嫌いじゃなかったろう」
「ええ大好きですわ」
父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。
「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所(営林所)に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにして
と言うお話でした。
私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。
私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。
「……考えさして下さい」
と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。
それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。
「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない
私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、
それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。
「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」
両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。
「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」
私はハッと胸を
「いいえ。何も……」
「それじゃ……お前は
継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。
私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと
……私の破滅は校長先生の破滅……校長先生の破滅は私の破滅……私の破滅……校長先生の破滅……何もかも破滅……現在タッタ今破滅しかけているのだ。……そうして、どんな事があっても破滅させてはならないのだ。白状してはいけないのだ。私と校長先生とは二人きりでこの秘密を固く固く抱き合って、底も涯てしもない無間地獄の底へ、何処までも何処までも真逆様に落ちて行かなければならないのだ。……と……そんなような事ばかりをグルグルグルと扇風機のように頭の中で考えまわしているうちに、私の全身をめぐっております血液が、みんな涙になって頭の中一パイにみちみちて、あとからあとから眼の中に溜って、ポタポタと流れ出して行くように思いました。それにつれて私の心臓と肺臓が、涯てしもない虚空の中で互い違いに波打って狂いまわる恐ろしさに、声も立てられないような気持になって行きました。
その私の耳元に、父の鋭い、冴え返った声が聞こえました。
「隠してもわかっているぞ。一昨日お医者様が取って行かれたお前の血清を、大学で検査された結果、お前がもう処女でないことがわかってしまったんだぞ」
継母が私の直ぐ横で、長い長いため息をしました。赤の他人よりもモットモットつめたい、もっともっと赤の他人らしい溜息を……。
「一昨日、お前を
……何と言う恐ろしい科学の力……。
私がもう清浄な
……何と言う残酷な科学の審判……。
私はモウ何の他愛もなく
絶体絶命になった私……。
父は私に是が非でも相手を打ち明けよと迫りました。決して無理な事はしない。キット添わせて遣る。お前の事をソンナにまで思って下さる人がおられる事を俺達が気付かなかったのが悪かったのだ。どんな相手でもいいから打ち明けよ。親の慈悲というものを知らぬか……と両親とも涙を流して迫りましたが、私は死ぬほど泣かされながら、とうとう頑張り通してしまいました。校長先生のお名前を打ち明けるような空恐ろしい事が、どうしても私には出来なかったのです。
私は生まれて初めて親の命令に
それから私はその日の正午頃になってヘトヘトに泣き疲れたまま、寝床に入りました。アダリンを
その翌る日の三月二十二日は、私たち二十七回卒業生の、校長先生に対する謝恩会が催される日でした。
ああ謝恩会……私に取って何と言うミジメな、悲しい、恐ろしい謝恩会でしたろう。
私はまだ睡眠剤から醒め切れないような夢心地で、死ぬにしても生きるにしても、どちらにしても考えようのないような考えを、頭の中一パイに渦巻かせながら、今一度、母校の正門を潜りました。
もう一度校長先生のお顔を見たい。どんな顔をなすって私を御覧になるか……と……それ一つを天にも地にもタッタ一つの心頼みにして……。
いつもの通り古ぼけたフロックコートを召して、玄関に立ってお出でになった校長先生は、やはりいつもの通りに、私を御覧になるとニッコリされました。それは平常の通りの気高い、慈悲深い校長先生のお顔でした。
「……やあ……甘川さんお早よう。貴女にちょっとお話がありますがね。まだ時間がありますから……」
と落ち着いた声で仰言って、私の手を引かんばかりにして正面の階段を昇って、二階の廊下のズッと突き当りの空いた教室の片隅に、私をお連れ込みになりました。そうして、やはりこの上もない御親切な、気高い、慈悲深い顔をなすって、
「どうです。お父さんからのお話を聞かれましたか。大阪へ行く決心が付きましたか」
と仰言って、もう一度ニッコリされました。
その校長先生のお顔は、二、三日前の御記憶なんかミジンも残っていないお顔付きでした。柔和なお顔の皮膚がつやつやしく輝いて、神様のような微笑がお口のまわりをさまようておりました。……あの晩の事は夢じゃなかったのか知らん……あたしは何かしらとんでもない夢を見て、こんなに思い詰めているのじゃなかったか知らん……とさえ思ったくらいでした。
それでも私は、考えようのないような考えで頭の中を一パイに混乱させながらも、キッパリと大阪行きをお断りしたように思います。その時には別段に嬉しくも、悲しくも、腹立たしくも何ともなかったようですが、多分、私の脳髄がまだシビレていたせいでしたろう。
しかし校長先生は、お諦めになりませんでした。
「これは貴女のおためですから……この就職口さえ御承諾になれば、貴女にはキットいい御縁談が申し込んで来る事を、お約束出来るのですから……運動好きの若い紳士が、その新聞社に待っておられるのですから……」
とか何とか仰言って、いよいよ親切を
その何とも言えない無情な、冷やかなお眼の色を見ました一刹那に、私はモウ少しで……悪魔……と叫んで掴みかかりたいような気持になりましたので、こっそりと一つ溜息をして、頭を下げてしまいました。何もかもメチャメチャにしてしまいたい私の気持が、私自身に恐ろしゅう御座いましたので……。
その時に校長先生のお言葉が……お話の初めの時よりもずっと熱烈な……祈るようなお声が、私の耳元に響きました。
「……ね……甘川さん。考えて下さいよ。貴方は万が一にも大阪にお出でにならぬとすれば、貴方の御両親やお妹さん達に、どれだけの精神的な御迷惑をおかけになるか御存じですか。貴女を今のままにしておいては将来、家庭をお作りになって、満足な御生涯をお送りになる可能性が些ない事になると仰言って、御両親が
その校長先生らしい……この上もない人格者らしい威厳と温情の籠もっているらしいお言葉つきの憎らしゅう御座いましたこと。私は今一度カッとなって、何もかもブチマケてしまいたい衝動に
「校長先生のお心はよくわかっております。けれどもモウ二、三日考えさして下さい。決して先生のお心にそむくような事は致しませんから……」
これは私が生まれて初めて吐いた
この時に私が決心しておりました事は、先生のお心に背くどころでなかったのでした。もしこの時に私が致しておりました決心の内容が、ホンの一部分でも校長先生にお察しが付きましたならば、校長先生はその場で気絶なすったかも知れません。
私は先生の平気な、石のようにガッチリしたお顔色を見ておりますうちに、トテモ人間並の手段では校長先生を反省させる事が出来ないと深く深く思い込みました。私が火星から来た女なら校長先生は土星から降ってお出でになった超特級の悪魔に違いないと気が付きましたから、ドンナ事があっても間違いない……そうして先生をドン底まで震え上らせる手段を考えなければならぬ……殺して上げるくらいでは追い付かない……この地球表面上が、校長先生に取っては生きても死んでもおられない、フライ
私は微笑を含みながら静かに立ち上って教室を出ました。そうすると入口で様子を聞いておられたらしい虎間デブ子先生にバッタリ出会いましたが、私はモウすっかり落ち着いておりましたから、何も知らん顔で丁寧にお辞儀をして階段を降りて行きました。あとで校長先生と虎間先生が何か御相談をしてお出でになるようでしたが、そんな事はもう問題ではありませんでした。
階下の待合室になっている裁縫室に入って行きました私は、卒業生仲間のお話の中に交って一緒に笑ったり、お菓子を頂いたり何かして一時間余りを過しましたが、私があんなに打ち解けて皆様と一緒に愉快そうに
それから間もなく始まった謝恩会の模様を、私はすこし詳しく書かなければなりません。それはこの世に又とない校長先生の悪徳を、眼も
最初に全校の生徒の「君が代」の合唱がありましたが、その純真な、荘厳この上もない
それからその次に、父兄代表として視学官の殿宮さんが壇上にお立ちになった時の演説のお立派でしたこと。校長先生の御高徳を、
校長先生の銅像の寄付金の事に就いて、教頭の小早川先生が報告をなすった後に、卒業生代表の殿宮アイ子さん……まだ何も御存じないアイ子さんが、集まったお金の全額の目録を捧げられた時の、校長先生の平気な、すこし嬉しそうなお顔……。
それから川村書記さんの事務報告に続いて、校長先生が感謝の演説をなされました。そのお言葉の涙ぐましかったこと……その真情の籠もっていたこと……そのお姿の
「私は自分の子というものを一人も持ちません。ですから、いつも皆様を私のホントウの子供と思っております。……この五年の間にお名前から、お顔から、お心持までも一々記憶して、何の
……申すまでもなく人生は戦場であります。この社会は現在、あらゆる素晴らしい科学文明の力で、かくも美しく飾り立てられているのでありますが、しかしその内実はドンナものかと考えてみますと、ちょうど野生の動植物の世界……ジャングルとか原始林とか、
……度々申しますように、今日までの人類文化の歴史は、男性のための文化の歴史であります。そうしてその男性の歴史というものは個人個人同士の腕力の闘争史から、団体同士の武力の競争時代を経過して参りまして、只今は金銭の闘争時代に入っております。すなわち弓矢鉄砲と名づくる武器が、金銭と名づくる武器に代っただけの時代であります。それでありますからして昔の武力闘争時代に於て、戦争のため、すなわち敵に打ち勝つためには、如何なる
……すなわち現代の男性は、金銭の武器をもって戦うところの、暗黒闘争時代の闘士であります。無良心、無節操なる暴力とか策略とか言うものを平気で、巧みに行ない得る男性が勝者となり、支配者となりまして、そんな事の出来ない善人たちが、劣敗者、弱者となり下って行く証拠が、日常到る処に眼に余るほど満ち満ちているのであります。……ですから世界中が優しい、美しい、平和を愛好する婦人たちの心によって支配される時代は、まだまだ遙かの遠い処に在ると申さねばなりません。
……ですから皆様は、婦人に生まれられた事を喜ばなければなりません。御存じのお方もありましょうが、太閤記の
……ですから皆様は決して恐るる事はありません。私は皆様に平和を
……それは決して困難な事でも、わかり難い事でもありません。家庭に於ける婦人の美しい本能……清らかな愛情は、この男性と戦う唯一、無敵の武器であります。どんなに気の荒い、血も涙もない男性でも、この婦人の底知れぬ忍従と、涯てしもない愛情によって護られた家庭の中に在っては、底の底から安心して平和を楽しむ心になるのであります。そうして知らず知らずのうちに大きな感化を、その心の奥底に植付けられて行くのであります。家庭内に争議を起す婦人は災なる
……私はこの希望一つのために、生涯を
校長先生のお話がここまで参りました時に、満場から湧き起った拍手のたまらない
それから卒業式の時と同様に唄い出されました、涙ぐましい「螢の光」……。
ああ。何と言う感激にみちみちた光景でありましたろう。何という神々しい校長先生のお姿でありましたろう。
その謝恩会がすみますと直ぐに私は、帰り道の途中に在る殿宮視学官様のお宅をお訪ねしました。そうして学校一の美人で、学校一の優等生と呼ばれてお出でになる殿宮アイ子様にお眼にかかりまして、大切な秘密のお話がありますからと申しまして、二人きりで応接間に閉じこもりました。
殿宮アイ子さんは在学中、私の大切な大切な
殿宮アイ子さんはホントにシッカリした方でした。私の話をお聞きになっても、驚きも泣きもなさらないで、美しい唇をシッカリと噛みしめ、張りのある綺麗なお眼を真赤にして輝かしながら、私の長い長いお話をスッカリ受け入れて下さいました。そうして私のお話がすみますと、やっと少しばかりの涙を眼頭にニジませながら、思い詰めたキッパリした口調で言われました。美しい美しい静かなお声でした。
「……ありがとうよ。歌枝さん。お蔭で今まで私にわからなかった事がスッカリわかりましたわ。私が初めて知りました
……ですけど……それはそれとして、大阪へお出でになったらキットおたよりを下さいましね……どうぞ……ね」
そう言ってアイ子さんはタッタ一しずく涙をポトリと落されました。そうしてその涙を拭おうともしないまま走り寄って来て、私の手をシッカリと握り締められました。千万無量の意味の
それで私の
私が大阪に行く事を承知しました時の両親の喜びようと、わざわざ訪ねてお出でになった校長先生のお
けれども私は大阪へ行きませんでした。
謝恩会のあったその日の夕方に、新しい洋装とハンドバッグ一つと言う身軽い
それから私の計画をチットモ御存じのないアイ子さんが是非とも見送ると言って停車場へ見えましたので、仕方なしに大阪へ行くふりをして汽車に乗るには乗りましたが、直ぐに途中の駅から自動車で引き返して、この町の外れのある淋しい宿屋へ泊り込みました。そうして近くの古着屋から買って来ました黒い背広に、黒の鳥打帽、黒眼鏡と言う黒ずくめの服装で、男のような歩き方をしながら、一所懸命に校長先生のアトを
そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、
森の外の国道には、
けれども私が
あの自動車がシボレーのオープンでありました事は、ほんとに天の助けだったかも知れません。その上に私が、偶然に、安全剃刀の刃を用意しておりましたのは、これこそ一つの奇蹟だったかも知れません。ガタガタする車体の中で、メチャメチャに
その穴から片手を突込みました時に、校長先生は、一番左の一番可愛らしい
右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口に
ですからあの山高帽子と花簪は、今でも殿宮アイ子さんのお手許に在るはずです。この手紙を御覧になりましたらば、直ぐにアイ子さんの処へ受け取りに行って御覧なさいませ。どのような劇的シインが展開するか存じませんけれども……。
けれども私のほんとうの目的の仕事はまだまだ残っておりました。それくらいの事で反省なさる校長先生ではないことを、よく存じておりますからね。
「愛子さん……校長先生がホントウに後悔をなすって、お母さんにもお詫びをなすったら、この帽子と花簪を上げて頂戴……それでももし校長先生が受け取りにお出でにならなかったら、この二つの品物は、お母様と御相談なすって、お好きなようにして頂戴……」
そう申し残しますと私は直ぐに別の
……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。
私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の
ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋の
それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かに
そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂に
温泉ホテルの三階は、全体が一つの眺望用のサロンみたいになっているのでした。雨模様で蒸暑かったせいでしたろう。窓の上側が全部、開放して在りましたので、
私は、私の想像以上だったあの時の、あの部屋の中の有様を書く勇気を持ちません。ただ必要なだけ書いて置きます。
大きな
私は暫くの間、茫然とそんな光景を
「現代の文明は男性のための文明」と仰言った校長先生の演説のお言葉を思い出しながら、こうした妖怪じみた人間と美人たちの乱舞を生まれて初めて眼の前に見て、気が遠くなるほど呆れ返っておりましたが、やがて吾に帰りました私は、屋根の端に身を逆様にしながら、落ち着いてコダックの焦点を合わせました。そうして、わざと蝋マッチを一本パチンと擦ったアトで、皆様がこちらをお向きになった瞬間を見澄まして、
私が
「何だったろう、今のは……」
「恐ろしく光ったじゃないか」
「パチパチと言ったようだぜ」
「星が飛んだんだろう」
「馬鹿な。今夜は曇っているじゃないか」
「イヤ。星でも雲を突き抜いて流れる事があります。光が烈しいですから、直ぐ鼻の先のように見える事があります。私は一度見ましたが……小さい時に……」
「今夜は何か知らん妙な事のある晩だな」
「ちょうど窓の直ぐ外のように見えたがのう」
そう言って校長先生が、ノソノソと窓の処へ近付いてお出でになるようでした。
その瞬間にスッカリ面白くなりました私は、またも一つの
写真機と手提袋を深い雨
「森栖先生エ――エ――エエエ……」
部屋の中から流れ出る明るい電燈の光線で、窓の外の私の顔を発見された校長先生は、窓の
「……ホホホ……ハハハハハハ……ヒヒヒヒヒヒ……」
部屋の中が、私の笑い声に連れて総立ちになりました。
「あれエ――ッ……」
「きゃあア――あッ……」
「……誰か来てエ――ッ……」
と口々に悲鳴をあげながら逃げ迷うて、他人の着物を引抱えながら馳け出して行く
……真夜中に三階の屋根の軒先から、逆様に髪毛を垂らして笑っている女の首を御覧になったら、誰でも人間とは思われないでしょう……。
それが間もなくシインと
「ホホホホホ……オホホホホホホ……私が誰だか、おわかりになりまして……?……校長先生……殿宮さん……川村さん……火星の女ですよ……オホホホホホホホホ……イヒヒヒヒヒヒヒヒ……アハハハハハハハハ……」
校長先生は眼の玉を白くして、舌をダラリと垂らしたまま、大地震に会った仏像のように、仰向け様にドターンと引っくり返ってお
私はもうその時に、立ち上れるかどうかわからないくらい、疲れている事に気が付きましたが、しかし、いつまでも休んでおる事は出来ませんでした。逃げた芸妓さん達が、着物を着てからホテルの人に知らせたものと見えまして、下の方で誰だかガヤガヤと騒ぎまわる声がしました。それに連れて古ぼけた非常
大切な写真機を入れた手提袋をシッカリと口に
宿の私の部屋にはチャント床が取ってありました。その枕元に苦い苦いお薬のように出切った、つめたいお茶が置いてありましたので、私は坐る間もなくガブガブと二、三杯、立て続けに飲みましたが、その
その晩のフィルムの現像は百パーセントに都合よく行きました。小さいフィルムではありますが、浅ましい姿の三人の男性と五人の女性がビックリしてこちらを向いておる光景が、とてもハッキリと感じておりまして、引き伸ばしてみる迄もありませんでしたので、こんな事ならば、あんなに骨を折って、帽子だの花簪だのを後日の証拠に奪い取るような冒険をしなくともよかったのにと、一人で可笑しくなってしまいました。そうしてその晩から翌る日の正午近くまで私は、大満足のうちに骨を休めました。
きょうの
私はこの手紙を三通とも別々の宛名の封筒に入れて、お頼みした通りの順序に出して下さるように書添えたものを同封にして、明二十六日の晩、町中が寝鎮まっている時刻に、愛子さんのお宅の郵便受
それからズット以前に、学校の化学教室から盗んで置きました××××と脱脂綿と、昨日買って置きました△△△△と△△△とを持って、あの母校の思い出の
あそこに積んで在る
森栖校長先生……。
私はこうして貴方から女にして頂いた御恩をお返し致します。それと一緒に、私の愛する心からの愛人、殿宮アイ子さんに、ほんとうの意味の親孝行をさせて上げたいのです。私はこうして、すべてを清算しなければ、モトの虚無に帰る事が出来ないのです。
どうぞ火星の女の置土産、黒焦少女の屍体をお受け取り下さい。
私の肉体は永久に貴方のものですから……ペッペッ……。
底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
1976(昭和51)年11月30日初版発行
1990(平成2)年2月20日26版発行
入力:ryoko masuda
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月12日公開
2006年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
小書き平仮名か 129-5