二人は
『あ、あ。』
と云ふ吐息を女はした。
『どうしたの。』
男は顔を妻に向けた。
『あ、あ。』
今度は甘えたやうな吐息が女の口から出て、そして媚びる目附で男を見た。帰りたければ帰れば好いぢやないかと一寸強く威された時、一先づ負けて出る何時ものそれが、間違つて一足先きに出たのだと女は自身の様子に気がついた。
『淋しいのね。』
『ふむ。』
と云つたまま男はまた書物の上に目を落した。
『煙草を頂戴。』
『さあ。』
男は藤色のルバンの箱を左の手で持つて出した。
『厭、火を附けてよ。』
舌打ちをしながらルバンを一本出して口に銜へて、手元にあつた燐寸の大箱から正臙脂色のじくに黄な薬が附けてある花の蘂のやうな燐寸を一本出して擦つた。女は黙つて見て居る。火を附けた煙草を男は無意識に其儘飲んでまた本に読入つた。女はそつと立つてルバンの箱と燐寸とを盗むやうに長椅子の上に取つて来た。
『上げやう。』
気の附いた男が煙草を口から取つて見せるのを
『いいのよ。』
首を振つて女は見せた。
『失敬した。』
『あんなことを云つて、いいんですよ。』
『おまへ昨日あたりからおとなしくなつたね。』
と云つて男は本を下向けた。
『さう。』
女の目には涙がいつぱい溜つた。
『おまへがさうして居ると日本に居た時の夫婦のやうな気がするよ。』
そんなことはない、私はさう思はないとか何とかまたあらがひたい気もありながら、どうしたのかさうした言葉の見つからないのを煙草を飲むのに紛らして黙つて居た。
『この煙草は辛くていやだわ。』
こんなことを女が云つた。
『スリイカツセルでも買つてこようか。』
『いいんですよ。』
女は笑顔を作つて見せた。何やらいぢらしい気がして男は長椅子の女の横に来て腰かけた。女はまたむらむらと喧嘩がして見たくなつた。
『やつぱり
『困つたものだね。』
『飲んで頂戴、もう厭になつたから。』
と云つて、女は煙草を男に渡さうとした。
『お捨てよ。僕もいやだ。』
女は立つて机の上の灰落しに煙草を置きに行つて其儘窓の方へ行つた。戸を前に引いて丁度胸の辺りまである鉄の
『一寸来て御覧なさいよ。あなた。』
『何があるのだ。』
『皆庭へ出て居ますわ。』
『さうかい。』
男は気のない声で云つて居た。
『下の西班牙人は綺麗ね。』
『さうかね。』
『あなたよく知らないのですか。』
『ときどき見る事があるやうだけれど。』
時々男が見ると云ふのは、この家の中では一番贅沢な飾りのされてある下の広間の戸口を開けたままで、寝台の上に手や肩を出してだらしなく寝そべつた時のあの女なのであらうかなどと女は思つて居た。下で木戸のがたんと閉る音がして、早足で敷石の上を歩いて来る靴の音がするので、女はまた顔を外へ出した。
『あら、奥さん、いいお帽子。』
と西斑牙女がはしやいだ声を低い金網垣の外へ掛けた。四人の目の前を
『今日は。』
聞えない程に云つて逃げるやうに薔薇の帽が上り口の石段を駆け上つた。
『あら、キキですわ。』
驚いたやうに女が云つた。
『キキが珍しいのかい。』
と云つて、男は立ち上らうとした。
『だつて、だつてもうお
『嘘だらう。』
靴を穿いた男は草履穿の背の低い女の肩に手を掛けて下を覗いた。
『もう入つちやつたわ。どうしたのでせうね、それに好いなりをしてたわ。』
『少し妙だね。』
男は下から目を上げたルイと顔を見合せて
『今日は。[#「。」は底本では脱落]』
と云つて、首を一寸下げた。女はすつと窓から身を引いた。机の前の今迄男の居た椅子に掛けて
『踊子は綺麗でせう。』
と女は云ふ。
『さうだね、目が悪いから輪廓位しか見えないけれど。』
男が何時も自分に対して用心深く遠い所に線を張つて居るのが憎いと女は思つた。
『二階の伊太利亜人はどう。』
『あの人も出て居るかい。』
『出て居ないでせうよ。』
女は口早に云つた。
『今夜はハルギエエルへ行きませうか、あなた。』
『行つても好いよ。おまへが行きたければ。』
『そんなことをお云ひになると私の恋人でも彼処にあるやうね。』
男は長椅子に掛けて、其処にある煙草を飲まうとして居た。
『さう岸の禿頭だの、後藤の胡麻塩だの。』
『結構ですね、自分が一番立派だと思つて居らつしやるのだから。』
女も長椅子の方へ行つた。とんとんと扉を叩く音がする。
『お入り。』
と云ふと、女中のマリイがにたにたと笑つて首を振りながら入つて来た。掃除に廻つて来たのである。
『おいキキの奥さんはどうしたの。』
また窓の所に行つて立つて居た男は、赤い羽蒲団に手を掛けてめくりかけたマリイに云つた。
『キキ。』
マリイが問ひかへした。
『さう、さう。』
男が云ふと、其間休めて居た手を動かして蒲団を上げながら、マリイはをかしくてならないと云ふ表情を顔から頸つきにまで現はさうとした。
『どうして居るのだい。』
マリイは唇を閉ぢて点頭きながら、左隣の方の壁を指ざした。
『隣に居るの、此頃は。』
『さう、さう。』
とマリイが云ふ。
『あら。』
と云つて女は男と顔を見合はせた。
午後(ごご)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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