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邪宗門(じゃしゅうもん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/16 9:03:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



        三十二

 するとその印を結んだ手の中(うち)から、俄(にわか)に一道の白気(はっき)が立上(たちのぼ)って、それが隠々と中空(なかぞら)へたなびいたと思いますと、丁度僧都(そうず)の頭(かしら)の真上に、宝蓋(ほうがい)をかざしたような一団の靄(もや)がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気(うんき)の模様が、まだ十分御会得(ごえとく)には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂(みどう)の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空(こくう)に何やら形の見えぬものが蟠(わだか)まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
 御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾(みす)を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川(よかわ)の僧都(そうず)が、徐(おもむろ)に肉(しし)の余った顎(おとがい)を動かして、秘密の呪文(じゅもん)を誦(ず)しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神(きんこうじん)が、勇ましく金剛杵(こんごうしょ)をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞(ひぶ)する容子(ようす)は、今しも摩利信乃法師(まりしのほうし)の脳上へ、一杵(いっしょ)を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
 しかし当の摩利信乃法師は、不相変(あいかわらず)高慢の面(おもて)をあげて、じっとこの金甲神(きんこうじん)の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味(ぶきみ)な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪(こら)えるように、漂って居(お)るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川(よかわ)の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠(ねんず)を振りながら、
「叱(しっ)。」と、嗄(しわが)れた声で大喝しました。
 その声に応じて金甲神(きんこうじん)が、雲気と共に空中から、舞下(まいくだ)ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰(あられ)のように、戞然(かつぜん)と四方へ飛び散りました。
「御坊(ごぼう)の手なみはすでに見えた。金剛邪禅(こんごうじゃぜん)の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
 勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨(とき)をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川(よかわ)の僧都が、どんなに御悄(おしお)れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反(そ)らせて、
「横川(よかわ)の僧都は、今天(あめ)が下(した)に法誉無上(ほうよむじょう)の大和尚(だいおしょう)と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏(くら)まし奉って、妄(みだり)に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧(かたくそう)じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類(たぐい)、釈教は堕獄の業因(ごういん)と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立(おぼした)たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人(なんびと)なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目(ま)のあたりに試みられい。」と、八方を睨(にら)みながら申しました。
 その時、また東の廊に当って、
「応(おう)。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下(おお)りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。

(未完)
(大正七年十一月)




 



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996年(平成8)7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月~11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年1月31日修正
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