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家なき子(いえなきこ)02

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-1 11:48:06 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     植木屋


 そのあくる日ヴィタリスをほうむらなければならなかった。アッケンはわたしをお葬式そうしきれて行くやくそくをした。
 けれどその日わたしは起き上がることができなかった。夜のうちにひじょうに具合が悪くなった。ひどいねつが出て、はげしい寒けを感じた。わたしのむねの中は、小さなジョリクールがあのばん木の上でごしたとき受けたと同様、きつくやうな熱気ねっきを感じた。
 実際じっさいわたしは胸にはげしい※(「火+欣」、第3水準1-87-48)きんしょう(焼きつくような感じ)を感じた。病気は肺炎はいえんであった。それはすなわちあのばん気のどくな親方とわたしがこの門口かどぐちにこごえてたおれたとき、寒気のために受けたものであった。
 でもこの肺炎はいえんのおかげで、わたしはアッケン家の人たちの親切、とりわけてエチエネットの誠実せいじつをしみじみ知ったのであった。びんぼうなうちではめったに医者をぶということはないが、わたしの容態ようだいがいかにも重くって心配であったので、わたしのため特別とくべつに、習慣しゅうかんのためいつか当たり前になっていた規則きそくやぶってくれた。呼ばれて来た医者は長い診察しんさつをしたり、細かい容態を聞いたりするまでもなく、いきなり病院へ送れと言いわたした。
 なるほどこれはいちばん簡単かんたんで、手数がかからなかった。でもこの父さんは承知しょうちしなかった。
「ですがこの子はわたしのうちの門口でたおれたんですから、病院へはやらずに、やはりわたしどもが看病かんびょうしなければなりません」とかれは言った。
 医者はこの因縁論いんねんろんに対して、いろいろうまいことばのかぎりをつくしていたが、承知しょうちさせることができなかった。かれはわたしをどうしても看病しなければならないと考えた。そしてまったく看病してくれた。
 こうしてありあまる仕事のあるうえ、エチエネットにはまた一つ、看護婦かんごふの役がえた。でもセン・ヴェンサン・ド・ポールのあまさんがするように、親切にしかも規則きそく正しく看護かんごしてくれて、けっしてかんしゃく一つ起こさないし、なに一つ手落ちなしにしてくれた。かの女が家事のためにどうしてもついていられないときには、リーズが代わってくれた。たびたびねつにうかされながら、わたしは寝台ねだいのすそで不安心ふあんしんらしい大きな目をわたしに向けているかの女を見た。熱にうかされながらわたしはかの女を自分の守護天使しゅごてんしであるように思って、天使に向かって話をするように、自分ののぞみやねがいをかの女に打ち明けた。このときからわたしは我知われしらずかの女を、なにか後光につつまれた人間以上いじょうのものに思うようになり、それが白い大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれわれただの人間と同様にしていることをふしぎに思ったりした。
 わたしの病気は長かったし、重かった。こころよくなってはたびたびあともどりをしたので、ほんとうの両親でもいやきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはどこまでもがまん強く誠実せいじつをつくしてくれた。いくばんかわたしは肺臓はいぞういたんで、息がつまるように思われて、ねむられないことがあった。それでアルキシーとバンジャメンが代わりばんこに、寝台ねだいのそばにつききりについていてくれた。
 ようようすこしずつなおりかけてきた。でも長い重病のあとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グラシエールの牧場ぼくじょうが青くなり始めるまで待たなければならなかった。
 そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになって、ビエーヴル川の岸のほうへわたしを散歩さんぽれて行ってくれた。真昼まひるの日ざかりに、わたしたちはうちを出て、カピを先に立てて、手を組みながらそろそろと歩いた。その年の春はあたたかで、日和ひよりがよかった。少なくともわたしは暖かな心持ちのいい記憶きおくを持っている。だから同じことであった。
 このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で、パリの人にはあまり知られていなかった。このへんに小さな谷があるということだけはぼんやり知られていたが、その谷にそそぐ川はビエーヴル川であるから、この谷はパリの郊外こうがいではいちばんきたない陰気いんきな所だと言いもし、しんじられもしていた。だがそんなことはまるでなかった。うわさほど悪い所ではなかった。ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末ばすえで、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジには自然しぜんのおもむきがあった。少なくともわたしのいたじぶんには、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を水が流れていた。その両岸には緑の牧場ぼくじょうが、人家や庭のある小山のほうまでだんだん上りにつづいていた。春は草が青あおとしげって、白い小ぎくが碧玉へきぎょくをしきつめたもうせんの上に白い星をちりばめていたし、芽出めだしやなぎやポプラの若木わかぎからはねっとりとやにが流れていた。そうしてうずらや、こまどりや、ひわやなんぞの鳥が、ここはまだいなかで、町ではないというように歌を歌っていた。
 これがわたしの見た小さな谷の景色けしきであった――その後ずいぶんわったが――それでもわたしの受けた印象いんしょうはあざやかに記憶きおくのこっていて、ついきのうきょうのように思われる。わたしに絵がかけるなら、このポプラの林の一まいの葉をものこすことなしにえがき出したであろう――また大きなやなぎの木を、頭の先の青くなった、とげのあるさんざしといっしょにかいたであろう。それはやなぎのかれたようなみきの間に根をっていた。また砲台ほうだい傾斜地けいしゃちをわたしたちはよく片足かたあしで楽にすべって下りた――それもかきたい。あの風車といっしょにうずらおかの絵もかきたい――セン・テレーヌ寺の庭にむらがっていたせんたく女もえがきたい。それから川の水をよごれくさらせていた製革せいかく工場もかきたい――
 もちろんこういう散歩さんぽのおり、リーズはものは言えなかったが、きみょうなことに、わたしたちはなにもことばの必要ひつようはなかった。わたしたちはおたがいにものを言うことなしに、了解りょうかいし合っているように思われた。
 そのうちにわたしにも、みんなといっしょにはたらけるだけじょうぶになる日が来た。わたしはその仕事を始める日を待ちかねていた。それはわたしのためにこれだけつくしてくれた親切な友だちに、こちらからもなにかしてやりたいと思っていたからであった。わたしはこれまで仕事らしい仕事をしたことがなかった。長い流浪るろうの旅はつらいものではあるが、どうでもこれだけ仕上げなければというように、いっしょうけんめいりこんでする仕事はなにもなかった。けれど今度こそわたしは、じゅうぶんにはたらかなければならないと感じた。少なくともぐるりにいる人たちをお手本にして、元気を出さなければならないと思った。このごろはちょうどにおいあらせいとうがパリの市場に出始める季節きせつであった。それには赤いのもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その色によって分けられて、いくつかのフレームに入れられてあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列にならんでみごとであった。夕方フレームのふたをするじぶんには、花から立つかおりが風にふくれていた。
 わたしにあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの力に相応そうおうしたものであった。毎朝しもが消えると、わたしはガラスのフレームを開けなければならなかった。夜になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければならなかった。昼のうちはわらのおおいで日よけをしてやらなければならなかった。これはむずかしい仕事ではなかったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガラスを毎日二度ずつ動かさなければならなかった。
 このあいだリーズは灌水かんすいに使う水上みずあ機械きかいのそばに立っていた。そして皮のマスクで目をかくされた老馬ろうばのココットが、回しつかれて足がはたらかなくなると、かの女は小さなむちをふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこの機械が引き上げたおけを返す、もう一人の兄弟はお父さんの手伝てつだいをする。こんなふうにしててんでに自分の仕事を持っていて、むだに時間をついやすものはなかった
 わたしは村で百姓ひゃくしょうはたらくところを見たこともあるが、ついぞパリの近所の植木屋のような熱心ねっしんなり勇気ゆうきなり勤勉きんべんなりをもってはたらいていると思ったことはなかった。実際じっさいここではみんないっしょうけんめい、朝は日の出まえから起き、ばんは日がくれてあとまでいっぱいの時間を使いきってのちに寝台ねだいに休むのである。わたしはまた土地をたがやしたことがあったが、勤労きんろうによって土地にまるで休憩きゅうけいをあたえないまでに耕作こうさくつづけるということを知らなかった。だからアッケンのお父さんのうちはわたしにとってはりっぱな学校であった。
 わたしはいつまでも温室のフレームばかりには使われていなかった、元気が回復かいふくしてきたし、自分もなにか地の上にまいてみるということに満足まんぞくを感じてきた。そのたねを出すのを見るのが、いっそうの満足であった。これはわたしの仕事であった。わたしの財産ざいさん、わたしの創造そうぞうであった。だからよけいわたしに得意とくいな感じを起こさせた。
 それで自分がどういう仕事に適当てきとうしているかがわかった。わたしはそれをやってみせた。そのうえよけいわたしをゆかいにしたことは、まったくこれでは骨折ほねおりのかいがあると感じたことであった。
 この新しい生活はなかなかわたしには苦しかったが、しかしこれまでの浮浪人ふろうにんの生活とても似つかない労働ろうどうの生活が案外あんがい早くからだにれた。これまでのように自由気ままに旅をして、なんでも大道を前へ前へと進んで行くほかに苦労くろうのなかったのに引きかえて、いまは花畑のかこいの中にじこめられて、朝からばんまであらっぽくはたらかなければならなかった。背中せなかにはあせにぬれたシャツを着、両手に如露じょろを持って、ぬかるみの道の中を、素足すあしで歩かなければならなかった。でもぐるりのほかの人たちも、同じようにあらっぽい労働ろうどうをしていた。お父さんの如露はわたしのよりもずっと重かったし、そのシャツはわたしたちのそれよりも、もっとびっしょりあせにぬれていた。みんな平等であるということは、苦労くろうの中の大きな楽しみであった。そのうえわたしはもうまったくうしなったと思ったものを回復かいふくした。それは家族の生活であった。わたしはもうひとりぼっちではなかった。世の中にてられた子どもではなかった。わたしには自分の寝台ねだいがあった。わたしはみんなの集まる食卓しょくたくに自分のせきを持っていた。昼間ときどきアルキシーやバンジャメンがわたしにげんこつをみまうこともあったが、わたしはなんとも思わなかった。またわたしが打ち返しても、かれらはなんとも思わなかった。そうしてばんになれば、みんなスープを取りいて、また兄弟にも友だちにもなるのであった。
 ほんとうを言うと、わたしたちははたらいてつかれるということはなかった。わたしたちにも休憩きゅうけいの時間も遊ぶ時間もあった。むろんそれは短かったが、短いだけよけいゆかいであった。
 日曜の午後には家についているぶどうだなの下にみんな集まった。わたしはその週のあいだかけっぱなしにしておいたれいのハープをはずして持って来る。そうして四人の兄弟姉妹しまいにおどりをおどらせる。だれもかれもダンスを習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは一度ミルコロンヌで婚礼こんれい舞踏会ぶとうかいへ行って、コントルダンスのしかただけ多少正確せいかく記憶きおくしていた。その記憶がかれらの手引きであった。かれらはおどりつかれると、わたしに歌のおさらいをさせる。そうしてわたしのナポリ小唄こうたはいつも決まって、リーズの心を動かさないことはないのであった。
 このおしまいの一せつを歌うとき、かの女の目はなみだにぬれないことはなかった。
 そのとき気をまぎらすために、わたしはカピと道化芝居どうけしばいをやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日であった。その日はかれにむかしのことを思い出させた。それで一とおり役目を終わると、かれはいくらでもくり返してやりたがった。
 二年はこんなふうにしてぎた。お父さんはわたしをよくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシャトードーやの花市場へれて行ったり、よく花を分けてやる花作りの家に連れて行ったので、わたしもすこしずつパリがわかりかけてきた。そうしてそこはわたしが想像そうぞうしたように大理石や黄金の町ではなかったが、あのときはじめてシャラントンやムフタールからはいって来たとき見て早飲みこみに思ったようなどろまみれの町でもないことがわかった。わたしは記念碑きねんひを見た。その中へもはいってみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、歩いてみた。銅像どうぞうも見た。群衆ぐんしゅうの人波にもまれて、感心して立ち止まったこともあった。これで大都会というものがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼできてきた。
 幸いにわたしの教育はただ目で見る物から受けただけではなかった。パリの町中まちなか散歩さんぽしたりかけ歩いたりするついでに、ぐうぜんおぼえるだけではなかった。このお父さんはいよいよ自前じまえで植木屋を開業するまえに植物園の畑ではたらいていた。そこには学者たちがいて、かれにしぜん、物を読んでおぼえたいという好奇心こうきしんを起こさせた。それでいく年かのあいだためた金を書物を買うために使ったし、その本を読むために休みの時間をついやした。けれど結婚けっこんして子どもができてからは、休みの時間がごくまれになった。なによりもその日その日のパンをもうけなければならなかった。しぜん書物からはなれたが、てられたわけでもなく、売りはらわれたわけでもなかった。わたしがはじめてむかえた冬はたいへん長かったし、花畑の仕事はほとんど中止同様に、少なくとも何か月のあいだの仕事はひまであった。それでわたしたちはかこんで、いっしょにくらすばんなどには、そういう古い本をたんすから引き出して、めいめいに分けて読んだ。それはたいてい植物学の本か植物の歴史れきしのほかには、航海こうかい関係かんけいした本であった。アルキシーとバンジャメンはお父さんの学問の趣味しゅみを受けついでいなかったから、せっかく本を開けても三、四ページもめくるとすぐいねむりを始めるのであった。わたしはしかしそんなにねむくはなかったし、ずっと本がきだったので、いよいよねどこにはいらなければならない時間まで読んでいた。こうなるとヴィタリスの手ほどきをしてくれた利益りえきがむだにはならなかった。わたしはねながらそれをひとごとに言って、かれのことをありがたく思い出していた。
 わたしがものを学びたいというのぞみは、はしなくお父さんに、自分もむかし本を買うために毎朝朝飯あさめしのお金を二スー倹約けんやくしたむかしを思い出させた。それでたんすの中にあった書物のほかの本までパリからわざわざ買って来てくれた。その書物のえらかたはでたらめか、さもなければ表題ひょうだいのおもしろいものをつかみ出して来るにすぎなかったが、やはり書物は書物であった。これはそのじぶん秩序ちつじょもなく、わたしの心にはいっては来たが、いつまでも消えることはなかった。それはわたしに利益りえきのこした。いいところだけが残った。なんでも本を読むのは利益だということは、ほんとうのことである。
 リーズは本を読むことを知らなかったが、わたしが一時間でもひまがあれば、本と首っぴきをしているのを見て、なにがそんなにおもしろいのだろう、そのわけを知りたがっていた。はじめのうちはかの女も自分と遊ぶじゃまになるので、本を取り上げたが、それでもやはりわたしが本のほうへ心をひかれる様子を見て、今度は本を読んで聞かせてくれと言いだした。これがわたしたちのあいだの新しいむすになった。いったいこの子の性質せいしつはいつも物わかりがよくって、つまらない遊びごとやじょうだんごとには身のはいらないほうであったから、やがてわたしが読んで聞かせることに楽しみを感じもし、心のやしないをえるようになった。
 何時間もわたしたちはこうやってごした。かの女はわたしの前にすわって、本を読んでいるわたしから目をはなさずにいた。たびたびわたしは自分にわからないことばなりなりにぶつかると、ふとやめてかの女の顔を見た。そういうときわたしたちはかなりしばらく考え出すために休む。それを考えてもやはりわからないとき、かの女はあとをと言いたいような身ぶりをしてあとを読む合図をする。わたしはかの女にまた絵をかくことを教えた。まあやっと図画とでもいうようなことを教えた。これは長いことかかったし、なかなかむずかしかったがどうやら目的もくてきたっしかけた。むろんわたしはりっぱな先生ではなかった。でもわたしたちは力を合わせて、やがて先生と生徒せいとの美しい協力一致きょうりょくいっちから、ほんとうの天才以上いじょうのものができるようになった。かの女はなにをかこうとしたか人にもわかるようなもののかけたとき、どんなにうれしがったであろう。アッケンのお父さんはわたしをだいて、わらいながら言った。
「そらね、わたしがおまえを引き取ったのはずいぶんいいじょうだんであった。リーズはいまにきっとおまえにお礼を言うよ」
「いまに」とかれが言ったのは、やがてかの女が口がきけるようになってということであった。なぜならだれもかの女が口がきけるようになろうとは思わなかったが、お医者たちはいまはだめでもいつか、なにかひょっとした機会で口がきけるようになるだろうと言った。
 なるほどかの女はわたしが歌を歌ってやると、やはりさびしそうな身ぶりで「いまにね」とそういう心持ちをあらわした。かの女は自分にもハープをひくことを教えてくれとのぞんだ。もうさっそくかの女の指はずんずんわたしのするとおりに動くことができた。もちろんかの女は歌を歌うことを学ぶことはできなかった、これをひじょうに残念ざんねんがっていた。たびたびわたしはかの女の目になみだが流れているのを見た。それがかの女の心の苦しみを語っていた。でもやさしい快活かいかつ性質せいしつからその苦しみはすぐに消えた。かの女は目をふいて、しいて微笑びしょうをふくみながら、こう言うのであった。
「いまにね」
 アッケンのお父さんには、養子ようしのようにされ、子どもたちには兄弟のようにあつかわれながら、わたしは、またしてもわたしの生活を引っくり返すような事件じけんはもう起こらずに、いつまでもグラシエールにいられそうには思えなかった。それはわたしというものが、長く幸福にくらしてゆくことができないたちで、やっと落ち着いたと思うときには、それはきっとまた幸福からほうり出されるときであって、自分ののぞんでもいない出来事のためにまたもやわった生活にとびこまなければならなくなるのであった。


     一家の離散りさん

 このごろわたしは一人でいるとき、よく考えてはひとごとを言った。
「おまえはこのごろあんまりよすぎるよ。これはどうも長続ながつづきしそうもない」
 でもなぜ不幸ふこうが来なければならないか、それをまえから予想よそうすることはできなかった。だがどのみち、それのやって来ることはうたがうことのできない事実のように思われてきた。
 そう思うと、わたしはたいへん心細かった。しかし、一方から見ると、その不幸ふこうをどうにかしてさけるようにいっしょうけんめいになるので、しぜんにいいこともあった。なぜというに、わたしがこんなにたびたび不幸な目に会うのは、みんな自分の過失かしつから来ると思って、反省はんせいするようになったからである。
 でもほんとうは、わたしの過失ではなかった。それをそう思ったのは、自分の思いごしであったが、不幸ふこうが来るという考えはちっともまちがいではなかった。
 わたしはまえに、お父さんがにおいあらせいとう栽培さいばいをやっていたと言ったが、この花を作るのはわりあいに容易よういで、パリ近在きんざいの植木屋はこれで商売をする者が多かった。その草は短くって大きく、上から下までぎっしり花がついていて、四、五月ごろになると、これがさかんにパリの市場に持ち出されるのであった。ただこの花でむずかしいのは、芽生めばえのうちから葉の形で八重やえ一重ひとえを見分けて、一重をてて八重をのこすことであった。この鑑別かんべつのできる植木屋さんはごくわずかで、その人たちが家の秘法ひほうにして他へもらさないことにしてあるので、植木屋仲間なかまでも、特別とくべつにそういう人をたのんで花を見分けてもらわなければならなかった。それでたのまれた人はほうぼうの花畑を巡回じゅんかいして歩いて、いろいろと注意をあたえるのであった。これをレセンプラージュと言っていた。お父さんはパリではこの道にかけて熟練じゅくれんのほまれの高い一人であった。それでその季節きせつにはほうぼうからたのまれて、うちにいることが少なかった。そしてこの季節が、わたしたちとりわけエチエネットにとって、いちばん悪いときであった。なぜというと、お父さんは一けん一けん回って歩くうちに、ほうぼうでお酒を飲ませられて、夜おそく帰るじぶんには、まっかな顔をして、したも回らないし、手足もぶるぶるふるえていた。
 そんなとき、エチエネットは、どんなにおそくなっても、きっとねずに待っていた。わたしがまだねいらずにいるか、または帰って来る足音で目をましたときには、部屋へやの中から二人の話し声をはっきり聞いた。
「なぜおまえはねないんだ」とお父さんは言った。
「お父さんがご用があるといけないと思って」
「なんだと。そんなことを言って、このおじょうさんの憲兵けんぺいが、わたしを監視かんしするつもりだろう」
「でもわたしが起きていなかったら、だれとお話しなさるおつもり」
「おまえ、わたしがまっすぐに歩けるか見てやろうと思っているんだな。よし、この行儀ぎょうぎよくならんだしき石を一つ一つふんで、子どもの寝部屋ねべやまで行けるかどうか、かけをしようか」
 不器用ぶきような足音が台所じゅうをしばらくがたつかせると、やがてまたしずかになった。
「リーズはごきげんかい」とお父さんは言った。
「ええ。よくねていますわ。どうかお静かに」
「だいじょうぶさ。わたしはまっすぐに歩いているのだ。なにしろおじょうさんたちがやかましいから、お父さんもせいぜいまっすぐに歩かなくてはならぬ。リーズは、わたしが夕飯ゆうはんのときいなかったのを見て、なんとか言いはしなかったかい」
「リーズはお父さんのせきを、なんだか見ていました」
「なんだ、わしの席を見ていたと」
「ええ」
「何べんもかい。何べんぐらい見ていた」
「それはたびたび」
「それからどうしていたね」
「『お父さんはいらっしゃらないのね』と言いたいような目つきをしていました」
「じゃあリーズは、わたしがそこにいないのはなぜだとたずねたろう。そしておまえは、わたしがお友だちのうちに行っていると答えたろう」
「いいえ、なんにもたずねませんでした。わたしもなにも言いませんでした。あの子はでもお父さんの行っていらっしゃる所をようく知っていますよ」
「なに、あの子が知ってるって。あの子が……もう早くからねこんでいるかい」
「いいえ、つい十五分ほどまえねたばかりです。お父さんのお帰りを待ちかねていたようです」
「で、おまえはどう思っていたえ」
「わたしはリーズが、お父さんのお帰りのところを見なければいいと思っていました」
 しばらく沈黙ちんもくつづいた。
「エチエネット、おまえはいい子だ。あすはわたしはルイソーのうちへ行く。わたしはちかって夕飯ゆうはんにはきっと帰る。おまえが待っていてくれるのが気のどくだし、リーズが心配しいしいねるのがかわいそうだから」
 だがやくそくも誓言せいごんもいっこう役には立たなかった。かれはちっとも早く帰ったことはなかった。一ぱいでもお酒がのどにはいったら、もうめちゃめちゃであった。うちの中でこそ、リーズがご本尊ほんぞんだが、外の風に当たるともうわすれられてしまった。
 でもこんなことはしじゅうではなかった。レセンプラージュの季節きせつがすむと、もうお父さんは外へ出ようとも思わない。むろん一人で居酒屋いざかやへ行く人ではなかった。そんなむだな時間を持つ人ではなかった。
 においあらせいとう季節きせつがすむと、今度はほかの花を作らなければならない。植木屋の花畑は一年じゅうむだに土地の遊んでいるひまはなかった。一つの花を売ってしまうとほかの花を売り出す仕度をしなければならなかった。セン・ピエールだの、セン・マリだの、セン・ルイだの、そういう年じゅうのいわにはおびただしい花が町へ出る。ピエールだの、マリだの、ルイだのとばれる名前の人たちの数はおびただしいもので、したがってそういういわには、花たばやら花びんを買って、名づけ親やお友だちにおくっておいわいをしなければならない人がかぎりなく多かった。
 だから、この祝い日の前夜には、パリの通りは花でいっぱいになる。ふつうの店や市場だけではない。往来おうらいのすみずみ、家いえの石段いしだん、そのほかちょっとした店を開くことのできる場所にはきっと花を売っていた。
 アッケンのお父さんは、においあらせいとう季節きせつがすむと、七月、八月のいわの用意にせっせとかかっていた。とりわけ八月には、セン・マリ、セン・ルイの大祝日だいしゅくじつがあるので、これを当てこんで何千本というえぞぎく、フクシア、きょうちくとうなどを温室や温床おんしょうにはいりきらないほどしこんでおいた。これらの花はどれも、ちょうどその当日に早すぎずおそすぎず花ざかりというふうに作らなければならないので、そこにうでのるのは言うまでもないことであった。だれだって、太陽と天気を自由にすることはできない。天気は人間にかまわずよすぎたり、悪すぎたりするのであった。アッケンのお父さんは、そういううでにかけては、たしかなものであったから、花が当日におくれたり早すぎたりするなどという失敗しっぱいはなかったが、それだけにめんどうな手数のかかることはしかたがなかった。
 この話の当時には、花の出来はまったくすばらしいものであった。それはちょうど八月五日のことであったが、花はいまが見ごろであった。花畑の中の野天の下で、えぞぎくの花びらはいまにも口を開こうとしてふくれていた。
 温室の温度と日光を弱めるために、わざわざ石灰乳せっかいにゅうをガラスのフレームにぬった温床おんしょうの下で、フクシアやきょうちくとうがさきかけていた。うじゃうじゃとかたまって草むらになっているものもあれば、頭から根元ねもとまで三角形につぼみのすずなりになったものもあった。どうして目のめるように美しかった。ときどきお父さんはいかにも満足まんぞくらしく、もみ手をしながら、うっとりながめ入っていた。
「ことしは天気がいいなあ」
 こうかれはむすこたちをふり返って言っていた。
 かれはくちびるに微笑びしょうをたたえて、むねの中では、これだけ売ればいくらになるという勘定かんじょうをしていた。
 ここまでするには、みんなずいぶんほねった。一時間と休憩きゅうけいするひまなしにはたらいたし、日曜日でも休まなかった。でももうとうげはこしたし、すっかり売り出しの準備じゅんびができあがったので、そのほうびとして、八月五日の日曜日の夕方、わたしたちのこらずうちそろってアルキュエイまで、お父さんの友人で、やはり植木屋仲間なかまのうちへごちそうを食べに行くことが決定されていた。カピも一行の一人になるはずであった。わたしたちは四時まではたらくことにして、仕事がすんだところで、門にじょうをかって、アルキュエイまで行くことになった。晩食ばんしょくは八時にできるはずであった。晩食がすんでわたしたちはすぐうちへ帰ることにした。ねどこにはいるのがおそくならないように、月曜の朝にはいつでもはたらけるように、元気よく早くから起きられるようにしなければならなかった。それで四時二、三分まえにわたしたちはみんな仕度ができた。
「さあ、みんな行こう」とお父さんがゆかいらしくさけんだ。「わたしは門にかぎをかけるから」
「来い、カピ」
 リーズの手を取って、わたしは走りだした。カピはうれしそうにはねながらついて来た。また旅かせぎに出るのだと思ったのかもしれない。この犬は旅がやはりきであった。こうしてうちにいては、思うようにわたしにかまってはもらえなかった。
 わたしたちは日曜日の晴れ着を着て、ごちそうになりに行く仕度をしていたので、なかなかきれいであった。わたしたちが通るとふり返って見る人たちもあった。わたしは自分がどんなふうに見えるかわからなかったけれど、リーズは水色の服に、ねずみ色のくつをはいて、このうえなく活発なかわいらしいむすめであった。
 時間が知らないまにずんずんぎていった。
 わたしたちは庭のにわとこの木の下でごちそうを食べていた。するとちょうどおしまいになりかけたとき、わたしたちの一人が、ずいぶん空が暗くなったと言いだした。くもがどんどん空の上にかたまって出て来た。
「さあ、子どもたち、早くうちへ帰らなければいけない」とお父さんが言った。
「もう」みんなはいっしょにさけんだ。
 リーズは口はきけなかったが、やはり帰るのはいやだという身ぶりをした。
「さあ行こう」とお父さんがまた言った。「風が出たらガラスのフレームはのこらず引っくり返される」
 これでもうだれも異議いぎを申し立てなかった。わたしたちはみんなフレームの値打ねうちを知っていた。それが植木屋にどれほどだいじなものかわかっていた。風がうちのフレームをこわしたら、それこそたいへんなことであった。
「わたしはバンジャメンとアルキシーをれて先へ急いで行く」とお父さんが言った。
「ルミはエチエネットと、リーズを連れてあとから来るがいい」
 かれらはそのままかけだした。エチエネットとわたしはリーズを連れてそろそろ後からついて行った。だれももうわらう者はなかった。空がだんだん暗くなった。あらしがどんどん来かけていた。すなけむりがうずをいて上がった。砂が目にはいるので、わたしたちは後ろ向きになって、両手で目をおさえなければならなかった。空にいなずまがひらめいて、はげしいかみなりが鳴った。
 エチエネットとわたしがリーズの手をった。わたしたちはもっと早くかの女を引っ張ろうとこころみたが、かの女はわたしたちと歩調を合わせることは困難こんなんであった。あらしの来るまえにうちへ帰れようか。お父さんとバンジャメンとアルキシーはあらしの起こるまえにうちに着いたろうか。かれらがガラスのフレームをめるひまさえあれば、風が下からはいって引っくり返すことはないであろう。
 雷鳴らいめいがはげしくなった。雲がいよいよ深くなって、もうほとんど夜のように思われた。
 風に雲のふきはらわれたとき、その深いあかがね色のそこが見えた。雲はやがて雨になるであろう。
 がらがら鳴りつづける雷鳴らいめいの中に、ふと、ごうっというひどいひびきがした。一連隊れんたい騎兵きへいがあらしに追われてばらばらとかけてでも来るような音であった。
 とつぜんばらばらとひょうがって来た。はじめすこしばかりわたしたちの顔に当たったと思ううちに、石を投げるようにって来た。それでわたしたちはかけ出して大きな門の下のトンネルに避難ひなんしなければならなかった。ひょうの夕立ち。たちまち道はまっ白に冬のようになった。ひょうの大きさははとのたまごぐらいあった、落ちるときには耳の遠くなるような音を立てた。もうしじゅうガラスのこわれる音が聞こえた、ひょうが屋根から往来おうらいへすべり落ちるとともに、屋根やえんとつのかわらや石板やいろんなものがこわれて落ちた。
「ああ、これではガラスのフレームも」とエチエネットがさけんだ。
 わたしも同じ考えを持った。
「お父さんはたぶんまに合ったでしょうね」
「ひょうのるまえに着いたにしても、ガラスにむしろをかぶせるひまはなかったでしょう。なにもかもこわれてしまったでしょうよ」
「ひょうは所どころまばらに落ちるものだそうですよ」と、わたしはまだそれでも無理むり希望きぼうをかけようとして言った。
「おお、それにはあんまりうちが近すぎます。もしうちの庭にここと同じだけったら、父さんはお気のどくなほど大損おおぞんになってしまいます。父さんはこの花を売って、いくらお金をもうけてどうするという細かい勘定かんじょうをしていらしったのだからそれはずいぶんお金がるようよ」
 わたしはガラスのフレームが百まい千八百フランもすることを聞いていた。植木や種物たねものべつにしても、五、六百もあるフレームをひょうがこわしたらなんという災難さいなんであろう。どのくらいの損害そんがいであろう。
 わたしはエチエネットにたずねてみたかったけれど、おたがいの話はまるで聞こえなかったし、かの女も話をする気がないらしかった。かの女は絶望ぜつぼう表情ひょうじょうで、自分のうちのけ落ちるのを目の前に見ている人のように、ひょうのるのをながめていた。
 おそろしい夕立ちはほんのわずかつづいた。急にそれが始まったように、急にやんだ。たぶん五、六分しかつづかなかった、雲がパリのほうへ走って、わたしたちは避難所ひなんじょを出ることができた。ひょうが往来おうらいに深くもっていた。リーズはうすいくつで、その上を歩くことができなかったから、わたしは背中せなかに乗せてしょって行った。宴会えんかいへ行くときにあれほどれ晴れとしていたかの女のかわいらしい顔は、いまは悲しみにしずんで、なみだがほおをつたっていた。
 まもなくわたしたちはうちに着いた。大きな門があいていて、わたしたちはすぐと花畑の中にはいった。
 なんというありさまであろう。ガラスというガラスはこなごなにこわれていた。花とガラスのかけらとひょうがいっしょにかたまって、あれほど美しかった花畑にもっていた。なにもかもめちゃめちゃにこわされた。
 お父さんはどこへ行ったのだろう。
 わたしたちはかれをさがした。やっとかれを大きな温室の中で発見した。その温室のガラス戸はのこらずこわれていた。かれは地べたをうずめているガラスのかけらの中にいた(手車の上にこしをかけてというよりは、がっかりしてこしをぬかしていた。アルキシーとバンジャメンはそのそばにだまって立っていた。
「ああ、子どもたち、かわいそうに」と、かれはわたしたちがガラスのかけらの上をみしみし歩く音に気がついて、こうさけんだ。
 かれはリーズをだいてすすりきを始めた。かれはなにもほかに言わなかった。なにを言うことができようぞ。これはおそろしい結果けっかであった。しかもそのあとの結果はもっともっとおそろしかった。
 わたしはまもなくそれをエチエネットから聞いた。
 十年まえかれらの父親はこの花畑を買って、自分で家をてた。かれに土地を売った男は植木屋として必要ひつよう材料ざいりょうを買う金をもやはりかれにしていた。その金額きんがくは十五年の年賦ねんぷで、毎年しはらうはずであった。その男はしかもこの植木屋が支払しはらいの期限きげんをおくらせて、おかげで土地も家も材料までも自分の手に取り返す機会きかいばかりをねらっていた。もちろんすでに受け取った十年分の支払い金額きんがくは、ふところにおさめたうえのことであった。
 これはその男にとっては相場そうばをやるようなもので、かれは十五年の期限のつきないまえにいつか植木屋が証文しょうもんどおりにいかなくなるときの来ることをのぞんでいた。この相場はよし当たらないでも債権者さいけんしゃのほうにそんはなかった。万一当たればそれこそ債務者さいむしゃにはひどい危険きけんであった。ところがひょうのおかげでその日はとうとう来たのだ。さてこれからは、どうなることやら。
 わたしたちはそれを長く心配するひまはなかった。証文しょうもん期限きげんが切れたあくる日――この金はこの季節きせつの花の売り上げでしはらわれるはずであったから――全身まっ黒な服装ふくそうをした一人の紳士しんしがうちへ来て、いんをおした紙をわたした。これは執達吏しったつりであった。かれはたびたび来た。あまりたびたび来たので、しまいにはわたしたちの名前を覚えるほどになった。
「ごきげんよう、エチエネットさん。いよう、ルミ。いよう、アルキシー」
 こんなことを言って、かれはわたしたちにれいいんをおした紙を、お友だちのような顔をしてにこにこしながらわたした。
「みなさん、さよなら。また来ますよ」
「うるさいなあ」
 お父さんはうちの中に落ち着いていなかった。いつも外に出ていた。かれはどこへ行くか、ついぞ話したことがなかった。たぶん弁護士べんごし訪問ほうもんするか、裁判所さいばんしょへ行ったのかもしれなかった。
 裁判所というとわたしはおそろしかった。ヴィタリスも裁判所へ行った。そしてその結果けっかはどうであったか。
 そしてその結果をお父さんは待ちかねていた。冬の半分はぎた。温室を修理しゅうりすることも、ガラスのフレームを新しく買うこともできないので、わたしたちは野菜物やさいものやおおいのらないじょうぶな花を作っていた。これはたいしたもうけにはならなかったが、なにかの足しにはなった。これだってわたしたちの仕事であった。
 あるばんお父さんはいつもよりよけいしずんで帰って来た。
「子どもたち」とかれは言った。「もうみんなだめになったよ」
 かれは子どもたちになにかだいじなことを言いわたそうとしているらしいので、わたしはさけて部屋へやを出ようとした。かれは手まねでわたしを引き止めた。
「ルミ、おまえもうちの人だ」とかれは悲しそうに言った。「おまえはなにかがよくわかるほどまだ大きくなってはいないが、めんどうの起こっていることは知っていよう。みんなお聞き、わたしはおまえたちとわかれなければならない」
 ほうぼうから一つのさけび声と苦しそうなき声が起こった。
 リーズは父親の首にうでをきつけた。かれはかの女をしっかりとだきしめた。
「ああ、おまえたちとわかれるのはまったくつらい」とかれは言った。「けれど裁判所さいばんしょから支払しはらいをしろという命令めいれいを受けた。でもわたしは金がないのだから、このうちにあるものはのこらず売らなければならない。それでも足りないので、わたしは五年のあいだ懲役ちょうえきに行かねばならない。わたしは自分の金ではらうことができないから、自分のからだと自由でそれをはらわなければならない」
 わたしたちはみんなきだした。
「そう、悲しいことだ」とかれはおろおろ声でつづけた。「けれど人は法律ほうりつに向かってはなにもしえない。弁護士べんごしの言うところでは、むかしはどうしてこんなことではすまなかった。ぬしのからだをいくつかにきざんで、貸し主のうちでしいと思う者がそれを分けて取る権利けんりがあったそうだ。わたしはただ五年のあいだ刑務所けいむしょにいればいいのだからね。ただそのあいだにおまえたちはどうなるだろう。それが心配でたまらない」
 悲しい沈黙ちんもくつづいた。
「わたしが決めたとおりにするのがいちばんいいことなのだ」とお父さんは続けた。
「ルミ、おまえはいちばん学者なのだから、妹のカトリーヌの所へ手紙を書いて、事がらをくわしくべて、すぐに来てくれるようにたのんでおくれ。カトリーヌおばさんは、なかなかもののわかった人だから、どうすればいちはんいいか、うまく決めてくれるだろう」
 わたしが手紙を書くのはこれがはじめてでなかなかほねれた。それはひじょうにいたましいことであったが、わたしたちはまだひとすじ希望きぼうを持っていた。わたしたちはみんななにも知らない子どもであった。カトリーヌおばさんが来てくれるということ、かの女が実際家じっさいかであるということは、なにごとをもよくしてくれるであろうといふ希望きぼうを持たせた。
 けれどかの女は思ったほど早くは来てくれなかった。四、五日ののちお父さんがちょうど友だちの一人を訪問ほうもんに出かけようとすると、ぱったり巡査じゅんさに出会った。かれは巡査たちとうちへもどって来た。かれはひじょうに青い顔をしていた。子どもたちにさようならを言いに来たのであった。
「おまえ、そんなに力を落としなさんな」と、かれをつかまえに来た巡査の一人が言った。「借金しゃっきんのためにろうにはいるのは、おまえが思うほどおそろしいものではない。向こうへ行けばなかなかいい人間がいるよ」
 わたしは庭にいた二人の子どもをびに行った。帰ってみると、小さいリーズはすすりきをしてお父さんの両手にだかれていた。巡査じゅんさの一人がこしをかがめて、お父さんの耳になにかささやいたが、なにを言ったかわたしには聞こえなかった。
「そうです。そうしなければなりませんね」とお父さんは言って、思い切ってリーズを下にいた。でもかの女は父親の手にからみついてはなれなかった。それからかれはエチエネット、アルキシー、バンジャメンと順々じゅんじゅんにキッスして、リーズをねえさんの手にあずけた。
 わたしはすこしはなれて立っていたが、かれはわたしのほうへって来て、ほかの者と同様にやさしくキッスした。
 これで巡査じゅんさはかれをれて行った。わたしたちはみんな台所のまん中にきながら立っていた。だれ一人ものを言う者はなかった。
 カトリーヌおばさんは一時間じかんおくれてやって来た。わたしたちはまだはげしく泣いていた。いちばん気丈きじょうなエチエネットすら今度の大波にはすっかり足をさらわれた。わたしたちの水先案内みずさきあんないが海に落ちたので、あとの子どもたちはかじをうしなって、波のまにまにただようほかはなかった。
 ところでカトリーヌおばさんはなかなかしっかりした婦人ふじんであった。もとはパリのまち乳母奉公うばぼうこうをして、十年のあいだに五か所もつとめた。世の中のすいもあまいもよく知っていた。わたしたちはまたたよりにする目標もくひょうができた。教育もなければ、資産しさんもないいなか女としてかの女にふりかかった責任せきにんは重かった。びんぼうになった一家の総領そうりょうはまだ十六にならない。いちばん下はおしのむすめであった。
 カトリーヌおばさんは、ある公証人こうしょうにんのうちに乳母うばをしていたことがあるので、かの女はさっそくこの人をたずねて相談そうだんをした。そこでこの人が助言して、わたしたちの運命うんめいを決めることになった。それからかの女は監獄かんごくへ行って、お父さんの意見も聞いた。そんなことに一週間かかって、最後さいごにわたしたちを集めて、取り決めた次第を言って聞かした。
 リーズはモルヴァンのかの女のうちへ行ってやしなわれることになった。アルキシーはセヴェンヌ山のヴァルスで鉱夫こうふつとめているおじの所へ行く。バンジャメンはセン・カンテンで植木屋をしているもう一人のおじの所へ行く。そしてエチエネットはシャラント県のエナンデ海岸にいるおばの所へ行くことになった。
 わたしはこういう取り計らいをわきで聞きながら、自分の番になるのを待っていた。ところがカトリーヌおばさんはそれで話をやめてしまって、とうとうわたしのことは話が出ずにしまった。
「ではぼくは……」とわたしは言った。
「だっておまえはこのうちの人ではないもの」
「ぼくはあなたがたのためにはたらきます」
「おまえさんはこのうちの人ではないよ」
「わたしがどんなにはたらけるか、アルキシーにでもバンジャメンにでもたずねてください。わたしは仕事がきです」
「それからスープをこしらえるのもうまいや」
「おばさん、あの子はうちの人です。そうです、うちの人です」という声がほうぼうから起こった。リーズが前へ出て来て、おばさんの前で手を合わせた。それはことばで言う以上いじょうの意味を表していた。
「まあまあ、かわいそうに」と、カトリーヌおばさんは言った。「おまえがあの子をいっしょにれて行きたがっていることはわかっている。けれど世の中というものはいつも思うようにはならないものなのだよ。おまえはわたしのめいだから、おまえをうちへ連れて行って、おじさんにいやな顔をされても、わたしは『でも親類しんるいだから』と言って通してしまうつもりだ。ほかのセン・カンテンのおじさんにしても、ヴァルスのおじさんにしても、エナンデのおばさんにしても、そのとおりだろうよ。やっかいだと思っても、親類ならやしなってくれるだろう。けれど他人ではそうはゆかない。一つうちの者だけでも、はらいっぱい食べるだけのパンはむずかしいのだからね」
 わたしはもうなにも言うことがないように思った。かの女の言ったことはもっともすぎることであった。わたしはうちの者ではなかった。わたしはなにももとめることもできない。なにもたのむこともできない。それをすればこじきになる。
 でもわたしはみんなをいていたし、みんなもわたしを好いていた。
 みんな兄弟でもあり、姉妹しまいでもあった。カトリーヌおばさんは決心したことはすぐ実行する性質せいしつであった。わたしたちにはあしたいよいよおわかれをすることを言いわたしてねどこへはいらせた。
 わたしたちが部屋へやへはいるか、はいらないうちに、みんなはわたしを取りいた。リーズはきながらわたしにからみついた。そのときわたしはかれら兄弟がおたがいにわかれて行く悲しみをまえにひかえながら、かれらの思っていてくれるのはわたしのことだということがわかった。かれらはわたしがひとりぼっちだといって気のどくがった。わたしはそのときほんとうにかれらの兄弟であるように感じた。そこでふと一つの考えが心にうかんだ。
「聞いてください」とわたしは言った。「おばさんやおじさんがたがわたしにご用はなくっても、あなたがたがどこまでもわたしをうちの者に思ってくださることはわかりました」
「そうだそうだ、きみはいつまでもぼくたちの兄弟だ」と三人がいっしょにさけんだ。
 もの言えないリーズはわたしの手をしめつけて、あの大きな美しい目で見上げた。
「ねえ、ぼくは兄弟です。だからその証拠しょうこを見せましょう」と、わたしは力を入れて言った。
「きみはいったいどこに行くつもりだ」とバンジャメンが言った。
「ペルニュイの所に仕事があるのよ。わたしあした行って話をしてみましょうか」とエチエネットが聞いた。
「ぼくは奉公ほうこうはしたくありません。奉公するとパリにじっとしていなければならないし、そうすると二度ともうあなたがたに会うことができません。ぼくはまたひつじの毛皮服を着て、ハープをくぎからはずして、かたにかついで、セン・カンテンからヴァルスへ、ヴァルスからエナンデへ、エナンデからドルジーへと、あなたがたのこれから行く先ざきへたずねて行きましょう。わたしはあなたがたみなさんに、一人ひとり代わりばんこに会って、ほうぼうの便たよりを持って行きましょう。そうすればぼくの仲立なかだちでみんないっしょに集まっているようなものです。ぼくはいまでも歌だってダンスのふしだってわすれてはいません。自分がくらしてゆくだけのお金は取れます」
 みんなの顔がかがやいた。わたしはかれらがわたしの考えを聞いてそんなにもよろこんでくれたのでうれしかった。長いあいだわたしたちは話をして、それからエチエネットは一人ひとりねどこへはいらせた。けれどそのばんはだれもろくろくねむる者はなかった。とりわけわたしはひとばんねむれなかった。
 あくる日夜が明けると、リーズはわたしを庭へれ出した。
「ぼくに言いたいことがあるの」とわたしはたずねた。
 かの女は何度もうなずいた。
「わたしたちがわかれて行くのがいやなんでしょう。それは言うまでもない。あなたの顔でわかっている。ぼくだってまったく悲しいんだ」
 かの女は手まねをして、なにか言いたいことがほかにあるという意味をしめした。
「十五日たたないうちに、ぼくはあなたの行くはずのドルジーへたずねて行きますよ」
 かの女は首をふった。
「ぼくがドルジーへ行くのがいやなんですか」
 わたしたちがおたがいに了解りょうかいしい合うために、わたしはそのうえにいろいろ問いを重ねていった。かの女はうなずいたり、首をふったりして答えた。かの女はわたしにドルジーへ来てはもらいたいが、しかしそれより先にあにさんやあねさんのほうへ行ってもらいたい意味を、指を三方に向けてさとらせた。
「あなたはぼくがいちばん先にヴァルスへ行き、それからエナンデ、それからセン・カンテンというふうに行ってもらいたいのでしょう」
 かの女はにっこりしてうなずいた。わたしがわかったのがうれしそうであった。
「なぜさ」
 こう聞くと、かの女はくちびると手を、とりわけ目を動かして、なぜそうのぞむか、そのわけを説明せつめいした。それは先にあねさんやあにさんたちの所へ行ってもらえば、ドルジーへ来るときにはほうぼうの便たよりを持って来てくれることができるからというのであった。
 かれらは八時にたたなければならなかった。カトリーヌおばさんはみんなを乗せる馬車を言いつけて、なにより先に刑務所けいむしょへ行って、父親にさようならを言うこと、それからてんでに荷物を持って別々べつべつの汽車に乗るために、別々の停車場ていしゃじょうわかれて行くという手順てじゅんを決めた。
 七時ごろ今度はエチエネットがわたしを庭へれ出した。
「ルミ、わたしあなたにほんのお形見をあげようと思うの」とかの女は言った。「この小ばこをおさめてください。わたしのおじさんがくれたものだから。中には糸とはりとはさみがはいっています。旅をして歩くと、こういうものが入り用なのよ。なにしろわたしがそばにいて、着物のほころびを直したり、ボタンをつけたりしてあげることができないのだからねえ。それでわたしのはさみを使うときにはわたしたちみんなのことを思い出してください」
 エチエネットがわたしと話をしているあいだ、アルキシーがそばをぶらついていた。かの女がわたしをいて、うちの中へはいると、かれはやって来て、
「ねえ、ルミ」とかれは言いだした。「ぼくは五フランの銀貨ぎんかを二つ持っている。一つあげよう。きみがもらってくれると、ぼくはずいぶんうれしいんだ」
 わたしたち五人のうちで、アルキシーはたいへん金をだいじにする子であった。わたしたちはいつもかれの欲張よくばりをからかっていた。かれは一スー、二スーと貯金ちょきんしてしじゅう貯金のたか勘定かんじょうしていた。かれは一スーずつためては新しい十スー、二十スーの銀貨ぎんかとかえてだいじに持っていた。そういうかれの申し出は、わたしを心から感動させた。わたしはことわりたかったけれど、かれはきらきらする銀貨をわたしの手に無理むりににぎらせた。わたしはだいじにしているたからが分けてくれようというかれの友情ゆうじょうがひじょうに強いものであることを知った。
 バンジャメンもわたしをわすれはしなかった。かれはやはりわたしにおくり物をしようと思った。かれはわたしにナイフをくれて、それと交換こうかんに、一スー請求せいきゅうした。なぜなら、ナイフは友情ゆうじょうを切るものだから。
 時間はかまわずずんずんたっていった。いよいよわたしたちのわかれる時間が来た。
 リーズはぼくのことをなんと思っているだろう。馬車がうちの前に近づいて来たときに、リーズがまたわたしに庭までついて来いという手まねをした。
「リーズ」とかの女のおばさんがんだ。
 かの女はそれには返事をしないで急いでかけ出して行った。かの女は庭のすみに一本のこっていた大きなベンガルばらの前に立ち止まって、一えだった。それからわたしのほうを向いてそのえだを二つにさいた。その両方にばらのつぼみが一つずつ開きかけていた。
 くちびるのことばは目のことばにくらべては小さなものである。目つきに比べて、ことばのいかにつめたく、空虚くうきょであることよ。
「リーズ、リーズ」とおばさんがさけんだ。
 荷物はもう馬車の中にみこまれていた。
 わたしはハープを下ろして、カピをんだ。わたしのむかしに返ったおなじみの姿すがたを見ると、かれはうれしがって、とび上がって、ほえ回った。かれは花畑の中にじこめられているよりも、広い大道の自由をあいした。
 みんなは馬車に乗った。わたしはリーズをおばさんのひざに乗せてやった。わたしはそこに半分目がくらんだようになって立っていた。するとおばさんがやさしくわたしをおしのけて、ドアをめた。
「さようなら」
 馬事は動きだした。
 もやの中でわたしはリーズがまどガラスによって、わたしに手をふっているのを見つけた。やがて馬車は町の角を曲がってしまった。見えるものはもうすなけむりだけであった。わたしはハープによりかかって、カピが足の下でからみ回るままにまかせた。ぼんやり往来おうらいに立ち止まって目の前にうずいているほこりをながめていた。たって行ったあとのうちをめてかぎを家主にわたしてくれることをたのまれた隣家りんかの人がそのときわたしに声をかけた。
「おまえさん、そこで一日立っているつもりかね」
「いいえ、もう行きます」
「どこへ行くつもりだ」
「どこへでも、足の向くほうへ」
「おまえさん、ここにいたければ」と、かれはたぶん気のどくに思っているらしく、こう言った。「わたしの所へいてあげよう。けれど給金きゅうきんははらえないよ。おまえさんはまだ一人前ではないからなあ。いまにすこしはあげられるようになるかもしれない」
 わたしはかれに感謝かんしゃしたが、「いいえ」と答えた。
「そうか。じゃあかってにおし。わたしはただおまえさんのためにと思っただけだ。さようなら。無事ぶじで」
 かれは行ってしまった。馬車は遠くなった。うちはざされた。
 わたしはハープのひもをかたにかけた。カピはすぐ気がついて立ち上がった。
「さあ行こう、カピ」
 わたしは二年のあいだ住みれて、いつまでもいようと思ったうちから目をそらして、はるかの前途ぜんとのぞんだ。
 日はもう高く上っていた。空は青あおと晴れて――気候きこうあたたかであった。気のどくなヴィタリス老人ろうじんとわたしが、つかれきってこのさくのそばでたおれた、あの寒いばんとはたいへんなちがいであった。
 こうしてこの二年間はほんの休息であった。わたしはまた自分の道を進まなければならなかった。けれどもこの休息がわたしにはずいぶん役に立った。それがわたしに力をあたえた。やさしい友だちを作ってくれた。
 わたしはもう世界でひとりぼっちではなかった。この世の中にわたしは目的もくてきを持っていた。それはわたしをあいし、わたしが愛している人たちのために、役に立つこと、なぐさめになることであった。
 新しい生涯しょうがいがわたしの前に開けていた。
 前へ。




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