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菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/12 9:27:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        十

 粂野紋之丞前次と仰しゃる方は、未だお部屋住では有りますが、勇気の優れた方で、活溌なり学問もあり、実に文武兼備と講釈師なら誉(ほめ)る立派な殿様でございますなれども、そこはお大名の疳癪で、甚(ひど)く逆らって参ると、直(すぐ)に抜打(ぬきうち)に御家来の首がコロリなどゝいう事が有るもので、只今の華族さまは開(ひら)けて在(いら)っしゃいますから、其様(そん)な野蛮な刄物三昧(はものざんまい)などはございませんが、前次様は御勇気のお方だけあって、九尺柄の大身の槍をすっと繰出した時に、權六は不意を打たれ、受くるものが有りませんから左の掌(て)で、
權「むゝ」
 と受けましたが剛(ひど)い奴で、中指と無名指(くすりゆび)の間をすっと貫かれたが、其の掌で槍の柄を捕まえて、ぐッと全身の力で引きました。前次公は蹌(よろ)めいて前へ膝を突く処を、權六が血だらけの手で捕(おさ)え付け、
權「其の時は斯う捻り倒して敵を酷(ひど)え目に遇(あ)わして、尊公(あんた)を助けるより他はねえ、何うだ、敵も魂消(たまげ)るか」
 と大力(だいりき)でグックと圧(お)すから前次公も堪(た)えかねまして、
殿「權六宥(ゆる)せ、宥せ」
 と云うは余程苦しかったと見えます。これを見るとお側に居りました川添富彌、山田金吾も驚きましたが、御側小姓の外村惣江が次の間に至り、一刀を執(と)って立上り、
惣「棄置かれん奴」
 とバラ/\/\と二人来(きた)って權六へ組付こうとするを睨(にら)み付け、
權「寄付くと打殺(ぶっころ)すぞ」
惣「斬ってしまえ、無礼至極な奴だ、御前を何と心得る、如何(いか)に物を心得んとは申しながら、余りと申せば乱暴狼藉」
 と立ちかゝるを、殿様は押されながら、
殿「いやなに惣江、手出しをする事は必ずならんぞ、權六放してくれ、あ痛い、放せ、予が悪かった、宥せ/\」
權「宥せと云って敵じゃア許せねえけれども、先(ま)ず仕方話だから許します、さ何うだね」
殿「ハッ/\」
 と殿様は稍(ようや)く起上りましたが、血だらけでございます。是は權六の血だらけの手で押付けられたから、顔から胸から血だらけで、これを見ると御家来が驚きまして、呆れて口が利けません。
殿「ハッ/\、至極道理(もっとも)だ」
權「道理だって、私(わし)が何も手出し仕たじゃアねえのに、押(おせ)えるの斬るのと此処にいる人が云うなア分んねえ、咎(とが)も報いも無(ね)えものを殿様が手出しいして、槍で突殺(つッころ)すと云うだから、敵が然うしたら斯うだと仕方話いしてお目に掛けたゞ、敵なら捻り殺すだが、仕方話で、ちょっくら此の位(くれえ)なものさ」
殿「至極正道(しょうどう)潔白な奴じゃ、勇気なものじゃ、何と申しても宜しい、予に悪い事があったら一々諫言をしてくれ、今日(きょう)より意見番じゃ、予が側を放さんぞ」
 と有難い御意で、それからいよ/\医者を呼び、疵の手当を致して遣(つか)わせと、殿様も急に血だらけですからお召替になる。大騒ぎでござります。御褒美として其の時の槍を戴きましたから、是ばかりでも槍一筋の侍で、五十石に取立てられ、頭取下役(とうどりしたやく)という事に成りましたが、更に※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)(へつら)いを致しませんが、堅い気象ゆえ、毎夜人知れず刀を差し、棒を提げて密(そ)っと殿様のお居間の周囲(まわり)を三度ずつ不寝(ねず)に廻るという忠実なる事は、他の者に真似は出来ません立派な行いでございます。又お供の時は駕籠に附いてまいりません。
權「私(わし)ア突張(つッぱ)ったものを着て、お駕籠の側へ付いてまいっても無駄でごぜえます、お側には剣術を知ってる立派なお役人が附いているだから、狼藉者がまいっても脇差を引抜いて防ぎましょうが、私ア其の警衛(けいえい)の方々に狼藉者が斬付けるとなんねえから、若(も)し怪しい奴が来るといかねえから私ア他の人の振(ふり)で先へめえりましょう、袴(はかま)などア穿(は)くのは廃(よ)して貰(もれ)えましょう、刀は差せと云わば仕方がねえから差しますが、私だけはお駕籠の先へぶら/\往(い)きます」
 と我儘を云うてなりませんが、左様な我儘なお供はござりませんから、權六も袴を付け、大小を差し、紺足袋(こんたび)福草履(ふくぞうり)でお前駆(さきとも)で見廻って歩きます、お中屋敷は小梅で、此処(これ)へお出でのおりも、未だお部屋住ゆえ大したお供ではございませんが、權六がお供をして上野の袴腰(はかまごし)を通りかゝりました時に、明和三年正月も過ぎて二月になり、追々梅も咲きました頃ですから、人もちら/\出掛けます。只今權六が殿様のお供をして山下の浜田と申す料理屋(今の山城屋)の前を通りかゝり、山の方(かた)の観物小屋(みせものごや)に引張る者が出て居りますが、其方(そちら)へ顔も向けず四辺(あたり)に気を附けてまいると、向うから来ました男は、年頃二十七八にて、かっきりと色の白い、眼のきょろ/\大きい、鼻梁(はなすじ)の通った口元の締った、眉毛の濃い好(い)い男で、無地の羽織を着(ちゃく)し、一本短い刀を差し、紺足袋雪駄穿(せったばき)でチャラ/\やって参りました。不図(ふと)出会うと中国もので、矢張素(も)と松平越後様の好(よ)い役柄を勤めました松蔭大之進(まつかげだいのしん)の忰、同苗(どうみょう)大藏(だいぞう)というもので、浪々中互いに知って居りますから、
權「大藏さん/\」
 と呼びますから大藏は振向いて、
大「いや是れは誠に暫らく、一別已来(いらい)[#「已来」は底本では「己来」]……」
權「うっかり会ったって知んねえ、むお変りがなくって……此処(こゝ)で逢おうとは思いませんだったが、何うして出て来たえ」
 と立止って話をして居りますから、他の若侍が、
若「これ/\權六殿/\」
權「えゝ」
若「お供先だから、余り知る人に会ったって無闇に声などを掛けてはなりませんよ」
權「はい、だがね国者(くにもの)に逢って懐かしいからね、少し先へ往っておくんなせえ、直ぐに往くと殿様に然う申しておくんなせえ、まお前(めえ)達者で宜(い)い、何処(どこ)にいるだ」
大「お前も達者で何処に居(お)らるゝか、実に立派な事で、お抱えになったことは聞いたが、立派な姿(なり)で、此の上もない事で、拙者に於ても悦ばしい[#「悦ばしい」は底本では「悦しばい」]」
權「ま悦んでくんろ、今じゃア奉公大切に勤めているだが、お前(めえ)さんは何処にいるだ」
大「拙者は根岸の日暮(ひぐれ)ヶ岡(おか)に居(お)る、あの芋坂(いもざか)を下りた処に」
權「私(わし)の処へは近(ちけ)えから些(ちっ)と遊びに来なよ、其の内私も往くから」
若「これ/\其様(そん)なことを云っては成りません」
權「今日は大将がいるから此処で別れるとしよう、泣く子と地頭にゃア勝(かた)れねえ」
 と他の家来衆も心配して彼是云いますので、其の日は別れ、翌日大藏は權六の家(うち)へまいりましたから、權六悦びました。此の大藏はもと越後守様の御家来で、遠山龜右衞門とは同じ屋敷にいた者ゆえ、母もお千代も見知りの事なれば、
「お互いに是は思い掛けない、縁と云うものは妙だ、国を出たのは昨年の秋で、貴方も国にお在(いで)のないという事は人の噂で聞きました」
大「お前も御無事で、殊(こと)に御夫婦仲も宜し、結構で」
權「まアね、お母(ふくろ)も誠に安心したし、殿様も贔屓にしてくれるだが、扶持も沢山(たんと)は要(い)らない、親子三人喰うだけ有れば宜(い)いてえに、其様な事を云わずに取って置くが宜いって、種々(いろ/\)な物をくれるだ、貰わねえと悪いと云うから、仕方なしに貰うけれども、何でも山盛り呉れるだ、喰物(くいもの)などは切溜(きりだめ)を持ってって脊負(しょ)って来(こ)ねえばなんねえだ、誠にはア有難(ありがて)え事になって、勿体ねえが、他に恩返(おんげえ)しの仕様がねえから、旦那様を大切(でえじ)に思って、不寝(ねず)に奉公する心得だが、貴方(あんた)は今の若さで遊んでいずに、何処かへ奉公でもしたら宜かろう」
大「拙者も然(そ)う思ってる、迚(とて)も国へ往ったっていけんから、何処ぞへ取付こうと思うが、御当家でお羽振の宜(い)いお方は何というお方だね」
權「私(わし)ア其様な事は知んねえ、お国家老の福原數馬(ふくはらかずま)様、寺島兵庫(てらじまひょうご)様、お側御用神原五郎治(かんばらごろうじ)様とかいう奴があるよ」
大「奴とは酷(ひど)いね」
權「それに此間(こねえだ)ちょっくら聞いたが、御当家には智仁勇の三人の家来があるとよ、渡邊織江(わたなべおりえ)さんという方は慈悲深い人だから是が仁で、秋月喜一郎(あきづききいちろう)かな是はえら剛(きつ)い人で勇よ、えゝ何とか云いッけ……戸村主水(とむらもんど)とかいう人は智慧があると云いやした、此者(これ)が羽振の宜(い)い処だ、其の人らの云う事は殿様も聴くだ、御家来に失策(しくじり)が有っても、渡邊さんや秋月さんが取做(とりな)すと殿様も赦(ゆる)すだ、秋月さんは槍奉行を勤めているが、成程剛(つよ)そうだ、身丈(せい)が高くってよ」
 と手真似をして物語る内、大藏は掌(てのひら)の底に目を附けました。

        十一

大「足下(そっか)掌(て)を何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を突掛(つッか)けて掌(て)で受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来の中(うち)仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて往(ゆ)きましょう」
 と細かに書いて暇乞(いとまごい)を致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過(ゆきす)ぎるを見済(みすま)して、
大「彼(あれ)は」
權「彼(あれ)が渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも彼(あ)の人には敵(かな)わねえ」
大「成程寛仁大度(かんじんたいど)、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、韓信(かんしん)が股ア潜(くゞ)りだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、最(も)う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々(たび/\)お尋ね下さい、拙者も亦(また)お尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっ溺(ぱま)ってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に在(あ)るから、随分身体を大事(でえじ)にしねば成んねえ」
大「誠に辱(かたじ)けない、左様なら」
 と松蔭大藏は帰りました。其の後(ご)渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六(きろく)という老僕(じゞい)に供をさせて、飛鳥山(あすかやま)へまいりました。尤(もっと)も花見ではない、初桜(はつざくら)故余り人は出ません、其の頃には海老屋(えびや)、扇屋(おうぎや)の他に宜(よ)い料理茶屋がありまして、柏屋(かしわや)というは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ上(あが)り、御酒(ごしゅ)は飲みませんから御飯(ごぜん)を上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味(こわみ)はありますが、是(もっと)も巾着切(きんちゃくきり)のような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから好(よ)い服装(なり)は出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お父(とっ)さまは小紋の野掛装束(のがけしょうぞく)で、お供は看板を着て、真鍮巻(しんちゅうまき)の木刀を差して上端(あがりばな)に腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行(はや)った玉紬(たまつむぎ)の藍(あい)の小弁慶(こべんけい)の袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない切山椒(きりざんしょ)で、焦茶色の一本独鈷(いっぽんどっこ)の帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな髪(あたま)をして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷(おおたぶさ)の連中(れんじゅう)がそろ/\花見に出る者もあるが、金がないので往(ゆ)かれないのを残念に思いまして、少しばかり散財(ざんざい)を仕ようと、味噌吸物(みそずいもの)に菜のひたし物香物(こう/\)沢山(だくさん)という酷い誂(あつら)えもので、グビーリ/\と大盃(おおもの)で酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯(ごぜん)が済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に従者(とも)が居(お)るから小包を持って来いと云えば分るから、然(そ)う云ってくれ」
下婢「はい畏(かしこ)まりました」
 とん/\/\と階下(した)へ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ昇(あが)れと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
 と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、傍(わき)に置いた主人の雪踏(せった)とお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中(ふところ)へ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を上(あが)ろうとする時、微酔機嫌(ほろよいきげん)で少し身体が斜(よこ)になる途端に、懐の雪踏が辷(すべ)って落(おち)ると、間の悪い時には悪いもので、彼(か)の喧嘩でも吹掛(ふっか)けて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人(わるろうにん)の一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これ怪(け)しからん奴だ、やい下(おり)ろ、二階へ上(あが)る奴下ろ」
 と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「不礼至極(ぶれいしごく)な奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履(くそぞうり)を投込むとは何の事だ」
 と云いながら二つ三(み)つ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を願(ねげ)えます」
甲「これ彼処(あすこ)に下足を預(あずか)る番人があって、銘々下足を預けて上(あが)るのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様(めえさま)には始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由(わけ)がござえません、私(わし)は何(なん)にも知んねえ田舎漢(いなかもの)で、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる機(はず)みに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
 と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁罷(まか)りならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に御道理(ごもっとも)……併(しか)し屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概(たいげえ)土から出来ねえものはねえ、それには肥料(こやし)いしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに肥料(こやし)をしないものはないが、直接(じか)に肥料を喰物(くいもの)に打(ぶっ)かけて喰う奴があるか、怪(け)しからん理由(わけ)の分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\其様(そん)な者に何を云ったって、痛いも痒(かゆ)いも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処(こゝ)へ来て詫るならば勘弁して遣(や)ろう、それまで其の小包を此方(こちら)へ取上げて置け、なに娘を連れて年を老(と)っている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方(こっち)へ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、私(わし)が不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を為(し)たんだから、二つも三つも打叩(ぶちたゝ)かれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処(そこ)を叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
 と又打(ぶ)つ。
喜「あ痛い、又打(ぶ)ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝば私(わし)がしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然(あたりまえ)だ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方(こっち)へ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア私(わし)が済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
 と尚(な)お事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「鎌(かま)どんを遣(や)っておくれな」
鎌「なに斯ういう事は矢張(やッぱ)り女が宜(い)いよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「客種(きゃくだね)が悪い筋だ、何(なん)かごたつこうとして居る機(はず)みだから、どうも仕様がない」
 下婢(おんな)どもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「貴方(あなた)申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方(こちら)は下足番の有るのを御存じないものですから、履物(はきもの)を懐へ入れて梯子段を昇(あが)ろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒(どうぞ)ね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が好(よ)いとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと清次(せいじ)どん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でも宜(よ)いのに、仕様がないね」
 と若い者が悪浪人(わるろうにん)の前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「今日(こんにち)は生憎(あいにく)主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤(ごもっとも)さまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方(こなた)で御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀(これ)を何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお芳(よし)どん、是をずっと下げて、何か乙(おつ)な、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「忌(いや)な奴だな、空笑(そらわら)いをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗の宜(よ)い処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
 それより他に致し方がないので、酒肴(さけさかな)を出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、汝(てまえ)に酒肴(しゅこう)を振舞って貰いたいから立腹致したと心得て居(お)るか、振舞って貰いたい下心で怒(おこ)ってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその最初(はじまり)は上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「汝(てまえ)では分らんもっと分る者を遣(よこ)せ」
 二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら昇(あが)ってまいりました。

        十二

 喜六は力無げに二階へ上(あが)ってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を奪(と)られて」
織「困ったものじゃアないか、何故(なぜ)草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ昇(あが)るなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところは尤(もっと)もじゃアないか、喰物(くいもの)の中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然(あたりまえ)のことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目(よそめ)に見て二階に居ることはねえ、此処(これ)へまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと確(しっ)かり押えると、あんた傍に居た奴が私(わし)の頭を叩いて、無理やりに引奪(ひったく)られましたから、大切な物でも入(へえ)って居(お)ろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん空風呂敷(からぶろしき)ではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を汚(けが)す事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣(しぐせ)が脱(ぬ)けん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、然(そ)うして私(わし)が頭ア五つくらしました」
織「打(う)たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り口惜(くやしゅ)うございます、中央(まんなか)にいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「お父(とっ)さま、斯う致しましょうか、却(かえ)って先方が食酔(たべよ)って居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、私(わたくし)は女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければ宜(よ)いが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
竹[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六と私(わたくし)と二人で此処(こゝ)へまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば屹度(きっと)勘弁します、皆(みん)な助平そうなものばかりで」
織[#「織」は底本では「竹」]「こら、其様(そん)なことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りで宜(い)いかえ、私(わたくし)は手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
 とお竹の後(あと)に附いて悄々(しお/\)と二階を下りる。此方(こちら)は益々哮(たけ)り立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ折助(おりすけ)が昇(あが)った限(ぎ)り下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
 と申して居(お)るところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、何方(どなた)さまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、盗(と)られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて居(お)って、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒(なにとぞ)御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして私(わたくし)からお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお出(い)では恐入りましたね、誠にどうもお麗(うる)わしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯(せんとう)の帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、嘸(さぞ)御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、お出(い)で下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃(ひとつ)召上れ」
 と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると惚(のろ)い人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも直(すぐ)にでれ/\と許してしまう、それも宜(よ)いが、後(あと)の勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連(おやこづ)れで昇(あが)った立派な侍が二階に居(い)るじゃアないか、然(しか)るを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の廉(かど)を押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、前(さき)に昇(あが)っていたか、至極どうも御尤(ごもっと)もだから然(そ)う致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで宜(い)いじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の辱(はじ)になるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら宜(よ)かろう」
甲「これは至極宜(よろ)しい、宅(たく)は手狭だが、是なる者は拙者の朋友(ともだち)で、可なり宅(うち)も広いから、ちょっと一献(いっこん)飲直してお別れと致しましょう」
 と柔(やさ)しい真白な手を真黒な穢(きたな)い手で引張(ひっぱ)ったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
 と又騒動が大きくなりましたから、流石(さすが)の渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄(うっちゃ)って密(そっ)と逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵(あいみじん)の小袖を着(き)大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ卒爾(そつじ)ながら手前は此の隣席(りんせき)に食事を致して、只今帰ろうと存じて居(お)ると、何か御家来の少しの不調法を廉(かど)に取りまして、暴々(あら/\)しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処(あれ)にて聞兼(きゝかね)て居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして嘸(さぞ)かし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召(おぼしめ)すかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何(いかゞ)で」
織「これは何(なん)ともはや、折角の思召ではござるが、先方では柄(え)のない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、平(ひら)にお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は無禄無住(むろくむじゅう)の者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名(ごしゅめい)を明(あか)すのを甚(ひど)く御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、併(しか)し御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
 と提(ひっさ)げ刀で下へ下(おり)ると、三人の悪浪人(わるろうにん)はいよ/\哮(たけ)り立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました由(よし)怪(け)しからん事で、女の身でお詫をいたし、却(かえ)って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷(まか)り出て重々恐入りますが、何卒(なにとぞ)御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻(さっき)此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此(かく)の如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴(こいつ)かえ/\」
乙「此者(これ)じゃアなえよ、其奴(そいつ)は前(さき)に昇(あが)っていた奴だ、もっと年を老(と)ってる奴だア、此奴は彼(あ)の娘へ※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)諛(おべっか)に入って来たんだ、其様(そん)な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎(たにやまとうじゅうろう)と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯(かく)の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
 と半分残っていた吸物椀を打掛(ぶっか)けましたから、すっと味噌汁が流れました。流石(さすが)温和の仁も忽(たちま)ち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐(こら)え、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方(こっち)へ申し受けよう、然(そ)うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗(いぬ)を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家(こゝ)でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合(はたしあ)いに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物(くいもの)の中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身で迚(とて)もお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最(も)う了簡罷(まか)りならん、篦棒(べらぼう)め」
 と侍の面部へ唾を吐掛(はきか)けました。

        十三

 斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭(はんてぬぐい)を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直(じき)気が附きまして、
○「安(やす)さん出掛けよう、斯(こ)んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼(あ)の位妹が出て謝って、御主人が塩梅(あんばい)の悪いのに出て来て詫びているのに、酷(ひど)い事をするじゃアないか、汁を打掛(ぶっか)けたばかりで誰でも大概怒(おこ)っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中(うち)に出掛けよう、他に逃げ処がないから往(い)こう/\」
△「折(おり)を然(そ)う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆(さわら)の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口(ちょこ)を二つばかり瞞(ごま)かして往(ゆ)こう」
 と皆逃支度(にげじたく)をいたします。此方(こちら)の浪人は屹度(きっと)身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁相成(あいなら)んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
 とずいと提(ひっさ)げ刀(がたな)で立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
 と自分が斬られる訳ではないが、遽(あわ)てゝ逃出すから、煙草盆を蹴散(けちら)かす、土瓶を踏毀(ふみこわ)すものがあり、料理代を払って往(ゆ)く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本担(かつ)ぎ出す奴があります。彼(か)の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「然(しか)らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧(ごろう)じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合(はたしあ)いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
 と何うしても肯(き)きません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳(にぎりこぶし)を振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
 と逆に捻倒(ねじたお)した手練(てなみ)を見ると、余(あと)の二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜(くや)しいから又起上って組附いて来る処を、拳(こぶし)を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身(あてみ)をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
 と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方(そっち)へ二人逃げた、威張った野郎の癖に容(ざま)ア見やアがれ、殴れ/\」
 と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履(ぞうり)草鞋(わらじ)を投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難(ありがて)えことで、初(はじま)りは心配して居りました、若(も)し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死(ち)ぬまで威張りアがって野郎」
 二つ三つ打つを押止(おしと)め、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴(こやつ)を殺しても仕様がないから、御家来憚(はゞか)りだが彼方(あっち)で手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はい畏(かしこ)まりました」
 彼(か)の侍は其処(そこ)に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋(きょうろく)へ一活(いっかつ)入れる。
甲「あっ……」
 と息を吹反(ふきかえ)す処へ水を打掛(ぶっか)ける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様(そん)な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、酔(よい)に乗じ甚(はなは)だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫(わび)を致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己(おら)ような年い老(と)った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉(つか)まると魂消(たまげ)てやアがる、我身を捻(つね)って他人(ひと)の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然(そ)う思え」
 と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
 と這々(ほう/\)の体(てい)で逃げて行(ゆ)くと、弥次馬に追掛(おっか)けられて又打たれる、意気地(いくじ)のない事。
織「どうか一寸(ちょっと)旧(もと)の席へ、まア/\何卒(どうぞ)…」
浪「いえ、些(ちっ)と取急ぎますから」
織「でもござろうが」
 と無理に旧(もと)の茶屋へ連戻り、上座(じょうざ)へ直し、慇懃(いんぎん)に両手を突き、
織「斯(か)ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守(くめのみまさか)家来渡邊織江と申す者、今日(こんにち)仏参(ぶっさん)の帰途(かえりみち)、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力(ごじょりき)を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併(しか)しどうも起倒流(きとうりゅう)のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由(よし)あるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前(てまい)は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下(お)りまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋(ぼうおく)に佗住居(わびずまい)を致して居ります、此の後(ご)とも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計(たつき)致し方なく売卜(ばいぼく)を致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者(うらないしゃ)か、どうもえらいもんだね、売卜者(ばいぼくしゃ)だから負けるか負けねえかを占(み)て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「何(いず)れ御尊宅へお礼に出ます」
 と宿所(しゅくしょ)姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込(いりこ)み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企(たく)んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜(よ)い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼(か)の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁(なか)へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往(ゆ)かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴(つ)れ、結構な進物を携(たずさ)えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜(ばいぼく)の看板が出て居りますから、
織「あ此家(これ)だ、喜六一寸(ちょっと)其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方(こなた)かと云って伺ってみろ」
喜「はい畏(かしこま)りました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助(ゆうすけ)何方(どなた)か取次があるぜ」
有「はい畏りました」
 つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠(こいなせ)な男でございます。子持縞(こもちじま)の布子(ぬのこ)を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋(ぶすい)の打扮(こしらえ)のようだが、もと江戸子(えどっこ)だから何処(どっ)か気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方(こちら)さまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用(とうよう)か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上(あが)んなせえまし」
喜「いや、然(そ)うじゃアござえません、旦那さまア此方(こちら)さまですと」
織「あい、御免くだされ」
 と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容(かたち)を正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷(まか)り出(い)ずべきでござったが、主用(しゅよう)繁多に就(つ)き存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍(ようや)く今日(こんにち)番退(ばんび)きの帰りに罷出(まかりで)ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「何(な)んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様か直(すぐ)に茶の良いのを入れて莨盆(たばこぼん)、に火を埋(い)けて、宜(よ)いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日(こんにち)は宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭(てぜま)で何とも恥入りましたことで、さ何卒(なにとぞ)お通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸(ちょっと)お台を……何でも宜しい、いえ/\其様(そん)な大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処(これ)へ」
 と風呂敷を開(ひら)きまして、中から取出したは白羽二重(しろはぶたえ)一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。

        十四

 尚も織江は慇懃(いんぎん)に、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、彼(あ)の折(おり)はあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘(これ)が又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に辱(かたじ)けない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連(おんなづれ)ゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼では却(かえ)って恐入ります、殊(こと)に御親子(ごしんし)お揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入(いたみい)りましてござる」
織「えゝ此品(これ)は(と盆へ載せた品を前へ出し)[#「)」は底本では脱落]何(なん)ぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷(しもやしき)から是までまいる間には何か調(とゝの)えます処もなく、殊に番退(ばんひ)けから間(ま)を見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由(わけ)もなし、お辞(ことば)のお礼で十分、どうか品物の所は御免を蒙(こうむ)りとう、思召(おぼしめし)だけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……甚(はなは)だ何(なん)でござるが御意(ぎょい)に適(かな)った色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「何(なん)ともどうも恐入りました訳でござる然(しか)らば折角の思召(おぼしめし)ゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を購(と)るわけには迚(とて)もまいりません、併(しか)し此のお肴料(さかなりょう)とお記(しる)しの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方が何(なん)でございますなら御奉公人にでもお遣(つか)わしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼に上(あが)りたいと申し暮し、私(わたくし)も種々(いろ/\)心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、彼(あ)の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸(ちょっと)此方(こちら)へ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、彼(あ)の折(おり)は何ともはアお礼の云う様(よう)もござえません、私(わし)なんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等(あいつら)に打殺(ぶちころ)されても命の惜(おし)いわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺(ぶっころ)されたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の申(もうし)ようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺(うちころ)しただから、お侍は異(ちが)ったものだと噂をして居りました」
大「然(そ)う云われては却(かえ)って困る、これは御奉公人で」
喜「はい私(わし)ア何(なん)でござえます、お嬢さまが五才(いつゝ)の時から御奉公をして居り、長(なが)え間これ十五年もお附き申していますからお馴染(なじみ)でがす、彼(あ)の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで飲(や)っつけたで、えら腹が空(へ)ったから、二合出たのを皆(み)な酌飲(くんの)んじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ今日(こんにち)は直(すぐ)にお暇(いとま)を」
大「何はなくとも折角の御入来(ごじゅうらい)、素(もと)より斯様な茅屋(ぼうおく)なれば別に差上(さしあげ)るようなお下物(さかな)もありませんが、一寸(ちょっと)詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや思召(おぼしめし)は辱(かたじ)けないが、今日(こんにち)は少々急ぎますから、併(しか)し貴方様はお品格といい、先達(せんだっ)て三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国(ごしょうこく)は矢張(やはり)美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、聊(いさゝ)か高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お暇(いとま)になりまして、暫(しばら)くの間黒戸(くろと)の方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに彼(あれ)とは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方は惜(おし)いことで、大概忠臣二君に事(つか)えずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び主(しゅう)は持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君に仕(つか)えんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借(たながり)を致して、売卜者(ばいぼくしゃ)で生涯朽果(くちはて)るも心外なことで、仮令(たとえ)何様(どん)な下役小禄でも主取(しゅうと)りをして家名を立てたい心懸(こゝろがけ)もござりますが、これという知己(しるべ)もなく、手蔓等(てづるとう)もないことで、先達(せんだっ)て權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前は羨(うらやま)しい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗(こめつき)をしていた身の上の者が大禄(たいろく)を取るようになったも、全くお前の心懸(こゝろがけ)が良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても然(そ)ういう身の上には成れんが、何様(どん)な処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、何(ど)の様な小禄の旗下(はたもと)でも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで置(おき)ましたが、御重役の尊公定めしお交際(つきあい)もお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に見(まみ)えずの教訓を守って居りましたが、却(かえ)ってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守(みまさか)は小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は未(ま)だ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれは辱(かたじ)けない事で」
 と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々(いろ/\)周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の許(もと)へお召状(めしじょう)が到来致しましたことで、大藏披(ひら)いて見ると。
御面談申度(もうしたき)儀有之候(これありそうろう)間明(みょう)十一日朝五つ時当屋敷へ御入来(ごじゅらい)有之候様(よう)美作守(みまさかのかみ)申付候此段得御意(ぎょいをえ)候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]
    三月十日
寺島兵庫
        松蔭大藏殿
 という文面で、文箱(ふばこ)に入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書(うけしょ)をいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔(こざっぱり)した紋付の着物が無ければなりません、紋が少し異(ちが)っていても宜い、昌平(しょうへい)に描(か)かせても直(じき)に出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いに遣(つか)わし、大小は素(もと)より用意(たしなみ)がありますから之を佩(さ)して、翌朝(よくあさ)の五つ時に虎の門のお上屋敷(かみやしき)へまいりますと、御門番には予(かね)て其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。



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