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母(はは)

作者:贯通日本…  来源:本站原创   更新:2006-8-17 14:31:55  点击:  切换到繁體中文


 敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日(きのう)は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、反(かえ)って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に捉(とら)われてしまった結果であろうか? それともまた手傷(てきず)を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の快(かい)を貪(むさぼ)るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか?
「この御正月でございました。」
 女はこう答えてから、ちょいとためらう気色(けしき)を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。
「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」
 敏子は沾(うる)んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。
「ええ、肺炎(はいえん)になりましたものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」
「それも御出(おいで)て※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々(そうそう)にねえ。何と申し上げて好(よ)いかわかりませんわ。」
 女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。
「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう?」
「一時は随分(ずいぶん)悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」
 二人の母は佇(たたず)んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。
「こちらは悪い風(かぜ)が流行(はや)りますの。」
 女は考え深そうに、途切(とぎ)れていた話を続け出した。
「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」
「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」
「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」
 女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。
「ちょいと御免下さいまし。」
 しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた上草履(うわぞうり)を鳴らせながら、泣き立てる赤児(あかご)を抱(だ)きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに頤(あご)の括(くく)れた赤児を!
「私が窓を拭(ふ)きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」
「どうも憚(はばか)り様。」
 女はまだ慣(な)れなそうに、そっと赤児を胸に取った。
「まあ、御可愛い。」
 敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。
「おお、おお、よく肥(ふと)っていらっしゃる。」
 やや上気(じょうき)した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房(ちぶさ)の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然(おうぜん)と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

        三

 雍家花園(ようかかえん)の槐(えんじゅ)や柳は、午(ひる)過ぎの微風に戦(そよ)ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり撒(ま)いている。いや、草や土ばかりではない。その槐(えんじゅ)に張り渡した、この庭には似合(にあ)わない、水色のハムモックにもふり撒(ま)いている。ハムモックの中に仰向(あおむ)けになった、夏のズボンに胴衣(チョッキ)しかつけない、小肥(こぶと)りの男にもふり撒いている。
 男は葉巻に火をつけたまま、槐(えんじゅ)の枝に吊(つ)り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥(ぶんちょう)か何からしい。これも明暗の斑点(はんてん)の中に、止(とま)り木(ぎ)をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ笑(え)みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。
 あたりは庭木の戦(そよ)ぎの中に、かすかな草の香(か)を蒸(む)らせている。一度ずっと遠い空に汽船の笛(ふえ)の響いたぎり、今はもう人音(ひとおと)も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁(あかにご)りに濁った長江(ちょうこう)の水に、眩(まばゆ)い水脈(みお)を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場(はとば)には、裸も同様な乞食(こじき)が一人、西瓜(すいか)の皮を噛(か)じっている。そこにはまた仔豚(こぶた)の群(むれ)も、長々(ながなが)と横たわった親豚の腹に、乳房(ちぶさ)を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも飽(あ)きた男は、そんな空想に浸(ひた)ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。
「あなた。」
 男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海(シャンハイ)の旅館にいた時より、やや血色の好(い)い敏子(としこ)である。髪にも、夏帯にも、中形(ちゅうがた)の湯帷子(ゆかた)にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉(おしろい)をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸(あくび)をした。それからさも大儀(たいぎ)そうに、ハムモックの上へ体を起した。
「郵便よ、あなた。」
 敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子(ゆかた)の胸から、桃色の封筒(ふうとう)にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。
「今日は私にも来ているのよ。」
 男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作(むぞうさ)に手紙を読み始めた。敏子もそこへ佇(たたず)んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。
 雍家花園(ようかかえん)の槐(えんじゅ)や柳は、午過ぎの微風に戦(そよ)ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。文鳥(ぶんちょう)はほとんど囀(さえず)らない。何か唸(うな)る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、直(すぐ)にそれも飛び去ってしまった。………
 こう云うしばらくの沈黙の後(のち)、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。
「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」
「お隣?」
 男はちょいと聞き耳を立てた。
「お隣とはどこだい?」
「お隣よ。ほら、あの上海(シャンハイ)の××館の、――」
「ああ、あの子供か? そりゃ気の毒だな。」
「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」
「何だい、病気は?」
「やっぱり風邪(かぜ)ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」
 敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。
「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう? 注射を致すやら、酸素吸入(さんそきゅうにゅう)を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、重々(じゅうじゅう)御察し下され度(たく)、……」
「気の毒だな。」
 男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向(あおむ)けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、未(いまだ)に瀕死(ひんし)の赤児が一人、小さい喘(あえ)ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の間(あいだ)を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う幻(まぼろし)の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。
「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや御許様(おんもとさま)に御眼(おんめ)にかかりし事など思い出(いだ)され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」
 敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉(まゆ)をひそめた。が、一瞬の無言の後(のち)、鳥籠(とりかご)の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢(きゃしゃ)な両手を拍った。
「ああ、好(い)い事を思いついた! あの文鳥を放してやれば好いわ。」
「放してやる? あのお前の大事の鳥をか?」
「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお追善(ついぜん)ですもの。ほら、放鳥(ほうちょう)って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴(ちょうだい)。」
 槐(えんじゅ)の根もとに走り寄った敏子は、空気草履(くうきぞうり)を爪立(つまだ)てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい翼(つばさ)をばたばたやる。その拍子(ひょうし)にまた餌壺(えつぼ)の黍(きび)も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。反(そ)らせた喉(のど)、膨(ふくら)んだ胸、爪先(つまさき)に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。
「取れないかしら?――取れないわ。」
 敏子は足を爪立(つまだ)てたまま、くるりと夫の方へ向いた。
「取って頂戴よ。よう。」
「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今直(すぐ)には限らないじゃないか?」
「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」
 敏子は男を睨(にら)むようにした。が、眼にも唇にも、漲(みなぎ)っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄(こくはく)なものさえ感じた。日の光に煙った草木(くさき)の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。
「莫迦(ばか)な事をするなよ。――」
 男は葉巻を投げ捨てながら、冗談(じょうだん)のように妻を叱った。
「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」
 すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上拗(す)ねた子供のように、睫毛(まつげ)の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦(にが)い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。
「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海(シャンハイ)にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いなければまた心配するし、――」
 男はふと口を噤(つぐ)んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった頬(ほお)の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭(くちひげ)を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。
「あなた。」
 息苦しい沈黙の続いた後(のち)、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を背(そむ)けていた。
「何だい?」
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」
 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」
 敏子の声には今までにない、荒々(あらあら)しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣(チョッキ)に今は一ぱいにさし始めた、眩(まばゆ)い日の光を鍍金(めっき)しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞(ふさ)がったように。

(大正十年八月)




 



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月7日修正
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