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報恩記(ほうおんき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-17 15:01:06  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集4
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1987(昭和62)年1月27日
入力に使用: 1993(平成5)年12月25日第6刷
校正に使用: 1996(平成8)年7月15日第8刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

  阿媽港甚内あまかわじんないの話

 わたしは甚内じんないと云うものです。苗字みょうじは――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内あまかわじんないと云っているようです。阿媽港甚内、――あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人ぬすびとです。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。
 あなたは日本にほんにいる伴天連ばてれんの中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽じゅらく御殿ごてんへ召された呂宋助左衛門るそんすけざえもん手代てだいの一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士りきゅうこじ珍重ちんちょうしていた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師れんがし本名ほんみょうは、甚内じんないとか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記あまかわにっきと云う本を書いた、大村おおむらあたりの通辞つうじの名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原さんじょうがわらの喧嘩に、甲比丹カピタン「まるどなど」を救った虚無僧こむそうさかい妙国寺みょうこくじ門前に、南蛮なんばんの薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺みてらへ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金おうごん舎利塔しゃりとうを献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。
 しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話している暇はありません。ただどうか阿媽港甚内あまかわじんないは、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金はがねに、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かしていかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福めいふくを祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言たごんしない約束が必要です。あなたはその胸の十字架くるすに懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼はゆるして下さい。(微笑)伴天連ばてれんのあなたを疑うのは、盗人ぬすびとのわたしには僭上せんじょうでしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然真面目まじめに)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世げんぜばちくだる筈です。
 もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどあるこがらしの真夜中です。わたしは雲水うんすいに姿を変えながら、京の町中まちなかをうろついていました。京の町中をうろついたのは、そのに始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更しょこうを過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々をうかがったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽まりかへでも、一時渡っているつもりでしたから、余計にかねの入用もあったのです。
 町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通のきづたいに、小川通おがわどおりをくだって来ると、ふと辻を一つまがった所に、大きい角屋敷かどやしきのあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門ほうじょうややそうえもんの本宅です。同じ渡海とかいを渡世にしていても、北条屋は到底とうてい角倉かどくらなどと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室しゃむろ呂宋るそんへ、船の一二そうも出しているのですから、一かどの分限者ぶげんしゃには違いありません。わたしは何もこのうちを目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼ひとかせぎする気を起しました。その上前にも云った通り、は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法すんぽうです。わたしは路ばたの天水桶てんすいおけうしろに、網代あじろの笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。
 世間のうわさを聞いて御覧なさい。阿媽港甚内あまかわじんないは、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港あまかわにいた時分、葡萄牙ポルトガルの船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ切ったり、重いかんぬきを外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本にっぽんと云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。
 わたしは一ときとたたない内に、北条屋のうちの中にはいっていました。が、暗い廊下ろうかをつき当ると、驚いた事にはこの夜更よふけにも、まだ火影ほかげのさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子ようすでは、どうしても茶室に違いありません。「こがらしの茶か」――わたしはそう苦笑くしょうしながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔じゃまを思うよりも、数寄すきを凝らした囲いの中に、このの主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心がかれたのです。
 ふすまの外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、かまのたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家たいけの茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていたふすますきから、茶室の中をのぞきこみました。
 行燈あんどんの光に照された、古色紙こしきしらしいとこの懸け物、懸け花入はないれ霜菊しもぎくの花。――かこいの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面ましょうめんに坐った老人は、主人の弥三右衛門やそうえもんでしょう、何かこまかい唐草からくさの羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜のえ音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座しもざには、ひん笄髷こうがいまげの老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑をらしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋ほうじょうや夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名あくみょうばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎かぶきを見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙そうしと云えば、悲しい話にきまっているようです。
 弥三右衛門はしばらくののち吐息といきをするようにこう云いました。
「もうこの羽目はめになった上は、泣いてもわめいても取返しはつかない。わたしは明日あすにも店のものに、ひまをやる事に決心をした。」
 その時また烈しい風が、どっと茶室をすぶりました。それに声がまぎれたのでしょう。弥三右衛門の内儀ないぎの言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人はうなずきながら、両手を膝の上に組み合せると、網代あじろの天井へ眼を上げました。太いまゆ、尖った頬骨ほおぼね、殊に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。
「おんあるじ、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」
 弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉をつぶやき始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはそのあいだ瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまたこがらしの渡った時、わたしの心にひらめいたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿をとらえました。
 その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港あまかわに渡っていた時、ある日本にほんの船頭にあやうい命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇きぐうに驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えばかつい肩のあたりや、指節ゆびふしの太い手の恰好かっこうには、いまだ珊瑚礁さんごしょうしおけむりや、白檀山びゃくだんやまの匂いがしみているようです。
 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主てんしゅ御意ぎょい次第と思うたがい。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙をこらえるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだやしいのは、――」
「さあ、それが愚痴ぐちと云うものじゃ。北条丸ほうじょうまるの沈んだのも、ぎんの皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめてはせがれ弥三郎やさぶろうでも、いてくれればと思うのでございますが、……」
 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋ほうじょうやの不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内あまかわじんないにも、立派りっぱに恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行をほどこした時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事もろくには知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
 弥三右衛門は苦々にがにがしそうに、行燈あんどんへ眼をらせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけはしのげたかも知れぬ。それを思えば勘当かんどうしたのは、………」

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