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文芸的な、余りに文芸的な(ぶんげいてきな、あまりにぶんげいてきな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-17 14:56:50  点击:  切换到繁體中文



     三十三 「新感覚派」

「新感覚派」の是非を論ずることは今は既に時代遅れかも知れない。が、僕は「新感覚派」の作家たちの作品を読み、その又作家たちの作品に対する批評家たちの批評を読み、何か書いて見たい欲望を感じた。
 少くとも詩歌は如何なる時代にも「新感覚派」の為に進歩してゐる。「芭蕉は元禄時代の最大の新人だつた」と云ふ室生犀星氏の断案はあたつてゐるのに違ひない。芭蕉はいつも文芸的にはいやが上にも新人にならうと努力をしてゐた。小説や戯曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、――広い意味の詩歌である以上、いつも「新感覚派」を待たなければならぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。(「官能の解放」と云ふ言葉は当時の詩人たちの標語だつた。)同時に又谷崎潤一郎氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。……
 僕は今日の「新感覚派」の作家たちにも勿論興味を感じてゐる。「新感覚派」の作家たちは、――少くともその中の論客たちは僕の「新感覚派」に対する考へなどよりも新らしい理論を発表した。が、それは不幸にも十分に僕にはわからなかつた。唯「新感覚派」の作家たちの作品だけは、――それも僕にはわからないのかも知れない。僕等は作品を発表し出した頃、「新理智派」とか云ふ名を貰つた。(尤も僕等の僕等自身この名を使はなかつたのは確かである。)しかし「新感覚派」の作家たちの作品を見れば、僕等の作品よりも或意味では「新理智派」に近いと言はなければならぬ。では或意味とは何かと言へば、彼等の所謂感覚の理智の光を帯びてゐることである。僕は室生犀星氏と一しよに碓氷うすひ山上の月を見た時、突然室生氏の妙義山を「生姜しやうがのやうだね」と云つたのを聞き、如何にも妙義山は一塊の根生姜にそつくりであることを発見した。この所謂いはゆる感覚は理智の光を帯びてはゐない。が、彼等の所謂感覚は、――たとへば横光利一氏は僕の為に藤沢桓夫たけを氏の「馬は褐色の思想のやうに走つて行つた」(?)と云ふ言葉を引き、そこに彼等の所謂感覚の飛躍のあることを説明した。かう云ふ飛躍は僕にも亦全然わからないわけではない。が、この一行は明らかに理智的な聯想の上に成り立つてゐる。彼等は彼等の所謂感覚の上にも理智の光を加へずには措かなかつた。彼等の近代的特色は或はそこにあるのであらう。けれども若し所謂感覚のそれ自身新しいことを目標とすれば、僕はやはり妙義山に一塊の根生姜を感じるのをより新しいとしなければならぬ。恐らくは江戸の昔からあつた一塊の根生姜を感じるのを。
「新感覚派」は勿論起らなければならぬ。それも亦あらゆる新事業のやうに(文芸上の)決して容易に出来るものではない。僕は「新感覚派」の作家たちの作品に、――と云ふよりも彼等の所謂「新感覚」に必しも敬服し難いことは前に書いた通りである。が、彼等の作品に対する批評家たちの批評も亦恐らくは苛酷に失してゐるであらう。「新感覚派」の作家たちは少くとも新らしい方向へ彼等の歩みを運んでゐる。それだけは何びとも認めなければならぬ。この努力を一笑してしまふのは単に今日「新感覚派」と呼ばれる作家たちに打撃を与へるばかりではない。彼等の今後の成長の上にも、引いては彼等の後に来る「新感覚派」の作家たちのしつかりと目標を定める上にもやはり打撃を与へるであらう。それは勿論日本の文芸を伸び伸びと進歩させる所以ではあるまい。
 しかし何と呼ばれるにもせよ、所謂「新感覚」を持つた作家たちは必ず今後も現れるであらう。僕はもう十年あまり前、確か久米正雄氏と一しよに「草土社さうどしや」の展覧会を見物した後、久米氏の「この庭のを見ても、『草土社』的に見えるのは不思議だよ」と感心してゐたことを覚えてゐる。「草土社」的に見えるのは正に十年あまり以前の所謂「新感覚」の為に外ならなかつた。かう云ふ所謂「新感覚」を明日の作家たちに期待するのは必しも僕の早計ばかりではあるまい。
 若し真に文芸的に「新しいもの」を求めるとすれば、それは或はこの所謂「新感覚」の外にないかも知れない。(新しいことなどは何でもないと云ふ議論は勿論この問題の埒外らちぐわいにある訣である。)所謂「目的意識」を持つた文芸さへ「目的意識」そのものの新旧を暫く問はないとすれば、(たとひ新旧を問つたとしても、バアナアド・シヨウの現れたのは千八百九十年代である。)実は大勢の前人の歩いて行つた道である。いはんや僕等の人生観は、――恐らくは「いろは骨牌がるた」の中にことごとく数へ上げられてゐることであらう。のみならずそれ等の新旧は文芸的な――或は芸術的な新旧ではない。
 僕は所謂「新感覚」の如何に同時代の人々に理解されないかを承知してゐる。たとへば佐藤春夫氏の「西班牙犬スペインいぬの家」は未だに新しさを失つてゐない。況や同人雑誌「星座」(?)に掲げられた頃はどの位新しかつたことであらう。しかしこの作品の新しさは少しも文壇を動かさずにしまつた。僕は或はその為に佐藤氏自身さへこの作品の新しさを――引いてはこの作品の価値を疑つてゐはしなかつたかと思つてゐる。かう云ふ事実は日本以外にも勿論未だに多いことであらう。しかし殊にはなはだしいのは僕等の日本ではないであらうか?

     三十四 解嘲

 僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐるわけではない。従つて何も谷崎潤一郎氏と対蹠点たいせきてんに立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の価値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。若し全然認めない論者があるとすれば、その論者こそ真に論敵である。僕は谷崎氏と議論を上下する上に誰にも僕の肩を持つて貰ひたくない。(同時に又谷崎氏の肩を持つて貰ひたくないことも勿論である。)僕等の議論の是非を弁ずるのでないことは僕等自身誰よりも知つてゐるつもりである。僕はこの頃雑誌の広告などに僕の「筋のある小説」さへ「筋のない小説」と云ふ名をつけられてゐるのを見、にはかにこの文章を作ることにした。「筋のない小説」とはどう云ふものかも容易に理解しては貰はれないらしい。僕は僕の弁じられるだけは弁じた。又二三の僕の知人は正当に僕の説を理解してゐる。あとはもう勝手にしろと言ふ外はない。

     三十五 ヒステリイ

 僕はヒステリイの療法にその患者の思つてゐることを何でも彼でも書かせる――或は言はせると云ふことを聞き、少しも常談じやうだんを交へずに文芸の誕生はヒステリイにも負つてゐるかも知れないと思ひ出した。虎頭燕頷ことうえんがん羅漢らかんは暫く問はず、何びとも多少はヒステリツクである。殊に詩人たちは余人よりもはるかにヒステリツクな傾向を持つてゐるであらう。このヒステリイは三千年来いつも彼等を苦しめつづけた。彼等の或ものはその為に死し、又彼等の或ものはその為にとうとう発狂してしまつたであらう。が、彼等はその為に彼等の喜びや悲しみを一生懸命にうたひ上げた。――かうも決して考へられないことはない。
 若し殉教者じゆんけうしやや革命家の中に或種のマゾヒストを数へ得られるとすれば、詩人たちの中にもヒステリイの患者は必しも少くはないであらう。「書かずにはゐられぬ心もち」は、即ち樹下の穴の中へ「王様の耳は馬の耳」と叫んだ神話中の人物の心もちである。若しこの心もちがなかつたとしたならば、少くとも「痴人の告白」(ストリントベリイ)などは生まれなかつたのに違ひない。のみならずかう云ふヒステリイは往々一時代を風靡ふうびしてゐる。「ウエルテル」や「ルネ」を生んだのもやはりこの時代的ヒステリイであらう。更に又全ヨオロツパを挙げて十字軍に加はらせたのも、――しかしそれは「文芸的な、余りに文芸的な」問題ではないかも知れない。癲癇てんかんは古来「神聖な病」と云ふ名を与へられてゐる。するとヒステリイもことによれば、「詩的な病」と呼ばれるであらう。
 ヒステリイを起してゐるシエクスピイアやゲエテを想像するのは滑稽である。従つてかう云ふ想像をするのは彼等の大を傷けると思はれるかも知れない。が、彼等の大を成すものはこのヒステリイの外にある彼等の表現力そのものである。彼等の何度ヒステリイを起したかは心理学者には或は問題であらう。しかし僕等の問題は表現力そのものに存してゐる。僕はこの文章を作りながら、ふと太古の森の中に烈しいヒステリイを起してゐる無名の詩人を想像した。彼は彼の部落の人々の嘲笑の的になつたであらう。けれどもこのヒステリイの促進した彼の表現力の産物だけは丁度地下の泉のやうに何代も後に流れて行つたであらう。
 僕はヒステリイを尊敬してゐるのではない。ヒステリツクになつたムツソリニは勿論国際的に危険である。けれども若し何びともヒステリイを起さなかつたとしたらば、僕等を喜ばせる文芸上の作品はどの位数を減じたであらう。僕は唯この為にヒステリイを弁護したいと思つてゐる。いつか女人の特権になつた、――しかし事実上何びとにも多少の可能性のあるヒステリイを。
 前世紀の末も文芸的には確かに時代的ヒステリイにおちいつてゐた。ストリントベリイは「青い本」の中にこの時代的ヒステリイに「悪魔の所為」の名を与へてゐる。悪魔の所為か善神の所為かは勿論僕の知る所ではない。しかし兎に角詩人たちはいづれもヒステリイを起してゐた。現にビルコフの伝記によれば、あの逞しいトルストイさへ半狂乱になつて家出したのは、つい近頃の新聞に出てゐた或女人のヒステリイ患者と殆ど寸分も変つてゐない。

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