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保吉の手帳から(やすきちのてちょうから)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-18 15:47:22  点击:  切换到繁體中文



     午休(ひるやす)み
      ――或空想――

 保吉(やすきち)は二階の食堂を出た。文官教官は午飯(ひるめし)の後(のち)はたいてい隣の喫煙室(きつえんしつ)へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降(くだ)ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗(いなご)のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然厳格(げんかく)に挙手の礼をした。するが早いか一躍(ひとおど)りに保吉の頭を躍(おど)り越えた。彼は誰もいない空間へちょいと会釈(えしゃく)を返しながら、悠々と階段を降り続けた。
 庭には槙(まき)や榧(かや)の間(あいだ)に、木蘭(もくれん)が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角(せっかく)の花を向けないらしい。が、辛夷(こぶし)は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草(まきたばこ)に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒(せきれい)が一羽舞い下(さが)って来た。鶺鴒も彼には疎遠(そえん)ではない。あの小さい尻尾(しっぽ)を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利(じゃり)を敷いた小径(こみち)を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍(おど)り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後(のち)、さっさと彼の側(そば)を通り抜けた。彼は煙草(たばこ)の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生(てんしょう)である。今にきっとシャヴルの代りに画筆(がひつ)を握るのに相違ない。そのまた挙句(あげく)に気違いの友だちに後(うし)ろからピストルを射かけられるのである。可哀(かわい)そうだが、どうも仕方がない。
 保吉はとうとう小径伝いに玄関(げんかん)の前の広場へ出た。そこには戦利品の大砲が二門、松や笹の中に並んでいる。ちょいと砲身に耳を当てて見たら、何だか息の通る音がした。大砲も欠伸(あくび)をするかも知れない。彼は大砲の下に腰を下した。それから二本目の巻煙草へ火をつけた。もう車廻しの砂利(じゃり)の上には蜥蜴(とかげ)が一匹光っている。人間は足を切られたが最後、再び足は製造出来ない。しかし蜥蜴は尻(し)っ尾(ぽ)を切られると、直(すぐ)にまた尻っ尾を製造する。保吉は煙草を啣(くわ)えたまま、蜥蝪はきっとラマルクよりもラマルキアンに違いないと思った。が、しばらく眺めていると、蜥蜴はいつか砂利に垂れた一すじの重油に変ってしまった。
 保吉はやっと立ち上った。ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白(うすじろ)い直線を迸(ほとばし)らせる。あれは球(たま)の飛ぶのではない。目に見えぬ三鞭酒(シャンパン)を抜いているのである。そのまた三鞭酒(シャンパン)をワイシャツの神々が旨そうに飲んでいるのである。保吉は神々を讃美しながら、今度は校舎の裏庭へまわった。
 裏庭には薔薇(ばら)が沢山ある。もっとも花はまだ一輪もない。彼はそこを歩きながら、径(みち)へさし出た薔薇の枝に毛虫(けむし)を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這(は)っているのがあった。毛虫は互に頷(うなず)き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした。
 第一の毛虫 この教官はいつ蝶(ちょう)になるのだろう? 我々の曾々々祖父(そそそそふ)の代から、地面の上ばかり這(は)いまわっている。
 第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。
 第一の毛虫 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでいるから。
 第二の毛虫 なるほど、飛んでいるのがある。しかし何と云う醜(みにく)さだろう! 美意識(びいしき)さえ人間にはないと見える。
 保吉は額(ひたい)に手をかざしながら、頭の上へ来た飛行機を仰(あお)いだ。
 そこに同僚に化(ば)けた悪魔が一人、何か愉快そうに歩いて来た。昔は錬金術(れんきんじゅつ)を教えた悪魔も今は生徒に応用化学(おうようかがく)を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。
「おい、今夜つき合わんか?」
 保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行(にぎょう)を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金(こがね)なす生活の樹(き)だ!」
 彼は悪魔に別れた後(のち)、校舎の中へ靴(くつ)を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗(のぞ)いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何(きか)の図(ず)が一つ描(か)き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸(の)びたり縮(ちぢ)んだりしながら、
「次の時間に入用(いりよう)なのです。」と云った。
 保吉はもと降りた階段を登り、語学と数学との教官室へはいった。教官室には頭の禿(は)げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛(くちぶえ)を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡(かがみ)を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭(はくとう)の老人に変っていた。

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