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或る女(あるおんな)後編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:28:18  点击:  切换到繁體中文



       三五

 葉子と倉地とは竹柴館たけしばかん以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑こわくしないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とからみつがれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
 しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶かんかつ無頓着むとんじゃくなそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などはみじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。
 葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず知らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫あいぶを受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り回して、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてそのあとに続く死滅と同然の倦怠けんたい疲労。人間が有する生命力をどん底からためし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてそのあとでは倉地の心はきっと野獣のようにさらにすさんでいた。葉子は不快きわまる病理的の憂鬱ゆううつに襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔しょうまが肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うんと力任せにり上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかとあやぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、……こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑さいぎを激しくした。
 有頂天うちょうてん溺楽できらくのあとに襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命をってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨てばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてそのあとにはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽できらくうほかはなかった。気分のすさんだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じ事を求めていた。こうして二人ふたり底止ていしする所のないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。
 ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり目は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。ほお傷々いたいたしくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与えるくぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎したあごの輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄ようせいな精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。
 葉子はべにのまじった紅粉おしろいをほとんど使わずに化粧をした。あごの両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。まくらを入れずに前髪を取って、束髪そくはつまげを思いきり下げて結ってみた。びんだけを少しふくらましたのであごの張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的はいたいてきな同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味じみな一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋えちごやに車を走らせた。
 昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分をいためちぎった芸術家のようにへとへとに疲れきっていた。
 帰りついた玄関の靴脱くつぬぎ石の上には岡の細長い華車きゃしゃな半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋へやに行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯さゆを飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子うらばしごからそっと登って行った。そしてふすまをあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園たいこうえんにでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
 岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄てすりから庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段はしごだんに足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人ひとりは本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
 突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっとくつろがせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶あいさつした。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生ふだんと少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっとひざをついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
さあちゃんは」
 と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人ふたりは思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。
「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
 そう愛子が少し下を向いてまげだけを葉子に見えるようにして素直すなおに答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっと岡の目を見つめながら、
「何? 読んでいらしったのは」
 といって、そこにある四六細型しろくほそがたの美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶ようえんな女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子ほうあきこ[#ルビの「ほうあきこ」は底本では「おおとりあきこ」]の詩集だった。そこには「明星みょうじょう」という文芸雑誌だの、春雨しゅんうの「無花果いちじく」だの、兆民居士ちょうみんこじの「一年有半ねんゆうはん」だのという新刊の書物も散らばっていた。
「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
 と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」
「これは」
 といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」
 愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
 葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾しんかんしたようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。
「なんだかわたしとはすっかり違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで……わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのようなかたにはちょっと不似合いですわ」
「そうでしょうか」
 岡は何とはなく今にでもものにさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先やりさきを向けた。
「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
 といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、
「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
 といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
「えゝ、……くださいましたから」
「どんなお手紙を」
 愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさを葉子はよく知っていた。葉子の神経はびりびりと緊張して来た。
「持って来てお見せ」
 そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗しつように黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はと立ち上がって部屋へやを出て行った。
 葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢むく童貞の青年が不思議な戦慄せんりつを胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視みつめつづけた。岡はつばを飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
「岡さん」
 そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
 そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人ふたりの大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分しょうぶんとしてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人ふたりには倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手じょうずだったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのにはえられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。
「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手へたくそなぬたでもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……この御本と一緒にもお手紙が来たはずね」
 愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れるといえばもう暗くなったわ。さあちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」
 愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重ふたえになるおとがいで押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人ふたりをたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視べっしもし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきりと感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々にがにがしい猜疑さいぎのために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすとそでにするまでにその情炎はこうじていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入たばこいれを取り出してゆっくり煙を吹いた。煙管きせるの先がはしなく火鉢ひばちにかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
 そこには二人の間にしばらくぎごちない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持はじから離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放埒ほうらつな醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏頗へんぱな愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中ふうな圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷ややかな、さびしい表現法で、そして息気いきづまるような若さと若さとの共鳴の中に……。
 勃然ぼつぜんとして焼くような嫉妬しっとが葉子の胸の中に堅くこごりついて来た。葉子はすり寄っておどおどしている岡の手を力強く握りしめた。葉子の手は氷のように冷たかった。岡の手は火鉢ひばちにかざしてあったせいか、珍しくほてって臆病おくびょうらしい油汗が手のひらにしとどににじみ出ていた。
「あなたはわたしがおこわいの」
 葉子はさりげなく岡の顔をのぞき込むようにしてこういった。
「そんな事……」
 岡はしょう事なしに腹をえたように割合にしゃんとした声でこういいながら、葉子の目をゆっくり見やって、握られた手には少しも力をこめようとはしなかった。葉子は裏切られたと思う不満のためにもうそれ以上冷静を装ってはいられなかった。昔のようにどこまでも自分を失わない、粘りの強い、鋭い神経はもう葉子にはなかった。
「あなたは愛子を愛していてくださるのね。そうでしょう。わたしがここに来る前愛子はあんなに泣いて何を申し上げていたの?……おっしゃってくださいな。愛子があなたのような方に愛していただけるのはもったいないくらいですから、わたし喜ぶともとがめ立てなどはしません、きっと。だからおっしゃってちょうだい。……いゝえ、そんな事をおっしゃってそりゃだめ、わたしの目はまだこれでも黒うござんすから。……あなたそんな水臭いお仕向けをわたしになさろうというの? まさかとは思いますがあなたわたしにおっしゃった事を忘れなさっちゃ困りますよ。わたしはこれでも真剣な事には真剣になるくらいの誠実はあるつもりです事よ。わたしあなたのお言葉は忘れてはおりませんわ。姉だと今でも思っていてくださるならほんとうの事をおっしゃってください。愛子に対してはわたしはわたしだけの事をして御覧に入れますから……さ」
 そう疳走かんばしった声でいいながら葉子は時々握っている岡の手をヒステリックに激しく振り動かした。泣いてはならぬと思えば思うほど葉子の目からは涙が流れた。さながら恋人に不実を責めるような熱意が思うざまわき立って来た。しまいには岡にもその心持ちが移って行ったようだった。そして右手を握った葉子の手の上に左の手を添えながら、上下からはさむように押えて、岡は震え声で静かにいい出した。
「御存じじゃありませんか、わたし、恋のできるような人間ではないのを。年こそ若うございますけれども心は妙にいじけて老いてしまっているんです。どうしても恋の遂げられないような女のかたにでなければわたしの恋は動きません。わたしを恋してくれる人があるとしたら、わたし、心が即座に冷えてしまうのです。一度自分の手に入れたら、どれほどとうといものでも大事なものでも、もうわたしにはとうとくも大事でもなくなってしまうんです。だからわたし、さびしいんです。なんにも持っていない、なんにもむなしい……そのくせそう知り抜きながらわたし、何かどこかにあるように思ってつかむ事のできないものにあこがれます。この心さえなくなればさびしくってもそれでいいのだがなと思うほど苦しくもあります。何にでも自分の理想をすぐあてはめて熱するような、そんな若い心がほしくもありますけれども、そんなものはわたしには来はしません……春にでもなって来るとよけい世の中はむなしく見えてたまりません。それをさっきふと愛子さんに申し上げたんです。そうしたら愛子さんがお泣きになったんです。わたし、あとですぐ悪いと思いました、人にいうような事じゃなかったのを……」
 こういう事をいう時の岡はいう言葉にも似ず冷酷とも思われるほどたださびしい顔になった。葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。そしてちょっとすかされたように気勢をそがれたが、どんどんわき上がるように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽りふじんにした。
「愛子がそんなお言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。……それならそれでようござんす。……(ここで葉子は自分にもえ切れずにさめざめと泣き出した)岡さんわたしもさびしい……さびしくって、さびしくって……」
「お察し申します」
 岡は案外しんみりした言葉でそういった。
「おわかりになって?」
 と葉子は泣きながら取りすがるようにした。
「わかります。……あなたは堕落した天使のような方です。御免ください。船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさからのがれます」
「うそ!……あなたはもうわたしに愛想あいそをおつかしなのよ。わたしのように堕落したものは……」
 葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
「そういう意味でいったわけじゃないんですけれども……」
 ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく岡は独語ひとりごちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。
 三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重ひとえ桜のこずえには南に向いたほうに白いべんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森すぎもりがゆるやかに暮れめて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園たいこうえんのほうから園丁が間遠まどおはさみをならす音が聞こえるばかりだった。
 若さから置いて行かれる……そうしたさびしみが嫉妬しっとにかわってひしひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐おやさを思った。葉子が木部きべとの恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸にせまって来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子にせまるその心持ちは、さらに葉子を畳に突っして泣かせるほど強いものだった。
 玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪ぞうおを感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだようだった。二人ふたりの足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
「いや」
 と小さく退けるようにいう愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪ぞうおの影は明らかに薄かった。
 葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭をあげた。
 すぐ倉地が階子段はしごだんをのぼって来る音が聞こえた。
「わたし台所に参りますからね」
 何も知らなかったらしい岡に、葉子はわずかにそれだけをいって、突然座を立って裏階子うらばしごに急いだ。と、かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋へやの空気をよごした。
「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」
 いかにも気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事もできないほど興奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込むようにくわえて、震える手で壁を細かくたたくようにしながら階子段はしごだんを降りた。
 葉子は頭の中に天地のくずれ落ちるような音を聞きながら、そのまま縁に出て庭下駄げたをはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、はだしのまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時にはいつ戸をあけたとも知らず物置き小屋の中にはいっていた。

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