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或る女(あるおんな)後編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:28:18  点击:  切换到繁體中文



       四五

 この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。

こと重大となり姿を隠す。郵便ではるいを及ぼさん事を恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」

 とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手跡には間違いない。しかしあの発作ほっさ以後ますますヒステリックに根性こんじょうのひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに頭の中をき乱した。
 岡と愛子とがすっかり打ち解けたようになって、岡がほとんど入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。
「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人にたよりたくはなくなりました」
「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」
 岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃いんぎんかよわし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜疑心さいぎしんをあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せる事がある。
「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃんと申し上げておかないとあとになっていさくさが起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」
 そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布しっぷを縫っている愛子のほうにも振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥しゅうちのために葉子を見かえる事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりといえば露骨ろこつな言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかりと見窮められなかった。
 これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。葉子は自分の目で二人ふたりを看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の細君さいくんの事も思った。今ごろは彼らはのうのうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行くえを尋ねあてる事はちょっとむずかしい。
 それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働きかただった。それは自分ながら全く地獄じごく苛責かしゃくだった。
 そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命をつ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっと高鳴った。薬局の前を通るとずらっとならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿ゆどのはり、看護婦室に薄赤い色をしてかなだらいにたたえられた昇汞水しょうこうすい、腐敗した牛乳、剃刀かみそりはさみ、夜ふけなどに上野うえののほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋へや、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を毒蛇どくじゃのごとく鎌首かまくびを立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのがえられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
 と貞世の寝息をうかがいながらしっかり思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返つばめがえしに死から生のほうへ、苦しい煩悩ぼんのうの生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地いじにかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
 すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、継母ままははがまま子をいびり抜くように没義道もぎどうに取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。
 貞世の病状は悪くなるばかりだった。
 ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまい事を考えたものだ。その復讐ふくしゅうはきっとしてやる。根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。
 婦人科のへやは伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建て物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院する事になったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身ぢかにある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全くとだえてしまっていたから。岡がしきりと融通ゆうずうしようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。
 葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋へやにはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った居心地いごこちのいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草もえていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくのあいだ手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけでする事もなく日を過ごした。
 しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。一人ひとりになって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通して来たと驚くばかりだった。寝台の上にてみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっち返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事はできなかった。
 こうしてながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという目途あては露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出してしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いもよらなかった。
 葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根まくら深々ふかぶかと頭を沈めて、氷嚢ひょうのうを額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針でみ込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。父母――ことに父のなめるような寵愛ちょうあいもとに何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、国分寺こくぶんじくぬぎの林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌びぼうと才能の持ち主として、女たちからは羨望せんぼうまととなり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも昂然こうぜんと首をもたげて、自分は今の日本に生まれてべき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する矜誇ほこりに満ちていた、あの妖婉ようえんな女性はまごうかたなく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉あぶらぜみの声は御殿の池をめぐる鬱蒼うっそうたる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、かなしい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならばこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩ぼんのう勃然ぼつぜんとしてその歯がみした物すごい鎌首かまくびきっともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。
 葉子はふとつやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館そうかくかんからいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。

       四六

 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段はしごだんがあったり、日当たりのいいちゅう二階のような部屋へやがあったり、納戸なんどと思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈かいわいにたくさんある待合まちあいの建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木かじき病院というその病院の看護婦になっていた。
 長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉きなこでまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町すだちょうに出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足ひとあし先に病院に行かして、葉子は外濠そとぼりに沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店くぎだな横丁よこちょうに曲がらせた。自分の住んでいた家を他所よそながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌まえほろのすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には叔父おじの名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂えいじゅどう病院という看板は相変わらず玄関の※(「木+眉」、第3水準1-85-86)なげしに見えていた。長三洲ちょうさんしゅうと署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子がくしを折って急に泣き出したのも、貞世がおこったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
「もういい早くやっておくれ」
 そう葉子は車の上から涙声でいった。車は梶棒かじぼうを向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母おじおばの事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。鎌倉かまくらに行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、金輪際こんりんざい忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全くみじめにしてしまった。
 病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな落魄らくはくしたような姿をつやに見せるのがえがたい事のように思われ出したのだ。
 暗い二階の部屋へやに案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに挨拶あいさつもせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいがどろ臭くかよって来るような所だった。愛子はすすけた障子しょうじの陰で手回りの荷物を取り出して案配あんばいした。口少くちずくなの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々そうぞうしいだけに部屋の中はなおさらひっそりと思われた。
 葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中もさびれていた。少しかびを持ったようにほこりっぽくぶくぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違いだなには手文庫と硯箱すずりばこが飾られたけれども、床の間には幅物ふくもの一つ、花活はないけ一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷ふろしきに包み込んだ衣類と黒いのパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、ふちの所にげた所ができて、表には赤い短冊たんざくのついた矢がまとに命中しているが安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。さあちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」
 いつものとおりはきはきとした手答えがないので、もうぎりぎりして来た葉子はけんを持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を発矢はっしとむちうった。そして寝床の上に半身をひじにささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。
「あなたにきょうははっきり聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょんな約束なんぞしてはいますまいね」
「いゝえ」
 愛子は手もなく素直すなおにこう答えて目を伏せてしまった。
「古藤さんとも?」
「いゝえ」
 今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっと葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしらを切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪訝けげんに思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内兜うちかぶとを見透かされたようなもどかしさはいっそう葉子の心を憤らした。
「あなたは二人ふたりから何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
 愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星ずぼしをさしたと思ってかさにかかって行った。
「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
「おっしゃらない事があるもんかね」
 憤怒ふんぬに伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっと押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動をつめの先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠れだった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱うすべもなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなすすべを知っているのだけれども、あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲からながめながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があてになるものか。……葉子は手傷を負ったいのししのように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。
「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。ねえさんを甘くお見でないよ。……お前さんほんとうに黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきりわかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」
「そうじゃありません」
 あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしくあわててこういって言葉でささえようとした。
「もっとこっちにおいで」
 愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪ぞうおは極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床からおどり上がった。そうしていきなり愛子のたぶさをつかもうとした。
 愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作ほっさを見て取ると、敏捷びんしょうに葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみに愛子の袖先そでさきをつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手にき傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでそのあとを追ったが、とても愛子の敏捷びんしょうさにはかなわなかった。そして階子段はしごだんの降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
 幾時間かの人事不省の後に意識がはっきりしてみると、葉子は愛子とのいきさつをただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。まくらもとの障子には葉子の手のさし込まれたあなが、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口のにうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっとしているのが、えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、うみっぽい女を葉子は何よりものろわしいものに思っていた。葉子はつやのまめやかな心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。
 これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの囈言うわごと……それがどうかすると近々ちかぢかと耳に聞こえたり、ぼんやりと目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷びんしょうになって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだすさびしさはたとえようがなかった。
 愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。もう始めの日のような狼藉ろうぜきはしなかったけれども、その顔を見たばかりで、葉子は病気がおもるように思った。ことに貞世の病状が軽くなって行くという報告は激しく葉子をおこらした。自分があれほどの愛着をこめて看護してもよくならなかったものが、愛子なんぞの通り一ぺんの世話でなおるはずがない。また愛子はいいかげんな気休めに虚言うそをついているのだ。貞世はもうひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に根掘り葉掘り聞いてみるが、二人ふたりの言葉があまりに符合するので、貞世のだんだんよくなって行きつつあるのを疑う余地はなかった。葉子には運命が狂い出したようにしか思われなかった。愛情というものなしに病気がなおせるなら、人の生命は機械でも造り上げる事ができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世はだんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。
 葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。
 日はたつけれども倉地からはほんとうになんの消息もなかった。病的に感覚の興奮した葉子は、時々肉体的に倉地を慕う衝動に駆り立てられた。葉子の心の目には、倉地の肉体のすべての部分は触れる事ができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で造り出した不思議な迷宮の中にあって、意識のしびれきるような陶酔にひたった。しかしその酔いがさめたあとの苦痛は、精神の疲弊と一緒に働いて、葉子を半死半生のさかいに打ちのめした。葉子は自分の妄想もうそう嘔吐おうとを催しながら、倉地といわずすべての男をのろいに呪った。
 いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれをさほど恐ろしい事とは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、買って帰って読んだ浩澣こうかんな医書によって見ても、その手術は割合に簡単なものであるのを知り抜いていたから、その事については割合に安々やすやすとした心持ちでいる事ができた。ただ名状しがたい焦躁と悲哀とはどう片づけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分のまわりをさびしく見回してみた。出あうかぎりの男と女とが何がなしにひき着けられて、離れる事ができなくなる、そんな磁力のような力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置き部屋べやのような貧しい一室のすみっこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながらくずれかけた五体をたよりなく横たえねばならぬのだ。それは葉子に取ってはあるべき事とは思われぬまでだった。しかしそれが確かな事実であるのをどうしよう。
 それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。自分の病気がえきったその時を見ているがいい。どうして倉地をもう一度自分のものに仕遂しおおせるか、それを見ているがいい。
 葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を流しながら、徒然つれづれなままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分もたたないうちに熱くぬれ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。

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