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或る女(あるおんな)後編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:28:18  点击:  切换到繁體中文



       三八

「何をそうずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
 倉地は倉地にしては特にやさしい声でこういった、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子は飛んでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
「ついシャツを仕替しかえる時それだけ忘れてしまって……」
「いいわけなんぞはいいわい。早く頼む」
「はい」
 葉子はしとやかにそういって寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタンあなに入れようとしたが、のりこわいのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
「すみませんがちょっと脱いでくださいましな」
「めんどうだな、このままでできようが」
 葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。
「だめか」
「まあちょっと」
「出せ、貸せおれに。なんでもない事だに」
 そういってくるりと振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをはめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手ははげしく震え出した。
「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
 葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
「ばか! 邪魔をしろといいやせんぞ」
 葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
「御免くださいね、わたしお邪魔なんぞ……」
「邪魔よ。これで邪魔でなくてなんだ……えゝ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」
 倉地は口をとがらしてあごを突き出しながら、どしんと足をあげて畳を踏み鳴らした。
 葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てている所だった。
むなくその悪い……おい日本服を出せ」
襦袢じゅばんえりがかけずにありますから……洋服で我慢してくださいましね」
 葉子は自分が持っていると思うほどのびをある限り目に集めて嘆願するようにこういった。
「お前には頼まんまでよ……愛ちゃん」
 倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下のほうに耳を澄ました。葉子はそれでもこんかぎり我慢しようとした。階子段はしごだんしとやかにのぼって愛子がいつものように柔順に部屋へやにはいって来た。倉地は急に相好そうごうをくずしてにこやかになっていた。
「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」
 愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉かたじしの肉体を美しく折り曲げて、雪白せっぱくのシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃんと倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずうずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の目には憎々しく映った。
「よけいな事をおしでない」
 葉子はとうとうかっとなって愛子をたしなめながらいきなり手にあるシャツをひったくってしまった。
「きさまは……おれが愛ちゃんに頼んだになぜよけいな事をしくさるんだ」
 とそういって威丈高いたけだかになった倉地には葉子はもう目もくれなかった。愛子ばかりが葉子の目には見えていた。
「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどんの仕事もろくろくできはしないくせによけいな所に出しゃばるもんじゃない事よ。……下に行っておいで」
 愛子はこうまで姉にたしなめられても、さからうでもなくおこるでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な目で姉をじっと見て静々しずしずとその座をはずしてしまった。
 こんなもつれ合ったいさかいがともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子をいたわってやろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責かしゃくを貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗へんぱに傾いて来る自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱憤うっぷんをもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気が付くと葉子はしゃがんだまま一茎の名もない草をたった一本摘みとって、目に涙をいっぱいためながらつめの先で寸々ずたずたに切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。
 同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫ばまれた葉子は抱擁によっての有頂天うちょうてんな歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄じごくのような呵責かしゃくがあるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔吐おうとを催すような肉体の苦痛と、しいて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾棄だきすべき倦怠けんたいばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な無感覚を分け前してたとえようもない憎悪ぞうおを感ずるのはもちろんだった。葉子はそれを知るとさらにいい知れないたよりなさを感じてまたはげしく倉地にいどみかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。そしてますますその気分はすさんで行った。
「きさまはおれにきたな。男でも作りおったんだろう」
 そうつばでも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわにいうような日も来た。
「どうすればいいんだろう」
 そういってひたいの所に手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
 ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮後屈こうくつ症と子宮内膜炎とを併発しているからだといって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりにいって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋へやに閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は外科手術を施して位置矯正きょうせいをする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻けっそうする事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位置矯正の場合などに施術者しじゅつしゃの不注意から子宮底に穿孔せんこうを生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆弱ぜいじゃくになって、あらぬ方向にばかりわれにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。それは葉子の僻見へきけんであるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意をひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪けんおをさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような奇怪の麻酔ますいの力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的なのままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意をさしはさんでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬しっとのために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛にえ忍ぼうとした。
 そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
 と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンのひざには焼けこげの小さなあなが明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷ふろしきから取り出した。
「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
 そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあしゃあとして平気なものだった。ゆっくり内衣嚢うちがくしから巻煙草まきたばこ入れを取り出して、金口きんぐちを一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかにかおりのいい煙を座敷に漂わした。
「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇ばらも咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋をったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから……時に奥さん」
 そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけてひざを乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっしゃくにさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌びぼうとに充分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉ゆうえんに円滑に男を自分のかけた陥穽わなの中におとしいれて、自縄自縛じじょうじばくにがい目にあわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破目はめになると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
 正井はひざを乗り出してから、しばらく黙って敏捷びんしょうに葉子の顔色をうかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
「少しばかりでいいんです、一つ融通ゆうずうしてください」
 と切り出した。
「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日こんにちのような境界きょうがいでは、わたしに何ができましょう。正井さんにも似合わないまと違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいるとわたしが困りますから」
 葉子は取りつく島もないようにといや味な調子でずけずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰吹きに落とした。
「もう少しざっくばらんにいってくださいよきのうきょうのお交際つきあいじゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたってわたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事はしないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。……しかし……一つなんとかならないもんでしょうか」
 葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言ひとことにすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、捨てばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。そんな事をさせては飛んだ事になる。葉子はますます弱身よわみになった自分を救い出すすべこうじ果てていた。
「それを御承知でわたしの所にいらしったって……たといわたしに都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼわたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を何する……」
「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」
 正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってるめかけにでもせまるようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざむざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
 それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅いちぐうに陣取って酒と煙草たばことにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見ぬく目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した秘密な仕事の巨細こさいをもらした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっとさせる事ばかりだった。倉地が日清にっしん戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の蒐集しゅうしゅう者としてその仲間の牛耳ぎゅうじを取るようになり、露国や米国に向かってもらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分がすさんで行くのももっともだと思われるような事柄を数々かずかず葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身をまもるためにも正井のきげんを取りはずしてはならないと思うようになった。そして正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。倉地はともすると敵の間諜かんちょうではないかと疑うような険しい目で葉子をにらむようになった。そして二人ふたりの間にはまた一つのみぞがふえた。
 そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには倉地からのあてがいだけではとても足りなかった。葉子はありもしない事をまことしやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を導くためにならとにもかくにも、葉子に一種の獰悪どうあくな誇りをもってそれをして、男のためになら何事でもという捨てばちな満足を買い得ないではなかったが、その金がたいてい正井のふところに吸収されてしまうのだと思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。仕事のほうにも手違いや誤算があって始めの見込みどおりには成功とはいえないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの信用は得ているから構わずいってよこせとも書いてあった。こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに自分のしている事が苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ちあけて、関係をとうかと思い悩むような事が時々あった。その矢先なので、葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、その病気にも影響した。そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、葉子は痛ましくやせ細った、目ばかりどぎつい純然たるヒステリー症の女になっていた。

       三九

 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷わるびえのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いもよらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。きょうこそは一日気がはればれするだろうと思うような日は一日もなかった。きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには充分すぎた。
 五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこいいどみと、激しい嫉妬しっとと、理不尽な疳癖かんぺきの発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えないふしがあった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内場破うちばわれが起こって、倉地の力でそれをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。それにしても倉地の疎遠は一向ひたすらに葉子には憎かった。
 ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。
「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれがくらい込んでもお前にはとばっちりが行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほんなしにお前とは手を切って見せるから」
 その最後の言葉は倉地の平生へいぜいに似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気いきをつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。
 堕落といわれようと、不貞といわれようと、他人手ひとでを待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が見えたと有頂天うちょうてんになった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり打って地上にくずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上でやいばに伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時いっときなりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思う事もあった。
 実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫はむしが飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町こはんちょう裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿ゆどのに忍んで行って、さめかけた風呂ふろにつかった。妹たちはとうに寝入っていた。手ぬぐい掛けの竹竿たけざおにぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人ふたりの妹の事がひしひしと心にせまるようだった。葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。
 倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い丸髷まるまげの女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも双鶴館そうかくかん女将おかみらしくもあった。葉子はかっとなって足早にそのあとをつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を正直に信じていた自分はまんまいつわられていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係をつ。悪く思わないでくれと確かにそういった、その義侠ぎきょうらしい口車くちぐるままんまと乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと目が回ってその場に倒れてしまいそうなくやしさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女はそのへんに辻待つじまちをしている車に乗ろうとする所だった。取りにがしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかどらなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事もはばかられた。もう十けんというくらいの所まで来た時車はがらがらと音を立てて砂利道じゃりみちを動きはじめた。葉子は息気いきせき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森すぎもりで囲まれたさびしい暗闇くらやみの中にただ一人ひとり取り残されていた。葉子はなんという事なくその辻車つじぐるまのいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い地面じめんじっと見つめていた。確かにあの女に違いなかった。せい格好といい、まげの形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそを使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を仲人ちゅうにんに立てて先妻とのよりもどそうとしているに決まっている。それに何の不思議があろう。長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母ではないか。葉子というものに一日一日うとくなろうとする倉地ではないか。それに何の不思議があろう。……それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱりと別れても見せる。……なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんというかたにお気の毒だから、わたしはもういものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。
 葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に着いた時には、息気いき苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気狂きちがいが来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんな事には気もかけずに物すごい笑顔えがおでことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと階子段はしごだんをのぼって行った。ここが倉地の部屋へやだというそのふすまの前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しくふすまを開いた。
 部屋の中には案外にも倉地はいなかった。すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚のにおいもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。いるに違いないとひとりめをした自分の妄想もうそうが破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり気抜けがして、髪も衣紋えもんも取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやりしていた。
 あたりは深山のようにしーんとしていた。ただ葉子の目の前をうるさく行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別ふんべつもなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気さむけがするほどぞっとおそろしくなって気がはっきりした。
 急に周囲あたりには騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきりきりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾よがだった。葉子は神がかりが離れたようにきょとんとなって、不思議そうに居ずまいをただしてみた。
 どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
 自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂ふろをつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの竹竿たけざおにかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の女将おかみのあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいるをもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり連絡をつけて考える事ができなかった。
 葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
「あのう、あとでこのを追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきりしませんがね、ここに三十格好の丸髷まるまげを結った女の人が見えましたか」
「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
 番頭は怪訝けげんな顔をしてこう答えた。
「こちら様だろうがなんだろうが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人ひとりお帰りになりました」
「双鶴館のお内儀かみさんでしょう」
 図星ずぼしをさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚おうような態度を見せてこう聞いてみた。
「いゝえそうじゃございません」
 番頭は案外にもそうきっぱりといい切ってしまった。
「それじゃだれ」
「とにかく他のお部屋へやにおいでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
 葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
 葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将おかみが来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐるになっていてしらじらしい虚言うそをついたようにもあった。
 何事も当てにはならない。何事もうそから出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
 ……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟ひっきょうは水の上に浮いたあわがまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸しがいになった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将おかみだと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子はめきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄みとおった心がただ一つぎりぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚とだなの中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度戸棚とだなに行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこちと尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃにしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルをひざの上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て鶏頭けいとうを引き上げた。
 きりっ
 と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっとおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだようにゆるがなかった。葉子はそうしたまま短銃をまたひざの上に置いてじっとながめていた。
 ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきりとは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚とだなの中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作しうちを怪しんでいた。
 葉子はやがて一人ひとりの女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの部屋へやなんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安堵あんどさせる所だった。そしてこの女を……このまだしょうのあるこの女を喜ばせるところだった。
 葉子は一刹那いっせつなの違いで死のさかいから救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬しっとの情と憤怒とにおそろしい形相ぎょうそうになって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、総身そうしんの力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどうと倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
 店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
 番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
 といった。葉子は、
「えゝ夢を見ました。あの黒いが悪いんです。早く追い出してください」
 そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。
 こういう発作ほっさを繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人ふたりの妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物はものなどに注意しろといったりした。
 岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。

       四〇

 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森すぎもりの中から小さな羽虫はむしが集まってうるさく飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋へやで酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を単衣物ひとえものの下にとがらして、神経的にえりぐっとかき合わせて、きちんぜんのそばにすわって、華車きゃしゃ団扇うちわで酒のに寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々こんこんと泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつんと会話を杜絶とだやしてしまった。
さあちゃんやっぱり駄々だだをこねるか」
 一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。
「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」
「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」
「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」
 葉子は途轍とてつもなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょんな事をいった。
「そうだおれもそう思う事があるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたららちはあかんからな。……したが、おれはまだもう一反ひとそってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」
「ほんとうですわ」
 そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。
「正井のやつが来るそうじゃないか」
 倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、空腹ひもじがらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきりとはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、
「いゝえ」
 と答えてしまった。
ない?……そりゃお前いいかげんじゃろう」
 と倉地はたしなめるような調子になった。
「いゝえ」
 葉子は頑固がんこにいい張ってそっぽを向いてしまった。
「おいその団扇うちわを貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん……来ない事があるものか」
「だれからそんなばかな事お聞きになって?」
「だれからでもいいわさ」
 葉子は倉地がまた歯にきぬ着せた物の言いかたをすると思うとかっと腹が立って返辞もしなかった。
「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」
 葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子のねかたに不快を催したらしかった。
「おい葉子! 正井はるのかんのか」
 正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。
「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」
「酒も何も飲めるか……おれが暇を無理に作ってゆっくりくつろごうと思うて来れば、いらん事にかどを立てて……何の薬になるかいそれが」
 葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が明々地あからさまにいってくれさえすれば、元の細君さいくんを呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前一人ひとりだ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄じごく苛責かしゃくよりも葉子にはえがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
 葉子は倉地の最後の一言ひとことでその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張きばりながら幾度も雄々おおしく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。
「葉子! お前はなんでこのごろそう他所他所よそよそしくしていなければならんのだ。え?」
 といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のようにおこっていた。
他所他所よそよそしいのはあなたじゃありませんか」
 そう知らず知らずいってしまって、葉子は没義道もぎどうに手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、
「あゝ……あ、地獄だ地獄だ」
 と心の中で絶望的にせつなく叫んだ。
 二人ふたりの間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。
 その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤ことうが来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳のにはいって来て、古藤が来たと告げた。
「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ……御飯どきも構わないで……」
 とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想あいそを尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。
「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」
 そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。
 二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶あいさつを済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。
「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓せいとんなんです。ところがぼく整頓風呂敷せいとんぶろしき洗濯せんたくしておくのをすっかり忘れてしまってね。今特別に外出を伍長ごちょうそっと頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、ふちを縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」
「おやすい御用ですともね。愛さん!」
 大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生へいぜいに似合わず、あたふた階子段はしごだんをのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がよりかたく結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこのふちを縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」
 そういって古藤を妹たちの部屋へやの隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。
「木村からたよりがありますか」
 木村は葉子の良人おっとではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
「困っているようですね」
「えゝ、少しはね」
「少しどころじゃないようですよぼくの所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年さらいねんに延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」
 なんというぶしつけな事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまりがないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。
「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」
「木村っていうのはそうした男なんだ」
 古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、
「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」
 と激しく葉子をまともに見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の真鍮しんちゅうぼたんをはめたりはずしたりした。
「なぜですの」
「木村は困りきってるんですよ。……ほんとうにあなた考えてごらんなさい……」
 勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、ふすまを明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」
 と言葉をそらした。
「愛さんもうできて?」
 と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしおに葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両ひじを持たせたまま、ぼんやりと庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。垣根添かきねぞいの木の間からは、種々な色の薔薇ばらの花が夕闇ゆうやみの中にもちらほらと見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪かんしゃくぎりぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、
これっぽっち……愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは……さあちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで……」
ぼくは倉地さんにあって来ます」
 突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段はしごだんを降りて行こうとした。葉子はすばやく愛子に目くばせして、下に案内して二人ふたりの用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。
 葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳癖かんぺきが募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまともにぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその心根こころねを思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人ひとりぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国三界さんがいにい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食こじきになっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ素直すなおで誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して懸念けねんなどする必要はないし、事業というようなものはてんで持ってはいない。木村とはなんといっても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真裸まっぱだかになるほど、職業から放れて無一もんになっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶はかなしくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬しっととを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちくちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
 そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両ひじをついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやりと庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆こくしつかみの毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどのとしの時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっと悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病おくびょうがる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎いなかのほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらんと客のいた大きな旅籠屋はたごや宿とまった時、まくらを並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばんはしに寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体えたいのわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞくぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人ふたりの中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋はたごやの二階の手摺てすりから少し荒れたような庭を何の気なしにじっと見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に虚事うそをしているのだ。いいかげんの所で自分はどんとみんなから突き放されるような悲しい事になるに違いない[#「なるに違いない」は底本では「あるに違いない」]。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなったあかつき一人ひとりでこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。
 葉子は貞世の後ろ姿を見るにつけてふとその時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔香園たいこうえんは苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやしてしんのほうだけが澄みきった水のようにはっきりしたその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って夕闇ゆうやみに埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
さあちゃん」
 とうとう黙っているのが無気味ぶきみになって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっとした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。
 その時階下で倉地のひどく激昂げきこうした声が聞こえた。葉子ははっとして長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにかひざからずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっと聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
さあちゃん。……貞ちゃん……」
 葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろからがいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願けちがんを思い出して、心を鬼にしながら、
さあちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事ですねたまねをして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやりしていると毒ですよ」
「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」
「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」
 貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっにして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり打ちくだかれていた。水落みぞおちのあたりをすっと氷の棒でも通るような心持ちがすると、のどの所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
 倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。

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