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崩れる鬼影(くずれるおにかげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 15:59:02  点击:  切换到繁體中文



   飛びゆく怪博士


 悲鳴のする家は、ようやくに判りました。それは、向うに見えている大きい洋館でありました。二階の窓が開いて、何だか白い着物を着た女の人らしいものが、両手を拡げて救いを求めているようです。
「どこからあの家へ行けるんだろう」と兄が疳高かんだかい声で叫びました。
「ほら、あすこに門のようなものが見えていますよ」と私は道をすこし上った坂の途中に鉄の格子こうしの見えるのをゆびさしました。
「うん。あれが門だな。よォし、駈け足だッ」
 私達二人は夢中で草深い坂道を駈けあがりました。
「門は締っているぞ」
「どうしましょう」押しても鉄の門はビクとも動きません。
じょうがかかっている。面倒だが乗り越えようよ。それッ」
 二人はおたがいに助けあって、鉄柵てっさくを飛び越えました。下は湿しめっぽい土が砂利じゃりんでいました。私はツルリと滑って尻餅しりもちをつきましたが、直ぐにまた起上りました。
「オヤッ」
 先頭に立っていた兄が、何かこわいものにおびえたらしく、サッと身を引くと私をかばいました。兄は天の一角をグッとにらんでいます。私は何事だろうと思って、兄の視線を追いました。
「おお、あれは何だろう?」
 私は思わず早口に独言ひとりごとを云いました。ああそれは何という思いがけない光景を見たものでしょうか。何という奇怪さでしょう。向うから白い服を着た男が、フワフワと空中を飛んでくるのです。それは全く飛ぶという言葉のあてはまったような恰好でした。私は何か見違みちがいをしたのだろうと思いかえして、両眼りょうがんをこすってみましたが、確かにその人間はフワリフワリと空中を飛んでいるのです。だんだんとあやしい人間は近づいて来ます。私は兄の腰にシッカリすがりついていましたが、こわいもの見たさで、眼だけはその人間から一こくも離しませんでした。
たみちゃん、恐くはないから、我慢をしているのだよ」と兄は私の肩を抱きしめて云いました。「じッと動かないで見ているのだ。じッとしてさえ居れば、あいつは気がつかないで、僕たちの頭上を飛びこして行っちまうだろう」
「うん。うん」
 私はやっと腹の底からその短い言葉をきだしました。そのときです。怪しい人間が頭上五メートルばかりのところを、フワフワと飛び越しました。人間が飛ぶなんて、出来ることでしょうか。飛び越されるときに、なおもハッキリ下から見上げましたが、その怪しい人間は、寝台しんだいの上に乗ったように身体が横になっていました。手足はじっとしています。別に動かしもしないのに、宙を飛んでいるのです。どんな顔をしているかと見ましたが、生憎あいにく顔が上を向いているので、下からはよく見えません。しかし白い服と思ったのは、お医者さまがよく着ている手術着のようなものでした。
 兄と私は、こんどは後から伸びあがって、飛んでゆく人の姿を見つめていました。白衣びゃくいの人は、なおもフワフワと飛びつづけてゆきます。そしてだんだん高く昇ってゆきます。深い谿たにが下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は悪夢あくむからめたように、呆然ぼうぜんと立ちつくしていました。
「不思議だ、不思議だ」
 兄は低くつぶやいています。
 そこへバタバタと跫音あしおとがして、年とった婦人が駈けてきました。さっき窓から半身を乗りだして救いを呼んでいたのは、この婦人でしょう。家の中からとびだして来たものです。
「ああ、貴方がた、主人はどこへ行ってしまったでしょう」
 老婦人は紙のように蒼白そうはくな顔色をしていました。両手をワナワナとふるわせながら、兄の胸にとびついて来ました。
「奥さん、しっかりなさい」と兄は老婦人の背をやさしくでて言いました。
「あれは御主人だったのですか。向うの方へゆかれましたが、追駈けてももう駄目です」
「駄目でしょうか」婦人は力を落して、ヘナヘナと地上にひざをつきました。兄は直ぐに気がついて助け起しました。
「さあ奥さん。こうなれば私達は落付きをとりかえさなければなりません。くわしいお話をうかがうことによって、一番いい方法が見つかることでしょう。しっかり気をとりなおして、一伍一什いちぶしじゅうを話して下さい」
「ああ、恐ろしい――」老婦人は顔に両手を当てると、何を思い出したのか、ワッと泣き出しました。
「奥さん、お家の中へお送りしましょう」
「ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい魔物まものが居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……」
「魔物ですって?」兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。「魔物って、どんな魔物なんです」
「そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルとくずれてしまったのです。くずれるおにかげ――ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い」
 崩れる鬼影!
 老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。


   怪事件の顛末てんまつ


 家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで地底ちていの部屋のように静かです。
 老婦人はベッドの上に、しばらく寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。
 老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。呼吸いきも大変おだやかになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと跫音あしおとがしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。
「ああ――」
 老婦人は、一つ寝返ねがえりをうちました。そのときに両眼りょうがんを天井の方に大きく開きました。
「ああ、うちの人は帰って来たのかしら」
「いいえ、あれは私の兄ですよ」
 老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。
「兄さんですって――」
「二階へ調べに行っています」
「二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまたさらわれますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい」
 そのときでした。にわかに二階で、瀬戸物せとものをひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床をころがるような音がします。
民夫たみお! 民夫! 早く来てくれッ」
 兄の声です。兄が呶鳴どなっています。とても悲痛ひつうな叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が勃発ぼっぱつしたに違いありません。
 私は老婦人のそばから立ち上ると、室のドアを蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組打くみうちをしているらしい騒々そうぞうしい物音が、その上でします。私は階段をめるようにして駈けのぼりました。
「兄さーん」
 二階の廊下を走りながら叫びました。
「兄さんッ」
 ところがにわかにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室のドアをグッと押しましたがきません。
「うーッ」
 変なうなり声が、内部うちから聞えます。まさしくこの部屋です。
 私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえめれば開くだろうという見込みこみがつきました。
 ドーン。
 ガラガラと扉が開きました。
 部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天体望遠鏡てんたいぼうえんきょうのようなものも見えます。しかし肝心かんじんの兄の姿が見えません。
さらわれたのかナ)
 私はハッと胸をつかれたように感じました。
「兄さーん!」
 うーッ、うーッというようなうなごえが突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私はおどろいて背後うしろにふりかえると、天井を見上げました。
「ややッ――」
 私はその場にたおれんばかりに吃驚びっくりしました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙蝠こうもりのように逆さまにぶらさがっているのです。頭は一番下にれ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿じゅくしのように真赤です。両手は自分の顔の前で、かにの足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命につかんでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かにめつけられているような恰好かっこうです。どうしたらいいだろう。
 一体、兄はどうしてそんな天井に逆さまで立っているのか判らないのです。しかし兄が非常な危険に直面しているらしい事は充分にわかります。
(何とかして早く助けなければ……)
 私は咄嗟とっさの考えで、傍の本棚に駈けよると洋書をとりあげました。
「ええいッ」
 私は洋書を、兄のお尻の辺をねらってげつけたのです。本は兄の身体から三十センチ程手前でバサッという物音がしてぶつかるとやがてドーンと床の上に落ちて来ました。
 一冊、又一冊。四五冊げつづけている間に、兄の様子が少しずつ変って来ました。それにいきおいを得てなおげていますと、急に兄の身体が横にフラリとかたむくとどッと下に落ちて来ました。
 私は吃驚びっくりして、その下に駈けつけました。抱きとめるつもりが、うまくゆかなくて、兄の身体の下敷になったまま、ズトンと床にたおれました。
「兄さん、兄さんッ」気を失っている兄を、私は一生懸命にゆすぶりました。
「おお」兄はパッと目を見開きました。「ああ影がくずれる――」
 謎のような言葉を云ったなり、兄は又ガクッとして、床の上に仆れてしまいました。
 丁度そのときガチャーンと大きな物音がして、硝子ガラス窓がこわれました。見ると門の方に面した大きい硝子窓にはたらいが入りそうな丸い大きい穴がポッカリと明いているのです。不思議にも硝子の破片はへんは一向に飛んで来ません。別に何物も硝子窓にあたったように見えないのに、これは一体どうしたということでしょう。
 次から次へ、不思議としか言うことの出来ない事件が起ったのです。私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中にりかえして見ました。
「崩れる影、崩れる鬼影おにかげ!」

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