ピートの失敗
「パイ軍曹どの。自分は、もう死んだ方がましです。このうえ、心臓がどきどきしては、心臓麻痺になってしまいます」
これは、大男のピート一等兵が、からだに似合わぬ悲鳴である。
「こら、ピート一等兵。そんな弱音をはいちゃ、幽霊指揮官どのに、笑われるじゃないか」
「でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、脂がぬけちまって、もうあと、いくらももちません」
「え、からだの脂がぬけたって」
「はい。うそじゃありません。このとおり、ズボンの下から、たらたら脂が、たれてくるのです」
「そうか。本当なら、こいつは一命にかかわるぞ。どれ、見てやろう」
と、パイ軍曹は、ピート一等兵のズボンの下をまくって、しさいに見た。
「おや、こいつは、ひどく、たれている。ふん、かわいそうだな。これじゃ、もう、助かるまい」
「軍曹どの、自分は、もういけませんか。もう、だめでありますか」
「もう、いかんぞ。どうも、くさい。いやにくさい。きさまは、からだが大きいせいか、鯨の油みたいな脂を出しよる」
と、パイ軍曹が、鼻をつまんだ。
「え、鯨の油みたいなにおいがしますか、はてな?」
ピート一等兵は、そういったかと思うとにわかに、あわてて、自分の毛皮の服の胸をあけて、中へ手をつっこんだ。
「うわーッ、いけねえや」
「おい、ピート。何ということをする……胸の中が、どうかしたのか」
「あははは。大失敗でさ。わけをいうと軍曹どのに叱られ、そしてここにおいでの幽霊どのに笑われてしまいます」
「ははあ、きさま、また欲ばったことをやったな。服を開いて、中をみせろ」
「はい、どうも弱りました」
ピート一等兵は、悄気ている。
「やっぱり、そうだ。きさま、鯨油の入っている缶を、盗んでいたんだな。どうするつもりか、鯨油を、懐中に入れて」
「どうも、弱りました。まさかのときは、これでも、腹の足しになると思ったものですから……」
「なに」
「つまり、鯨の油ですから、こいつは、魚の脂です」
「鯨は、魚じゃない」
「そうでしたな。元へ! 鯨は、けだものの脂ですから、石油とはちがって、食べる――いや、飲める理屈であります」
「あはァ、それで、飲むつもりで、かくしていたのか」
「はい。ところが、あのとおり、戦車の中で、あっちへ、ごろごろ、こっちへごろごろごろんとやっているうちに、缶がこわれて、鯨油がズボンの中へ、どろどろと流れだして、こ、このていたらく……」
「なんだ、そんなことか。お前は、幸運じゃ」
「軍曹どの。からかっちゃ、いかんです」
「からかっちゃおらん。もしもその脂がお前のからだから流れ出した脂だったら、今頃はどうなっていたと思う」
「へい。どうなっていましたかしら」
「わかっているじゃないか。そんなに脂がぬけ出しちゃ、お前は今頃は冷くなって、死んでいたろう」
「冗談じゃありませんよ。はっくしょん」
さっきから、傍で、あきれ顔で、二人の話を聞いていた沖島速夫が、
「ピート一等兵。早く、前をしめろ。風邪をひくじゃないか」
「へーい、指揮官どの」
氷原
呑気な二人のアメリカ兵には、沖島も、すっかり呆れてしまった。
そのうちに、一旦とまっていた戦車の天井の、とーん、とーんという音が、また聞えだした。
とーん、とーん。
「あ、また始まった」
ととーん、とーん。
「おや、あれは、モールス符号だ」
パイ軍曹が、急に目をかがやかせた。
「おや、開けろといっている。ふん、生存者はないか。誰か、上から呼んでいるんだ。おれたちは、助かるかもしれん」
ピート一等兵は、おどりあがった。
「気をつけッ!」
沖島速夫が、大きなこえで、どなった。
二人のアメリカ兵はびっくりして、直立不動の姿勢をとった。
「だから、さっきから、僕は、この戦車の扉を開けろといっているんだ。さあ、早く開けろ」
「開けても、大丈夫かなあ」
「大丈夫だ。水の中じゃない。うそだと思ったら、中から信号をして、外には水があるかないか、たずねてみろ」
沖島は、深度計をみたとき、この地底戦車のまわりが、どんな状態にあるかを、察していた。そこへ外から信号があった。彼は、そのとき、或る覚悟をした。そして二人のアメリカ兵が、鯨油のことで、いい争っている間に、持っていた機銃を、防寒服の中にしまいこんだり、戦車をうごかすのに、ぜひ無くてはならぬ発火器の鍵を、服の或る部分にしまいこんだりして万端の手配を終ってしまったのであった。
さあ、もうこれでいい。なにが来ても、おどろくことはない。
パイ軍曹はピート一等兵の肩車にのって戦車の蓋を中から、しきりにとんとんと叩いて、外部と連絡をとっていたが、やがて、
「うわーッ、こいつは、たいへんだ」
と叫んで、おどりあがった。
「あっ、軍曹どの。そんなに、あばれちゃあぶない」
といううちに、二人は折り重なって、床のうえに、ひっくりかえった。
「おお、痛い。ピート一等兵。早く、扉をあけろ。外には、我が軍が、待っているそうだ。早くしろ」
「わが軍が……。ああ痛い。腰骨が、折れてしまったようです。軍曹どの。あなたにおねがいします。自分には、出来ません」
「わしに出来るなら、きさまに頼みやせん」
パイ軍曹は、渋面をつくっている。
「じゃあ、僕があけよう」
沖島は、そういって、天蓋のハンドルに手をかけて、力一杯ぐるぐるとまわした。
すると、さっと、白い光が、外からさしこんできた。それとともに、新しい空気が流れこんだ。サイダーのように、うまい空気であった。
「おお生きていたか」
外から、アメリカ訛りの英語がきこえた。
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