海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
発端
問題の「蠅男」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。
只われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板の下に三日前から転がっている鼠の死骸にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕くべきものが、誰にも知られることなく密かに埋没されているのである。
この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間の注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人の人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句も誰にも喋りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。
それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?
それは、臭いであった。
煤煙の臥床に熟睡していたグレート大阪が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。
妙な臭い
大阪人は早起きだ。
それは師走に入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた家では天窓がゴソリと引き開けられた。旅館でも病院でも学校でも、鎧戸の入った窓がバタンバタンと外へ開かれ、遠くの方からバスのエンジンの音が地響をうって聞えてくる。……
「なんやら。――怪ったいな臭がしとる」
「怪ったいな臭?――やっぱりそうやった。今朝からうちの鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。――ほんまに怪ったいな臭やなア」
「ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ」
旅館の裏口を開いて外へ出たコックとお手伝いさんとは、鼻をクンクンいわせて、同じような渋面を作りあった。
ここは大阪の南部、住吉区の帝塚山とよばれる一区画の朝だった。
「この臭は、ちょっとアレに似とるやないか」
「えッ、アレいうたら何のことや」
「アレいうたら――そら、焼場の臭や」
「ああ、焼場の臭?」お手伝いさんは白いエプロンを急いで鼻にあてた。「そうやそうやそうや。うわァこら焼場の臭いやがナ」
そのうちに、臭いを気にする連中が、あとからあとへと起きてきて、てんでに廂を見上げたり、炊きつけたばかりの竈の下を気にしたりした。だがこの淡い臭気が、一たい何処から発散しているものか、それを突き止めた者は誰もなかった。
ワイワイと、近所の騒ぎはますます激しくなっていった。しかも臭気はますます無遠慮に、住民たちの鼻と口とを襲った。
東京のビジネス・センター有楽町に事務所をもつ有名な青年探偵の帆村荘六も、この騒ぎのなかに、旅館の蒲団の中に目ざめた。彼は或る重大事件の調査のため、はるばるこの大阪へ来ていたのだった。そして昨夜から、このマスヤ旅館に宿泊していた。
「――や、どうも。帝塚山はたいへん静かだという話だったが、こう騒々しいところをみると、あれはわざと逆の言葉を使って、皮肉を飛ばしたつもりなのかしら」
彼は寝不足の充血した目をこすりながら、起きあがった。そして丹前を羽織ると、縁側に出て、雨戸をガラガラと開いた。とたんに彼は、狆のように顔をしかめて、
「おう、臭い。へんな臭いがする」
と吐きだすように云った。
前の往来で、臭評定をしていた近所のうるさ方一同は、突然ガラガラと開いた雨戸の音に愕いて、ハッとお喋りを中止したが、帆村が自分たちと同じように鼻をクンクンいわせているのを見上げるや、一せいにニヤニヤ笑いだした。
「お客さん。怪ったいな臭がしとりますやろ」
「おう。これは何処でやっているのかネ。ひどいネ」
「さあ何処やろかしらんいうて、いま相談してまんねけれど、ハッキリ何処やら分らしめへん。――お客さん、これ何の臭や、分ってですか」
「さあ、こいつは――」
とはいったが、帆村はあとの言葉をそのまま嚥みこんだ。そして彼は帯を締めなおすと、トントンと階段を下りて、玄関から外に出た。
「えらい早うまんな。お散歩どすか」
奥から飛んで出てきた仲働きのお手伝いさんが、慌てて宿屋の焼印のある下駄を踏石の上に揃えた。
「ああ、この辺はいつもこんな臭いがするところなのかネ」
「いいえイナ。こないな妙な臭は、今朝が初めてだす」
「そうかい。――で、この辺から一番近い火葬場は何処で、何町ぐらいあるネ」
「さあ、焼場で一番ちかいところ云うたら――天草だすな。ここから西南に当ってまっしゃろな、道のりは小一里ありますな」
「ウム小一里、あまくさですか」
「これ、天草の焼場の臭いでっしゃろか」
「さあ、そいつはどうも何ともいえないネ」
帆村は「行っておいでやす」の声に送られて、ブラリと外に出た。別に彼は、この朝の臭気を嗅いで、それを事件と直覚したわけでもなく、またこんな旅先で彼の仕事とも関係のないことを細かくほじくる気もなかった。けれど、彼の全身にみなぎっている真実を求める心は、主人公の気づかぬ間に、いつしか彼を散歩と称して、臭気漂う真只中に押しやっていたのだった。
それは一種香ばしいような、そして官能的なところもある悪臭だった。彼は歩いているうちに、臭気がたいへん濃く沈澱している地区と、そうでなく臭気の淡い地区とがあるのを発見した。
(これは案外、近いところから臭気が出ているに違いない!)
臭気の源は案外近いところにある。もしそれが遠いところにあるものなれば、臭気は十分ひろがっていて、どこで嗅いでも同じ程度の臭気しかしない筈だった。だから彼は、この場合、臭気の源を程近い所と推定したのだった。
では近いとすれば、このような臭気を一体何処から出しているのだろう?
帆村は再び踵をかえして、臭気が一番ひどく感ぜられた地区の方へ歩いていった。それは丁度或る町角になっていた。彼はそこに突立ったまま、しばらく四囲を見まわしていたが、やがてポンと手をうった。
「――おお、あすこにいいものがあった。あれだ、あれだ」
そういった帆村の両眼は、人家の屋根の上をつきぬいてニョッキリ聳えたっている一つの消防派出所の大櫓にピンづけになっていた。
あの半鐘櫓は、そもいかなる秘密を語ろうとはする?
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