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蠅男(はえおとこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 15:58:08  点击:  切换到繁體中文



   山中の追跡


 幸いにも、池谷控家の裏通りは道が狭かったから、自動車はスピードをあげることができないで、タイヤがみぞのなかに落ちるのを気にしながらノロノロと動いていた。帆村はそれと見るより、百メートルほど後方から猛烈にダッシュしていった。それが分ったものか、自動車はスピードをすこし早めた。自動車は生垣にゴトンゴトンとつきあたって、今にも幌が裂けそうに見えた。それにも構わず、無理なスピードを懸けていった。
 帆村は懸命にヘビーをかけた。もうすこしで自動車のうしろに飛びつける。――と思った刹那せつな、自動車はガタンと車体をゆすって頭を右にふった。広い舗道へ出たのだ。
「うぬ、待てエ」
 帆村は激しい息切れの下から、ふりしぼるような声で叫んだ。しかしそれは既に遅かった。自動車はわずかのちがいで、舗道に乗った。そして帆村を嘲笑するかのように悠々とスピードをあげて走っていく。
 帆村は文字どおり切歯扼腕せっしやくわんした。もうこうなっては、残念ながら人間の足では競争が出来ない。
 何か自動車を追跡できるような乗り物はないか。
 そのとき不図ふと前方を見ると、路地のところから鼻を出しているのはまぎれもなくオートバイだった。これはうまいものがある。帆村は躍りあがってそこへ飛んでいった。
 それはオートバイと思いのほか自動オート三輪車であった。それは大阪方面の或る味噌屋みそやの配達用三輪車であって、車の上には小さな樽がまだ四つ五つものっていた。そして丁度そのとき店員が傍の邸の勝手口から届け票を手にしながら往来へでてきたので、帆村は早速その店員のところへ駆けよった。
 そこで口早に、車を貸してもらいたいという交渉が始まった。店員は目をパチクリしているばかりだった。なにしろ犯人追跡をやるんだから、ぜひ貸してくれといったが、店員は主人に叱られるからといって承知しなかった。そのうちにも時刻はドンドン経っていく。千載の一遇をここで逃がすことは、とても帆村の耐えられるところでなかった。
(問答は無益だ!)
 帆村は咄嗟とっさに決心をした。すきだらけの店員のあごを狙って下からドーンとアッパーカットを喰わせた。店員はッともいわず、地上に尻餅をつくなり長々とのびてしまった。
「済まん済まん。あとから僕を思う存分殴らせるから、悪く思わんで……」
 と、心の中で云いすてて、帆村は車の上にまたがった。そしてエンジンを懸けて走りだそうとしたが、彼はこのときなにを思ったものか、また地上に下りて、伸びている店員先生を抱き起した。
 活を入れると、店員先生はすぐにウーンと呻りながら気がついた。それを見るより、帆村は店員先生を背後から抱えて、車の後部に積んだ味噌樽の上に載せた。
 このとき店員先生はやっと、この場の事情を知った。
「こら、何をするんや、泥棒!」
 拳骨を喰うわ、車は取られるわ、この上車の上に載せられようとする。彼は憤慨の色を浮べるより早く、帆村に喰ってかかるために樽の上に立ち上ろうとした。
 帆村は早くもこれに気づいた。
「まあ落つけ」
 彼は一言そう云ってヒラリと車にまたがると、素早くクラッチを踏んだ。自動オート三輪車は大きく揺れると、弾かれたように路地から走りだした。
「ああッ、あぶないあぶない」
 店員先生は樽の上に立ちあがろうとしたが、たちまち車が走りだしたもので、車からふり落とされそうになった。それでまた屁ッぴり腰をして樽の上にかがみ、そして車からふりおとされないために顔を真赤にして一生懸命荷物台に獅噛しがみついた。
「こら、無茶するな、泥棒泥棒」
「そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴どなるんだ」
「ええッ」と店員先生は怪訝けげんな顔をしたが、「おお皆来てくれ、泥……」
 といいかけて首をかしげた。
「こら妙なこっちゃ。この泥棒野郎が車を盗みよって、乗り逃げしてるのや。しかしその車の上にはチャンと俺が載っているのや。すると俺は車を盗まれたことになるやろか、それとも盗まれてえへんことになるやろか、一体どっちが本当ほんまやろか、さあ訳がわからへんわ」
 ゴトゴトする樽の上に店員先生が車を盗まれたのかどうかということを一生懸命考えている間に、帆村は眼を皿のようにして前方に怪人の乗った自動車をもとめて自動三輪車を運転していった。
 怪人の自動車は、道を左折して橋を渡ったものらしい。
 温泉場の間を縫って狂奔していく三輪車に、湯治の客たちは胆をつぶして道の左右にとびのいた。
 帆村は驀地まっしぐらに橋の上をかけぬけた。それから山道に懸ったが、やっと前方に怪人の乗った自動車の姿をチラと認めた。
「うむ、向うの方へ逃げていくな」
 道が悪くて、軽い車体はゴムまりのようにはずんだ。そのたびごとに、樽の上に御座る店員先生は悲鳴をあげた。
「モシ、樽の上のあんちゃん。この道はどこへ続いているんだね」
 暴風雨あらしのような空気の流れをついて、帆村が叫んだ。
「この道なら、有馬へ出ますわ。お店と反対の方角やがナ」
 店員先生が、半泣きの声で答えた。
「うむ、有馬温泉へ出るのか。――あと何里ぐらいあるかネ」
「そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ」
「二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ」
 帆村の姿と来たら、実にもう珍無類ちんむるいだった。これはあまりにも勇ましすぎた。若い婦人に見せると、気絶をしてしまうかも知れない。なにしろ、正面からの激しい風をくらって、どてらの胸ははだけてへそまで見えそうである。その代り背中のところで、どてらはアドバルーンのように丸くふくらんでいた。ペタルの上を踏まえた二本の脚は、まるで駿馬しゅんめのそれのようにたくましかったが、生憎あいにくとズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらのをくりかえしくりかえし後悔していた。


   現われた蠅男


 帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛しがみついたまま、もう泥棒などとはわめかなかった。
「おう、樽の上のあんちゃんよオ」
 帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
「なんや、俺のことか」
「君、何か書くものを持っているだろう」
「持ってえへんがな」
「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」
 帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
「その紙片をどないするねン」
「ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」
「誰が字を書くねン」
あんちゃんが書いておくれよ」
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
「なんでもいい。是非ぜひ書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」
 これが店員先生にすこぶる利いた。
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてらの先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
 帆村は向うを向いて苦笑いをした。
「君の名は何という」
「丸徳商店の長吉だす」
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」
「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか」
「そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ」
「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや」
「また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ」
「うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこらまさしくほんまやナ」
「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。――さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。――」
「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」
 たいへんな手間取りようであったが、遂に帆村の命令が店員長吉によって行われた。長吉は樽の上に腹匍はらばいになって、書きにくい字を書いた。そして一枚書けると、それを手帳からひきちぎって外に撒いた。始めは容易にがえんじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやりつづけた。
 自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離はだんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと取り続けた。彼の全身は風に当って氷のように冷えてきた。ガソリンの尽きないことが唯一の願いだった。
 上り道が左の方に曲っている。
 まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消しさった。続いて帆村と長吉との乗った自動三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼっていった。そして同じく山のはしをぐっと左折した。このとき帆村は、前方にこんどは下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。
ッ、危いッ」
 と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺ぐと見る間に、車体が右に一廻転した。下は百メートルほどの山峡だった。何条もってたまるべき、横転した自動車ははずみをくらって、毬のようにポンポン弾みながら、土煙と共に転げ落ちていった。そして遂に下まで届くと、くしゃと潰れてしまった。帆村は辛うじて制動をかけて、三輪車を道の真中に停めた。
「うわーッ、えらいこっちゃ」
「うむ、天命だな。あんなに転げ落ちてはもう生命はあるまい」
 帆村と長吉とは、車から下りて呆然と崖の底をジッと見下ろした。土煙がだんだん静まって、無慚むざんにも破壊した車体が見えてきた。車体は裏返しになり、四つの車輪が宙にがいているように見えた。
 暫くジッと見つめていたが、車のなかからは誰も這いだしてこなかった。
「さあ、すぐ下りていってみよう。自動車のなかには、誰が入っているか、そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ」
「大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛びだして来やしまへんか」
「いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。しかし何か得物をもってゆくに越したことはないだろう」
 気がついてみると帆村は腰に一本の鉄の棒を差していた。これは先刻、池谷控家の前の林の中で拾った護身用の鉄棒だった。帯に挿んで背中にまわしてあったので、うまく落ちないで持ってこられたのだった。長吉は仕方なく腰から手拭いを取って、その端に手頃の石をしっかり包んだ。もし蠅男がでたら、端をもってこの包んだ石をふりまわすつもりだった。
 二人は、背の丈ほどもある深い雑草のなかをきわけるようにして、山峡を下りていった。
 十分ほど懸って、二人は遂に谷の底についた。ほろは裂け鉄板は凹み、車体は見るも無慚むざんこわかたであった。
 帆村は勇敢にも、ぐるっと後部の方に廻ってから自動車の方に匍っていった。長吉は固唾かたずを嚥んで、帆村の態度を注視していた。
 帆村は飛びつくようにして遂に車体にピッタリとくっついた。彼の首が次第次第に上ってきて、やがて幌の破れ目から車内を覗きこんだ。
 そのときである。帆村が胆をつぶすような大きな声で叫んだのは……。
「これは変だ。自動車は空っぽだ。中には誰も乗っていないぞッ」


   おどろくべきニュース


 折角せっかく幌自動車に追いついて、はては崖下まで探しに行ったのに、このなかにはからくれないの血潮に染まった怪人の屍体があるかと思いの外、誰も居ない空っぽであった。
 帆村は真赤になって地団駄じだんだをふんで口惜しがったが、それとともに一方では安心もした。彼はこの車の中にひょっとすると糸子が入っているかも知れないと思っていたのだ。或いは無慚むざんな糸子の傷ついた姿を見ることかと思われていたが、それはまず見ないで助かったというものだ。
「帆村はん。この自動車を運転していた蠅男はどうしましたんやろ」
「さあ、たしかに乗っていなきゃならないんだがなア、ハテナ……」
 帆村が小首をかしげたとき、二人は警笛の響きを頭の上はるかのところに聞いてハッと硬直した。
「あれは――」と、崖の上を仰いだ二人の眼に、思いがけない実に愕くべきものが映った。
 さっき二人が乗り捨ててきた自動オート三輪車のそばに、一人の怪人が立っていて、こっちをジッと見下ろしているのであった。彼は丈の長い真黒な吊鐘つりがねマントでもって、肩から下をスポリと包んでいた。そしてその上には彼の首があったが、象の鼻のような蛇管だかんと、大きな二つの目玉がついた防毒マスクを被っていた。だから本当の顔はハッキリ分らなかった。ただ丸い硝子ガラスの目玉越しにギラギラよく動く眼があったばかりであった。
ッ、あれは誰だす」
「うむ、今はじめて見たんだが、あれこそ蠅男に違いない」
「ええッ、蠅男! あれがそうだすか」
「残念ながら一杯うまくめられた。自動車があの山の端を曲ったところで、蠅男はヒラリと飛び下りてくさむらに身をひそめたんだ。あとは下り坂の道だ。自動車はゴロゴロとひとりで下っていったのだ。ああそこへ考えがつかなかった。とにかく一本参った。しかし蠅男の姿をこんなにアリアリと見たのは、近頃で一番の大手柄だ」
 帆村は下から、傲然ごうぜんと崖の上に腕をくんで立つ蠅男をにらみつけた。
「呀ッ、帆村はん。あいつは味噌樽みそだるを下ろしていまっせ」
「うん、蠅男はあの三輪車に乗って逃げるつもりなんだ。僕たちが崖へいのぼるまでには、すくなくとも三、四十分は懸ることをチャンと勘定にいれているんだ。その上、うまく崖の上に匍いあがっても、僕たちに乗り物のないことを知っているんだ。まるで、ジゴマのように奸智かんちにたけた奴……」
 と、そこまで云った帆村は、急に言葉を切った。そして長吉の身体をドーンと突くなり、
「おう、危い。自動車のうしろに隠れろッ」
 と早口で命令した。
 その言葉が終るか終らないうちに、ブーンと風を切って落ちてきたのは三貫目の味噌樽だった。二人がもうすこし気がつかないで立っていたとしたら、彼等のどっちかがその恐ろしい勢いで落ちてきた味噌樽のために、頭蓋骨を粉砕されなければならなかったろう。
 味噌樽は、なおも上からピューンとうなりを生じて落ちてきた。その勢いの猛烈なことといったら、地面に落ちて、地雷火のように泥をはねとばし、壊れ自動車に当っては、鉄板をひきちぎって宙に跳ねあげるという凄い勢いであった。なんという強力なんだろう。見かけは普通の人とあんまり違わぬ背丈でありながら、まるで仁王さまが砲弾なげをするような激しい力を持っているのだった。そのとき何処からともなく、飛行機のプロペラらしい音響が聞えてきた。
 すると、蠅男は可笑しいほどにわか周章あわてだした。最後の樽をなげつけてしまった彼は、ひらりと自動三輪車の上にとびのると、エンジンをかけた。そして鮮やかなハンドルの切り方でもって、ドンドン走りだした。
 長吉は憤慨のあまり、下から石をぶっつけたが、どうしてそんなものが崖の上まで届くものではない。遂に蠅男は口惜しがる帆村と長吉とを谿底たにぞこへ置いて山かげに姿を消してしまった。聞えていた飛行機のプロペラの音も、そのうちに何処ともなく聞えなくなった。
 帆村と長吉とは、生命びろいをしたことに気がついた。そこで勇気をつけて、一旦下りた崖を、またエッチラオッチラと上っていった。十分で下りたところが、三十五分も懸ってやっと崖の上に匍いのぼれた。
 二人は夕方の山道をトコトコと歩いていった。三十分ほどして、やっと一台のハイヤーが通りかかった。二人の老人の客が乗っていたけれど、無理に頼んでそれに乗せて貰い、蠅男の逃げていった有馬温泉の方角へ進撃していった。
 有馬では、警察からまだ何の手配も出ていなかった。手配の電話が懸って来たのは、帆村が大阪への電話を申込んだその後からだった。手配の紙片が、それでも誰かに拾われたことか判った。しかしこうなってはすべてあとの祭りだった。なにしろ手配の自動車は山峡に落ちているのだから。
 リンリンリンと電話が懸ってきた。駐在所の警官が出た。
「ああ村松検事どのでございますか。はア帆村さんはいらっしゃいます」
 帆村は疲れを忘れて、電話口へ飛びついた。彼は村松検事に、今日の顛末てんまつを手短かにのべて、盗まれた三輪車と蠅男の手配をよく頼んだ。そして電話が切れるとグッタリとして、駐在所の奥の間に匍いこむなり、疲れのあまり死んだようになって睡った。樽の上で踊った長吉もお招伴しょうばんをして、帆村の側らにグウグウいびきをかいた。それから何時間経ったか分らないが、帆村は突然揺り起された。
「また村松検事どのから、お電話だっせ」
 帆村は痛む手足のふしぶしを抑えながら、電話口に出た。そのとき彼は、おどろきのあまり目の覚めるような知らせを、村松検事から受けとった。
「ええッ、本当ですか。今日の夕刻、鴨下ドクトルが奇人館にひょっくり帰ってきたんですって? ほほう、貴方はもうドクトルが永久に帰ってこないと仰有っていましたのにねエ。ほほう、そうですか。いやそれは僕も愕きましたよ、ほほう」


   蠅男の正体?


 鴨下かもしたドクトルが八日目にひょっくり、奇人館に帰ってきたという知らせである。
 帆村のおどろきもさることながら冷静をもって聞えるあの村松検事でさえ、その愕きを電話口に隠そうとさえしなかったほどだ。検事は、鴨下ドクトルが再び館にかえって来ないと断言したくらいだから、ドクトル帰邸の知らせは全く寝耳に水の愕きだったのだろう。鴨下ドクトルは何処に行っていたのだろうか。
 娘を東京から呼んでおきながら約束を破ってドクトルが旅行に出たのは何故だろう。
 それからまた、ドクトルの留守中に、突然何者とも知れぬ男の屍体が焼かれ、機関銃手がとびだしたりしたことに果してドクトルは無関係だったのだろうか。
 蠅男の脅迫状は、なぜドクトル邸の暖炉の上に置かれてあったのだろう。
 そういう疑問のかずかずが、鴨下ドクトルの口から聞きただされる時機が来たのだ。ドクトルの答によって蠅男の正体はいよいよ明らかになるであろう。帆村探偵は大阪へ帰って、検事たちから聞くことができるであろうドクトルの告白に、非常な期待をおぼえたのであった。
「だが、蠅男を見たのは、恐らく捜査側では自分だけだろう」
 帆村は、そのことについていささか得意であった。それは実に大きな土産話である。
 蠅男というやつは、実に力の強い奴で、三貫目の味噌樽を、あたかも野球のボールを叩きつけるように楽々とげた。そして自動車も操縦できれば三輪車にも乗れるというモダーン人だ。
 しかしよく考えてみると、蠅男について分っているのはそれだけであった。どんな身体つきをしているのか、それは黒い吊鐘マントの下に蔽われていてハッキリ分らない。それからまたどんな容貌をしているのか、それは防毒面みたいなものを被っているので、これもハッキリ分らない。ただ気味のわるい二つの眼がギロギロと動くのを見たばかりである。
 いや、もっと分らないところがある。帆村はさきに玉屋総一郎の殺された密室を調べた挙句、蠅男について次のような推理をたてた。つまり、
「蠅男の背丈は八尺である。そして蠅男は一升ますぐらいの四角な穴を自由に出入する人間である」
 というのであるが、崖上に見たあの蠅男は、五尺四、五寸しかない普通の人間の背丈に見えた。いわんや一升桝の間を抜けるような細い身体のようには見えなかった。すると、あれは蠅男でなかったのであろうか。いや、あの崖上の怪人物が蠅男でなくて、誰が蠅男であろうか。すると身長八尺で一升桝ぐらいの穴もくぐれる人物という帆村の推理が合わないことになる。
「これは、どうも自分の推理が間違っていたのかナ、違うはずはないんだが」
 帆村探偵の自信はにわかにグラつきだした。彼は遂に、眼から入ってきた蠅男の姿に、幻惑げんわくされてしまったのである。深い常識のために、推理の力を鈍らせてしまったのである。これは後になって、ハッキリと分った話であるが、蠅男に対する彼の推理は決して間違っていなかったのだ。帆村はもっと考えるべきだった。ここで玉屋総一郎の屍体の頸部けいぶに附いていた奇妙なる金具のギザギザこうの痕をなぜ思い出さなかったのだろう。玉屋総一郎の頸部に打ちこんだ鋭い兇器がどんなものであって、どこの方角からどうして飛んできたものかを、何故考えなかったのだろう。それからまた池谷医師たちが宝塚新温泉の娯楽室から持ちだした一銭活動のフィルム「人造犬」のことをなぜ連想しなかったんだろう。いや、まだある。現に彼は今、有馬温泉の駐在所に寝ころがっているが、その枕許に置いてある奇妙な形をした一本の鋼鉄棒がある。彼はそれを池谷邸に近い林の中で護身用として拾ったのである。彼がその棒について、もっと深い興味をもっていたとすれば、それだけでも蠅男の正体を掴む余程の近道とはなったであろうに、流石さすがの帆村探偵も早くいえば蠅男をそれほどの怪人物だとは思っていなかったせいであろう。
 なにもそれは帆村探偵だけのことではない。世間では誰一人として、蠅男が過去にも未来にも絶するそのような奇々怪々なる人間だとは、気がついていなかったのだ。蠅男こそは有史以来二人とない怪人だったのである。さて、いかなる怪人であったろうか。それを知るのは、く小数の人々だけだった。しかも彼等は蠅男の正体を語るを好まないか、またはそれを語ることができない事情の下にあった。
 だから目下のところ読者諸君はやむなく、村松検事以下の検察当局の活動と、青年探偵帆村荘六の闘志とに待つよりほかに蠅男の正体を知る手がないのである。
 鬼か人か、神か獣か?
 蠅男の正体が、白日下にさらされるのは何時の日であろうか。


   意外なる邂逅


 有馬温泉の駐在所における何時聞かの前後不覚の睡眠に帆村もすこしく元気を回復したようであった。
 彼はそれから先の行動を、あれやこれやと考えた挙句、遂に決心して一台の自動車を呼んで貰った。
 やがて遠くからクラクションの響きが伝わってきたと思ったら、頼んであった自動車が家の前に来て停った様子、帆村は味噌問屋の小僧さん長吉ちょうきちを促して、警官たちに暇をつげるなり車上の人となった。
 温泉町は、もうすっかり夜の闇に沈んでいた。硫黄の強い匂いをのせた風が、スーッと流れて来た。帆村は急に、温い湯につかって疲労を直したい衝動に駆られた。
 しかし彼は、すぐそのような衝動をなげすてていた。これから蠅男との戦闘が始まるのである。玉屋総一郎の忘れ形身の糸子はどこにどうしているのだろう。彼女は果して安全に身を護っているのだろうか。池谷邸に入ったまま、姿を消してようとして行方が知れなくなったこの麗人の身の上を、帆村はすくなからず憂慮しているのだった。池谷邸の二階の窓に、糸子を背後から襲った怪人こそは、あれはたしかに蠅男に違いない。蠅男は糸子をどんな風に扱ったのであろうか。
 帆村が疲れ切った身体を自ら鼓舞こぶして、再び車で宝塚へ引返そうと決心したのも、直接の動機はこの可憐かれんなる糸子の安危をたしかめたいことにあった。彼女の父親を、蠅男から護ろうと努力していながら、遂に蠅男のためにしてやられ、糸子を孤児にしてしまった。その責任の一半は、帆村自身にあるように思って、彼はこの上は、自分の生命にかけて蠅男を探しだすと共に、糸子を救いださねばならないと決心しているのだった。
 暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。
 そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。
 ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。
 なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。
「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」
「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」
「はアはア、そうでっか、おのろけ筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」
「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」
「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図ふと思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」
「ナニ手紙?」
 帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。
 帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。
 扉の前に立って、念のために把手ハンドルを廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。
 なぜ帆村は、そんなことをためしてみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。
 扉には錠が懸っている。
 まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚びっくりさせられようとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つへだてた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。
 帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。
 扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。
 帆村は、手さぐりでそのスイッチの押しボタンを探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。
 パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、
ッ!」
 といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。
「もしや部屋を間違えたのでは……」
 と、咄嗟とっさに疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。
 さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。
 帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。
「……実弾はたしかに入っている!」
 こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。
 ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。
 帆村は遂に意を決した。彼は呼吸いきをつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?
 ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?
 帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。
「おお――糸子さんだッ」

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