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蠅男(はえおとこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 15:58:08  点击:  切换到繁體中文


   二つの殺人宣告書せんこくしょ


「あッ」とカオルは愕きの声をあげた。「するともしや、父が殺人をして逃亡したとでも仰有おっしゃるのですか」
「まだそうは云いきっていません。――一体お父さんは、この家でどんな仕事をしていたか御存じですか」
「わたくしもよくは存じません。ただ手紙のなかには、(自分の研究もやっと一段落つきそうだ)という簡単な文句がありました」
「研究というと、どういう風な研究ですか」
「さあ、それは存じませんわ」
「この家を調べてみると、医書だの、手術の道具などが多いのですよ」
「ああそれで皆さんは父のことをドクトルと仰有るのですね」
 女はすこし誇らしげに、わずかに笑った。
 そのとき正木署長が、検事の傍へすりよった。
「ええ、……緊急の事件で、ちょっとお耳に入れて置きたいことがありますんですが、いま先方から電話がありましたんで……」
「なんだい、それは――」
 廊下へ出ると署長は低声こごえで、富豪玉屋総一郎氏が今夜「蠅男」に生命を狙われていることを報告し、只今それについて玉屋から、どうも警察の護衛が親切でないから、司法大臣に上申するといってきた顛末てんまつを伝えた。
 村松検事は署長に、その脅迫状を持っているなら見せるように云った。
 署長は、お安い御用といいながら、ポケットを探ったが、どうしたものか先刻預って確かにポケットに入れたはずの封筒が、何処へ落としたか見当らないのであった。
「どうしたんやろなア、確かにポケットに入れとったのじゃが――ひょっとすると階下したの大広間へ忘れてきたのかしらん。検事さん、ちょっとみてきます」
 署長があたふたと階下したへ下りていく後を、村松検事は追いかけるようにして、大広間の方へついていった。焼屍体のあった大広間は、監視の警官が一人ついたまま、気味のわるいほどガランとしていた。
 警官の挙手の礼をうけて、室内に入った署長は、そのとき室内に、異様の風体の人間が、火の消えた暖炉ストーブの傍にすりよって、後向きでなにかしているのを発見して、ッと愕いた。全く異様な風体の人間だった。和服を着て素足の男なんだが、上には警官のオーバーを羽織り、頸のところには手拭を捲きつけているのだった。頭髪はよもぎのようにぼうぼうだ。
「コラッ誰やッ」署長は背後から飛びつきざま、その男の肩をギュッと掴んだ。
「うわッ、アイテテテ……」
 異様な風体の男は、顔をしかめて、三尺も上に飛びあがったように思われた。
「何者や、貴様は――」
 と、獣のように大きな悲鳴をあげた怪人に、かえって愕かされた署長は、興奮して居丈高いたけだかに呶鳴った。
「いや正木署長、その男なら分っているよ」いつの間に入ってきたか、村松検事がおかしそうに署長を制した。「それは私の知合いで帆村ほむらという探偵だ」
「ああ帆村さん。このったいな人物が――」
「うむ怪しむのも無理はない。彼は病院から脱走するのが得意な男でネ」
 帆村は肩が痛むので左腕を釣っていた。大きな痛みがやっと鎮まるのを待って、こらえかねたように口を利いた。
「――まあ怒るのは後にして頂いて、これをごらんなさい、重大な発見だ」
 そういってさし伸べた彼の右手には、同じ色と形とを持った二枚の黄色い封筒があった。
「あッ、これは玉屋氏に出した蠅男の脅迫状や。あんた、どこでそれを――」
「まあ待ってください。こっちが玉屋氏宛のもので、そこの絨毯じゅうたんの上で拾った。もう一通こっちの黄色い封筒は、この暖炉の上の、マントルピースの上にあった。その天馬の飾りがついている大きな置時計の下に隠してあったのです」
「ほう、それはお手柄だ」
「もっと愕くことがある。封筒の中には、ほらこのとおり同じように新聞紙の脅迫状が入っている」といって中から新聞紙を出してひろげ、「同じように赤鉛筆の丸のついた文字を辿たどって読んでみると、――きさまが血まつりだ。乃公おれは思ったことをするのだ。蠅男――どうです。玉屋家の脅迫状と全く同じ者が出したのです」
「フーム、蠅男? 何だい、その蠅男てえのは」
「さあ誰のことだか分りませんが――ホラこのとおり、蠅の死骸が貼りつけてあるのですよ」
 署長が帆村の手の掌のなかをのぞきこむと、なるほど蠅の死骸だった。やはり翅や脚を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)がれ、そして下腹部は斜めにちょん切られていた。全く同じ、恐怖の印だ。
 ああ蠅男! 今夜玉屋総一郎に死の宣告を与えた蠅男は、それより数日前に、ドクトル鴨下の屋敷に忍びこんでいたのだ。あの半焼屍体は、蠅男の仕業ではなかろうか。いやそれに違いない。
 では蠅男は、玉屋総一郎を間違いなく襲撃するつもりに違いない。悪戯いたずらの脅迫ではなかったのだ。
「蠅男」とは何者であろう?


   疑問の屍体


 その奇怪なる蠅男の署名サイン入りの脅迫状が、こうして二通も揃ってみると、これはもはや冗談ごとではなかった。
 鴨下ドクトル邸の広間に集った捜査陣の面々も、さすがに息づまるような緊張を感じないではいられなかった。
 中でも、責任のある住吉警察署の正木署長は佩剣はいけんを握る手もガタガタとふるえ、まるで熱病患者のように興奮に青ざめていた。
「もし、検事さん。本官わたしはこれからすぐに玉屋総一郎の邸に行ってみますわ。そやないと、あの玉屋の大将は、ほんまに蠅男に殺されてしまいますがな。手おくれになったら、これは後から言訳がたちまへんさかいな」
 署長は、ドクトル邸の燃える白骨事件で、黒星一点を頂戴したのに、この上みすみすまたたどんを頂戴したのでは、折角これまで順調にいった出世をつまずかせることになるし、住吉警察署はなにをしとるのやと非難されるだろう辛さが、もう目に見えていた。彼は全力を挙げて、この正体の知れぬ殺人魔と闘う決心をしたのであった。しかし事実、彼はいくぶん焦りすぎているようであった。
「ああ、そうかね」村松検事はそういってジロリと眼玉を動かした。「じゃ、そうし給え。――」
「じゃあ、そうします。――オイ、二、三人、一緒に行くのやぜ」
 村松検事は、正木署長たちがドヤドヤと出てゆく後姿を見送りながら、帆村探偵の方に声をかけた。
「オイ君。君は、ああいうチャンバラを見物にゆく趣味はないのかネ」と、正木署長の一行についてゆかないのかをあんに尋ねた。
 帆村は、寝衣ねまきの上に警官のオーバーという例の異様な風体で、さっきから二枚の脅迫文をしきりと見較べていた。
「チャンバラはぜひ見たいと思うのですが、僕は頭脳あたまが悪いので、そういうときにまず映画台本シナリオをよく読んでおくことにしているんでしてネ」
「ほう、君の手に持っているのは、映画台本なのかネ」検事はパイプを口にくわえたまま、帆村の方に近よった。
「ええ、こいつは、暗号で書いてある映画台本ですよ」と帆村は二枚の脅迫文を指し、「どうです。第二の脅迫状には、宛名が玉屋総一郎へと書いてあって、第一の脅迫状には宛名無しというのは、これはどういう訳だと思いますか」
 検事はパイプから太い煙をプカプカとふかし、
「――それはきわめて明瞭めいりょうだから、書く必要がなかったんだろう」
「極めて明瞭とは?」
「それを説明するのは、ここではちょっと困るが――」と、室の隅に立たされている鴨下ドクトルの令嬢カオルと情人上原山治の方をチラリと見てから、帆村の耳許にソッと口を寄せ、「――いいかネ。この邸にはドクトルが一人で暮しているのに、宛名は書かんでも、誰に宛てたか分るじゃないか」
「ほう、すると貴下あなたは――」といって帆村は村松検事の顔を見上げながら、「――この脅迫状がドクトルに与えられたもので、そしてアノ――ドクトルが殺されたとお考えなんですネ」
「なんだ、君はそれくらいのことを知らなかったのか。あの燃える白骨はドクトルの身体だったぐらい、すぐに分っているよ」
「では、あれはどうします。三十日から旅行するぞというドクトルの掲示は?」
 当分旅行ニツキ訪問ヲ謝絶ス。十一月三十日、鴨下――という掲示が奇人館の表戸にかけてありながら、家の中でドクトルの屍体がプスプス燃えているというのは、どうも変なことではないか。ドクトルが若し旅行を早くうち切って家に帰ったところ、邸内に忍びこんでいた蠅男のために殺されたのであったとしたら、家に入る前に、まず旅行中の掲示を外すのが当り前だ。ところがあのとおり掲示はチャンとしていたのであるから、それから考えるとドクトルが殺されたのだと考えるのは変ではないか。
 このとき村松検事はパイプをくわえたまま、ニヤリニヤリと人の悪そうな笑いをうかべ、
「ウフ、名探偵帆村荘六さえ、そう思っていてくれると知ったら、蠅男は後からなだ一本かなんかを贈ってくるだろうよ」
「灘の生一本? 僕は甘党なんですがねえ」
「ホイそうだったネ。それじゃ話にもならない。――いいかね、旅行中の看板を出したのは、訪問客を邸内に入れない計略なのだ。邸内に入られて御覧。そこにドクトルの屍体があって、火炙ひあぶりになろうとしていらあネ。それでは犯人のために都合が悪かろうじゃないか。アメリカでは、よくこんな手を用いる犯罪者がある」そんなことを知らなかったのか、とにかく帆村は苦笑をした。「じゃ、ドクトルはもうこの世に姿を現わさないと仰有るのですね」
「それは現わすことがあるかも知れない。君、幽霊というやつはネ、今でも――」
 帆村は愕いて、もうよく分りましたと云わんばかりに人を喰った検事の方へ両手を拡げて降参降参をした。
「じゃ検事さん。ドクトルを殺したのは誰です」
「きまっているじゃないか。蠅男が『殺すぞ』と説明書を置いていった」
「じゃあ、あの機関銃を射った奴は何者です」
「うん、どうも彼奴あいつ素性すじょうがよく解せないんで、憂鬱ゆううつなんだ。彼奴が蠅男であってくれれば、ことは簡単にきまるんだが」
「さすがの検事さんも、悲鳴をあげましたね。あの機関銃の射手と蠅男とは別ものですよ。蠅男が機関銃を持っていれば、パラパラと相手の胸もとを蜂の巣のようにしてほうって逃げます。なにも痴情のはてではあるまいし、屍体を素裸にして、ストーブの中に逆さ釣りにして燃やすなんて手数のかかることをするものですか」
「オヤ、君は、あの犯人を痴情の果だというのかい。するとドクトルの情婦かなんかが殺ったと云うんだネ。そうなると、話は俄然がぜんおもしろいが、まさか君も、流行のお定宗さだしゅうでもあるまいネ」
 帆村はそれを聞くと、胸をちょっと張っていささか得意な顔つきで、
「だが検事さん。あのドクトル邸は、ドクトル一人しかいなかったと仰有っていますが、事件前後に、若い女があの邸内にいたことを御存じですか」
「ナニ若い女が居た――若い女が居たというのかネ。それは君、本当か。――」
 村松検事は、冗談でない顔付になって、帆村の顔を穴の明くほど見つめた。


   探偵眼


 そこで帆村は、屍体発見当日、手洗所の鏡の前に、フランス製の白粉おしろいこぼれていたことなどを検事のために話して聞かせた。
「そうかい、そういう若い女が、この陰鬱いんうつな邸内にいたとは愕いたネ」
 と、村松検事は、首をうなだれてやや考えていたが、やがて首をムックリ起すと、可笑おかしそうにクスクス笑いだした。
「なにがそんなに可笑しいのです」
「だって君、脅迫状の主は、蠅男だよ。いいかネ。蠅男であって、あくまで蠅女ではないんだよ。若い女がいてもいい。これがドクトル殺しの犯人だとは思えないさ」
「でも検事さん。さっき仰有おっしゃったように、この蠅男なる人物は、いつわりの旅行中の看板をかけるような悧巧りこうな人間なんですよ。女だから蠅男でないとは云い切らぬ方がよくはありませんか。それよりも、早くそのフランス製の白粉の女を探しだして、それが蠅男ではないという証明をする方が近道ですよ」
「ウム、なるほど、なるほど」
 検事は、孫の話を聴く祖父のように、無邪気に首を大きく振って肯いた。
 そのとき、奥の方から一人の警官が、急ぎ足で入ってきた。
「検事どのに申上げます。只今、正木署長からお電話でございます。玉屋邸から懸けて参っとります」
 検事は、その声に席を立っていった。帆村は、引返そうとする警官をつかまえて、たばこを一本所望した。警官はバットの箱ごと帆村の手に渡して、アタフタと検事の後を追っていった。
 帆村は、バットを一本ぬきだして口に咥えた。そして燐寸マッチを求めてあたりを見まわしたが、このとき室の隅に、立たせられている鴨下カオルと上原山治の姿に気がついた。
「おお上原さん、燐寸をお持ちじゃありませんか」
 と、帆村はその方へ近づいていった。
 張り番の警官の方が愕いて、ポケットから燐寸を押しだして、帆村の方へさしだしたけれど、帆村はそれに気がつかないらしく、
「いや、どうもすみません」
 と、上原青年の貸して呉れた燐寸を手にとった。そしてバットに火を点けて、うまそうに煙を吸った。
「――東京は、わりあいに暖いようですね」
「――はア暖こうございましたが」
 と、上原青年は眼をパチパチさせた。
「今朝早く、鴨下さんを迎えにゆかれたんですね」
「はア――そうです」
「雨のところを、大変でしたネ」
「ええッ――そうでございます」
「あの、板橋区の長崎町も、随分開けましたネ」
「あッ、御存じですか、鴨下さんの住んでいらっしゃる辺を――」
「いや、こうしてお目に懸るまで、存じませんでしたが」
 若い男女は、愕きの目を見張って、互いに顔を見合わせた。
「きょうの列車は、つばめ号ですネ。だいぶんいていましたネ。お嬢さんは、よく睡れましたか」
 これを聞いていたカオルは、真青になった。
「ああ、もうよして下さい。気持が悪くなりますわ。探偵なんて、なんていやな商売でしょう。まるであたしたち、監視されていたようですわ」
 帆村は、笑いかけた顔を、急に生真面目な顔に訂正しながら、
「やあ、お気にさわったらお許し下さい。もうお天気の話はよします」
 といって、指先にはさんだたばこをマジマジと見るのであった。
 そこへ電話口へ出ていた村松検事が帰ってきた。あとに警察の保姆ほぼがついている。
「おう、帆村君、正木署長の電話によると、いま玉屋総一郎の邸に、怪しき男が現われて邸内をウロウロしているそうだよ。いよいよチャンバラが始まるかもしれないということだ。これから一緒に行ってみようじゃないか」
「ほう、また怪しき男ですか。どうも怪しき男が多すぎますね」
 カオルの連れの上原山治が、キラリと眼を動かした。
「多いぶんには構わない。足りないよりはいいだろう。――それからお嬢さんに上原君でしたかな。二階に落着いた部屋があるから、そこでゆっくり休んで下さい。この婦人が世話をしますから、どうぞ」
 検事があごをしゃくると、保姆は人慣れた様子で二人に挨拶し、二階へ案内するむねを申述べた。――二人は観念したものと見え、また互いの眼を見合わせたまま、保姆の後について、部屋を出ていった。
「さあ、行こう。――が、君の服装は困ったネ」と検事が顔をしかめた。
「いや、服ならあるんです。ソロソロひまになりましたから、一つ着かえますかな」
 そういって帆村は、そこに張り番をしていた警官に会釈すると、警官は椅子の上に置いてあった風呂敷包みをとって差出した。風呂敷を解くと、宿屋に残してあった洋服がそっくり入っていた。
あきれたものだ。早く着換えとけばいいのに――」
「そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ」
 そういいながら、帆村は借りていた警官のオーバーを脱ぎ、病院の白い病衣を脱ぎすてた。
 警官は帆村のために、襯衣シャツやズボンをとってやりながら、検事には遠慮がちに、帆村に話しかけた。
「――もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか」
「ええ、何のことです」
「そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚びっくりしとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい」


   藍甕転覆あいがめてんぷく事件


 帆村はそれを聞くと面映おもはゆげにニッと笑い、
「あああれですか。あれは透視術でもなんでもないのですよ。聞くだけ、貴下が腹を立てるようなものだけれど――」
「ナニ帆村荘六の透視術?」と早耳の検事はその言葉を聞き咎めて、「――おい君、善良な警官を悪くしちゃ困るよ」
「いや話を聞いておくだけなら、悪かなりませんよ」と帆村は弁解して、「――もちろん種があるんです。これは有名なシャーロック・ホームズ探偵がときに用いたと同じような手なんです。――さっき青年上原君に燐寸を借りたでしょう。あの燐寸は、燕号の食堂で出している燐寸です。まだ一ぱい軸木がつまっていました。夜には大阪着ですから、ここへ二人が現われた時間が十時頃で、燕号で来たことは皆ピッタリ符合します。なんでもないことですよ」
「ははア燐寸と鉄道時間表の常識とが種だっか」と警官は大真面目に感心して、「すると東京が暖いとか、雨が降っていたというのは――」
「あれは、上原君なんかの靴を見たんです。かなりに泥にまみれていました。ご承知のように、わが大阪は上天気です。しからば、あの靴の泥は東京で附着したのに違いないでしょう。それも雨です。もし雪だったら、ああは念入りに附着しませんよ。今年は十一月からずっと寒い。東京は何度も雪が降った。それだのに昨日は雨が降ったというのですから、これは暖かったに違いないでしょう」
「はあ、そういうところから分りよったんやな、なるほど種は種やが、鋭い観察だすな。それはそれでええとして、青年の方が令嬢を朝早く迎えに行ったいうんは?」
「それは、上原君の靴だけではなく、カオルさんの靴にも同等程度の泥がついていたからです。つまり二人は同じ程度の泥濘ぬかるみを歩いたことになります。それから燕号は、東京駅を午前九時に発車するのですから、朝早く迎えに行ったんでしょう」
「そうなりまっか。ちょっと腑に落ちまへんな。もし二人が駅で待合わしたんやってもよろしいやないか。そして、令嬢も上原も郊外に住んで居ったら、靴の泥も、同じように附着しよりますがな」
 帆村は、ここだという風に大きく肯き、
「ところがですネ、もっと大事な観察があるのです。二人の靴についている泥が、どっちも同質なんです」
「同質の泥というと――貴下あんたさんは、地質にも明るいのやな」
「ナニそれほどでもないが、二人の靴の泥を後でよく見てごらんなさい、どっちも泥が乾いているのに赤土らしくならないで、非常に青味がかっていましょう。染めたように真青です。だから、どっちも同質の土です。二人は同じ場所を歩いたと考えていいでしょう」
「へえーッ、さよか。そんなに青い泥がついとりましたか、気がつきまへなんだ。それはええとして、最後に、家が板橋区のどこやらとズバリと云うてだしたのは、これはまたどういう訳だんネ。令嬢を前から知っとってだすのか」
「いえ、さっきこの家で始めて会ったばかりです。だがチャンと分るのです。あのような青いインキで染めたような泥は、板橋区の長崎町のほかにないんです。もっと愕かすつもりなら、通った通りの丁目まで云いあてられるんですよ」
「へえ、驚きましたな。しかしまた、あんな青い泥がその長崎町だけにあって、外の土地には無いというのは、ちと特殊すぎますな。長崎町にあったら、その隣り町にもありまっしゃろ。そもそも地質ちゅうもんは――」
「ああ、あなたの地質の造詣ぞうけいの深いのには敬意を表しますが――」
「あれ、まだ地質学について何も喋っていまへんがナ」
「いや喋らんでも僕にはよく分っています。それにこの問題は地質学の力を借りんでもいいのです。つまりちょっと待って下さい、あれは地質上、あんなに青いのではないのですからネ」
「ほほン、地質で青いのかとおもいましたのに、地質以外の性質で青いちゅうのは信じられまへんな」
「いや信じられますよ。あなたはきょう東京から来た東京タイムスの朝刊をお読みになりましたか。読まない、そうでしょう。新聞を見るとあの長崎町二丁目七番地先に今掘りかえしていてたいへん道悪のところがあります。その地先で昨夜、極東染料会社の移転でもって、アニリン染料の真青な液が一ぱい大樽おおだるに入っているのを積んだトラックがハンドルを道悪に取られ、呀っという間に太い電柱にぶつかって電柱は折れ、トラックは転覆てんぷくし、附近はたちまち停電の真暗やみになった。そしてあたり一杯に、その染料が流れだして、泥濘ぬかるみが真青になったと出ています。何もしらないで、現場へ飛びだした弥次馬やじうまたちが、後刻自宅へ引取ってみると、誰の身体も下半分が真青に染っていて、洗っても洗っても取れないというので、会社に向け珍な損害賠償を請求しようという二重の騒ぎになったとか、面白可笑しく記事が出ているんです。カオル嬢と上原君の泥靴の青い色からして、二人が今朝そこの泥濘ぬかるみを歩いたに違いないという推理を立てたのです」
「な、な、なるほど、なるほど、さよか。特殊も特殊、まるで軽業かるわざのような推理だすな」
「全くそのとおりです。運よく、特殊事情をうまく捉えただけのことです。しかしこれは笑いごとじゃないのです。あなたがたは官権というもので捜査なさるからたいへん楽ですが、われわれ私立探偵となると、表からも乗り込めず、万事小さくなって、貧弱な材料に頼って探偵をしなきゃならない辛さがあるんです。そこであなたがたよりは、小さいことも気にしなきゃならんのです。目につくものなら、何なりとがさんというのが、私立探偵の生命線なんでして――」
「もう止せ、帆村君。手品の種明かしの後でながなが演説までされちゃ、折角せっかく保護している玉屋総一郎氏が蠅男の餌食になってしまうよ。そうなれば、今度は、こっちの生命線の問題だて」
 そういって村松検事は、時計を見ながら、帆村の肩を指で突いた。
 しかし、警官は、何に感心したものか、いつまでも、「なるほどなアなるほどなア」とひとごとをいいながら、二人の出てゆくのにも気がつかない風だった。


   生きている主人


 夜はいたく更けていた。
 仰ぐと、寒天には一杯の星がキラキラ輝いていた。晴れわたった暗黒の夜――
 ほとんど行人の姿もない大通りを、村松検事と帆村荘六の乗った警察自動車は、弾丸のように疾駆していった。
 天下茶屋てんかぢゃや三丁目は、スピードの上では、まるで隣家も同様であった。
 玉屋邸の前で、二人は車を下りた。
 扉を開けてくれたのを見ると、それは、帆村もかねて顔見知りの大川巡査部長だった。彼は直立不動の姿勢をして、
「――私がもっぱら屋外警戒の指揮に当っとります」
 と、検事に報告した。
「それは御苦労。すっかり邸宅を取巻いているのかネ」
「へえ、それはもう完全やと申上げたいくらいだす。塀外へいそと、門内、邸宅の周囲と、都合三重に取巻いていますさかい、これこそ本当ほんまの蟻の匍いでる隙間もない――というやつでござります」
「たいへんな警戒ぶりだネ」
「へえ、こっちも意地だす。こんど蠅男にやられてしもたら、それこそ警察の威信地に墜つだす。完全包囲をやらんことには、良かれ悪しかれ、どっちゃにしても寝覚ねざめがわるおます」
 この巨大な体躯の持ち主は、頤紐あごひもをかけた面にマスクもつけず、彼の大きな団子鼻は寒気のためにいちごのように赤かった。なににしても、たいへんな頑張り方だった。
 村松と帆村は、監視隊の間を縫って警戒線を一巡した。なるほど、映画に出てくる国定忠治の捕物を思わせるような大規模のものだった。警官の吐く息が夜目にも白く見えた。
 一巡後、二人は、厳重な門を開いて貰って、玄関に入った。
 さすがに屋内は、鎮まりかえっていた。でも座敷に入ると、ふすまの蔭や階段の下に、警官が木像のように立っていた。そして検事の近づくのを見ると、一々鄭重な敬礼をした。
「ああ検事さん検事さん。――」
 警戒総指揮官の正木署長が、向うからやって来た。彼も頤紐をかけ、足には靴下を脱いで、その代りに古足袋たびを履いていた。それは捕物の際、畳の上で滑らないためらしかった。
「おお正木君か。――君、蠅男というのは何十人ぐらいで、隊をなしてくるのかネ」
「隊をなして? ――ハッハッハッ。検事さんのお口には敵いまへん。ともかくも屋内のどこからどこまで、私のとこで完全に指揮がとれるようになっとります」
「ウム、完全完全の看板流行ばやりだわい」
「え、何でございます」
「いや、革の袋からも水が漏るというてネ、油断はできないよ。――主人公の居るところは何処かネ」
「ああ、それはこちらだす。どうぞ、こちらへ――」
 正木署長は、検事を廊下づたいに玉屋総一郎の書斎の前に連れていった。そこの扉の前には、鬼をあざむくような強力ごうりきの警官が三人も立っていた。
 検事はドアの方によって、ハンドルを握って廻してみた。
「ああ、あきまへん」と警官の一人がいった。「御主人が中に入って、自分で鍵をかけていてだんネ」
「中から鍵を――すると警官も中へは入れないのかネ」
「警官まで、蠅男の一味やないか思うとるようですなア」
「ちょっと会ってみたいが――」
「そんなら、扉を叩いてみまっさ」
 警官が、なんだか合図らしい叩き様で、扉をドンドンドン、ドンドンと叩いた。そして主人の名を大声で呼んでいると、やがて扉の向うで微かながら、これに応える総一郎のわめごえがあった。
「――さっき断っときましたやろ。もう叩いたりせんといておくれやす。そのたんびに心臓がワクワクして、蠅男にやられるよりも前に心臓麻痺になりますがな」
 主人公は、心細いことを云って、脅えきっていた。正木署長は検事に発声をうながしたが、村松はかぶりを振ってもうその用のないことを示した。で、署長が代って、
「――私は署長の正木だすがなア、なにも変ったことはあらしまへんか」
 すると中からは、総一郎の元気な声で、
「ああ署長さんでっか。えろう失礼しましたな。今のところ、何も変りはあらしまへん。しかし署長さん。殺人予告の二十四時間目というと午後十二時やさかい、もうあと三十分ほどだすなア」
「そう――ちょっと待ちなはれ。ウム、今は十一時三十五分やから――ええ御主人、もうあと二十五分の辛抱だす」
「あと二十五分でも、危いさかい、すぐには警戒を解いて貰うたらあきまへんぜ。私もこの室から、朝まで出てゆかんつもりや、よろしまっしゃろな」
「承知しました。――すると朝まで、御主人はどうしてはります」
「十二時すぎたら、此処に用意してあるベッドにもぐりこんで朝方まで睡りますわ」
「さよか。そんならお大事に、なにかあったら、すぐあの信号の紐を引張るのだっせ」
「わかってます。――そんならもう扉を叩かんようにお頼み申しまっせ。蠅男が来たのか思うて、吃驚びっくりしますがな」といって総一郎は言葉を切ったが、また慌てて声をついで、「――それからあのウ、池谷与之助いけたによのすけは帰って来ましたやろか。そこにいまへんか」
「ああ池谷はんだっか。さあ――」と署長は後をふりかえって、警官の返事を求めたあとで、「どこやら行ってしもうたそうや。うちに居らしまへんぜ」
「ああそうでっか。おおきに。――そんならこれで喋るのんはお仕舞いにしまっせ」
 帆村は、さっきからしきりと両人の扉ごしの会話に耳を傾けていたが、このとき首を左右に振って、
「――喋るのはお仕舞いにしまっせ、か。これが永遠の喋り仕舞いとなるという意味かしら。ホイこれは良くないだて」
 といって、大きな唇をグッとの字に曲げた。

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