您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 岡本 綺堂 >> 正文

中国怪奇小説集(ちゅうごくかいきしょうせつしゅう)05酉陽雑爼(唐)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 17:44:10  点击:  切换到繁體中文


   剣術

 韋行規いこうきという人の話である。
 韋が若いとき京西きょうせいに遊んで、日の暮れる頃にある宿場に着いた。それから更にゆく手を急ごうとすると、駅舎の前にはひとりの老人が桶を作っていた。
「お客人、夜道の旅はおやめなさい。ここらには賊が多うございます」と、彼は韋にむかって注意した。
「賊などは恐れない」と、韋は言った。「わたしも弓矢を取っては覚えがある」
 老人に別れを告げて、彼は馬上で夜道を急いでゆくと、もう夜がけたと思う頃に、草むらの奥から一人があらわれて、馬のあとをけて来るらしいので、韋は誰だと咎めても返事をしない。さてこそ曲者と、彼は馬上から矢をつがえて切って放すと、確かに手堪てごたえはありながら、相手は平気で迫って来るので、更に二の矢を射かけた。続いて三発、四発、いずれも手堪えはありながら、相手はちっともひるまない。そのうちに、矢種は残らず射尽くしてしまったので、彼も今更おそろしくなって、馬を早めて逃げ出すと、やがて又、激しい風が吹き起り、らいもすさまじく鳴りはためいて来たので、韋は馬を飛び降りて大樹の下に逃げ込んだ。
 見れば、空中には電光が飛び違って、さながらまりを撃つ杖のようである。それが次第に舞い下がって、大樹の上にひらめきかかると、何物かが木の葉のようにばらばらと降って来た。木の葉ではなく板のふだである。それが忽ちに地に積もって、韋の膝を埋めるほどに高くなったので、彼はいよいよ驚き恐れた。
「どうぞ助けてください」
 彼は弓矢をなげ捨てて、空にむかって拝すること数十回に及ぶと、電光はようやく遠ざかって、風も雷もまたやんだ。まずほっとして見まわすと、大樹の枝も幹も折れているばかりか、自分の馬も荷物もどこへか消え失せてしまったのである。
 こうなると、もう進んでゆく勇気はないので、早々にもと来た道を引っ返したが、今度はかちあるきであるからはかどらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶のたがをはめていた。まさに尋常の人ではないと見て、韋は丁寧に拝して昨夜の無礼を詫びると、老人は笑いながら言った。
「弓矢をたのむのはお止しなさい。弓矢は剣術にかないませんよ」
 彼は韋を案内して、宿舎のうしろへ連れてゆくと、そこには荷物を乗せた馬が繋いであった。
「これはあなたの馬ですから、遠慮なしにいておいでなさい。ただちっとばかりあなたを試して見たのです。いや、もう一つお目にかける物がある」
 老人はさらに桶の板一枚を出してみせると、ゆうべの矢はことごとくその板の上に立っていた。

   刺青

 都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習いとして大抵は髪を切っている。そうして、はだには種々の刺青ほりものをしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、へびをたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾ようひをとって人を撃つ者もあるので、京兆けいちょう(京師の地方長官)をつとめる薛公せつこうかみに申し立ててかれらを処分することとなり、里長さとおさに命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとくいちいて杖殺じょうさつさせた。
 そのなかに大寧坊たいねいぼうに住む張幹ちょうかんなる者は、左の腕に『生不怕京兆尹いきてけいちょうのいんをおそれず』右の腕に『死不怕閻羅王ししてえんらおうをおそれず』とっていた。また、王力奴おうりきどなるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。
 かれらも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者どもは、みな争ってそれを焼き消してしまった。
 また、元和の末年に李夷簡りいかんという人がしょくの役人を勤めていたとき、蜀の町に住む趙高ちょうこうという男は喧嘩を商売のようにしているあばれ者で、それがために幾たびか獄屋に入れられたが、彼は背中一面に毘沙門天びしゃもんてんの像を彫っているので、獄吏もその尊像をはばかって杖をあてることが出来ない。それを幸いにして、彼はますますあばれ歩くのである。
「不埒至極の奴だ。毘沙門でもなんでも容赦するな」
 李は彼を引っくくらせて役所の前にひき据え、新たに作った筋金すじがね入りの杖で、その背中を三十回余も続けうちに撃ち据えさせた。それでも彼は死なないで無事に赦し還された。
 これでさすがに懲りるかと思いのほか、それから十日ほどの後、趙は肌ぬぎになって役所へ呶鳴り込んで来た。
「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進ごきしんをねがいます」
 李が素直にその寄進に応じたかどうかは、伝わっていない。

   朱髪児

 厳綬げんじゅが治めていた太原たいげん市中の出来事である。
 町の小児しょうにらが河に泳いでいると、或る物が中流をながれ下って来たので、かれらは争ってそれを拾い取ると、それは一つの瓦のかめで、厚いきぬをもって幾重いくえにも包んであった。岸へ持って来て打ちこわすと、瓶のなかからは身のたけ一尺ばかりの赤児あかごおどり出したので、小児らはおどろき怪しんで追いまわすと、たちまち足もとに一陣の旋風が吹き起って、かの赤児は地をる数尺の空を踏みながら、再び水中へ飛び去ろうとした。
 岸に居あわせた船頭がそれを怪物とみて、さおをとって撃ち落すと、赤児はそのまま死んでしまったが、その髪は朱のように赤く、その眼は頭の上に付いていた。

   人面瘡じんめんそう

 数十年前のことである。江東こうとうの或る商人あきんどの左の二の腕に不思議の腫物しゅもつが出来た。その腫物は人のかおの通りであるが、別になんの苦痛もなかった。ある時たわむれに、その腫物の口中へ酒をそそぎ入れると、残らずそれを吸い込んで、腫物のかおは、酔ったように赤くなった。食い物をあたえると、大抵の物はみな食った。あまりに食い過ぎたときには、二の腕の肉が腹のようにふくれた。なんにも食わせない時には、そのひじがしびれて働かなかった。
「試みにあらゆる薬や金石草木のたぐいを食わせてみろ」と、ある名医が彼に教えた。
 商人はその教えの通りに、あらゆる物を与えると、唯ひとつ貝母ばいぼという草に出逢ったときに、かの腫物は眉をよせ、口を閉じて、それを食おうとしなかった。
「占めた。これが適薬だ」
 彼は小さいよしくだで、腫物の口をこじ明けて、その管から貝母のしぼり汁をそそぎ込むと、数日の後に腫物はせて癒った。

   油売

 都の宣平坊せんぺいぼうになにがしという官人が住んでいた。彼が夜帰って来て横町へはいると、油を売る者に出逢った。
 その油売りは大きい帽をかぶって、驢馬ろばに油桶をのせていたが、官人のゆく先に立ったままで路を避けようともしないので、さき立ちの従者がその頭を一つ引っぱたくと、頭はたちまちころりと落ちた。そうして、路ばたにある大邸宅の門内にはいってしまった。
 官人は不思議に思って、すぐにその跡を付けてゆくと、かれのすがたは門内の大きいえんじゅの下に消えた。いよいよ怪しんで、その邸の人びとにも知らせた上で、試みにかの槐の下を五、六尺ほど掘ってみると、その根はもう枯れていて、その下に畳一枚ほどの大きい蝦蟆がまがうずくまっているのを発見した。蝦蟆は銅で作られた太い筆筒ふでづつ二本をかかえ、その筒のなかには樹の汁がいっぱいに流れ込んでいた。又そのそばには大きい白いきのこが泡を噴いていて、菌の笠は落ちているのであった。
 これで奇怪なる油売りの正体は判った。
 菌は人である。蝦蟆は驢馬である。筆筒は油桶である。この油売りはひと月ほども前から城下の里へ売りに来ていたもので、それを買う人びとも品がよくてあたいやすいのを内々不思議に思っていたのであるが、さてその正体があらわれると、その油を食用にきょうした者はみなわずらい付いて、俄かに吐いたりくだしたりした。

   九尾狐

 むかしの説に、野狐のぎつねの名は紫狐しこといい、夜陰やいんに尾をつと、火を発する。怪しい事をしようとする前には、かならず髑髏どくろをかしらに戴いて北斗星を拝し、その髑髏がちなければ、化けて人となると言い伝えられている。
 劉元鼎りゅうげんてい蔡州さいしゅうを治めているとき、新破しんぱ倉場そうじょうに狐があばれて困るので、劉は捕吏ほりをつかわして狐を生け捕らせ、毎日それを毬場まりばへ放して、犬にわせるのを楽しみとしていた。こうして年を経るうちに、百数頭を捕殺した。
 後に一頭のかさのある狐を捕えて、例のごとく五、六頭の犬を放したが、犬はあえて追い迫らない。狐も平気で逃げようともしない。不思議に思って大将の家の猟狗かりいぬを連れて来た。監軍かんぐんもまた自慢の巨犬をいて来たが、どの犬も耳を垂れて唯その狐を取り巻いているばかりである。暫くすると、狐はおどって役所の建物に入り、さらに脱け出して城のかきに登って、その姿は見えなくなった。
 劉はその以来、狐を捕らせない事にした。道士の術のうちに天狐の法というのがある。天狐は九尾で金色で、日月宮に使役しえきされているのであるという。


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告