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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


堅山南風論

     自然洞察の徹底

 堅山南風論の書き出しは、堅山氏の人格論から入つてゆくのが至当なやうである、また世間でもさういふ論じ方をしてゐる、しかし世間で散見する堅山南風論が南風の人柄を賞めるといふことをやつてゐる間に、もう頁を喰つてしまつて、肝心の南風の絵の本質に触れないでしまふといふ場合が非常に多い。都合の良いことには、筆者は堅山氏と逢つてゐない、したがつて『対座して氏の話題に耳を傾けてゐると何とも言ひ知れぬ人間の温かさに包まれる――』といつたやうな批評はできない。筆者は斯ういふ意見を平素もつてゐる、芸術家で人間味のないものはゐない、少し位人が悪くても、良い芸術品を産む人に頭を下げる、人が良くて仕事をしない芸術家があまりに多すぎる、堅山南風氏は『人が良くて芸術が良い』問題はそこにある、人柄と芸術とが一致してゐるといふことは確かに完全なことにちがひない、一度氏に面接した人は、きまつて氏を尊敬し讃めそやす、人との間に垣を設けない氏の人柄に好感を持つ、ある美術通が、日本画壇の好人物三点を述べて、堅山南風氏は、三本の指に折られるうちの一人だと言つてゐた。
 一に荒木十畝氏、この人はヒネクレ屋ではない、しかし相手の出方次第で、どのやうにでも曲つてでる、しかし根が実に人柄が良い人である、次には池上秀畝氏少し軽忽なところがあるが人が良い、それから堅山南風氏で、堅山氏は『純粋に人が良い』と日本画壇好人物三羽烏だとその人は言つてゐた、南風氏が『人との間に垣を設けない――』といふことは特に驚ろくべきことではないので、氏にとつては対人関係に於いて『武装する時代』はすでにすぎたのである。しかし南風氏がその製作にあたつて、『自然と彼』との関係に於いて、この男ほど垣を設ける作家はゐないのである。
 その絵をみればわかるやうに、第一にその構図の上でも、徹底した構図主義者であるといふこと、しかもその徹底ぶりが完璧的であるために、ちよつと見[#「ちよつと見」は底本では「ちつよつと見」]には作意もなく自然に出来てゐる、描けてゐるやうに見えること、その実作者自身の心境は、世間でいふやうほどにも、単純でも素朴でもないといふことである。
 彼は描く自然に対して、人間的な厳格さをもつてたち向ふ、この種の作家は、自然の美しさに極度にヤキモチを焼く作家に属してゐる、そのヤキモチの焼き加減は、死んだ速水御舟ほどにもひどくないが何かしら『人間的表現』を求めないではをられないといふ点では良く似てゐる。
 南風氏の絵からは、ナイーブなものを受けとるといふよりも、ある『辛辣なもの』をうけとることが多い、南風氏は人柄が良いにちがひない、しかし絵そのものは実に『人が悪い』絵である、どういふ風に人が悪い絵を書いてゐるか、これをいちいち解くには、南風氏の神経の密度から論じていかなければならない、それでは大変だ、そこでそれを短かく要約して言つて見よう。
 南風氏の絵の人の悪さは『日本画の伝統をぢりぢりと少しづつ破つてゆく、その方法の人の悪さ』である。川端龍子や、近藤浩一路のやうに、短腹タンパラの気の短かいやり方で、日本画の伝統や封建性を打ち破らうとは、南風氏はけつしてしてゐない。
 南風氏は、評判作『朔風』の飛んでゐる鴨の群のその先頭を飛んでゐる一羽の鴨のやうに、ただ着実に『羽を動かす』だけである、しかもこの真先にとんでゐる鴨は、しぜんな羽の動かし方で、飛翔力の強い、余裕のたつぷりあるすすみ方であつて、それにつづく鴨は後れてゐる鳥ほど、前の鳥を追ひ抜かうとして焦燥してゐる、南風氏作『朔風』は単なる屏風絵ではすみさうもない、日本画壇のセリ合ひを諷刺したやうな絵である。
 堅山南風氏の弟子であつたM氏が、南風氏より先に美術院の同人になつた、つまり昨日の弟子が今日は先生の絵を審査する立場になつた、封建性の強い徒弟制度的な日本画壇で、どうしてかういふ現象が起きたか、人に言はせれば、美術院の幹部はときどきさういふヒステリー的なやり方をするのださうだ――物の順序を欠いて、お先に先生より偉くなつたM氏は、したがつて仁義の上に於いても順序を欠いてゐた、南風氏のところに訪ねてきたM氏は、立つたまゝ足指で座布団をひきよせて、座つた、弟子M氏の昨日に変る横柄な態度を、南風氏はじつと無言のまゝ眺めてゐたといふことである。この話はいかにも傍で見てゐたやうに筆者に話した人がある、当時の南風氏の苦衷を手にとるやうにその人は! 語るのである。
『いまに見てゐれ!』と忍耐そのものの南風氏の表情まで真似てその人は筆者に語るのである、それはおそらくゴシップであらう、しかしゴシップであらうが、真実であらうがどちらでも構はぬ、如何にも実在しさうな話である、南風氏はその後それかあらぬか、画境の上で、また押しと飛躍では、他の追従をゆるさぬ世界を示しだした、まもなく南風氏は同人となつた、そしてM氏は、東京に居たたまらないものがあつて京都に去つたといふことである。丁度南風氏の『朔風』に描かれてゐる波の上をとぶ鴨の群の、トップを切る鴨のやうに、南風氏の飛翔力は着実となつたのである、弟子と先生との同人の小ぜり争ひといつた小局的なものが南風氏の画業の目標でなかつたことはたしかだ、氏の作『残照』の鵜のやうな超然主義もまた堅山南風氏の生活態度の、側面的な強味となつてゐるのである、勝負を目先にをかず、長い時間の間で決めてゆかうといふ態度である。
 堅山南風氏の『残照』と郷倉千靱氏の『山の夜』とは良い対照である、南風氏の自然に対する向ひ方といふのは、自然を素直にうけいれ、特に自然と妥協をすることさへも恐れないが、結局は自然を自分の膝の下に組み据へてしまはなければ気が済まないといふやり方である。
 郷倉千靱氏の場合は、自然に反逆する、自然を物をもつて掻き乱すといふ積極性が終始する。最初の動機から自然に勝たうとする、勝つこともあるだらう、だが千靱は最悪の場合でも自然と人間とは五分五分の勝負、引き分けであつても、負けたくないといふ強情さがある。
 南風氏を一言にして言へば、自然に対する人間の勝ち方を『目的のために手段を選ばない――』といふ方法をとつてゐるのである、両者の画境の相違を、最も良く示す証拠は、画面の空白のあけ方を見ればはつきりとする、千靱氏は画面の白い部分(描かれてゐない部分)をできるだけ少くしようと努める、自然の空白の存在することをゆるさないのである、それに反して南風氏は、空白だらけの絵を描くことが彼の特長となつてゐる。
 画面の空白とは、物理的に言つても、哲学的に言つてもそれは『空間』と呼ばれるものである、空間に時間があることを証明するには、そこに一本の枝にせよ、一尾の魚にせよ、一つの波にせよ、何かしら時間の実在することを知らせるやうなものを描かなければならない、しかし南風氏の絵のやうに空白が多く描くものの面積が少ないことは、それだけ空間によつて、時間が押しつめられ圧迫されることになる。
 つまり画面に空が多いといふことは、非常に困難な事業であるわけだ、南風氏の画面の処理の仕方はそれこそ彼の人柄のやうにも、自然に対しては謙遜で、最も消極的な態度でもつて、最も積極的な答を出さうといふのである。
 試みに彼の絵を注意して見給へ、ボンヤリと抜けたやうな感じの空間の多い絵でも、そこに描かれてゐるものが、極度に神経を緊密にした、細心そのものに丹念に描かれてゐることを発見するだらう。全体を把へるには細部の描写を完全に果すといふ以外に方法がない、南風氏はそれをちやんと心得てゐるのである。ボッと抜けたやうに見えてゐて、その絵の部分のママ描写によつて、充分に絵に締りをつけてゐるのである、龍子の絵はその気魄に於いては、雄大なものをもつてゐるが、その画家の心の動き方の順序といふものを吟味してみると、内側から外側へ拡げてゆくといふ『外延的』なやり方である、したがつて落漠感があるが、結局は絵に締りを欠く、南風氏の絵はその逆の心理状態を辿る、外側から内側に締めてゆくといふ『内延的』な描き方をとつてゐる、しかも南風氏の奇妙なところは、画面の『平面』といふことを良く心得てゐることである、画面に強ひて立体感をつけようとしないで、平面のなかで巧みに立体感や、絵の深みをつくりあげる才能は彼独特なものがある。
 しかしこゝまで平面芸術にコクをもたせるやうになるまでには、南風氏のこれまでの技術的苦労は並々ではなかつたであらう、昭和十年の上野松坂屋で開かれた第三回美術院同人展出品の『残月』は凄愴の気が満ちた力作であり、それは南風雌伏期の冷徹な思索時代のものであらう、それと傾向を同系列にをかれるもの『残照』をみても判かるやうに、その樹木の枝のなんと一とひねりも二ひねりもひねりまくつた描き方であらう、決してクセのない画家とは言へないのである。しかしその猛烈な癖を、平静な状態で観者に見せるといふ力量が、南風氏の力なのである。
『残月』といふようなクセの多い絵から最近の尚美堂展の『冬暖』といふやうなまことにクセの抜けた平和そのものの絵を描くやうになつた路莇はなかなか興味ぶかいものがある『冬暖』はいはゆる気のをけない描き方をした『小品』ものではあるが、作意が複雑なことと問題をもつてゐるといふ点では大作ものよりも、かうした小品ものに多くの作家研究の興味がつながれる。
 冬の温もりの中に、二羽の鴨が凝然とうづくまつてゐる絵であるが、一羽は顔をむきだしにして、一羽は羽の間に顔を突込んでゐる、そしてこの二羽の鴨は決して暖かさうには描かれてはゐない、周囲の状態も荒涼としてゐて、だから『冬暖』と画題をつけられてゐても、自然としての冬の温もりとは解釈できないのである。
 一言にして言へば、この『冬暖』なる絵はなにもかにも寒々と描かれてゐるのである、それでゐて何処かに『冬暖』と作者が画題を附した、その理由と覚しいものが、何かしら『暖かいもの』が感じられるのである。それは何処から来てゐるか、それは自然観照の態度で、描く対象を突放したやり方が却つて成功をさせてゐるのである、二羽の鴨には生きた血が通つてゐて、じつと冬の中で静止してゐるところは、鴨の体内的な温かさをさへ観るものに想像させるといふ、南風氏一流の感覚的な方法が生かされてゐるのである。
 往々にして南風氏の批評は、その表面的な批評で終る場合が多い、作者の洞察点にまで批評家が触れてやつて批評をする以外に親切な批評はないはずである、したがつて彼の作品に対して世上区々としてまとまつてゐない、帰するところは南風氏の人柄が良いといふところに落ちる、或る人は南風氏の三徳として『決して人に逆らはない』『道に逆らはない』『人に先んじない』と数へあげてゐる。
 しかし果して南風氏をさうした表面的な観察だけで済ましてをいていゝであらうか、人にさからはないといふことは、必ずしも美徳にはならない、南風氏は南風氏一流のさからひ方がある、その方法は彼だけのもので他人の察知できないものである、道にさからはないといふ訳は、いかにも彼が中庸主義者、合理主義者、功利主義者のやうに思はせがちであるが、彼が他人や芸術の路にさからはないといふことは、さういふ打算から出たものでもないやうだ。
 或る人は彼を『悟り』きつた男のやうにいふ。しかも彼の描いてゐる絵をみればわかるやうに、悟りどころか、彼位芸術上で悟りに徹した男は珍らしい、然も彼は自己の限界といふものをよく心得てゐる、その限界内で自己の完成を果たさうといふ慾望のまことに高いものがある。彼の仕事が『自然に』見え彼の人柄が『悟り』に感じられるのがその点である。彼は自己完成のやり方では、自分の描く絵と一緒に発展してゆかうといふやり方である。
 人格を超越して、絵の上でだけ人格的な絵を描かうとする画家も少くない、彼の場合は人間的苦悩を画の製作の間でやりとげてしまふ、それが果たし終へない間は絵が停滞することも尚怖れないといふ現実的な粘りがある。
 絵の上でゴマカシといふものをやらない、さういふ誠実さが、南風氏のかはれるところであらう、彼は花鳥の名手と呼ばれ、また『魚楽図』『魚類十種』『鱗光潜む』などのすぐれた作があるところから魚の名手ともいはれてゐる、いままた波をよく描き、波の名手ともいはれさうだ、美人を描きだしたら美人画の名手にもなれさうである、しかしそれは画題に依つて一人の作家をきめつけてはしまへないものがある、南風氏は定めし、これまで描いたことのないものを新しく描いても、この描写の態度の『誠実さ』の故に、それを美事に描ききつてしまふだらう。ゴマカシのない製作態度に依るときは、如何なる題材もまた完璧化されるだらう、昭和十一年第一回帝国美術院の出品『ぼら網』は、重厚な厚塗りの立体と、群青を生かした新興作家、前衛作家にも劣らぬ色彩的に豊富な好評作であつたが、こゝでは色彩論を次の機会に譲つて、そこに描かれたものの、作者南風氏の自然観照の緻密さと、その解決の仕方を述べよう。
『ぼら網』の中に追ひつめられた魚達の混乱を描いたものだが、魚が驚愕の果ての混乱の状景といふものには、秩序のないのが普通とされてゐる、しかし南風氏は魚たちを混乱させてはゐるが、この全体的な混乱を、いくつもの小さな部分に分けて、混乱させてゐる、ちよつと見には大きな混乱にみえるが、仔細にみると、小さな部分の魚達は少しも驚ろいてゐない、小さな列をつくりながら整然と逃げ廻つてゐる、堅山南風氏が自然観照の細部に対しての洞察力の透徹を最もよく語るものであらう。
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郷倉千靱論

 郷倉千靱氏の現在の作家的位置が、日本画壇のどのやうな位置を占めてゐるだらうか、そのことに就いて、分析したり観察したりしてみることは、様々の問題を提出する、こゝでいふ画壇的地位といふのは、画壇での政治的政策的地位のことをいふのではない、画が拙くても、なかなか政治的位置を築きあげることの巧みな人もある、こゝではその種の位置ではない、批評家の批評は、結局に於いてその作家の作品に出発して、その作品に終れば批評の目的は達せられる、党派とか、政略とかいふ作品以外の色々の附属物を気にかけて、それで批評眼を曇らすことは批評家の不幸に停まらず、作家にとつても不幸と言はなければならないだらう。
 郷倉氏の日本画壇での位置は、氏がこれまで反世俗的な方法を、作画上に加へることに依つて築きあげてきた、案外に滋味な位置と解されるべきであらう。氏はその小品、竹とか鳥獣とかの、日常的な作品にさへも、何等かの新しい試み、反世俗的な方法を加へなければ気が済まない性質である、院同人展への出品『寒竹に小禽』に対して、ある批評家が斯ういつた『近代的感覚をもつた作家である、直線的な鋭敏性を示してゐる――』竹といふ画題は、おそらく日本画始まつて以来の画題的古さをもつてゐるものにちがひない。
 竹はあらゆる画人が、あらゆる角度から、その姿態に於いても、殆んど描き尽したといつても良いほどに、手法の変化の余地のないほどにも描かれてきたに違ひない、その竹に郷倉氏が近代的感覚とか、直線的鋭敏性をもつて描いたとはどういふことを指していふのか、この批評家も、こゝまでは言ふ、だが例によつての印象批評で、具体的批評を行つてゐない。
 竹などといふ古くからある画題に取組んで新しい仕事をするといふことは、新しい画題に新しい仕事をするよりも、幾層倍も困難が伴ふのである、郷倉氏はその作品の小さなものに案外な問題作が少なくない、『寒竹に小禽』とか、一哉堂展の『恵春』の試みとか、第十三回日本美術院『筍』とか、昭和四年の『寒空』といつた画壇で、さう喧ましく言はない作品に、却つてピカリと光つた作家の前進性や、郷倉氏の片鱗を発見することが多い、小品物には、展観制作の大物とはちがつて、気らないもの、作家の日常の勉強ぶりがよく現はれるからである。郷倉千靱氏の作風位、動揺極まりない作風は少ない、一作毎に加へられてゐる新しい試みは、時には露骨なほどに、その新しい計画を誇張してゐる作品さへ見受けられるのである、世俗的には作風の動揺といふことは、其作家の地位の動揺といふことと同意語であつて郷倉氏の場合は、それに反して作風の動揺を引つ提げて、こゝまでひた押しに押し切つてきたのである、それはむしろ奇蹟的な感じさへ与へる、作者が自分の画風といふものを変へずそれに安定感を与へるといふことは、世俗的には得策なことである、それを敢てせず一作毎に飛躍を求め、必然的に現れてくる作風の変化を怖れないといふ態度は、作家の勇気と呼ばれていゝ性質のものだ。同時に郷倉氏自身が自己の実力といふものを確信して仕事をすゝめてきたからでもあらう、作風の動揺の底に失はぬところの『実力』が郷倉氏の現在を、社会的保証の中にをくやうになつたと解すべきであらう。
 作風を変化させるといふ勉強の方法を求めるといふことは、実力のないものにとつては最も危険なやり方である。西洋ではピカソがカメレオンと悪口を言はれた程、画風を変へてきたが、彼が今日の位置を保つてゐるのは、彼の本質的な実力が、最後的勝利を得たからである、郷倉氏の作風の変化は、ピカソ的変貌の仕方とは勿論ちがふが、日本画家としては珍らしく、作風上の飛躍を、大胆に試みる作家である、しかしこの変貌時代は漸次去つて、十二年の院展『麓の雪』十三年の院展『山の夜』には、作者の心理的安定を、その作品から感ずることができる、郷倉氏は『山の夜』あたりを一転機として、実力発揮の時代に入つたものとみて誤りがなからう、言ひかへればこれまでの郷倉氏は、その自己の実力の出しをしみをしてきた作家といふことも出来るのである、我々の作家にのぞむものは、その野心作である、実力発揮といふことの本質的な言ひ方は、さうした野心作に作家が入つてから用ひられるべきものだらう。
 郷倉氏は、画風の上ではいかにも感情的、感性的な仕事をしてゐるやうに、我々の眼に映ずる、しかし実はその反対のものが、氏の認識手段として多くはたらいてゐるのである、つまり知性的なもの、悟性的なもの、が制作にあたつて重要な働きをしてゐる、郷倉氏が仕事の上で、奔放性を発揮しようとしても、悟性がこれを強く押へてきた、近来それが人柄の上にも、年輩の上にも、成熟期に入つた感がする、今後は何の懸念もなく、感性も悟性もその赴くまゝに自由に発揮し、制作するといふ自由が氏の最近に訪れたやうである。
『山の夜』は問題作であるのに拘はらず、案外世間では慌たゞしく、この作品を見遁したといふ感がある、批評家が、一つの予見性を認めるとすれば、氏の『山の夜』から引きだされる将来の仕事は充分予見できるのである。『麓の雪』を金井紫雲氏が評して『此の雪の描写は、象徴的気分はないにしても、手法の上に一の創作的技巧を見ることができる――』といつてゐた、日本画の世界では、象徴的気分とか象徴的方法とかいふものを、これまで創作的技巧と呼んでゐたのではなかつたらうか――、こゝで金井紫雲氏は、郷倉氏の絵を評して、『象徴的気分』と『創作的技巧』といふものをはつきりと区別して論じてゐるし、郷倉氏の『麓の雪』に象徴的気分がなくて、そのかはりに一つの創作技巧をみいだしたといつてゐるのである、金井氏の評は、たしかに郷倉氏に対して、一応当つたことを言つてゐる、しかしまた象徴的気分に対して未練がましいものを評者から感ずるし、郷倉氏の所謂一つの創作技術なるものの正体を解かず、舌足らずの感がある。
 郷倉氏の作品に対する世間的評価の仕方には、何かしら『舌足らず』のものがあるが、実はこれは郷倉氏個人の作品批評だけの問題にとどまらない、日本画の上で何かしら新しい前衛的な試みをしてゐる作家に対しての、世間的評価は、何れもみなこの『舌足らず』そのものを証明してゐる、金井氏のいふやうに郷倉氏は、その作風の上で、たしかに象徴的気分のない『創作的技巧』を示したことは事実である、そして次の仕事『山の夜』では、それが発展した作品として、一層象徴的気分を排除し、創作的技巧を発揮したのである。それは『現実主義者をして郷倉氏――』がその創作上で面目躍如を始めたからである。
 現実主義者は、象徴的気分を喜ぶはずがない、日本画壇には写実主義者や、象徴主義者はまことに多いが、郷倉氏のやうなタイプの現実主義者は至つて少ないのである。
 ただこゝに一つの問題が残る、それは現実主義者が作画上で、象徴的方法を用ひてはいけないか、あるひは用ひることが不可能であるかといふ問題である、こゝではつきりと言へることは、象徴的方法を完全に自己のものとして使ひこなすことのできるのは、現実主義だけであるといふことである。始めつからの象徴主義者は、象徴的方法を用ひることができない。
 しかも郷倉氏は現実主義者でありながら、象徴的な画を描いてきてゐるといふことは興味ふかいものがある、金井紫雲氏の言ふやうに『象徴的気分』はいけないのであつて、作画上で象徴的解決にもつてゆくことは一向差支へないのである、気分では方法が生れないのである、郷倉氏の作画方法は、あくまでリアリズムであつて、そこから引き出された答が象徴主義者なのである、氏がシンボリズムの様々の試みをしてゐることは過去の仕事ぶりをみてもわかる。
 第八回日本美術院『地上の春』は林の中の樹木の群が歓喜の状態で描かれてゐる。硬い目に描かれてゐる木の枝に、配するに柔らかい花と、木の芽があり、地上の湿潤のいい春の気配を感じさせる作である、この描法の硬さは単純な企てから出発した硬さではない、強い写実力として、その後の行き方の基本的なものを示してゐる、当時の画家たちがどんな仕事をしてゐたかといふことを回顧することも無意味ではあるまい、当時は小林古径の『罌粟』や、藤井達吉の『山芍薬』のリリシズム、速水御舟の『菊』殊に速水の『渓泉二図』の豪放のうちに強い写実味を加へた作や橋本静水の『秋』はけんらんたる絵巻を展開し何れの作家もすぐれた写実的風潮を、その作画の基本的なものとしてゐたのである。
 郷倉氏はこれらの写実的風潮の中を潜つてきた人である、したがつて作風の上でもその変化は、独特の抵抗力をもつてゐる、計画的な画面の硬さや、陰影の明確さは、何れもその後の象徴的方法の前奏曲的なもので、下仕事として現はれたものと思はれる。第十二回の『筍』や『童児相撲』などはその極端な現はれであつた、その間に特長的な仕事として第十回に『草辺二題』がある、この絵は『蜂の巣』と『小鳥の水浴び』とを描いたもので、その細密描写は、一見写実的方法には見えるがさうではなく、一種の象徴的手段であると見ることが正しいであらう。
 洋画家アンリー・ルッソーが徹底的写実を追求して行つて、却つて象徴的手段に行き着いたのと、郷倉氏の『草辺二題』はその軌を一にするものがある。郷倉氏のこれまでの作品の流れをみると、氏は硬軟両様の方法で、一つの対照的方法を産みださうとして、両側から攻めてきてゐるのだといふ感がふかい、ただこゝに一つ危険が伴つてゐた、それは郷倉氏の作風の中の、一種の『童画的』な方法である、むしろ童画的精神と呼ぶべきものがチラチラと作品の傾向の中に挟まつてきた、氏の童子もの、鳥獣もので特別な姿態に跳躍させてゐる、俗にいふ童話的雰囲気のものがそれである、これらのものは飄逸性に於て面白いが、この種の童話的解釈は、画家そのものの現実からの逸脱であつて、もつとも危険な現象である、観る者またその童画的な作から、いつまでも時間的に現実性を味得することができない、批評家たちは『村童は素朴なユーモラスな気分ある趣き深いもの――』などと氏のものを批評してゐる、郷倉氏の童話的作品に対して支持的態度を見せてゐるがこれは批評家のお世辞以外のなにものでもない。
 しかし最近では氏のこの童話性の危険は、漸次去つてゐるやうである、『山の秋』ことに『山の夜』に至つては、そこに跳躍する小動物は、既に往年の童話的小動物ではない、それは山の夜に生活するもの――としてあるふてぶてしい存在にさへ、写実的に描きあげられてゐるのである。『山の夜』は現実的な作品であつても、決して世間でいふほど神秘的な作品童画的な作品ではないのである、また郷倉氏の独特の抒情味といふものも、世間では認めてゐるが、抒情性は小品ものでは承認されても、氏の大作ものに対しては、むしろ抒情味の少ない、冷酷な位な悟性の透徹した作品をみせてほしいといふ欲望をもつ、評者金井紫雲氏は、郷倉氏の手法上の一の創作的技巧――とは認めたが、その正体を語らなかつたが、私は郷倉氏のこの創作的技巧を指して、新しい象徴的手法であると、はつきりと規定することができる、何故ならば作家の用ひる芸術的な方法は、必然的な手段ばかりでなく、時には偶然的な方法さへ認めなければならない立場にたたされる、それといふのも、対象の真を描くためには、芸術家は『目的のためには手段を選ばない――』態度であるべきだからである。
 郷倉氏が気分の上の象徴主義者ではなく、むしろ気分の上では完全なリアリストであつて、ただ手段の上で象徴的方法をとるといふことであつたならば郷倉氏の傾向としてむしろ喜ぶべきことだと考へる、日本画が将来に発展するか、滅亡するかは、日本画の従来の特質である象徴性に、新しい時代的解釈を加へることができるかどうかの如何に懸つてゐる、南画の危機は、その内容の危機でもあるが、むしろ南画そのものの『象徴的方法』の危機に当面してゐるやうに、日本絵画伝統の深さは、一本の竹、一本の松、を描くにも、作者が少しも現実的な思索をしなくても、形だけは描けるといふ前もつて約束された描法上の諸形式があまりに数多くありすぎる、つまり筆を下ろした初から、抽象的、象徴的方法ができてゐる、思索をしなくとも、ただ描法を選みさへすればいゝといふことは、現代の日本画の半面の幸福と、半面の不幸とを物語るものであらう。
 郷倉氏がそこに何等かの新しい創造方法を産み出すことを計画してゐるとすれば、強い写実的雰囲気を出すための手段としての、象徴的方法それでなければならない、しかもその象徴的方法とは方法以外のなにものでもなくて、方法以上に一歩もでるものではない、観る者に象徴的雰囲気を与へては、その目的に反する、郷倉氏は最近その創作方法上の一つの解決の鍵を発見したかのやうである、『山の秋』『麓の雪』『山の夜』等を一転機として、氏の仕事が『主題芸術』に入つたといふことこれである、凡俗の画家は、一生涯構図をつくることで終る、作家が最大の力量を発揮できる世界は、この構図主義から開放され、『主題芸術』の世界に入ることである。このテーマ芸術とは、画面の構成を意味あり気にしたり、物語りめいた画をつくることとは違ふ、むしろもつと単純なものだ、それは画面に時間的空間的な系列を具体的に示すといふ事業のことである、画面の叙述性、叙事性が生かされたものが主題芸術なのである。それは必ずしも社会的政治的テーマとは限らぬ、それは山の夜の静動の世界でも、雪に埋没された鳥の生活でも構はぬ、画面に時間的展開が無限の叙述をもつて表現されてゐれば、立派なテーマ芸術と言へる、郷倉氏はその強烈な空想性、想像性を現実的拠点、現実的基礎から引き出すといふ方法をわきまへてゐる作家である、そこには悟性の強い時代的な活動があり、さうした客観性が新しい創作方法を産み出し、新しい主題芸術に突入することを可能とするのであらう(日本画の象徴性及び主体芸術に就いては、折をみて評論の機会を得たい――筆者)
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伊東深水論

 伊東深水氏の生ひ立ちとか、少年時代の家庭的な並々ならぬ苦労とか、或は氏を立身伝中の人として語るといふことに、この人位材料に不足しない人はゐない、しかしこゝでは伊東氏の苦労話をすることをやめよう、何故なら、もし少年時代の不遇や不幸がすぐれた作家になることができるといふのであれば、まづ絵の勉強をする前に、苦労を先にするだらうからである。環境が人間をつくるといふことはあるには違ひないが、その環境なるものは何も固定的なものではないから、重要なのは、物語りめいた、伝記的な回顧録の中からは、今日の伊東深水氏を語るといふ手懸りは既に失つたといつても過言ではあるまい。ただこゝに伊東氏の少年時代の生活を形容する言葉として、「凄惨そのものの苦労をした――」といふ形容だけで足りると思はれる。ただこゝで最初に語らなければならないことは何故に伊東氏が人物画、もつと言ひ方を変へれば「風俗画」を自分の作風に選んだかといふことに関してである、何故氏が山水、花鳥の画家として登場しなかつたかといふことである。日本画壇には考へてみれば風俗画家と呼ばれる画家が至つて少ないのはどういふ原因であらうか、武者絵作者を、風俗画家の範疇に加へるといふことはこの場合差控へたい、歴史画家は厳密な意味では、風俗画家ではないのである。過去のものを考証によつて仕上げるといふこの歴史画家の作画上の方法には、生きた現在的な現実の証明の仕方は加はつてはゐない。その場合、それを描いてゐる人間が、現在の人間であつてもそれは問題とはならない。真個ほんとうの意味の風俗画家と呼ばれるべきものは、生きた歴史の証明の仕方を、もつとも身近な現実から出発して企てることであらう、伊東氏が風俗画家を何故に志望したかといふことは、その理由を本人の口から聞いてはゐないが、その理由は判然としてゐる、一人の作家が、いまこゝに山水花鳥と人物との何れを自分の将来の仕事に選んだらいゝかといふ場合に当面した時を想像して見たら判る、非常に人間的な人が、その人間的なる故に、花鳥や山水に愛着を感じて、その方面にすゝむといふ場合もあるだらう。しかしこの場合に、問題をなるべく素朴に、簡単に考へて見れば、人間、人物の好きな人は草花より人間の方を選むのである、
 花鳥山水と人物とを較べてみると、残念ながら人間の方がどうやら花鳥山水よりも社会的な存在であるらしい、伊東深水氏が幼少から所謂人間苦労をしてきたといふ事実やその出身地が東京市深川区西森下町に生粋の江戸児として生れたといふことに思ひ到れば、江戸、東京と称されるところが如何に人間なるものの巣に等しい都市であるかといふことと照らし合して、人間の中に生まれ、人間の中に育つたものが、まづ第一に人間理解に於いて、魅惑的であるかといふことは肯けるであらう、同時に伊東氏の経歴がそれを示すやうに、氏はあまりに人間のために苦労をしてきたのである。地方生活者が行李を背負つて、東京に画業勉強にやつてきた場合には、彼が過去の生活地域の、人間が少なく、山水花鳥の多い自然の美しさを、例へ東京に永らく住んでゐても想像の魅惑は遂に消し難いものにちがひない相当の大家も自邸に無数の鳥籠を吊し、多種類の鳥獣を飼つて、日常的にこれらの鳥獣達の生活の姿態を観察し、素描し、制作化さなければ[#「さなければ」はママ]ならない、といふことは不幸なことである。しかし無数の鳥を飼ひ、生態を観察する機縁に恵まれてゐるのはまだ良いとして、第四流の山水、花鳥画家は鳥を飼ふこともできず師匠の屋敷で、鳥を写生させて貰つてゐるのである。在来の花鳥画の模写からも、彼が生来の自然人であれば、生きたやうに描くことも可能であらう、伊東深水氏がその美人画に於いてあたかも髪結の梳手のそれよりも綿密に、髪の線の配列を心得てゐるのも、氏は生来の都会人であり、江戸つ児であつたからその日常的な人間への接近への、より多くの機会を捉へ得るものでなければ不可能な業であらう、昭和九年の作「秋」では鏡台に向つた丸髷の女が、櫛で髪を掻きあげながら坐つてゐる図であるが、その絵から「秋」といふ主題を探しだして[#「探しだして」は底本では「深しだして」]みると、女の羽織の模様が紅葉を散らした模様であるといふ以外に特別に「秋」を想はせる何物もない、しかし何かしら「秋」を観者にぼんやりと感じさせるものが他にある。仔細に注意してみると女の敷いてゐる座布団の厚味に、作者がそつと人知れず工夫をこらしたものを発見することができる、座布団の厚味は春のものでも夏のものでもなく、将に秋のものである。冬を控へた秋の冷えを、そのふつくらとした座布団の厚味で表現してゐる、俳句に季題が重要視される理由は、あの十七文字の短かい形式の中にも「季」と称する自然現象を差し加へなければ、人間と自然との関係に於いて袂別するからである、人間と自然との関係の密着に依つて始めて世界観といふものがその作者に確立される、伊東氏はその人物画に於いても、俳人の季を尊重するやうに、季節を説明しない不用意な着物の重ね方は、その描くところの女に決してさせない、女の敷いてゐる座布団にも季を加へ女の襟元や裾さばきにちらりと見せてゐる着物の枚数を数へただけでも、彼女が秋の女か冬の女か、秋と冬との間にある女かわかる位である。日常性に於いて、その現象の移り変りを敏感に捉へるといふことこそ、風俗作家の重要な立場といふべきだらう。風俗画や、人物画家の難かしさは、画のテクニックの上の難かしさの以外に、その人物の背後関係、つまり生活環境を洞察し、これらの背後的なものの中に、人物を浮彫にしなければならない、ただ人物を描くといふだけで済まないものがある、伊東深水氏の作品はその人物の生活環境の出し方に於いて、観るものの気のつかないやうな方法で、そつと巧みにやつてのける、人物の身の周りにある、何んでもなささうな一備品を描いてあることによつて実際には大きな効果を生んでゐるものである、さうした用意を絵の中に仕組むことに意識的であり、工夫を凝る作家に、洋画壇には藤田嗣治氏があり、日本画壇には伊東深水氏がある。藤田嗣治氏の作品の風俗画的な作品には人物を書くといふ以外にその周りのもの転がつてゐる籠とか、皿とか、或は人物の着物の模様とかに、その地方色や、風俗をはつきりと捉へたものを選んでゐる、さながらこれらの静物的なものを先に描き、その中に人物を後から加へさへすれば、絵ができあがつた上に、風俗画としての人物の生活環境を生々しく描きだしてゐる、伊東深水氏の場合は、洋画家藤田氏のやうに露骨な方法ではない。いかにも日本画家らしく、そつと気取られないやうに工夫してゐる、女の敷いた座布団の厚味で人物の生活や秋といふ季節を語らしたり、昭和九年の作に「細雨」といふのがある、女が二階の手すりに腰をかけてゐる図である、細雨と名づけられるほどのものであれば、眼にも見えないほどの細微なものであるべきで、言葉を変へて言へば、描きやうのないほど細かいものだ、少くとも線と称されるものでは細雨は描くことができない、細雨とか糠雨とかいはれるものは、線よりも点にちかい表現を求めることが至当であり、もし線をもつて表現しようとする場合は、その線の長短に拘はらず、極度に細い線を必要とされる、その極めて細い線といふのはその極度に細いが故に、点に接近する、細い線を観て、その線が部分的に切断されてゐるやうに見えて始めて、細かな雨を描くといふ目的に達することができる。いま伊東深水氏の「細雨」の表現をみれば勿論さうした表現の、用意に欠けてゐることはないが、もう一つの用意をそこに発見する、それは線や点で雨を描いただけで果されない効果といふものを他に求めてゐる。この点は伊東深水氏の作画上の独特な方法である、「細雨」の中の女の服装は淡色と濃色との大柄な矢絣ともいふべき柄で、そこにははつきりとした濃い矢の模様が十本描かれてゐる、その矢のうち上に向つて描かれた矢が二本、残りの八本の矢は下に向つて放された矢、つまり二本が天上に向かひ、八本が地上に向けられた矢模様である。矢の方向といふのは運動の方向なのであつて、細雨が天から地上にふるといふ方向と一致させてゐるところに、細雨の表現への外劃的な助け太刀があるのである、上下に飛びちがふ矢の方向を模様化してその巧みな数の配分によつて、「細雨」といふものの運動の方向を決定づけるといふやりかた、その他にもう一つ、女の傍の手すりには、タオル風な手拭様なものが拡げられてかけられてゐるが、それが細雨などといふ微細な物質を、吸収するにもつとも適当なものとして置かれてある、その手拭風のものは細雨のしつとりとした湿りをこゝで吸収される物質として細雨の実感の一部を表現するに重要な役目を果してゐる、部分が全体を決定するのである、作家の技術にはその細部に重要なテクニックが隠されてゐる、作家はその細部のテクニックを強調するのではなく、それを全体的な効果の中に解消するやうにする、然し或は斯ういふ人もあるかもしれない、「さうしたテクニックは伊東深水氏だけがやつてゐるのではない、日本画家の大家はみんなその位の工夫がある――」と、それも確かに一理はあるが、こゝで問題にしてゐるのは、永い間の習練に依つて巧まずして、さうした技術を会得してゐる人もあるのである、しかし、伊東氏の場合はそれとはちがふ、無計画的なものではない、意識してその方法を用ひてゐるといふところに問題があるのである。
 昭和九年帝国美術院第十五回展に出品した「鏡獅子」は名人六代目菊五郎の鏡獅子の舞踊を伊東氏が観て、名優の至芸からヒントを得て製作されたものであるが、この「鏡獅子」製作談を伊東氏がかういつてゐる「背景の黒い隈なども、畢竟霊獣の妖気に引かれて行く運動の状態を示さうが為なのです。そして全体に画の向つて右の側面に明るい感じを出したのは、妖気から逃れようとする女性を、一層効果的にするためには、必然にとるべき方法だつたのでせう」と云つてゐる。この作者の言でもわかるやうに、隈のつけ方は全く計画的であり意識的である。作中人物である腰元弥生の心理状態を、開放するために明るい感じを出したといふ計画性は、それはもの言はぬ作中人物に対する伊東氏の愛情であると同時に、その絵を観る観者そのものを、画面効果上の圧迫感から開放するといふ観る者に対する愛情でもある。画面の圧迫感が、芸術的効果である――などと考へこんで、妙に重つ苦しい絵を描いて、それで製作の目的足れりとしてゐる芸術家などは、芸術家としては下の下であらう、圧迫感とか強調感とかいふものは、一つの手段として尊重されるべきで、それが目的の全部ではない、伊東氏が「鏡獅子」に於いて妖獣のもつ圧迫感を黒い隈によつて表現し、その圧迫感に捉へられてゐる、可憐な女性を明るいボカシによつて開放してゐるといふことは、単にこれは作画技術上の問題にとどまらず、芸術家のヒューマニティの問題として取りあげられてよい、芸術は苦悩の表現であり、それの解決であるといふ伊東氏の人間性を、隈と明るさとの関係に於いて認めないわけにはいかない。
「鏡獅子」の表現に就いて、その創作談の中で、是非問題としなければならない、芸術の表現法に就いての氏の有益な数語がある、それは「鏡獅子」でもさうであるが、形態の誇張に関する、伊東深水氏の考へ方の正統性である。
 日本画の表現は古来ずいぶん思ひきつて突飛なものがある。この表現方法のみをみると、いかにも表現の奔放自由を作者が認めてゐるかのやうに受けとれる、伊東深水氏は鏡獅子の作中の女の獅子頭をもつた右手を思ひきりあげて描いてゐることに就いて「女の右手があんな頭上に挙る筈がないのですが、あゝしなければ、鬼気にひかれまいとしてゐる女の気持ちが出せないものでした」と言ひ、更にかう続けてゐる「裾としてもさうですが、然かさやうに翔るわけもないのにあれ程にしたのは、」「要するに静止した画面に、リズミカルな動感を盛らうが為めの手段に外ならないのです――」といつてゐる、伊東氏のこの最後の言葉こそ、けだし至言といふべきだらう、伊東氏は日本画の本質、ことに表現の自由奔放が絶対的なものでなく、ただ静的芸術としての日本画に於いては、その表現の自由性の可能がなければ、静的なものに極度に動的な表現を与へることができないものだ――といふことを言つてゐるのである。ただ徒に奇矯をてらつて袖や裾を翔がへさしたものではなく、静的なものを動的なものに転換するには、さうした形態がどうしても必要だといふことを指摘してゐるのである。
 これは日本画の本質的な問題であつて、表現の自由にも一つの制約を必要とされるといふ考へ方の正しさがある、そのことが同時に少しの表現の自由をうばふことにはならない、むしろさうしたところに新しい日本画の表現の問題の解決点があるであらう。
 伊東氏の所謂美人画は、その美しいといふ現象的な理由だけで、作者伊東氏をロマンチストと解することはできない、伊東氏が立派なリアリストだといふ証拠に氏の美人画の方法の一つに触れてみよう。伊東氏の美人画は全く美しく甘くそしてロマンではある、それは事実である。しかしそれは作中から美人だけを抽き抜いた場合のことである。しかし画面全体の方法の上では、この作中美人を決して甘やかしてゐない。例へば伊東氏は好んで紅葉と美人とを組み合はせるが、注意してみると、紅葉の形の直線的な鋭いものを、美人の肉体のどこかにかならず接触さして描いてゐるといふことである。紅葉でない場合にも美人の曲線のまとまりに向つて、何かしら直線的なものを、邪険なほど、冷酷なほどに、描きこましてゐる、その点が伊東氏が単なるロマンチストでなく、リアリストである証拠である、美人の曲線的甘さをより徹底させるには、紅葉のやうなトゲトゲとした直線の集りを、接触させるといふことは、最も効果的な方法であらう。
 また伊東氏は、よく時代と風俗画との限界を意識してゐる、伊東氏はジャナリズムが自己を規定したところの「深水好みの美人画」といふものに作者自身が反撥してゐるのである、一個の画面から美人だけを観る者が抽出することに不満足なのである、これまで氏の作品からは人物が論じられたが、その人物を効果づけてゐるところの背後的な自然物、樹木花鳥といふものの出来栄に就いては誰も論ずることをしなかつた、人物に小さく窓の中から顔を出させて大部分自然物であるところの樹と雪を描いた昭和三年の作「雪の夜」は当時傑作といはれたが、昭和四年「秋晴れ」昭和六年「露」「朧」昭和七年「雪の宵」昭和八年「吹雪」などの人物の背後の自然描写の実力を見をとすことができない。殊に昭和八年の「梅雨」の前景の樹木の表現力の大胆不敵な企図は最も実力を発揮されてゐる、伊東氏の将来の仕事は一つにこの自然物と人物との接触と、その強烈な調和、綜合によつて事業が果されるものだといふべきであらう。
 画壇生活の長さの故に伊東深水氏は世間的には新鮮さを失つてゐるのである、しかし伊東氏の作品と人間とは、画壇生活の長さとは今では何の関係もない、伊東深水氏は大家にちがひないが、百二十歳ではないのである。伊東氏は四十歳をちよつと出た許りなのである、氏の実力を云々し、将来への期待を抱く人があつたなら、深水氏の年齢的な若さを問題にし、そのことに関心をとどめるべきだと思ふ。また伊東深水氏の画業の上では真個うの意味の野心はこれまでではなく今後に於て果たされるであらう。
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奥村土牛論


 俗にそれを世間では七不思議などと呼んでゐるが「美術界」にも七つ位は不思議なことがありさうである、第一に美術批評家なる存在もその不思議の一つであらう、それは世の美術雑誌は、批評家にろくな原稿料を仕払つてゐないし、それ許りではなくタダ書かしてゐる向が多い、それだのに批評家は餓死もしないで立派に生きてゐるといふことなども不思議の一つであらう。生活の資どころか、生命の資を原稿の正統な報酬で得られなくても、文章の上や対人関係で一人前に絵書きを脅迫する腕があれば立派に喰つて行ける他人に知らない穴があるやうである。第二の不思議は、百貨店の展覧会、作者御本人が知らないのに、出品されてゐたり、個展が開かれてゐたり、第三には、第四にはとその美術界の不思議を数へたてゝくれば、七不思議にとどまらないやうでもある、しかしこの不思議に就いて論じて行くにはこの欄がその場所ではない、機会を見てこれらの不思議に対して、はつきりとした文章を書いてみたいものである。
 何故、日本の美術界に批評の厳正が失はれるかといふ不思議を解くことなども、時節柄、急を要することであらう、閑話休題。
 ただ私は美術界の七不思議の一つに、一人の人物を加へたいのである、それは奥村土牛氏である。何故に奥村土牛氏が画壇的存在として不思議の一つであるか、人間の保証もついてゐて、絵の定評もあり絵の値段もなかなかいゝ、所謂世間には好評嘖々たる立場にある土牛氏に、何の不審な個所があるだらうかと、或は疑ひを抱く人もあるかも知れない。
 さういふ人に対して、私がかう質問して見たとする。
「奥村土牛の作品をどう思ひますか」
「実に彼の作品はいゝ、神品だ、実にうまい」と相手は答へる、そこで私は更に質問を押しすゝめて、
「何故に神品か」とたづねてみる、すると相手はさういふ質問の追求を軽蔑したやうに、確信的に
「いや、とにかくうまいもんだよ」
 と答へるのである、奥村土牛はたしかにこのやうに目下世間的に好評なのである、しかし、土牛の作品は何故良いかといふ具体的内容に触れた言葉を、いまだ曾つて聞いたことがない、然も土牛の作品に対する美術雑誌の批評を調べて、この人物論を書くのに少しは参考を得たいと思つて、いろいろ読んでみたが、その批評家たちの批評は、言ひ合したやうに「とにかく土牛の作品は神品だ――」式の批評であつて、土牛の本質に触れる力が批評家にないのか、或はなるべく本質に触れることを逃げ廻りながら、上手に賞める言葉を考へ出さうとして苦しんでゐるかのやうに見受けられる、したがつて世上流布の土牛論は一つも参考資料にはならなかつたのである、それ許りではない、これらの土牛批評と私の批評とは、ことごとに意見の対立的なものがある。
 ある美術批評家は、土牛の色感に対して、実に新鮮で若々しく青年的だといふ批評をしてゐるところで私の土牛の色感に対する考へは、その批評家の考へとは、まるで反対な意見をもつてゐる、土牛の色感は青年的どころか、老人的なのである、人生を幾つかの段階に分けて、その竹の節のやうなつぎ目つぎ目に、感情の躍進があると仮定すれば、土牛の最近の色彩の、一見、青年的にみえる色彩は、その人生の節の一つである。「初老的」な感情の躍進が、色彩に反映したものと観察を下すのである。
 世間には七十歳になつて、緋色の袖無しを着るといふこともあるのである、土牛の色にあざやかな赤が使はれてゐたからといつて、それをもつて直ちに「若い」などといふ軽忽な批評は下されないのである。さういふ批評家は闘牛師が赤いマントをふりさへすれば、飛びついてゆく牛のやうな、ムチャクチャな単純な頭をもつた批評家といふべきだらう。
 少くとも赤の種類といふものを考へないわけにはいかない、またもつと突込んで、その画家が使用した色彩の性質と、画家そのものの肉体的生理的状態と、よく照らし合はして、そこから一つの批評語を抽き出さなければならないと思ふ。奥村土牛氏はたしかに、現在第一人者的人気を呼んでゐることは確かだが、この人気を呼ぶやうになつたこれまでの作品的な根拠といふものも、一応立証されなければならないし、また現在の作品が、この人気を持ちこたへて、永続的であるかどうかといふことも吟味してみなければならない。
 作家は味方をもつてゐれば、敵ももつてゐるものであるが、土牛氏に関しては、非常に氏は製作に遅筆であつて、なかなか出来上りがおそい、絵の催促に十回通はされたとか、二十回通はされたとかいふ、恨み言を聞いた以外に、土牛は恨まれる何ものももつてゐないやうである。敵はもつてゐないやうである、だがこゝに或る人が私に向つて不思議な土牛評をしたので、思はず私がハッとしたのである。
 それは斯ういつたのである奥村土牛が急に現在の位置を占め、頭角を顕はしたことに対して「土牛は画商の情けで大家になつたのだ」といつた言葉である。私は個人的にも、また批評家的立場からも、この一言は聞き捨てのならない言葉なのである。
 一方では土牛の絵に対して「そのお仕事に就いては腹の芸であり、取材から言つても、構成から言つても純粋に絵画的です、千古に通ずる高貴な精神は、やがて昭和の名画として、後世に真理の様に輝くでせう」(森白甫氏の土牛評)と言つてゐるかと思ふと、一方では「奥村土牛の画壇的擡頭は画商の情けである――」といふ批評がある、この間には何か矛盾があるやうである、森白甫氏の評のやうに、土牛氏の絵が千古に通ずる高貴な精神の現れた作品であるといふのが真当ほんとうだとすれば、その作品の良さは決して今に始まつたことではなかつたであらう、世間でも、また画家仲間でも「奥村土牛はもとから絵がうまかつた」といつてゐる人も多い、もとからうまかつた土牛氏がどうして、現在まで画壇の表面に現はれなかつたのか? 五十の声がかゝつて始めて問題にされるといふことは、この作家を不遇と呼んでいゝか、幸運と呼んでいゝか、或る人は土牛氏はその仕事の精進から見ても、現在の人気は当然酬ひられたものだといひ、或る人はいや土牛は現在は胴上げをされてゐるので、酬はれ方が四五年早かつた、彼は酬はれ方が遅ければ、遅いほど良い仕事をする性質の作家だと評してゐる、もう一つの評者は、奥村土牛の画壇的登場は今が一番の汐時であつて、今をはずしては他日にはないといふ見方をしてゐる人もある。
 最後の評者の意見と関連したものでは「画商の情けによつて、こゝらで大家にしておかう――」といふ雰囲気が、彼を一躍市場価値あるものにしたといふ評がもつとも問題なのである。
 この批評は一見作家に対して侮辱的な感じを与へるが、決してさう許りにはとることができない、これまで土牛の仕事が優れてゐながら、その作家の性格、ママき、運命観さうしたものが理由となつて、その価値の正統な評価がかくされてゐたとすれば、それは画家仲間の互助精神が欠けてゐたのだと言はれてもしかたがないであらう。
 なぜ仲間が、土牛をすぐれた作家だと強調することをしなかつたのか、そして奥村土牛といふ作家に院展に「孤猿」といふ性質の作品を描かせておいて平然としてゐたかといふことに疑をもつ、当然世に押しださなければならない作家は、画商の手を藉りるまでもなく、作家同志の協力と愛情に依つて行はれるべきであらう。
 画商の情け云々といふ言葉は、私に言はせれば、作家同志が土牛の作品的価値の認め方があまりにをそく、画商の方がしびれをきらして先に土牛を世に送り出した感がある――と観察を下されてもやむを得ないだらう、いま土牛は「神品」であると評され第一人者であると評されても、本人の土牛が果してどれほどそのことを嬉しがつてゐるかといふことは問題である、私の接した限りではあまり本人は嬉しさうな顔もしてゐないのである。
 私の理解する限りでは、奥村土牛はこゝで以前にもまして、しぶい顔をしなければならないと思ふしまた前よりもまして遅筆にならなければいけないやうである。依頼画の出来上りは、精々をそい方がいゝ、世間では土牛は遅筆の標本のやうに言はれてゐる、しかし私の観察では、土牛は相当筆が速いと思はれる、画を依頼し、その出来上つたのを手渡すことが遅かつたからといつて、直ちにその作家を遅筆だなどとは言へないのである。
 氏と対座してゐるときの印象では、言葉を忘れた病人、「失語症」の人のやうに、沈黙の行をやる、土牛といふ雅号にふさはしく鈍重で動作ものろく、こちらで物を言はなければ千年も黙つてゐさうである。土牛に面会に行つた人は、話のつぎ穂がなくてまづそれで参つてしまふ、極端に慇懃であるといつてもいゝ、或る人が「土牛は卑怯な位、ものを言はない――」といつてゐたが、全くさうした感もないではない。
 しかし誰かが土牛の玄関先に立つたとき、二階から降りてくる土牛の動作を観察したものがあるだらうか、二階から降りてくる、また二階へあがつてゆく土牛の動作は、全く動物的だと思はれるほど、すばらしく敏捷そのものなのである。階段を二三段いつぺんに駈け上り、駈けをりる感じである。
 作品をみても、さうした敏捷さ、激情性はよく表現されてゐる、一口に言へば奥村土牛は作家的にも人間的にも、非常に激しい人なのである。第二十四回日本美術院出品の「仔馬」はその抒情性に於いて隠されてゐる作者の人間的な優しさを露はしたものである、しかし奥村氏の人柄の優しさは、その人との対座に於いては感ずることができるが、作品の上ではそれとは反対の極限を画風の上で示す、土牛氏の芸術観は厳格であり、苛烈なものがそれである。人柄としては慈母的優しみをもち、作品的には厳父的いかめしさを示してゐる、院十九回試作展「朝顔」も二十三回試作展「野辺」では、描かれた枝葉の尖端はあくまで鋭どく針のやうにとがり、剃刀のやうに薄く描写されてゐた、その描写の態度の鋭どさは同時に画面の緊張感に於いては成功してゐたが平面化されすぎた憾みがあつた、しかし土牛はその精神的な追究を、空間的に置き替へていつた、土牛の真骨頂は、その辺りから発揮されてきたと見ていゝ、日本美術院第二十五回展の「鵜」あたりは転換後の良い特長が現はれたとみることができる、殊に最近の作では青丘会新作展覧会「八瀬所見」は土牛自身の感懐を語る、代表作と見ることができるだらう、土牛には一種特別の客観描写の力量があり、その部分が他の作家の追従のできないところである。
 私はそれを「土牛の突離し」と自分で名づけて呼んでゐるが、描く対象を少しも甘やかさず、ちよつとでもアイマイだと思はれる手法は用ひられてゐない、たとへば彼は一つの空間に木の枝を描くとしても、彼の対象に対する主観的、客観的態度の分け方のはつきりしてゐる点、空間の分割の仕方、の冷酷だと思はれるほどの突ぱね方は、その点では画壇でも第一人者だといふことができよう、しかし芸術とはその認識の方法の優れてゐることだけで仕事の全部を終つたわけではない、もつと綜合的な完璧を目標としなければならない、土牛の認識の方法は他の作家が真似ができないとしても、また土牛の欠けてゐるものを他の作家が完成してゐることも多いのである、遠いところの枝はあくまで遠く、接近したものは、あくまで近くといふ突離しは土牛のやうな思索力の強い作家でなければ、それを現実的な実感的な形では表現できないのである。
 画商の情けで土牛が大家になつたといふやうなこと――もそれもいゝであらう。しかし土牛がこゝまでやつて来るのに、その頑張りをしつづけてきたといふことは、画商が彼のためにかはつて頑張つてくれたわけでもなからう、その土牛の頑張とは、その態度の謙譲であることでもわかるやうに、また謙譲とは忍耐の代名詞でもあるのである。「喜は謙遜な人々にとつては旅が極りなく、財宝が無限であることを知ることにある」とはラスキンの言葉であるが土牛の生活は、絵を描くことだけの楽しみに、どうやら極限されてゐるやうである、彼の謙遜もその意味に於いて、絵の旅の極りなく無限の財宝を、自己のものとした喜びの態度と見られるだらう。
 土牛はその気質の上からいつても運命的な作家であつたといふ意味からも画壇の七不思議の一つであつたことは確かである、印象批評が彼を「名人芸だ」とか「神品」だとか言つて、何事も語らなかつたから、一層不思議さはふかまつた。少しも彼を具体的に知らうと人々は努力しないのである、土牛の忍耐その作風、たとえば「八瀬所見」に現れた矛盾、線がをそろしく老人臭くて、色が若いといふ表現などはどうしたことか、この矛盾の美が、観た者の感覚を倒錯させながら、感心させてしまふ、その手法はいつたいどこから来たのであらうか、土牛を論ずるとき、いつたい土牛といふ作家は誰の門下であつたらうかと熟考する必要がないかどうか、線が老人臭く、色が若々しいといふのは、師匠梶田半古の流れを汲んだものとして、土牛自身にとつては不自然なことではないのである、梶田の傾向は老人の傾向なのである、土牛の性格的頑張りも、土牛の画風的突離しも、芸術的の高さも、梶田半古伝来の素質といつても過言ではない。梶田門下には不屈な精神と、強い自己断定がなければ、筆をすゝめないものがある。画商が彼を大家にしたとは画商の自惚であらう、例の松田改組の大混乱の渦中に、奥村土牛はボンヤリと立つてゐたのである。周囲は騒ぎ、その混沌は物理的に言つても、物質の衝突の只中では却つて動かないものに、中芯が集るものである。
 大臣二代に亙る画壇騒動は、何等かの型でその渦中にある人々を犠牲にした、暗闇から牛を曳きだしたやうではなく、暗さが去つたところに、土牛といふ作家が立つてゐただけである、洪水が去つた後の河泉の底に水が去つたことに依つて、大きな石があつたことがわかつただけである。或ひは世間で言はれる言葉に「石が浮んで木の葉が沈む」といふ皮肉な現象がこゝに現はれたと言つてもよからう。
 奥村土牛はその石であり、周囲の喧騒のもみ合ひの中で、超然としてゐたことが、却つてこの作家を社会的表面に浮かびだすといふ結果にさせたと言ふことができるだらう。こゝに一人の超党派的人物がゐたことを、画壇ジャナリズムは発見したのである。土牛が超党的であつたことが、彼を担ぎあげるにもつとも適当な理由となつたのである。どの派にもみせず偏しないといふ超然主義は、その画風の上にもはつきり現はれてゐるが、その人柄の上にも、態度の上にも現はれてゐる。しかもその表面的な温和の底には、梶田半古仕込みの峻厳なものが隠されてゐる。彼は自分で胴上げをされてゐるといふことを自覚してゐるが、その胴上げをされることを拒まない。しかし胴上げをされてゐる方よりも、胴上げをする方がやがて疲れてしまふことを、賢明な土牛は知らない筈はないのである。
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