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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-16

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:05:35  点击:  切换到繁體中文


旭ビル楼上の白楊画会評

 旭ビル三階で来月一日まで開催の旭師白楊画会を観る何れも新進の気に満ちたもので入場者も相当あつた。
 佐藤熊蔵君『机に倚れる幼女』面白し、さてその珍奇さから眼を転じてその内容的に包含されたものを探し出して見る場合、実質に於ての物足らなさがある。傾向としても現在の処あれまでの飛躍や転換を試みることはちよつと危険であり過去の仕事にもつと執着をもつ必要がある。だが君は努力家であるから、自己の路をぐん/\開拓して行くことゝ思ふ。総じて色彩の飽和に乏しいのが難だが真剣さが何より心強い。
 西島藤夫君『春の川』この画おぼろげながら筆者のその企てを感ずることが出来るが佐藤君程強調された個性が息づいてゐない。だがこの人も真面目さを窺はれて嬉しい『初秋』『牛朱別風景』すぐれてゐる。
 石附省吾君『ダリヤ』熱はあるが色調のこなれてゐないのが残念だ、背景や敷物の描法など幼稚で今少し研究を要する、『百合子さん』の絵はデッサンが狂つてゐるし、稀薄な感じがするが、もう一苦労がほしい。
 浅野駒吉君『旭農場』草と樹木のもつ魅惑がでゝゐて好きだが余り硬化せずに色調などもつと自由な境地にゐて欲しい、『ダリア』の方はこなれてゐない。
 もつと他の諸君の作も批評したいが紙面の都合で次の機会に譲つて貰ふ。真剣なのが何より喜ばしい。希望を述べれば師範の美術部はおたがひに感化され易い傾向があるやうで、もつと各自の画境を勝手な進路でひらくべきだと思ふ、この点では現在の処頗る乱雑な嫌ひがあるが、旭中の画会は各独自的で、この点ではいゝと思ふ。兎に角もつと自由に精進して欲しい佐藤君辺りの影響が各人の種々の形式に侵入されてゐるのは考へ物だ。
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洋画壇時評

    美術批評家に思索力なし

『洋画壇時評』と銘打つての時評であるが、幸ひなことには私は全くの画に就いては素人であるといふことである。日本画の作者達は、美術批評家達を指して『職人』と呼んでゐるさうであるが、それは非常に適当した良い呼び方である。絵かきの中にも看板絵書き、職人的絵書きと呼ばれる、事物の描き方が世俗的な常識的世界を一歩も出ない人々が少くないこれらの職人的画家達の批評家としては、職人的美術批評家の存在はゆるされるだらう。だが一度作家に芸術的独創性が加はつた瞬間には、この職人批評家の批評圏内に一人の独創性ある画家を住まはしてをくことが不可能である、批評家の狭量といふことは、良い作家を『黙殺』といふ手段で殺してをくわけである。自信のある画家はこれらの批評家の黙殺主義と実際の絵の仕事の上で、あるひは文章の上で、気が済むまで反撥してゆくこともまた自己の芸術の主張の一つの仕事である。批評家が自分の作品に四つに組んで汗みどろで自分の作品を批評し理解しようとする気持がその批評家の文章の上に現はれた場合は、たとへ誤つた批評をされたとしても非常に気持が良いものであるが、画壇で横行する通り一ぺんの印象批評や、頭からのやつつけ主義、棍棒批評、マキ雑棒批評などは画家の身になつては到底堪へられないものだと思ふ。日本の批評家は、画壇に限らず、詩壇、文壇でも非常に思考力がなくて、一枚の絵を前にして、その絵が良いにせよ、悪いにせよ、その絵を微細に観察し、その作品の美点、欠点を解く鍵をあくまで発見しようとする努力的な親切さが全くない。作品を前にして、その画に関連したさまざまの思索をその批評する画から引きだす能力のある美術批評家がない、言葉を替へて言つてみれば、ほんとうに心から画が好きで美術批評をしてゐる者がない、更に言ひかへれば嫌々批評をしてゐる、それでは美術家にとつて親切な批評家である筈がない。そこで私のやうに門外漢が、画に就いてズブの素人が画の批評をまでやらうといふ気持にまでならせられる、(それは決して喜ぶべき現象でない)須田国太郎(氏とか様とか殿とかいふ敬語の使ひ方の差異が私にはよく判らないので一切敬語は省略させて貰ふ)がある美術新聞で、里見や広津といつた文壇人の美術批評の方が遙かに画壇人の批評よりも、的確なものがあるといふ意味をのべ、素人批評を歓迎してゐたが、これなども画家の率直な告白であらう。然し素人批評は結局素人批評の域を出るものではない、餅は餅屋といふ古い言葉は必ずしも軽蔑できない。文学、美術とはつきりジャンルが別れてゐる今日、それぞれの専門的批評が是非必要である。絵画にせよ文学にせよ、今日の社会的接触点に於いては、文壇人もまた一応の絵画批評ができるであらう、だがその親切さは多く瞬間的親切さである。一人の画家の絵を真に親切に批評してゆかうとするのであれば、作家の内的生活の道程を一緒に芸術批評も歩るいてゐなければならない。十年前にどういふ傾向の画を彼は描いてゐて、そして今日どういふ傾向を辿つてゐるかといふ、時間的にも一人の画家を客観的に見る親切さがなければ批評家はつとまらない。

    画家のヱゴイズム

 さういふ批評は画壇と共に歩るく専門美術批評家でなければなし得ない。年に一度か二度の展覧会を覗いて、そして文学者が絵画を批評する、そのことは一向差支ないが、若し里見、広津といつた門外漢が、社会的地位で、なにか、これらの人々の批評した美術批評を作品評価の決定的なこと柄のやうに、画家が思ひ違ひをしたとすればそれは画壇の為めにたいへん危険なことである。私はむしろ文壇人の美術批評に画家が何等かの特別な価値を認めるといふ、変態的現象の根元が、画壇自身の中にあると思ふ。つまり『指導的批評家がゐない』といふ事に帰結するだらう。ロクな批評家のゐないといふことが、画家の製作上のヱゴイズムをより極端に助長させ、全く批評家無視となりひいては画壇の混乱を招来してゐるのが現状だと思ふ。

    展覧会至上主義者へ

 展覧会作家に就いて、曾つて藤井浩祐は斯う言つてゐた。彼はこゝでは画家、彫刻家の仕事の『非連続性』を責めて、一年に一度や二度の展覧会出品に、出品する作品にこと欠くやうな者は、平常の不勉強ぶりを覗ひ知ることが出来るといふ意味のことを述べてゐた。この藤井浩祐の言葉は、善意に解釈すべき言葉である。こゝでは藤井は芸術家たるものゝ、製作慾の激しさを要求してゐるのであつて、展覧会を目標としてのみ、青春を朽ちさせてゆく画家の少くない今日、この恐怖すべき現象に対して、画家たるものが相当自己反省して良いであらう。
 私は徒に展覧会軽蔑論者ではない。然し現在の日本の展覧会(主として官設のそれ)が如何なる社会的意義と立場をもつてゐるかといふことに想ひ到る画家は、自分の仕事が可愛いければ可愛い程、この種の展覧会出品の意義に一応の疑ひをもつ必要があらう。
 殊に官設展覧会の存在の理由のアイマイさの一つに展覧会が画家の作品の発表機関であるか、奨励機関であるかといふ二つの認識の中間を漂泊してゐるのが現況である、両者一体の方針にあると主催側は主張するのであらう、事実はこの主催側の主張を裏切り、二つのものゝ矛盾を現してゐる。どちらも徹底してゐない。この奨励と発表とを兼ね備へてゐるといふ公器としての方針に、少くともその立前から自由主義の方針に基かなければ存在理由が成り立たない。審査員たちは続々と持ちこまれる画家の絵を前にして、それを審査しながら如何なる感情を抱いてゐるであらうか、そのことを想像し、憶測することも興味がある。おそらく審査員達は若い後進の画家の画業追求のはげしさに、心内平穏ならざるものが少くないであらう。そして審査の方針として彼はこれらの作品に心理的には脅やかされながら信念的にはこれを勢ひよく排除し跳ねのけるであらう。この心理と信念とを接続するものは何等画家的な批判性をもつてゐないものが少くないだらう、この審査員の心的動揺は強盗の心理と一脈相通ずるものがある。(それは何等過激な形容でない)心でびくびくしながら信念の強さで他人の品物に手をかける強盗はそれだけでも猶多くの不安を感ずる。二つの物では足りない、更に兇器といふものを手にする。
 若し展覧会の審査員で猶審査に必要とするもの強盗の兇器にひつてきするもの『社会的地位』或は『画壇的地位』といつてもよいこの兇器をふりまはし、他人の作品の制作心理にズカ/\踏みこんでくる強盗的審査員が一人でも無かつたら画壇のために幸である。
 かゝる展覧会、審査員を目標として年に一二回の展覧会のために精根を尽くすといふことは、おそらく馬鹿々々しいことの限りである。画家の制作上の連続性といふことは相当尊重されてよい、今年の展覧会から、来年の展覧会までの時間的充実が画家として恥ぢるところがなかつたら何をか言はんやである。

    個展時代の招来

 然し今日の如き全く展覧会が社会的意義を喪失してゐるのに、更に期待を続けてゐる画家があつたとすれば、そのことが既に画家の心理的空白を立証するものである。彼のスケッチブックが真白であると同様に彼の生活もまたまつ白な頁である。画家はまた斯う弁解するであらう、絵かきといふものはさう連続的に絵ができるものではない。思索の時間も女に惚れる時間も、酒をのむ時間も、猥談をする時間もまた意義があり、新しい衝動へ移るには少くとも時間が必要であると、その弁解もよからう。では君は今朝起きて顔を洗つたそして昼となり、夜となつた、そこで君は今日一日から如何に「新しい」と名づけられる創作衝動を画布の上に描くことができたか――いや少し待つてくれ、今日は駄目だつた明日になつたら纒めあげると――一日の生活から曳きだされた新しい制作的衝動を、その一日分さへまとめあげる力のないものがどうして二日、十日とこの心理的荷重をまとめあげることが出来るだらうか、私は疑をもつ。(この私の意見は画家に対して衝動主義の制作を慾求してゐるのではない、具体的には次の機会に述べる)私は画家の多作主義を主唱する発表方法では、小集団主義と、個展主義とに賛成したい。それはあくまで過渡的な方法であるが、然し我々画の観賞者はこれを期待してゐる、また画壇の実力時代の招来のためにもさうした方がよい。個展乱立では助かるまいといふ危惧をもつ人もあるだらうが、それは素通りでも列べられてあれば嫌な画でも見なければならない。個展であれば一度見てコリゴリすれば二度と見に行かない。然し優れた画家の個展を度々見せて貰ふといふことはこの上もなく嬉しい。そこには個展乱立の弊害は、案外解消されるのではあるまいか、妙な機関にしばられて這ひずり廻つてゐる団体、展覧会が何時までも存続するといふことは醜態の極みであるし、油絵の大衆化のためにも是非個展時代がきてほしい。

    白朝会を見る――佐竹徳次郎の絶品『鯉』

 十二月十八日迄日本橋高島屋で催した白朝会、あの位の人数であゝした催しは、非常にフレッシュに絵を見ることができる。
 金沢重治――「雪降り」「雪」は何れも失敗の作であつたが『滑川』は好感をもつことができた。ドラン張りの面と線の交錯が非常に効果をあげて観者を楽しませる。
 金井文彦――この人の作品の色彩上の稀薄性は『静物』などで特長がでゝゐる。然しその稀薄性の効果はあいまいなものである。もつと徹底できないものか。
 九村芳松――半身の方の『コドモ』が良い。子供の頭と腹部とのふくらみを生かして、着衣に包まれた胴体に柔らかみを与へてゐる、子供の肉体の特異性とその観察がゆき届いた作である。
 田辺至――技術家であつて技術をもちあつかひ兼ねてゐるといふ型である。わざと技術を拙劣に書いてかへつて効果がでるといふことは技術に恵まれすぎた画家の罰である。
 大久保作次郎――『蟹』下に敷いた笹とのつてゐる蟹との空間的説明がついてゐない『柘榴』やゝ見られる。
 安宅安五郎――『菊』は定着性ない現実感がかへつて人に迫るものがある、然しこの方向は危険だ。物体のもつ色と、油絵具のもつてゐる色との両者の制約を解決することができずに、二つの色の制約をそのまゝ絵に出してゐるといふ感ありで、この作家は少しあせつてゐる安宅式の鈍重感は捨てがたいものなのに己れの良さを彼は軽蔑してゐる。
 佐竹徳次郎――こゝに来て漸く救はれる感がする。画家達はもう一度佐竹の絵『鯉』(2)を何かの機会に見せて貰つたらよい、少しは教へられるところがあるだらう。真鯉と緋鯉とが二匹悠然と水を泳いでゐる。作家の直感力の的確さで彼は近来私の見た展覧会で最も感動的な作品を書いてくれた。誰もこの佐竹の鯉の傑出的良さに騒がなかつたとしたら、殊によつたら彼は私一人の批評のために描いてくれたのかも知れない。
 水の色の非凡さ、魚の物量感の出し方のすばらしさ、緋鯉の方の尾を全部描かないことが相並んだ二匹の鯉がたがひにしづかに水を推進してゐるやうな視覚的効果を挙げてゐてこの絵はいさゝかも観るものに不安定を与へない許りか、作者のもつ宇宙観の大きさをこの絵を通じて感じられて、この絵はおそらく一九三四年度の洋画壇唯一の収穫であらう。たゞ一語言ひたいことは、この絵そのものはいささかも難がないが、この作品がかなり偶然性があるといふことである。それは他に列べてある同一人の作との比較に依つてそれが判る。『静物』『風景』何れも感心しない。あまりに『鯉』と他の作品と出来の上でムラがあることが私を悲しませた。佐竹の『鯉』は彼の全技術全感能の集中的な努力と見て誤りがないだらう。
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洋画壇時評 三つの展覧会

    新進NOVA展

 ノバ展の一般的な世評を私は度々耳にしたが、大体この展覧会に就いては「余りパッとしない展覧会だ」といふ評判が多かつた。パッとしないとか、問題でないとかいふ、批評はノバ展の場合、他の展覧会の評と同一に考へられないもの、造型展あたりに比べても、成程この展覧会は子供つぽいところが多いし技術の叩きあげにも年季がかゝつてゐないし、作品も不揃であることは、認めないわけにはいかない。然しながら私は日本の最も「若い画家」(年齢といふ意味許りではない)の新進気鋭の意味の発表場所として是非この種の展覧会の一つ位あつても良いと考へてゐる。「発表機関」これは少いより多い方が良い。自由な発表といふことに何も遠慮をする必要がないだらう。要はその作品の質にあるし、この展覧会の方向にあり、作品発表の自由性にある。アンデパンダンを何処かで企てゝゐるといふ話もきいたが、今の処ノバあたりでアンデパンダン的意義を極度に発揮して欲しいと思ふ。
 だが、一寸こゝで皮肉を言はして貰へば、この展覧会にかぎらず画家はあまり、カンバス屋と絵具屋に許り儲けさせるのもどうかと思ふ。私はこの際ノバ展辺りでもむやみに油絵具を画布の上に消費することをやめて、絵具を節約して良い絵を描いて出品して欲しい。絵具節約論をこの際、この展覧会に限らず多くの展覧会の出品者に希望する。
 個人評を二三試みれば、鶴岡政雄の三点「移転」「偶像」「リズム」このうち「移転」は引つこしを書いたものだが私はかうした傾向や「リズム」などから、さつさと作者は移転して欲しい。「移転」は描く対象の常識的理解を一歩もでゝゐない。如何に描写の奇をねらつても、結局覗つてゐる処は一般的なところに落着いてゐる『リズム』は丸、三角、螺線、あらゆるものを横長く組合せたものであるが、その画は右から左に走るリズムであつても、観る者へ何のリズミカルなものを訴へてゐないそれよりも『偶像』の仕事を支持したい。この作家の一番問題となるものは、この人の抱いてゐる色といふものに対する美学的な立場である。あの色をもつてリアリズムの色とするのは賛成できない『美しい色』といふことの素朴な理解に一度立つて、更に真実の美の色を創造してほしい。赤や青を軽蔑する画家は永久に救はれることがないだらう。
 寺田政明 この人はかうしたリアルな傾向で一時代、絵の技術的方面をやつたら、それこそ弊履を捨てるやうに斯うした傾向を捨てゝ、リアルな作風でゆくべきだ。自分の才能が惜しかつたら、リアリズムをとるべきで、画壇では、立派な、良い才能をもちながら『写実』(広義な意味で)を軽蔑してゐるために、その人の良い才能を殺してゐる人が実に多いことは残念である、寺田の絵は描く対象に就いての『感動のしかた』が実に芸術家的である点、材料がプロレタリア的なものである点、しかし『貝殻』『イカ』『ランプ』『馬の骨』とか一つの題材に少し執着しすぎる、執着することは仕事が観念的になつてしまふ前触のやうなものである。大いに一作毎に、負けるか勝つかの丁半賭博的飛躍をやつてほしい。この人の才能はさうした飛躍をやつても間違がない『おたまじやくし』を賞めたい。この絵には見た眼がきれいでも、色の常識的選択に終つてゐる。ただこの絵の動きに野心的なものがあつて好ましい。
 靉光……といふ人の小品『裸婦』『馬』『人物』など何か錦絵風な筆法や『馬』では古来の『絵馬』を思はせる。ただこの人は線の稚拙さといふことに甘えすぎていけない。技術をもつてゐる人であるから、強ひて稚拙に描く必要がない。アンリー・ルッソーの稚拙さは、決して稚拙さを売り物にしてゐない切実さがあつて良いので文字の世界では、ノイリップといふ小説家があつて、ルッソー的素朴さに共通するものがあるが、技法の稚拙といふことは、たとへそれを方便とするとしても良くない児童画をよく画家が参考にしよく子供の技法をとり入れてゐる人があるが、大人のくせに、子供より下手に書く必要が少しもないだらう。靉光の場合のこの稚拙さは、主として作者の心理的なものからきてゐるが、心理的なものつまり世界観の問題としても、かなり意義がある。第一作者は若い人である筈だ、年齢的若さの究極的な発揮、この一本槍で押していつたら、年をとれば完成されるといふことになるのではあるまいか。この作者は心理的世界に於いて老いこみたがるのは良くない。『裸婦』の方がずつと屈托のない自由な作意が見えて良いし、この作家が自己の独特なものをつくりあげようといふ熱意には無条件に賛成である。

    白日会展

 笹岡了一……の真面目な態度は美しい。『二人の裸婦』は画面の裸婦を明るさ、つまり白で締めて効果を出してゐるに反して今一方の裸婦『無題』の方は暗さで画面を締めてゐる。画のやかましい技術の上で見たならば、あるひは前者の明るさで締めたものゝ方が絵らしいかも知れないがこの作家の将来の大きな路は後者にかゝつてゐる。この絵の陰影で締める効果はよくこの作家の哲学的質を生かしてゐる。線や形や構図に観るものに押しつけがましいもの『つまり特対性を』与へてゐない点が、この作家の偉さである。そして我々をこの態度にしたしませる、敷物や裸婦の描法に動的なものがあることは現実の動きと一致して見てゐて効果的である。ただこの作家に不明瞭なものゝ解決を『二人の裸婦』のやうな明瞭さに到達し解決しないで『無題』から一歩前進してほしい。
 永井武夫……白日会の中から近代人は誰れかと選んだら私は永井武夫を指す、この近代性はちよつと他の展覧会にこの人ほどに、健康な近代性をもつた人は珍らしい。実際いふとこの位の近代性はすべての画家がもつてゐるのがあたりまいであるがそれがない。他の人々はあまりに伝統的であり伝統打破に臆病である。永井武夫の事物の把握の明確さ(正確さとは又別の意味である)は非凡なものがある、まとめ上げの美しさもあれほど出来る人は洋画家には少ない(日本画にはずいぶんゐる)作家は仕事を大切にしてほしい、そして主題も大いに野心的になれないものかしらと思ふ。僕が保証する大いに我儘な行き方で自由なテーマを選んでほしい。
 網小島廉……白日賞に『座像』がある。これは会で奨励の意味での賞をこの人にやつたのであれば難がない、だが画そのものとして見る場合には、かなり問題がある。殊にこの座線の描法の誇張は正しい行き方ではない。与へられた画面を画家が使ふことは自由である。だが芸術をする余地といふものは、画面精一杯大きく描くといふことにはならない。馬鹿々々しく大きく女の手足や尻を描くといふことは、現実の誇張と、物の真実の追求とごつちやに考へた考へ方で『座像』はもう一息一廻り大きく描くと、滑稽感に落つこちてしまふだらう。芸術上の誇張あるひは異常なるものに就いては、私は意見を抱いてゐるがこれは次の機会に書かう。絵の線や形の外面的な拡がりや拡大はその描かれた線に極限されると同時に、観るものにその線の制約の中に内容的なもの実質的なものを見ようとする。つまり量は拡大されたが質がないといふことになる。それは画家が描くには熱心であつても、結局現実を逃避してゐるといふ結果に陥つてゐることになる。よく縁日で子供達が買つてゐるものに綿飴といふ白いボッと大きくふくれたのがあるが、あゝして質の充実しない外劃的な大きさのみがある作者にはもつと真面目な行き方を望む。
 伊倉普……はスケールの大きさをとる。しかしスケールの大きさは物事を決してアイマイにするといふ意味であつてはいけない。全体の雰囲気の落漠さと作者の抱いてゐる宇宙観の大きさと一致した場合には、そのボッとした大きさのまゝで切実な高調された実感を与へる筈であるが、そこにはそれが欠けてゐる。それは作者伊倉の仕事の仕方が厳粛であるだけ残念なことである。
 三宅策郎……『火にあたる男』は良い詩をもちながら、彼は描写上の常識性と戦から熱意が欠けてゐることは惜しい。この絵はとりも直さず、在来芸術の保守性への追従を語るものである。この作者はこの絵だけをみて決定的といふことを避けたいもつと実力発揮のできる作者である。
 斎藤正夫……の静物からは芸術的感性の高さを感じた。この人は自己特有の絵全体に流れてゐる人間的なデリケートさを失はぬやうに次の仕事を進めてほしい。
 荻原英一……『貝殻山の崖』は崖の断面の貝殻層を描いたものでテーマは珍らしく面白いが、題がついてゐるから貝殻と見えるものゝ題がなければ貝殻とは見ることが不可能である。花は紅、柳は緑といふ形容の中には、事実の一般性や、普遍性を説明したものがありこの常識的な真理は決して芸術家が馬鹿にしてはいけない。一見して貝殻を見せるといふ最も端初的な処から、更にさまざまな貝殻を描き出す目的が発生し仕事が続けられるまた逆にふかい描写の意図が、誰にも判る一般性へ落着いたとき、始めてその絵の深さや特殊性がかんじられる。牛と馬との区別をつけることを看却しては、永久にその絵から牛と馬との区別をひきだすことができないだらう。荻原の場合もつとリアルに(観る者に親切さを出して)描いてくれたら、もつと涯かに高度に、断層に幾世紀を経た貝殻の存在、曾つて海であつた処が山になつたといふ時間的な不思議な自然の摂理を語る絵ができたであらうと思ふ。近来我々素人がみて、形状の正体のまるつきりわからぬ絵が少くないので、遂こんなことを述べる気になつた。第一画家の中には、批評家や、画家仲間に見せるのを目的に制作してゐる人が少くないが、画家の数は多いといつても知れたものであるし、広く一般大衆へ見せるものであるといふ、絵画家の立場を取るべきで、この親切さは、平凡な絵を描くまいとする苦痛が伴つてほんとうに気持の良い努力ではないかと思ふ。

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