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血曼陀羅紙帳武士(ちまんだらしちょうぶし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-3 6:56:46  点击:  切换到繁體中文


    返らぬ記憶

「栞や」
 と、ややあってから、薪左衛門は、おちつきのある、しみじみとした声で云った。
「わしが乱心中に、どんなことを云ったか、どんな事をしたか、話しておくれ」
 栞は、お父様が沈着な態度に返ったので、ホッと安心し、
「それはそれはお父様、ご乱心中には、何んと申したらよいやら、いろいろ変ったことをなさいました。また、おっしゃいもなさいました。……何から申し上げてよいやら。……おおそうそう、来栖勘兵衛という男が、お父様を討ちに来るなどと……」
「来栖勘兵衛がわしを討ちに? ……うむ、栞や、それは正気になった今のわしでも云うよ。……そういうことがあるような気がするよ」
「そうしてお父様には、ご自分を、有賀又兵衛じゃとおっしゃいました」
「…………」
「それからお父様は、来栖勘兵衛がわしを討ちに来るから、旅の浪人などが訪ねて来たら、逗留させて、加担人かとうどにしろと。……それでわたしは、訪ねて参られた浪人衆を、お泊めいたしましてございます」
「そうかえ、それはいいことをしておくれだったねえ。……来栖勘兵衛は強い男なのだから、わしには、どうしても加担人かとうど入用るのだよ」
「それからお父様は、そのようにお御足みあしが不自由になられてからも、毎日のように、野中の道了様へ、お参詣まいりに行かねばならぬとおっしゃいますので、いっそ道了様を屋敷内に勧請かんじょういたしたらと存じ、道了様そっくりの塚を、お庭へ築きましたところ……」
「おおおお、そんな苦労まで、栞や、お前にかけたのかねえ。……野中の道了※(感嘆符疑問符、1-8-78) うむ、道了塚!」
 と、薪左衛門は、グッと眼を据えた。
「するとお父様には、それを真の道了様と思われ、毎晩のように、躄り車に乗られ、塚の周囲まわりをお廻りなさいましてございます」
「あさましいことだったのう」
「ところが、数日前の晩のことでございますが、加担人として、お泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せられるお方が、その塚のあたりを逍遙さまよっておられますと、お父様が、来栖勘兵衛と勘違いされ、『勘兵衛、これ、おのれに逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での決闘、俺は今に怨恨うらみに思っているぞ。……事実をい、俺にぎぬを着せたあげく、股へ一太刀! ……おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で決闘し、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ』とおっしゃったそうでございます」
「野中の道了での決闘? フーム……」
 と、薪左衛門は考え込んだ。
(野中の道了で、来栖勘兵衛と、俺は、決闘した覚えはある。……だが何んの理由で、決闘したのだろう?)
 彼には、肝心のことが解らなかった。
(わしの頭脳あたまは、まだ本当に快癒なおりきっていないのかもしれない)
 大病をして、大熱を発し、人事不省に落ち入ったものや、乱心して恢復した者のある者が、過去の記憶を、一切忘却してしまうことがある。一切忘却しないまでも、その幾個いくつかを、忘れてしまうことがある。薪左衛門の場合はその後者らしかった。
(何んの理由で、俺は、勘兵衛と、野中の道了で決闘したのだろう?)
 思い出そう、思い出そうと、薪左衛門は焦心あせった。
「栞や」と、薪左衛門は、いたましい声で云った。
「わしを野中の道了へ連れて行っておくれ。……あそこへ行ったら、わしの記憶が蘇生よみがえるかもしれないから」
 いざり車に乗った薪左衛門と、それを引いた栞とが、野中の道了塚へ着いたのは、正午まひるであった。春陽に浸っている道了塚は、その岩にも、南無妙法蓮華経とってあるいしぶみにも、岩の間にこめてある土壌つちにも、花弁や花粉やらがちりばめられていた。この高さ二間周囲十間の道了塚は、いわば広々とした平野の中に出来ているこぶのようなものであった。しかし、この一見平凡の道了塚も、過去に多くの秘密を持っている薪左衛門にとっては、重大な記念物らしく、栞に助けられて、それを躄りのぼる彼の顔には、複雑な深刻な表情があった。やがて彼は碑を正面まえにして坐った。彼の手には、鞘に納められた天国が、握られていた。
「栞や、わしはここで一人で考えごとをしていたいのだよ。一人にしておいてくれ」
 薪左衛門は、握っている白鞘の剣の周囲を、黄色い蝶が、謎めいた飛びかたをしているのを、無心で眺めながら、何んとなく放心したような声で云った。

    塚の中からの声

「はい」
 と栞は、素直に答えて、衣裳の赤い裾裏と、草履の赤緒との間に、白珊瑚しろさんごのように挾まっている可愛らしい素足を運ばせ、塚を下りた。そうして、塚の裾に、萠黄色もえぎいろの座布団を敷いた躄り車が、もうその座布団の上へ、落花を受けて、玩具おもちゃかのように置いてある横に立って、父親の方を振り返って見たが、やがて所在なさそうに、道了塚の背後に、壁のように立っている雑木林――かつて、五味左門が、紙帳を釣って野宿した、その雑木林の中へはいって行った。
 一人となった薪左衛門は、碑を見上げて、じっとしていた。裾に坐って、見上げているためでもあろう、六尺の碑が、二丈にも高く思われ、今にも、自分の上へ、落ちかかって来はしまいかと案ぜられた。陽に照らされて、その碑の面は、軟らかく艶めいてさえ見えたが、精悍に刎ねてってある七字の題目は、何かをいかって、叱咤しているかのように思われた。
 薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。
(幾万両の財宝を強奪したことやら)
 奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった悪辣あくらつ所業しわざなども思い出された。そうして、大仕事をすると、おかみの探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。
下総しもうさの五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然まったく組を解散したっけ)
(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)
 こんなことも思い出された。
(だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?)
 決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。
(わしの頭脳あたまはまだ快癒なおりきらないのかもしれない)
 淋しくこう思った。
 と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とをぜにした男の声が、
「秘密はあばかない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
 と、聞こえて来たではないか。
「う、う、う!」
 と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼まひるに現われた、「声の妖怪もののけ」を切り払うかのように、頭上に振り、
「あの声! 聞き覚えがある! ……二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ……秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」
 一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へを置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、たけなわの春は、華麗なうたげ展開ひらいていた。耕地には菜の花が、黄金のむしろを敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線をかぎって点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花じんちょうげ海棠かいどうや李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気においの籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタふるわせた。
(声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!)
 その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌つちを貫き、岩を貫いて聞こえて来た。
「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
(あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!)
 薪左衛門は呻いた。

    栞の発見した物

 この頃栞は、林の中を逍遙さまよっていた。
 父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦よろこび希望のぞみとに燃えているのであった。
(頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ)
 栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。
(妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ)
 つい心の中で甘えたりした。
 林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光ひかりは、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色こがねいろの光の斑を付け、そこへ萠え出ている、すみれ土筆つくしなずなの花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩こもかよの空間に、蟆子ぶよ蜉蝣かげろうや蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。
 心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。
 栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木うつぎと一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居うずくまってい、桜実さくらんぼのような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。
 栞は木々を縫って目的あてなく彷徨さまよって行った。
 一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、
「あれ」と云って、栞は足を停めた。
 その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。
「紙帳だよ、……まあ紙帳!」
 どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。
(その紙帳ではあるまいか?)
(まさか!)
 と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳かやとかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心にとらえられ、立ち去るどころか、怖々こわごわではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。
(気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。
 短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。
 いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。
 間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころけ目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少しるそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。
(この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?)
 この好奇心も、女心の一つであろう。
 栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。
 しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命いのちより大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか?
 そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。
 処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとしてけり、その影を、刹那刹那せつなせつな映した。

    戸板の一団

 ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた地点ところに、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、家鶏にわとりひなが十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、欝金色うこんいろの綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板をにない、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板からしずくが落ちて、日和ひよりつづきで白く乾いている庭のこいしの上へしたたり、潰れたいちごのような色をした。
 血だ!
「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」
 と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋おもやと隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。
おいらも水だ」
 と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。
 そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。
 農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘こもりと、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種をり分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。
 咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れふすぶれた[#「ふすぶれた」はママ]障子を陽にあぶらせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。
「わッ、わりゃア、五味左門!」
 と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。
「野郎!」
 と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。
 この時、もう左門は、その独活うどの皮を剥いたように白い足で、縁板えんを踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。
「わッ」
 染八の肩から、こう蹴鞠けまり※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)まりのような物体ものが、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級くびは、碇綱いかりづなのように下がっている釣瓶つるべの縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前まえに消えてしまった。年月と腐蝕むしくいとのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。
「タ、たれか、来てくれーッ」
 染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのにつまずき、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前まえに、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄あなをでて間のない小蛇が、井戸端の湿地しめじに、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足はだしとなり、白いあしうらをあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。
 彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。

    悩みの殺人鬼

 懐手ふところでをし、少し俯向うつむき、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へけ込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。
 木々を巡り、藪をけ、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。
 それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動をき起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。
(いずれは彼奴きゃつも、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)
 こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。
 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を!
 そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛かたつむりにおける殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。
 その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。
(あの夜紙帳が、ひとりで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる)
 しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか?
 それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。
 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底のこいしさえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。
(家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア)
 顔に精彩のないのも無理がないと思った。
(どうぞして紙帳を探し出したいものだ)
 彼は黙々と歩いて行った。
 それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。
 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。
(やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな)
 こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、むしろをかけた戸板を担って、あの農家の納屋なやの方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。
(どっちみち油断はならない)
 こう思った。
 やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。
 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅めぐりあったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木ときわぎに包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。
 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。
 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。
 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物いきものであったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。
「あッ」
 彼は驚きで胸を反らせた。

    新鮮な果実このみ

 紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分くつろいだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。
(無断で俺の巣へ入り込んだ女め!)
 憤怒いかり勃然ぼつぜんと左門の胸へ燃え上がった。
(だが、女だ、綺麗な娘だ!)
 左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味がし、眼へ光が射した。
 左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。
(見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ!)
 事の意外に左門はまたも驚いた。
 過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは!
(不思議だなア)
 左門は両眉の間へ皺を畳んだ。
(しかし、栞であろうと誰であろうと……)
 左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手をい、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。
 この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽がなんどりと、長閑のどかにあたっていた。
 この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ穿うがっていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、いたちが、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い土壌つちと、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。
 と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、かなわぬまでも勝負しようと、武蔵屋をで、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の行衛ゆくえは知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ! 頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。
「や、これは!」
 と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の首級なまくびが、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、黄金色きんいろの額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の首級くび一個ひとつが、生白く描かれているといってよかった。首級くびは、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。
「首級だーッ」
 と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、ぼんのくぼを見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の首級なまくびが一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その首級くびもユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身をこわばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。
「典膳の首級だーッ」
 と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。
(しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか! 何んということだ! 何んという! ……)
 典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分をはぜの実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。
「お浦だーッ」
 そう、その首級はお浦の首級であった。

    恩讐卍巴まんじどもえ

 お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、まぶたを痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。とたんに、軟らかい生物の体を、木刀などで打つような音がし、それに続いて悲鳴が聞こえたが、見よ! 窓を! 典膳の首級とお浦の首級とが、ぶつかり合い、噛み合いながら、キリキリ、キリキリと、眉間尺のように廻り出したではないか。
 頼母は、夢中で納屋の扉へ飛び付いた。
 刹那、納屋の中から、
「丁だ!」という声が聞こえ、それに応じるように、「半だ!」という声が響いた。
 頼母は納屋の扉を引き開け、内へ飛び込んだ。開けられた戸口から、外光が射し込み、闇であった納屋の内部を昼間に変えたが、頼母に見えた光景は、地獄絵であった。渋江典膳とお浦とが背後手うしろでくくられ、高くはりに釣り下げられてい、その下に立った五郎蔵一家の用心棒の、望月角右衛門が、木刀で、男女ふたりを撲っているではないか。撲られる苦痛で、典膳とお浦とは身悶えし、身悶えするごとに、二人の体は、宙で、じれたりじれたりし、額や頤をぶっつけ合わせた。そういう二人の顔は、窓の高さに存在った。だから窓の外から見れば、二個ふたつの首級が、噛み合い食い合いしているように見えるのであった。納屋の壁には、鋤だの鍬だの鎌だのの農具が立てかけてあり、地面には、馬盥ばだらいだの※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごだの稲扱いねこきだのが置いてあったが、そのずっと奥の方に、裸体はだか蝋燭が燃えており、それを囲繞かこんで、六人の男が丁半しょうぶを争っていた。五郎蔵の乾児どもであった。その横に立って、腕組みをし、勝負を見ているのは、これも用心棒の小林紋太郎で、その南京豆のような顔は、蝋燭の光で黄疸やみのように見えていた。
 これらのやからは、戸のあく音を聞くと、一斉にそっちを見たが、
「染八か」「何をしていたんだ」「喜代三はどうした」「いい勝負がはじまっている」「仲間にはいりな」
 などと声をかけた。
 井戸の方へ水を飲みに行った二人の身内の一人が、帰って来たものと思ったらしい。しかし明るい戸口の外光ひかり背負しょって立っている男が、染八でもなく喜代三でもなく、武士だったので、乾児たちは一度に口をつぐんでしまった。
 頼母に一番近く接していた角右衛門が、真っ先に侵入者の何者であるかを見てとった。
「わ、わりゃア伊東頼母!」
 と叫ぶと、持っていた樫の木刀を、真剣かのように構えた。しかしこの老獪な用心棒は、打ち込んで行く代わりに背後へ退き、粗壁あらかべ守宮やもりのように背中を張り付け、正面に、梁から、ダラリと人形芝居の人形のように下がり、尚グルグルと廻っている、典膳とお浦との体の横手から、こわそうに頼母を見詰めた。
 乾児たちは角右衛門の声を聞くと、一斉に立ち上がった。蝋燭が仆れて消えた。
「いかにも伊東頼母!」
「探しているところだ!」
「いいところへ来やがった」
たたんでしまえ!」
誘拐かどわかしめ!」
盗賊ぬすっとめ!」
 乾児たちは口々にわめきだした。
「親分にお知らせして……さよう親分にお知らせした方がよろしい。……拙者一走りして……」と、臆病者の紋太郎は、侵入者が頼母だと知った瞬間、一躍ひととびして、乾児たちの背後へ隠れたが、今度はいち早く、納屋から逃げ出そうとして、そう叫びながら、乾児たちを掻き分けて前へ出、頼母の体によって半分以上ふさがってはいるが、しかし尚明るく見えている戸口を狙った。
 頼母は、この意外なありさまに度胆を抜かれたが、そのうち自分が、何か誤解されているらしいことに感付いた。
「方々――いや五郎蔵殿のお身内、拙者はいかにも伊東頼母、先夜、父の敵五味左門に邂逅めぐりあいました際には、ご助力にあずかり、千万忝けのうござった。お礼申す。その夜お断わりもいたさず武蔵屋を立ち退きましたは、とり逃がしました左門を探し出そうためで。……しかし挨拶なしにおいとまいたしましたは拙者の不調法、おびつかまつる。……いやナニここへ参りましたのもほんの偶然からで。……さよう、窓から、お浦殿の顔と典膳めの顔とが……どっちみち偶然からで。……それにいたしましても、只今のお言葉、ちと不穏当! 合点ゆきませぬ! ……誘拐者とは? 盗賊とは?」
 と云い云い、頼母は、油断なく四方あたりへ眼を配った。

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