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岷山の隠士(みんざんのいんし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-3 7:39:29  点击:  切换到繁體中文



 すると李白が笑いながら云った。
「文章でおどして来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します」
 翌日蕃使を入朝せしめた。
 皇帝を真中に顯官が竝んだ。
 紗帽さぼうを冠り、白紫衣はくしいを着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。
 座にくと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。
 まず唐音で読み上げた。
「大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡利きつりは盟に背いてとりこにせられ、普賛ふさんは鵞を鑄って誓を入れ、新羅しらぎは繊錦の頌を奏し、天竺てんじくは能言の鳥を致し、沈斯ちんしは捕鼠の蛇を献じ、払林ふつりんは曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶陵かりょうより来り、夜光珠は林邑りんゆうより貢し、骨利幹こつりかんに名馬の納あり、沈婆羅ちんばらに良酢の献あり。威を畏れ徳になずき、静を買い安を求めざるなし、高麗命をふせぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。に逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。いわんや爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れたくましうし、鵝驕不遜なるがごときだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利のとりこに同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく[#「宣しく」はママ]過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四の笑となるなかれ。爾其れ三思せよ。故に諭す」
 実にどうどうたるものであった。
 皇帝はすっかり喜んでしまった。
 そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。
 蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。
 奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。

「俺は長安の酒にも飽きた」
 で、李白はいとまを乞うた。
 皇帝は金を李白に賜った。
 李白の放浪は始まった。北はちょうえんしん[#ルビの「しん」は底本では「し」]から、西は※岐ぶんき[#「分+おおざと」、664-上-20]まで足を延ばした。商於しょうおて洛陽に至った。南は淮泗わいしから会稽かいけいに入り、時に魯中ろちゅうに家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
 天宝てんほう十三年広陵に遊び、王屋山人魏万ぎまんと遇い、舟を浮かべて秦淮しんわいへ入ったり、金陵の方へ行ったりした。
 魏万と別れて宣城せんじょうへも行った。
 こうして天宝十四年になった。
 ひっくり返るような事件が起こった。
 安祿山が叛したのであった。
 十二月洛陽を陥いれた。
 天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。
 李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に※(「炎+りっとう」、第3水準1-14-64)えんちゅうに行き廬山に入った。
 玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。
 安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王じょうせいおう舟師しゅうしを率い、江淮こうわい[#ルビの「こうわい」は底本では「こうれい」]に向かって東下した。
 李白は素敵に愉快だった。
「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない」
 こんな事を考えた。
 詩人特有の白昼夢とも云えれば、※(「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59)儻不羈てきとうふきの本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。
 意気すこぶる軒昂であった。自分を安石あんせきに譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭[#「真骨頭」はママ]が、この時躍如としておどり出たのであった。
「三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海南奔なんぽん[#ルビの「なんぽん」は底本では「なんぱん」]シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝安石しゃあんせきヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡沙こさヲ静メン」
 などとウンと威張ったりした。
「試ミニ君王ノ玉馬鞭ぎょくばべんヲ借リ、戎虜じゅうりょヲ指揮シテ瓊筵けいえんニ坐ス、南風一掃胡塵こじん静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」
 凱旋の日を空想したりした。
 ところが河南の招討判官、李銑りせんというのが広陵に居た。永王の舟師を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]討った。
 永王軍は脆く破れた。
 永王はあたって捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄にたおされた。
 李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち込まれた。
「どうも不可いけねえ、夢だったよ」
 憮然として彼は呟いた。
「兵を指揮するということは、韻をふむよりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとかすると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度洞庭どうていへ行って見たいものだ。松江のすずきを食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」
 李白はちょっと感傷的になった。
 無理もないことだ、五十七歳であった。
 李白は皆に好かれていた。
 新皇帝粛宗しゅくそうに向かって、いろいろの人が命乞いをした。
 宣慰大使せんいたいし崔渙さいかんや、御史中丞ぎょしちゅうじょう宋若思そうじゃくしや、武勲赫々たる郭子儀かくしぎなどは、その最たるものであった。
 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
 道々洞庭や三峡や、巫山ふざんなどで悠遊した。
 李白はあくまでも李白であった。竄逐さんつい[#「竄逐さんつい」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
 乾元かんげん二年に大赦があった。
 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽じんようへ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
 あっちこっち歩き廻った。
 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
 のべつに客が集まって来た。
 やがて宝応元年になった。
 ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
 すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
 波がピチャピチャと船縁を叩いた。
 十一月の月が水に映った。
「ひとつ、あの月を捕えてやろう」
 人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
 水は随分冷たかった。
 彼の考えはにわかに変わった。
 どう変わったかは解らない。
 李白は水中をズンズン歩いた。
 やがて姿が見えなくなった。
 それっきり人の世へ現われなかった。
「李白らしい死に方だ」
 人々は愉快そうに手を拍った。

 東巖子とうがんし岷山みんざんにいた。
 相変わらず小鳥の糞にまみれ、相変らずぼんやりと暮らしていた。
 ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
「先生しばらくでございます」
「誰だったかね、見忘れてしまった」
 老人は黙って優しく笑った。
 なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
 で、東巖子は思わず云った。
「おお貴郎あなたは老子様で?」
「いえ私は李白ですよ」
「いえ貴郎は老子様です」
 東巖子は云い張った。
「どうぞ上座へお直り下さい」
 李白は平気で上座へ直った。
 数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
 そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。

 今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向ひなたぼっこをして、住んでいる事は確かである。





底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年4月
※漢詩漢文の読み下し文の旧仮名づかいは底本通りです。また促音の大小の混在も底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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    「りっしんべん+更」    662-15
    「くさかんむり/均」    662-下-1
    「分+おおざと」    664-上-20

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