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秦始皇帝(しんしこうてい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:00:06  点击:  切换到繁體中文


         三

 〔諡法の廢除〕 おくりなは周よりはじまつたもので、『逸周書』に「諡法解」がある。周公旦の定めた所と傳へられて居る。その「諡法解」に、諡者行之迹也、(中略)是以大行受大名、細行受細名とある通り、身分ある人の生前の行爲に相應した、死後の諡を定めて、勸善懲惡の意を寓したものである。〔序に申添へるが、新に崩御された君上を、大行皇帝とか大行天皇とか稱するのは、生前に徳行高い方で、やがて大名――美しい諡――を受くべき方といふ意味である。これを永遠の旅に就かれた方といふ意味に解するのは、正しくない。〕
 諡法の起原のことはしばらく措き、兔も角も諡法が周時代に實行されて居つたことは事實である。當時の規定によると、身分ある臣下が死すると、君上より諡を賜はる例で、天子崩御の時は、大臣會議して、その行爲に相當せる諡を定め、且つ君に佞して、天を欺かざる主意とて、京師の南郊に於て、上帝臨監(?)の下に、之を披露することとなつて居る。列國の諸侯達は天子より諡を賜はる筈であるが、周の王室の衰へると共に、天子同樣その國の大夫達が詮議して、その諡を定めることとなつた。さてかく天子崩じ諸侯薨じた場合に、その人に相當せる諡を議定せんには、勢ひ臣子として、その君父生前の行爲を批評せねばならぬ。こは甚だ君父の尊嚴を損ずる譯である。故に始皇は爾後諡法を除くこととした。
 漢は多くの點に於て秦の制度を採用したに拘らず、諡法のみは秦の制度に反對して、之を復活した。復活はしたが、漢以後の諡法は次第に骨拔きとなつて、本來の意義を沒了した。臣下はただ君上に佞して、美諡のみを呈することとなり、全く勸善懲惡の主意を失つたからである。例せば諡法に愛民好與曰惠とあるに、西晉の惠帝の如きがある。また辟土服民曰桓とあるに、東漢の桓帝の如きがある。諡法中に見える躁とか荒とか刺とか醜とかいふ惡諡は、遂に使用された例がない。隋の煬帝の如き惡諡は稀有の例外で、諡法に好内遠禮曰煬とも、逆天虐民曰煬ともある。
 しかのみならず周時代には一字の諡を普通としたに、世の降ると共に字數を増して、多きを誇り、一字の諡號が二字となり、唐時代には普通に六七字となり、更に明・清時代になると二十字内外に増加した。清の太祖の如きは、承天廣運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安宏文定業高皇帝と三十字近き諡號をもつて居る。諡號が長くなり、記憶や使用に不便を加へたから、唐以後は天子の諡號を稱せずに、高祖とか太宗とか廟號を稱するのが慣例となつた。兔に角漢以後の諡は、行の迹といふ本義を失ひ、ただ崩後飾終の追讚に過ぎなくなつた。

         四

 〔郡縣の治〕 秦以前の支那は封建であつて、幾多の諸侯が各※(二の字点、1-2-22)土地人民を私有して居つた。夏の初には天下の諸侯の數一萬、殷の時には三千、周の初には千八百と傳へられて居る。長い年月の間には、攻爭併呑の結果、是等の諸侯は次第にその數を減じ、春秋時代には百六七十國、戰國時代には十國内外となり、最後に秦の一統となつた。天下一家といふことは、始皇帝の時に始めて現實となり、その以前に未曾有の事である。
 さて一統した天下を如何に處分するかは、當時の一大問題であつた。丞相王綰ワウワンを始め、群臣多數の意見は、周の舊にならつて封建の制を行ひ、遠隔の地に同姓子弟を分封して諸侯王といたし、皇室の藩屏たらしむるに在つたが、始皇帝は李斯の言を聽き、天下を擧げて皇室の直領とし、郡縣の治を布くこととなした。『左傳』や『史記』に明記してあるが如く、春秋の末期から戰國時代にかけて、諸侯の數の減少すると反比例に、郡縣の數は増加して居るが、始皇帝は全天下を郡縣にしたのである。即ち天下を三十六郡に分ち、各郡に守・尉・監を置いた。守は文治を、尉は兵事を掌り、監はその監察をする。郡の下には更に縣を置き、令が之を治むるのである。これら郡縣の官吏は、皆天子の代理として民に臨み、その進退任免は一に皇帝の命令に由るのであるから、君權頗る強大となり、一統の政治も亦、完全に行はれる譯である。『史記』に群臣の言を載せて、

昔者五帝、地方千里。其外侯服・夷服。諸侯或朝、或否。天子不制。今陛下(中略)平定天下。海内爲郡縣。法令由一統。自上古以來。未曾有

とあるのは、必ずしも誇張の言ではない。
 〔劃一の制〕 夏・殷・周三代の間、諸侯は各※(二の字点、1-2-22)その國に便宜の政を行ひ、天下の制度は區々として、頗る劃一を缺いて居つた。尤も君權の擴張した周時代すら、夏の後の杞、殷の後の宋は、各※(二の字点、1-2-22)その先代の政を繼承せしを始め、その他の列國でも、悉くは中央政府の制度を循奉して居らぬ。『中庸』に今天下車同軌書同文といひ、『詩經』に「溥天之下、莫王土。率土之濱、莫王臣」といへるが如きは、畢竟一種の希望若くは理想を述べたるものに過ぎぬ。眞に天下劃一の政を見るを得たのは、始皇帝以後のことである。
 始皇帝は六國を併合すると、法度といはず、權量といはず、丈尺・車軌・律歴・衣冠・文字まで、すべて劃一主義を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行した。彼が四方に立てた碑文に、或は器械一量、同書文字と勒し、或は遠邇同度と刻し、この點に關して得意滿面の態を示して居るのも、無理ならぬ次第である。中にも吾人の注意に値するのは、始皇帝が文字の整理に熱心なりしことである。彼は文字を統一したのみならず、またこれを改良した。複雜不便なる古文を省略して、所謂秦篆を作り、更に之を平易にして隷書を作つた。これら文字の整理によつて、當時の社會が如何に大なる便益を受け得たかは、設想に難くない。始皇帝が所在に碑を立てた目的の一半も、或は文字の統一を促す一方便であつたかも知れぬ。
 〔天下巡游〕 始皇帝は天下併一の翌年、即ち彼の在位二十七年から以後、頻繁に四方に巡幸した。
 二十七年 今の陝西の西部及び甘肅方面
 二十八年 今の河南・山東・安徽・湖北・湖南方面
 二十九年 今の河南・山東・山西方面
 三十二年 今の直隷・山西方面及び陝西の北部
 三十七年 今の湖北・湖南・江蘇・浙江・山東方面
 彼はかく四方を巡行しつつ、到る處に秦の頌徳碑を立てた。有名な※(「山+繹のつくり」、第3水準1-47-91)エキザンの碑、琅邪臺の碑、之罘チーフーの碑、泰山の碑、會稽山の碑等は、皆この時に立てられたもので、何れも秦が四海混一した功徳を勒してある。秦は六國を併合したものの、六國の遺臣や遺民は、決して一朝に秦に心服するものではない。そこで天下の耳目を新にする必要が起る。始皇帝が頻年四方を巡游した目的も、畢竟六國割據の餘風を打破して、彼自身が決して秦一國の君でなく、四海の共主であることを、天下萬民に會得せしめん爲で、極めて時宜に適當した政略といはねばならぬ。清の康煕・乾隆二帝が、屡※(二の字点、1-2-22)天下を巡行したのも、全く同樣の趣旨で、近くはわが明治天皇が、維新以來、或は東海、或は奧羽、或は北陸と巡幸せられたのも、或は同一の理由に本づくことと拜察されるのである。

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