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「お、お、お待ちなさいよ、薄情だな。やけにそんなに急がなくともいいじゃござんせんか! 今夜ばかりは、いやがらせをしないでおくんなさい! え! だんな!」
「…………」
「ね! ちょいと! 意地曲がりだな。どこへいったい行くんですかよ! ねらわれているな、あっしなんだ。だんなは草香流をお持ちだからいいかもしれねえが、おらがの十手はときどきさびを吹いてものをいわなくなるんですよ。ね! ちょいと!」
「…………」
「やりきれねえな。今夜は別なんだ。黙ってりゃ、いまにもねらわれそうで気味がわりいんだから、子分がかわいけりゃ人助けだと思って、なんとかうそにも景気をつけておくんなさいよ」
だが、もとより返事はないのです。――季節はちょうどまた花どきの
いうがごとくつけている者があるとしたら、尾行者にとっては人出のその盛りこそ、まことに屈強至極です。ねらわれているとしたら、また伝六にはこのうえもなくふつごう千万なのでした。自身もまたそれが恐ろしいとみえて、しきりとびくびくしながら、うしろ、前、左右に絶え間なく目を配って探ったが、しかしそれと思わしい者の影はない。だのに、名人がまた知ってのことか、わざとにか、いっこうにむとんちゃくなのです。つけていようがいまいが気にも止めないような様子で、さっさと通りを急ぎながら、やがて目ざしていったところは、そこの京橋ぎわの
見ると、夜目にもそれとわかる大きな看板がある。
「加賀家御用お染め物師 紅屋
としてあるのです。
「えへへ。なるほど、そうでしたかい。なるほどね」
およそ途方もなく気の変わる男でした。鳴りに鳴っていたのに、血めぐりの大まかな伝六にも、加賀家お出入りの染め物師とある看板を見てはぴんときたとみえて、たちまち悦に入りながら、声からしてが上きげんでした。
「やけにうれしくなりゃがったね。このくれえのことなら、いくらあっしだっても
「決まってらあ、江戸紫が紅徳か、紅徳が江戸紫かといわれているほどの名をとった
「ちげえねえ!――おやじ、おやじ、紅屋のおやじ! おまえもちっと気をつけな。むっつり右門のだんなが
「は……? なんでござんす? やにわとおしかりでございますが、てまえが何をしたんでござんす?」
びっくりしたのは紅屋徳兵衛です。そこの店先にすわって、商売物のもう用済みになったらしい染め型紙をあんどんの
「精が出るな、景気はどうかい」
「上がったり下がったりでござんす」
「世間の景気を聞いているんじゃねえんだ。おまえのところの景気だよ」
「下がったり上がったりでござんす」
「味にからまったことをいうおやじだな、お蘭しごきの売れ行きはどんなかい」
「売れたり売れなんだりでござんす」
「控えろ、何をちゃかしたことを申すかッ。神妙に申し立てぬと、生きのいい
「それならばこちらでいうこと、かりにも加賀
「とらの威をかるなッ」
姿もひねこびれたおやじですが、いうこともまたひねこびれたおやじです。前田家出入りに鼻を高めたその鼻の先へ、すさまじくほんとうに生きのいい
「この巻き羽織、目にはいらぬかッ。加賀のお城下ならいざ知らず、八百万石おひざもとにお慈悲をいただいておって、何をふらち申すかッ。そちこれなる
「なるほど、いや、恐れ入りました。じつは、そちらのやかましいだんなが、――いや、これは失礼。そちらの威勢のいいだんなが、やにわとおかしなことをおっしゃってどなりつけましたゆえ、つい腹がたったのでございます。なんともぶちょうほうなことを申して、恐れ入りました。ご
「お蘭しごきだ。売れ行きはどんなか」
「飛ぶように、――と申しあげたいが、なんしろ物が
「このごろはどうだ」
「さよう? この月の十一日でござりましたか、三十六本仕上がってまいりましたのが、ついさきおとついまでに、みんな売れ切れましてござります」
「買い主はおおよそどっち方面だ」
「下町、山の手、お娘御たちも町家育ちお屋敷者と、ばらばらでござりまするが、まとまったところでは加賀様がやはり――」
「御用があったか」
「へえ、それも珍しく大口で、いま申したさきおとついの日、ひとまとめにして二十五本ほどお納めいたしましてござります」
「なに、二十五本とのう! いちどきに二十五本とは豪儀とたくさんのようだが、加賀家の御用は毎月そんなか」
「いいえ、ちとご入用の筋がござりまして、今度は格別でござります。月々しごきはたかだか三、四本、それもごくふう主のお蘭さまばかりでござりましてな、ご器量もお屋敷第一でござりまするが、ぜいたくもまたお腰元第一とみえまして、同じものをそう何本も何本もどうするかと思いますのに、もうこの半年ばかりというもの、毎月毎月決まって三本ずつご用命いただいておりまするでござります」
「なに! 月に決まって三本ずつとのう! なぞはそれだな」
「は……?」
「いや、こちらのことよ。伝六ッ」
「へ……?」
「おまえのふところ日記のあれは、いつから始まっておったっけな」
「ひやかしゃいけませんよ。三月十二日があれの出始め、いと怪しのほうもその日が初日じゃござんせんか」
「なるほどな。十一日に三十六本染め上がってきて、あくる日から幕があいたか。ちっとにおってきやがった。では、おやじ、その三十六本はもう一筋も残っていねえんだな」
「へえ、さようでござります。毎日毎日のお花見騒ぎで、手代はじめ職人どももみんな浮かれ歩いておりますんで、ここ当分あと口の染め上げは差し控えておりますんでござります」
「いかさまのう――」
いいつつ、じろりと移したその目に、はしなくも映ったのは、おやじのひざわきに積み上げてある型紙の山です。染めあげた日取りの順序に積み上げてでもあるとみえて、いちばん上に置かれてある一枚に不審な点が見えました。
第一は紋、梅ばち散らしの紋が型ぬきになっているのです。いうまでもなく、梅ばちは加賀家のご定紋でした。
第二はその長さ。まさしく型紙の長さは、手ぬぐい地の寸法なのです。――同時に、きらりと鋭くまなこが光ったと見えるや、名人のさえまさった声が飛んでいきました。
「おやじ! 妙なことがあるな」
「なんでござります?」
「そのいちばん上の型紙よ。たしかにそりゃ手ぬぐいを染めた古型のようだが、違うかい」
「さようでござります。ついきのう染め上げて、もうご用済みになりましたんで、倉入りさせようといま調べていたんですが、これが何か?」
「何かじゃねえや! 梅ばちは加賀家のご定紋だ。
「アハハ。なるほど、さようでござりましたか。いかにもご不審ごもっともでござりまするが、いや、なに、打ち割ってみればなんでもないこと、よそへ頼むはやっかいだ、ついでに二十五本ばかり大急ぎに染めてくれぬかと、加賀家奥向きから、ご注文がございましたんで、いたずら半分に染めたんでございます」
「なに、やはり二十五本とのう。百万石の奥女中が、そればかりの手ぬぐいを急いでとは、またどうしたわけだ」
「あす、上野でお腰元衆のお花見がございますんでな、そのご用を仰せつかったんですよ」
「ウフフ。そうかい。――ぞうさをかけた。甘酒でも飲んで、暖かく寝ろよ」
ぷいと表へ出ると、うそうそとひとりで笑いながら、何思ったかやにわに伝六を驚かしていったものです。
「あにい。この辺のどこかにかまぼこ屋があったっけな」
「へ……?」
「かまぼこ屋のことだよ」
「はてね。かまぼことは、あの食うかまぼこのことですかい」
「あたりまえだよ」
「ちくしょうッ。さあおもしろくなりやがったぞ。右門流もここまで行くとまったく神わざもんだね。お蘭しごきの下手人がかまぼこ屋たア、しゃれどころですよ。板を背負ってはりつけしおきとはこれいかにとね。ありますよ! ありますよ! ええ、あるんですとも! その横町を向こうへ曲がりゃ、江戸でも名代の
「買ってきな」
「へ……?」
「三枚ばかり買ってこいといってるんだよ」
「ね……!」
「何を感心しているんだ。うちのだんなは特別食い
「おどろいたな。ちょっと伺いますがね」
「なんだよ」
「なんしろ、陽気がこのとおりの木の芽どきなんだからね。ちょっと気になるんですが、まさかにぽうっときたんじゃござんすまいね」
「染めが違わあ。紅徳の江戸紫だっても、こんなに性のいい江戸前にゃ染まらねえんだ。一匁いくらというような
不意打ちの命令に、鼻をつままれでもしたかのごとくぽうっとなりながらたたずんでいる伝六を残しておいて、さっさと先に八丁堀へ帰っていくと、春のよさりの