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山陰土産(さんいんみやげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 11:13:36  点击:  切换到繁體中文


    十五 高角山

 高津の町にある高角山たかつのやまは、石見の旅に來て、柿本人麿の昔を偲ばうとするものに取り唯一の記念の場所である。高津は益田から一里ばかりしか離れてゐない。益田から吉田まで行けば、それから先には高津行の自動車があつて、高角山のすぐ下にまで出られる。私達が吉田の大喜庵を訪ねた足で、この山に登つたのは、同じ日の午前のうちであつた。
 人麿に行かうとするには、萬葉集を開いて見るに越したことはない。萬葉集こそ人麿の遺蹟である。同じ石見にある昔の人の跡とは言つても、畫僧としての雪舟と、歌人としての人麿とでは、遺したものが違ふ。したがつて訪ねて行く私達の氣持も、おのづから異なるわけである。私達はあの萬葉集の中に出てゐる石川(即ち高津川)を眺望の好い位置から望んで見たらばと思ひ、人麿終焉の地として古歌にも殘つてゐる鴨山が今でも變らずにあるかと思つて、それを見て行くといふだけでも、滿足しようとした。
 千二三百年の長い年月が、全くこの邊の地勢を變へたといふはありさうなことだ。私達は既に益田の方で萬壽年中の大海嘯おほつなみのことを聞き、あの萬福寺の前身にあたるといふ天台宗の巨刹安福寺すら、堂宇のすべてが流失したことを聞いて來た。益田から見ると、一里も海岸の方へ寄つて、高津川の河口に近いこの地方が、どんな大きな災害を受けたかは想像するに難くない。内濱外濱の數千の民家は皆跡かたもなくなつて、廣い入海も砂土に埋沒し、地形は全く變つてしまつたといはれてゐる。高角山にある柿本神社の境内は人麿が墳墓の地ではないまでも、古くからその靈が祭られたところで、私達はその話を神社の宮司からも、高津の町長隅崎君からも、そこまで同行した益田の大谷君からも聞いた。
 觀月亭は、この社頭に立つ東屋あづまや風の一小亭である。宮司に導かれて私達は松風の音の聞えて來るやうなところに腰掛けた。白い單衣に青い袴を着けた神官の候補者らしい人が山づたひに古い松の根を踏みながら、私達のところへ茶菓を運んで來てくれるのもめづらしかつた。參詣者も多いと見えて社殿の前の柱といふ柱には男や女の名前が一ぱいに書きつけてあつたが、それを押し止めもしないところに宮司の人柄も見えてゐた。いろ/\とよく話す人で古典にも親しみ、和歌の趨勢にも通じ、かうして職務にたづさはる中での新人と見えたが、高津の町の盛衰を一身に負はなければならないやうな宮司としての立場も容易ではないらしい。私達はその東屋の外をも歩いて、松林の間に青い空の見える東の方を望んだ。領巾振山がその方角に見えた。峯のかなたには白い雲も起つてゐた。青田つゞきの村落までも遠く見渡すことの出來るやうな西の方へも行つて立つて見た。高津川はそこに流れてゐた。

石見いはみのや高角山の木の間より我が振る袖をいも見つらむか
さゝの葉はみ山もさやにさやげどもは妹おもふ別れ來ぬれば
青駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける
秋山に落つるもみぢ葉しましくはな散りみだれそ妹があたり見む
鴨山のいは根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつゝあらむ

 これらの古歌を聯想させるやうな遠い昔の地勢は、どんなであつたらうか。今は鴨山もない。海嘯つなみのために流沒したその一帶の地域からは、人工の加へられた木片、貝類、葦の根などの發掘せらるゝことがあるといふ。昔は一面の入江であつたといひ傳へられるところには、豐かな平野が私達の眼の前にひらけてゐた。この邊の周圍はそんなに變つてしまつた。私は高角山にある古い松の間をめぐりにめぐつて、一層立ち去りがたい思ひをした。
 青い海だけは、それでも變らずにあるのだらう。北の方にそれが望まれる。私はこの山陰の旅に來て、城崎に近い瀬戸の日和山から、先づ望んだのもその海であつたことを胸に浮かべて、これが最後に望んで行く日本海であらうとも思つた。大谷君は私の側に來て、沖の方にある一つの島を私に指さして見せた。そこは全く内地と交渉のない島であるとか、唯、そこに住む島民のうちに死亡者を出した時にのみ、こちらの海岸に向けて烽火のろしを高く打ちあげるといふ。それは死亡者を囘向するための讀經を頼むといふ相圖であるともいふ。山陰の西にはそんな島も隱れてゐるかと思つた。
 午後の一時ごろ旅の私達は神社の額殿の内で晝食の饗應を受けた。この境内には一隻の白いボートが置いてあつたが、そのボートこそ例の敗殘の露艦ウラル號の乘組員を乘せて着いた日本海々戰の記念と知れた。

    十六 津和野つわのまで

 いよ/\旅も終りに近づいた。午後の四時ごろには、私達は益田から津和野を指して遠く歸路に向はうとする人であつた。高津へ同行した人達は益田の停車場まで私達を送つて來た。そのうち鮎の粕漬でも送らうなどといつて別れを惜む人がある。これから汽車で乘つて行くところは高角山の方で望んで來た高津川の上流にあたると私達にいつて見せる人もある。益田の宿に着くから、今またこの停車場を辭し去るまで、こゝの驛長龜井君も暇さへあれば私達のやうな旅人を見に來てくれたが、これでなければ地方の驛長は勤まらないものかと感心した。この龜井君、大谷君、その他の人達にも別れを告げて、やがて私達は益田を離れた。高津山に沿うて、横田といふ驛を過ぎた。大田、濱田、津田、益田、横田、これまで經て來た驛の名を數へても田といふ名の町々も多い。私も、石見までやつて來てよかつたと思つた。思ひのほか、この地方の旅は樂しい。もしこれが、東京から三百里近くも離れてゐないで、もつと來易いところであつたら、香住の大乘寺それから松江の菅田庵あたりは、もつと知られていゝ場處だと思つて見て來たが、益田の醫光寺と萬福寺を訪ねた時は一層その感じが深かつた。あの雪舟の遺した庭なぞは山陰道にあるものの中で、最も美しいものの一つであらう。
 大阪からこゝまでやつて來た思ひをすれば、長州の萩の港までは、もうそんなに遠くないやうな氣もする。萩の町とは、吉田松陰はじめ明治維新の先覺者に縁故の深かつた土地と聞く。さういふ近い隣國の影響をこの石見地方に結びつけて考へて見ることもおもしろい。眞淵の言葉を借りていふなら、荒魂あらたま和魂にぎたまふたつながら兼ね具はならないところのない人麿のやうな大きな詩人のたましひを生みつけた山陰の西部に、明治年代からの文學者、故人としては森鴎外漁史、島村抱月君、現存の人としては中村吉藏君などの仕事を結びつけて考へて見ることもおもしろい。たしか加藤朝鳥君も石見生れの人のやうに聞いてゐるが、もしさうだとすれば猶々おもしろい。まだこの外に私などの知らない人もあるかも知れない。
 青原といふ驛を過ぎた。河の流れに膝ほど深く入つて鮎を釣る人も見かけた。津和野に近づけば近づくほど汽車の窓から見て行く水も谿流のさまに變つて來て、川の中には石もあらはれるやうになつた。木曾あたりのことに思ひ比べるとこの邊の谿はそれほど深くない。でも山地深く進んで行くことを思はせた。
 津和野は長州の境に近い小都會である。そこまで行つて、夜汽車で津和野をたち、山口を經て周防の小郡をごほりに出れば、私達も最初の豫定通り山陽線を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて歸ることが出來る。津和野に着いたころは、まだそこいらは明るかつた。私達は山陰の旅の終にと思つて小郡行の夜汽車が出るまでの僅かの時間をそこに送つて行かうとした。
 思ひがけない土地の人達が、この私達親子のものを待つてゐてくれた。津和野の町長望月君は私達に見物させる獻立までも既に用意して置いてくれた。同君にいはせると、見せたいところはいろ/\あるが、さうは時間が許さない。先づこの町の全景を見渡すことの出來るやうな稻荷神社の境内へ、土地の誇りとする嘉樂園へ、舊藩の英主龜井公のいしぶみの前へ、中學校、小學校の庭へ、それから舊藩の文武の學校で津和野藩の人材が皆養成されたといふ養老館の跡へ。暮れさうで暮れない夏の日も、自動車で驅け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて見る旅の私達には短かつた。
「工業や商業はほかの町に讓るとしましても、教育事業だけは津和野が引受けて見せますよ。」
 望月君はこんな熱心な調子の人だ。
 養老館の跡を訪ねるころは、そろ/\薄暗かつた。こゝは故鴎外漁史の生地と聞くもなつかしい。養老館には學則風のものを書いた、古い額も殘つてゐる。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術――鴎外漁史の學問にそつくりだ。人の生れて來るのも偶然ではない。構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながら津和野ミユウゼアムといへるのもめづらしく思つた。
 津和野に來て見ると、こゝにはすでに長州の色彩が濃い。石見からするものと、長州からするものとの落ち合つたところが、津和野の津和野らしい感じであつて、ちやうど眞水と潮水との混り合つた河口の趣に似てゐる。長州の方からさして來る潮はこゝで石見の眞水と合ふ。おそらくかうした土地柄にのみ見出さるゝものは、その邊の微妙な消息は、人の氣質にも、言葉にもあらはれてゐよう。私は自分の郷里が信濃の西のはづれにあつて、殆んど美濃に接近してゐるところから、かうした津和野のやうな土地柄には特別の興味を覺える。その意味から、こゝを鴎外漁史の生地と考へて見ることもおもしろい。
 自動車は町中のある家の前に停つた。そこには中學校の宮西君、小學校の村上君、その他の諸君が、夕飯の膳を用意して私達を待つてゐてくれた。實際、雲のやうにやつて來て、また雲のやうに離れて行かなければならなかつたとは私達のことである。
 私達は土地の人達と一緒に樂しい膳にむかつて、吸ひ物椀の蓋を取つて見たばかりのころに、最早小郡行の發車の時が迫つたことを聞いた。そこに集まつた中には、飮みかけた酒の盃を置いて停車場まで別れを告げに來てくれた人達もあつた。

「鷄ちやん、山一つ越すともう長門ながとの國ださうだよ。トンネルの内が石見の境ださうだよ。」
 私がそれを鷄二にいつてみせるころは、そこいらは眞暗であつた。動いて行く汽車の中からも窓の外に顏を出したが、黒い山の傾斜しか目に映らなかつた。私達はその夜の空氣に包まれながら、山陰地方から離れて行つた。





底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1927(昭和2)年7月~9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「樂しからうと思った。」の「っ」は底本通りにしました。
※踊り字(/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月29日作成
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「二点しんにょう+於」    310-下-22

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