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山陰土産(さんいんみやげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 11:13:36  点击:  切换到繁體中文


    九 境港と美保みほせき

 七月十五日の朝は、私は早く床を離れて、鷄二の起き出すのを待つた。大橋向うの松江の町は漸く眠りから覺めたばかりのやうで、岸のところ/″\には燈火が殘つてゐた。ほがらかに青く光る宍道湖の上には、高く舞ふ鳶などまでが朝の空氣を呼吸してゐるやうに見えた。すべてが靜かで、そして生々いきいきとしてゐた。
 まだ鷄二は蚊帳の内に眠つてゐた。五時半ごろに私は鷄二を起して、その日の旅の支度にかゝらせた。美保の關の町長小西君と野村君とは、私には思ひがけない初對面の客であるが、前の日に兩君同道で私達の宿へ見えて、是非とも美保の關へ立ち寄つて行けと勸めてくれたので、私も兩君の言葉に隨つたのである。その日の私の心にはいろ/\な樂しみがあつた。境港から美保の關まで、船で入江を渡るといふ樂しみがあつた。山陰地方に名高い出雲浦を一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りして見るといふ樂しみもあつた。浦富以來、離れた日本海の方へもう一度出て行つて、すゞしい海風に吹かれるといふ樂しみもあつた。
 同行を約束して置いた古川君も私達の出掛ける前に宿へ訪ねて來た。私達は三人連立つて、大橋川の橋の畔まで歩いた。まだ朝のうちのことで、大橋の上を通る人もそれほど多くなく、松江市の活動は街路を清潔にすることから始められるやうな時であつた。それでも境行の小蒸汽船が橋の畔に客を待つところまで行つて見ると、一番の定期船に乘りおくれまいとするやうな人達が、澤山持ち込んだ荷物と一緒に、船室にも甲板の上にも溢れてゐた。
 松江市は宍道湖と中の海とを左右に控へた中央の位置にある。その二つの水をつなぐ長い運河のやうな大橋川の岸に沿うて、小蒸汽は動いて行つた。やがて私達の出て行つたところは、湖水のやうに靜かな中の海の入江であつた。岸にある崖の赤いのと草の緑とは、行く先で私達の眼をひいた。
「こんもりとしたもりが見えますね。神社も見えますね。樹木のあるところは神の住居だと考へたのが、古代の人の信仰だつたさうですね。二柱の神なぞといふ數へ方も、さういふところから來てるといふぢやありませんか。」
 私達はこんなことを語り合つて身動きも出來ないほど乘客の多い甲板の上の暑苦しさを僅かに慰めて行つた。この入江には、大根島だいこんじまと呼ぶ島もある。村落二つほどもあるかなり大きな島だ。牡丹の花で名高い。春先には驚くばかり美しいといはれる花園がそんな入江の中に投げ出されてゐると考へて見ることも樂しかつた。
「これらの島は、水中に生じた濃緑の花園か何かのやうである。」といふあの言葉も思ひ出される。私達の乘つて行つた小蒸汽は白い泡を立て、波紋と渦とを描きながら、中江の瀬戸まで進んで行つて、境港の船着場のところで船體を横づけにした。私達のすぐ側には幾つかの籠に林檎やバナヽなどを積んだ三人ばかりの果物賣の女も乘つてゐた。果物の籠は殆んど私達の通り路を塞いだ。私達は果物賣りの女が上陸するのを待つて、飛び上るやうに陸の方へ移つた。
 かねて噂に聞いた境の港町は、米子よなごの方面から長く延びてゐる半島の突鼻とつぱなにあつて、岡山、米子間の鐵道が全通し、築港の計畫でも完成せらるゝ曉には、朝鮮、滿洲その他南支那への新しい交通の起點が更に一つ開けるであらうといはれるほど、希望に滿ちた位置にある。
「築港の設計所も、ついでに一つ見て行つて貰ひませう。」
 こんなことをいつて誘はれるまゝに、私達は築港設計所の建物のある小山の上にも登つて見た。そこは外國からやつて來る船を黒船といつた時代に、その外來の勢力を防ぐため舊鳥取藩で築いた臺場の跡であるとか。長さ二百五十間、幅二十間の埋立地をつくり、二百間あまりの岸壁を立て、總延長千六百間の餘にも及ぶ防波堤を築くために、五年間も一つの根氣仕事を續けて來たといふやうな、そんな辛抱強い人達が、その小山の上の土木出張所に働いてゐた。

 岡田汽船會社の岡田丸で、私達は境の港を離れようとした。その時は、古川君の外に、美保の關からわざ/″\出迎へに來てくれた野村君とも一緒になつた。
「私もお供をさして戴きませう。」
 といつて最後に甲板に上つて來たのは、會社側の渡邊君であつた。同行五六人のものがこんな風に甲板に集まつて、一緒に美保の關へ向つた。
 土地の事情に詳しい渡邊君と野村君とは、かはる/″\私の話し相手になつてくれた。境の港口から美保灣の方に見える工事中の防波堤を私に指して見せ、殆ど海中に幾何學的な線でも描いたやうなその堤が、北の方へ直角に折れ曲つたところなぞをも指して見せ、この工事が完成せらるゝ日には、千トン乃至二千トン級の數隻の船を同時に港口の岸壁に繋ぎ得るであらうこと、さういふ築港のあらましなぞを、世故せこけた調子で話し聞かせるのは渡邊君だ。船から見て行く島根半島の方に私達の話頭を轉じ、國讓りの故事を語り、事代主ことしろぬしの神の昔を語り、この世がまだ暗く國もをさなかつたといふ遠い神代の傳説の方へ私達の心を連れて行くのは野村君だ。
「三よりの網ですか。この邊はあれを掛けて、國來くにこ國來くにこ、と引いて來たところでせうに。」
 かういふ話が出て來るのだから面白い。
 私は自分に尋ねて見た。毎年二十萬人からの參詣者を美保神社に集めるといふ事代主の神には一體どういふ徳があつて、それほど多くの人の信仰の對象となつてゐるのだらうかと。俗に「おえびすさま」といへばどんな片田舍の子供でも知らない者のないやうな事代主の神とは、漁業の祖神であるばかりでなく、農業と商業とをつかさどる神でもある。そのことが既に平和の神である。これほどまた逸話に富んだ神もめづらしい。美保の關の住民が未だに鷄を飼はず、鷄の玉子を食はないことは、世に隱れのない事實である。が、それが神の殘した逸話から來てゐるといふこともめづらしい。釣ずきな事代主の神は寢惚けた鷄に時を過られ、未明に舟を出して、にはかな風と波とに櫓も櫂も失つた。止むなく足で漕がうとして、鰐のためにその足を噛まれた。これがそも/\鷄を忌むやうになつた事の起りとされてゐる。一説には神の愛するものが米子の方にあつて、夜明を告ぐる鷄のために果敢はかない逢瀬をさまたげられた爲であるともいふ。いづれにしても、こんな逸話を後世までも殘したといふところに、この神の神らしさがある。誰でも親しめさうな神である。そこいらの岩の上に腰かけて、餘念もなく釣竿を垂れてゐさうな神である。これほど優しい神が、百姓や漁師や商人の友達であるのは不思議もない。あの福々しい笑顏を崩したこともないやうな親しみ易い神が、無數の老若男女から親のやうに慕はれるといふことにも、不思議はない。
 果して、私達の乘つて行つた岡田丸が美保の關の港に着いて見ると、その邊に見つける船といふ船は、美保神社の參詣者の群で一ぱいに溢れてゐた。參拜記念の旗なぞを押し立てた船も眼についた。
 こゝへ來て見ると、稻佐いなさの濱での國讓りも、語り古された故事である。一艘の古い小舟の模型がその記念として、美保神社の境内に安置してあつた。「いな」(否)か「さ」(應)か、それは稻佐といふ言葉の意味であると聞くが、そこの濱邊に十掬とつかの劒を拔いて逆さまに刺し立て、その劒の前に趺坐あぐらをかいて、國讓りの談判を迫られたといふ時、大國主の神がひそかに使者を小舟に乘せて助言を求めたのも、美保にある事代主の神の許であつたといひ傳へられてゐる。私達はこの劇的光景を遠く想像させるやうな小舟の前で、しばらく旅の時を送つた。
 名高い五本松のある山は、美保神社からいくらも離れてゐない。青く深い海水に臨んで、軒を列ねた水樓の屋根が、その傾斜の位置から眼の下に見おろされる。港に浮かぶ船舶のさまも、明るい繪のやうに美しい。おそらく美保の町長が私達に見せたかつたのは、故大町桂月君が「大天橋」と呼んだといふ夜見よみヶ濱から遠く伯耆の大山へかけての眺望であつたらうが、私はむしろその傾斜から見おろした美保の關の港の眺めを取る。昔は航海者の標的であつたといふ五本松のふもとには、一軒の休茶屋もあつた。そこで味はふ茶もうまかつた。晝食の時刻には、私達は山から下りて、春畝しゆんぽ山人の額などの掛つた美保館の座敷で、先づ汗をふいた。

    十 出雲浦海岸

 同じ日の午後。
 境の港から私達を乘せて來た岡田丸は、美保の關での荷積みその他を終つて、棧橋のところに私達を待つてゐた。
 出雲浦の海岸を見ないでは、山陰道の海岸を見たとはいへないとは、故大町桂月君の言葉であるとか。大町君はこの地方の中學に教鞭を執つた時代があつて、そんな關係から、山陰方面には同君の足跡の至らないところはないといはれたほどの旅行家だ。この山陰通の殘した言葉を聞いたばかりでも、私の心は動いてゐたのに、松江の太田君からも出雲浦海岸のいゝことを聞いて來た。私達は今、岡田汽船會社の渡邊君等の厚意から、その出雲浦に出て、外海の方から、島根半島を一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りして見るやうな機會に接したのである。
 岡田丸は境、江角えすみ間を隔日に往復する定期船であるが、同時に觀覽船を兼ねた形で、乘り心地もよかつた。私達は船長室に近い舳の方の甲板の上に陣取つたが、一行の五六人のものの中には松江からの古川君、境からの渡邊君の外に、美保の野村君もまた一緒で、境から乘つた時と殆ど同じ顏觸れであつた。船が棧橋を離れて、その靜止した位置から美保の關の港を後方に動き出して行くと、樂しい波の動搖が私達のからだにまで傳はつて來た。私達は船體の底の方に生々いき/\とした海の躍るのを覺えた。
 地藏崎ぢざうざきの白い燈臺が見えて來た。岬の端に、圓い屋根の燈臺の建物が立つのは、やがて織布のやうに長い島根半島の最北端であると知れた。山陰地方を旅するものが、陸から隱岐の島を望まうとするのも、その燈臺附近の位置からであらう。緑につゝまれた岩の鼻を離れると、際涯のない日本海の眺望がそこにひらけてゐた。
 海から見て行く陸の感じもよい。岸に近く、海上にそばだつ無數の奇巖は、殆ど數へるにいとまがない。顯れた島。隱れた暗礁。その邊の岩石の間に生ずる名も知らないめづらしい草の微細なものから、青い潮の反射をうけて光る懸崖岸壁の巨大なものにいたるまで、そこには何ほどのものがあると言つて見ることも出來ない。しかしそれらの奇異な島々岩々よりも、むしろ行く先の岬のかげに隱れてゐるやうな港の方に私は多く心をひかれた。
 出雲浦もおだやかな時であつた。渡邊君等の心づかひと見えて、甲板の中央にはテエブルを置き、その上に茶なぞを置いたのも樂しかつた。海の愛はまた私の心に活き返つて來た。私は幾年か前の外國の旅を思ひ出し、遠洋の航海の記憶を呼び起して、私達の疲れ切つた筋肉や神經までも清く新たにするやうな日光と海風とが身にみ渡るのを覺えた。

 鯨ヶ浦を過ぎ、雲津を過ぎた。七類なゝしきといふ漁村を過ぐるころ、岸の方に立つ田舍めいた白い旗を望んだ。それは岡田丸の寄港を求める相圖の旗であるとか。その日は船の都合で七類へは寄らなかつた。
 船員は船の上から挨拶でもして通るやうに、
「素通り、素通り。」
 この調子だ。岡田丸では、舳に立つ老船長が自分で舵機をとつて、舵夫の代理までも勤めてゐるが、それが却つて心易い感じを乘客に與へた。何となく旅の私達まで氣もび/\として來た。
 いつの間にか同行の古川君の顏が甲板の上に見えなかつた。同君も船に慣れないかして、船室の方へ休みに降りて行つたらしい。そのうちに、鷄二もうつとりとした眼付をして海の方を眺めてゐるやうになつた。
「どうしたい。」
「なんだか僕もすこし怪しくなつた。」
「こんなおだやかな海で醉ふやうなことぢや、船には乘れないな。」
 私は渡邊君から分けて貰つた仁丹などを鷄二にませ、少し甲板の上を歩いて見ることを勸めた。
 この海岸は諸喰もろくひから大崎の鼻までを東金剛ひがしこんがうともいふ。例のテエブルの周圍には、渡邊君、野村君、それに會社側の營業部員や船員などが集まつて話した。渡邊君は岡田汽船會社の專務取締役でもあり、同じ囘漕店の支配人でもあり、境の港町の町會議員をも兼ねてゐるやうな人で、最初私は同君からおそろしく長い肩書の名刺を貰つた時、これはどういふ人かと思つたが、だん/\言葉をかはして見てゐるうちにその男らしい容貌と態度とに心をひかれるやうになつた。磊落らいらくで剛膽な渡邊君と、綿密で神經質な野村君とは、二人の體格と服裝とからしておもしろい對照を見せてゐた。旅の空の氣輕さ。私は雲のやうになつて來て、長い間の知り合か何かのやうにこれらの人達と話すことも出來たのである。
 野村君もなか/\元氣で私の方を見ながら四方山よもやまの話をした。
「どうでせう、美保の關の人間くらゐむかしを守つてゐるものも、めづらしいでせうな。親代々から鷄も飼はず、孫子に傳へて玉子も食はないなんて、そんなところが他にありませうか。」
「でも、君等だつて他の土地へ行つたら、玉子ぐらゐ食ふでせう。」
 私達の側にはこんなことをいつて話を混ぜ返すものもある。
「そりやあお附合で、稀に食ふこともありますがね。どうも後で氣持が惡い。」
 この人にいはせると、さういふ昔からの習慣が單に無邪氣な傳説から來てゐるのではなく、あの事代主ことしろぬしの神が鷄の鳴聲にだまかされて、身を危ふくするところであつたといふやうなお伽話からでもなく、實は出雲民族に取つて忘れられない國讓りの日を記念するためであらうとのことであつた。遠い古代のことは想像も及ばない。今はたゞこの地方に遺つてゐる習慣や風俗のみが歴史的な事實を語るかに見えた。
 やがて鯛の潮煮などがテエブルの上に運ばれた。野村君は上手な手付で、それを皿に取つてみんなの前に出した。船で味はふ新鮮な魚の手料理もうまかつた。このもてなしには、古川君も鷄二も船醉ひを忘れたらしい。
 私達の乘つて行つた岡田丸は、海そうめん、若布わかめなどの乾してある海岸の岩の見えるところへ出た。かなたの岩の上には、魚見小屋も見えて來た。船で鳴らす寄港の合圖が港の空高く響き渡ると、小さな盥に乘つて悦ばしさうにこちらへ近づいて來る二人の子供などもあつた。そこは惣津そうつといふ漁村で、隔日にかよつて來る岡田丸でも待つより外に、交通の便利も少いほどの邊鄙な土地と聞いた。私は曾て何處にも、こんな桃源めいた漁村を見たことがない。靜かに立ち登る煙、鷄の聲、すべてがいかにも平和な感じを與へる。さういふ私の想像して來た出雲浦海岸とは、もつと別の場所であつた。行く先の岬のかげに、こんな仙境が隱れてゐようとは、實に意外であつた。

 出雲浦に見逃せないものは、七つ穴と潜戸くゞりどの二ヶ所にある大きな洞窟である。山陰道の海岸にある洞窟は、既に浦富の方で私もその深さを探つて見たが、この出雲浦に來て一層自然の力に引き入れられた。七つ穴は西金剛の多古鼻たこのはなに近いところにあり、潜戸は加賀の潜戸鼻の尖端に近いところにある。岡田丸に乘つて行けば、いづれもその近くの漁村から觀覽用の小舟を呼ぶことが出來る。
 私達はその小舟で七つ穴に近づいて見た。巨大な洞門が、七つまでも海岸の岩壁の間に並んでゐたのには、先づ驚かされた。あたかも十四の石柱と石壁とをそこにうち建てたかのやうにも見える。そのうち東穴は高く、西の穴はまた深くて誰もその奧を究めたものがないといはれてゐるが、一番大きいのは中の穴であつた。「洞窟内に通ずる海水は空氣の如く明澄で、これより麗しい洞窟は世界中殆ど想像し得ない」とは、ラフカヂオ・ハアンがこゝに遊んだ時の言葉と聞く。明るく澄んだ海水を通して見た色さま/″\に奇異な海草は、ちよつとこの世のものとも思はれない。それらの海底は、魅せらるることなしに窺ひ見ることの出來ない鮮かな夢の世界か何かのやうである。西の穴の洞窟内は廣くて奧になぎさもあつた。小舟から降りて、その渚の小石を踏むことも出來た。ちやうど一羽の若い岩燕がその洞窟にある巣から離れて、私達の歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る小石の間に落ちてゐた。雛かと見えて、まだ飛ぶ力がない。同行の一人がそれを拾ひあげた。こゝろみに私も自分の掌に載せて見ると、翼こそまだ延びてゐないが、鋭い爪には蝙蝠[#「蝙蝠」は底本では「蝠蝙」]のやうな力があつた。そこへ鷄二が歩いて來た。動物のすきな鷄二は洋服のかくしにでも入れて持ち歸りたい樣子であつたが、やがて思ひついたやうに、小石の間へその燕の雛を放した。おそらく親鳥が來て元の巣へ連れ歸るだらう。そんなことを語り合ひながら、また私達は小舟の方へ歸つた。青く澄んだ海水は一方の洞門から他の洞口へと通じてゐて、この深い洞窟の奧を船で一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りすることも出來た。
 それにしても、七つ穴とはあまりに殺風景な名だ。岡田丸に戻つてからの私達の間には、その話も出た。その邊の海岸を東金剛、西金剛といふところから、私はそれに因んで、「金剛洞」と呼んで見た。この新しい洞窟の名は、渡邊君はじめ同行の人達を悦ばしたらしい。
 船は更に出雲浦を進んで行つた。多古の鼻を過ぐるころには、隱岐おきもかすかに望まれた。島前どうぜん島後どうご。その二つの島影がそれだ。海路としては、その邊が隱岐への最短の距離にあるといふ。私達は瀬崎の港を通り過ぎた時に、袖掛そでかけ松なぞにのこる後醍醐天皇の故事を聞いたが、今また隱岐の見えるところへ來て、あの島に十數年を送られたといふ後鳥羽院の故事をも聞いた。歴代の天皇の中でも、あの後鳥羽院が伏見院と並んで多くのすぐれた歌を後世まで遺されたといふことも、さうした境涯に激發されたためであつたらうか。歴史上の懷古にもまして旅するものの胸をうつのは、そこに殘つた人間苦である。水平線のかなたはと見ると、海と空とが殆ど同じ色に光つて、午後五時ごろの日が漸く斜に甲板の上に射して來るやうになつた。
 新舊二つある潜戸くゞりどの洞窟の内へも小舟を進めて見た。殊に新潜戸の方には、美しい傳説が織り込まれてある。伎佐貝比賣いさかひひめみことといふ妙齡の女神が愛する男神との間に王子を設け隱れた産家として選んだのがこの海岸の洞窟であるといひ傳へられてゐる。こゝは海の女神の住居であつたといふことも、あながち誇張とのみは思はれない。海の神祕は、それほど凄い美しさで私達をその深い力の中に引き入れる。人はこんなところへ來ると、早く逃げて歸りたいと思ふか、あるひは歸ることを忘れるか、どちらかだ。
 同行の人達は次第に半日の船旅に倦んだ。その時になつて見ると一番體格の好い渡邊君の動作が眼につく。精力のさかんな同君は私の側へ來て、いろ/\な土地の話を聞かせたり、海圖をそこへ取寄せて見せたりなぞして、倦むといふことを知らない。私はこの渡邊君に言つて見た。
「一體、この山陰道を裏日本とは、どういふ譯でせう。大陸に向つた海岸の位置からいへば、こつちの方が表日本であつていゝ譯ですね。」
 それを聞くと、渡邊君は感慨深い眼付で、私と一緒に海を眺めながら、
「そこですよ。私達のやうな山陰道のものが、日ごろ考へてゐるのもそこですよ。」
 と言葉に力を入れてゐた。
 江角えすみの港もかなり遠く思はれた。午後の七時ごろには、船から日沒を望んだ。海も岩も次第に色が變つて來た。そろそろ薄暗い空氣の中に、私達は江角の漁港を見た。そこらに立ち登る麥燒きの煙をも見た。定期船としての岡田丸が私達を乘せて行くのも、そこまでだ。私達は朝日丸といふ船の方に移つて、佐多川の掘割から歸路についた。これが日の暮れないうちであつたら、江角にも佐多川の兩岸にも見るべきものが多かつたらうにと惜しい。佐多川から宍道湖に出たころは、そこいらはもう眞暗であつた。嫁ヶ島に近づけば近づくほど湖水は淺し、船の通路にもおほよその定めがあり、暗を動いて行く船の舳には、一點の紅い燈火をつるして、漸く夜の九時ごろに松江へ歸り着いた。

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