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山陰土産(さんいんみやげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 11:13:36  点击:  切换到繁體中文


    十三 杵築きづきより石見いはみ益田ますだまで

 杵築に着いた。
 山陰道の西部をさして松江を辭した私達は、出雲を去る前に今市から杵築に出た。杵築までは、松江で一緒になつた小山君とも同道した。こゝは島根半島の西端に近いところで、日の御崎へもさう遠くない。出雲の大社のあるところだ。
 子供の時分の記憶をたどると、俗にいふ大黒さまとおえびすさまとが私の生れた木曾の山家などにも飾つてあつたのを覺えてゐる。幼い時分の私の眼には、俵をふまへた大黒さまと釣竿をかついだお夷さまの姿が映るのみで、その俵が何を意味し、その釣竿が何を意味するかをも知らなかつた。あの大國主の神が農業の祖神であり、事代主ことしろぬしの神が漁業の祖神であることが分つて見ると、俵をふまへ釣竿をかついだ、父子二神の姿も讀めて來る。私はこの出雲地方を旅して見て、豐かな頬と、廣い眉間と、濃い眉とを行く先に見つけた。あの夷大黒としてよくある彫刻などに見る神の顏の特徴は、やがてそれが純粹な出雲民族[#「民族」は底本では「民旅」]の特徴であることを知つた。
「笑」をあらはした神像といふやうなものが他にもあるかどうか、私はよく知らない。すくなくも大黒さまとお夷さまとにはそれがあらはしてある。何といふ平易で通俗な神像だらう。何といふ親しみ易い笑顏だらう。人も知るごとく、信濃にある諏訪神社の祭神建御名方たけみなかたの神は、事代主の神と共に、大國主の神の子であつて、國讓りの當時信濃の方に亡命せられたのである。事代主の神は父大國主の神の和魂にぎたまをうけつぎ、建御名方の神は同じ父神の荒魂あらたまをうけついだといはれてゐる。當時の出雲民族は古代文化の中堅の一つであつて、その勢力は南は紀伊に及び、中央から北は越後信濃にまで及んでゐたといふくらゐだ。剛健勇邁な建御名方の神が亡命の心事は今からでもそれを想像するに難くない。それに比べると、大國主の神はどこまでも平和の神であり、當時の平和論者なる事代主の神の意見をれて、國讓りの難局に處せられたのであらう。退いて民に稼穡かしよくの道を教へたといはれる神が、高くも遠くも見たであらうことは、それもまた想像するに難くないやうな氣がする。私はよく信濃の方へ旅して、諏訪湖のほとりを通る度にあの建御名方の神を祭るといふ古い神社の境内を訪れたこともあるが、鬱然として氣象の近づき難さが身に迫るのを覺えた。今、この出雲大社に來て見ると、こゝにはそれほど深く沈んだものはない。こゝに祭られてある大國主の神は昔ながらの笑顏をもつて、多くの參詣者の頭を子供のやうに撫で、お伽話でもして聞かせてゐるやうに見える。海岸に近い神社の境内には、松の枝が汐風に吹きたわめられ、あたりも開けて、今ではコンクリートの新しい大鳥居まで立つやうになつた。おそらく、讓りに讓ることを徳とせらるゝほどの神は、一切に逆らはず、多くの不調和をも容れて、移り行く世相に對せらるゝことであらう。
 大社の主典島君に導かれてあちこちと見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた後、私達は千家邸せんけていで早い晝食の饗應を受けた。古い歴史のある家族がそこに住んでゐた。三朝みさゝ温泉の方に病を養つてゐるといふ人の噂も聞いた。不昧公の意匠になると聞く古い庭園は私達が杵築に來て見た最も靜かな場所であつた。そこでも記念にと、揮毫を求められたが、兎角旅の心は落ちつかないで、自分ながら恥かしいものを書きちらした。家扶の星野君といふ人が來て、これは誰とやらの短册、これは誰とやらの色紙、これは誰とやらの書畫帖なぞとうや/\しくそこへ取り出されたのにも恐縮した。時と場合が許して、もつとゆつくりその庭園を眺めることが出來たら、見つけるものも多かつたらうに。惜しい。
 汽車の時間が迫つたことを知らされて、私達はあわたゞしく千家邸を辭した。杵築まで同行した小山君にも別れ、今市から更に西の方へ向つた。出雲地方を去るにつけても、米子の町を見落して來たことは殘念であつた。松江の太田君が勸めてくれた熊野神社まで行けなかつたことも、あの古代の出雲地方と離しては考へられないやうな素盞男命すさのをのみことを記念する熊野村まで行けなかつたことも殘念であつた。
 今市から西の海岸の眺めは、これまで私達が見て來た地方と大差がない。出雲浦ほどの變化はないまでもおほよそその延長と見ていゝ。次第に私達は海岸に向いた方の汽車の窓を離れて、山の見える窓の方に腰掛けるやうになつた。大田[#「大田」は底本では「太田」]、江津、濱田、私達は山陰西部にある町々を行く先で窓の外に迎へたり送つたりした。やがて五時間ばかりもかゝつて、石見の益田まで乘つて行つた。

    十四 雪舟の遺蹟

 旅の鞄に入れて來た案内記は、山陰線全通以前のもので、山陰線の西部のことはあまり出てゐない。石見にある雪舟の遺蹟も傳へてない。左にしるす三つの寺は、いずれも雪舟の晩年に縁故の深かつたところである。

醫光寺いくわうじ
萬福寺まんぷくじ
大喜庵だいきあん

 このうち、醫光寺と萬福寺とは雪舟の意匠になつた古い庭園で知られ、大喜庵はその終焉の地として知られてゐる。位置からいへば醫光寺と萬福寺とは益田の町にあり、大喜庵は益田に接近した吉田村の方にある。雪舟の遺蹟を探らうとするものは、先づ山陰線の益田驛で下車するのを便利とする。
 中世紀の僧侶でもあり、名高い畫家でもあつた雪舟は出世修養期を周防すはう雲谷庵うんこくあんに、みんより歸朝後の活動期を豐後ぶんご(?)の天開樓に送つた後、石見に來てその最後の老熟期に達したといはれてゐる。この雪舟は、しばらく益田の萬福寺に留錫るしやくし、醫光寺に移り住み、吉田の大喜庵にその餘生を終つたらしい。あゝいふ昔の人が最後の栖家すみかを求めて石見地方の寺にそれを見つけたといふのは、その事がすでになつかしい。ましてそこは高津川たかつがはに近く、私達に取つて忘れることの出來ない萬葉の歌人柿本人麿の生涯に(その少年期にも、國守としての中年期にも、また晩年にも)縁故の深かつたところで、遠い萬葉の昔を忍ばせるやうな土地柄でもあるのだから。
 かうした遺蹟も訪ねて見たく、山陰の西とはまたどんなところかと思つて、私達も暑さを厭はず旅をつゞけて來た。益田までの途中、細い藺草ゐぐさを刈り乾した畠なぞを汽車の窓から見て來ることすら、私達にはめづらしかつたのである。こゝはいはゆる石見表いはみおもての産地であるのだ。益田の宿について、町を貫く益田川の流れに臨んだ裏二階に足を休めた時は、兎にも角にも石見の空の見えるところまで無事にやつて來たことを思つた。松江の宿の方では、朝に晩に移り動く水の光を見て來た後であつたから、ちやうど私達は湖水の眺望のある南向きの部屋から、岡の見える北向きの部屋にでも移つて來たやうに感じた。何となく旅の心も落ちついた。
 土地の人達は、よくそれでもこんな遠いところまで訪ねて來たといつて、私達親子の着いたのをよろこび迎へてくれた。益田の驛長龜井君、町長田中君、いづれも私には初對面の人達ばかりだ。私はこゝで、故島村抱月君の從兄弟いとこにあたるといふ人にも逢つた。私はまた大谷君のやうな思ひがけない知己がこの土地にあることを知つた。
「益田までお出掛けはあるまいと思つてゐましたよ。」
 さう大谷君はいつて、出來るだけの案内をしようと約束してくれた。
 土地の人達の心づくしから、その晩は宿の二階で鷄二と一緒に夕飯の馳走になつた。座には、龜井君、田中君、大谷君なぞの外に、益田の農林學校、高等女學校に教鞭をとる人達、その他の顏も見えた。こゝで味はふ高津たかつ川の鮎もうまかつた。

 七月十九日の朝が來た。そろ/\私達の旅も、終に近かつた。朝飯の膳について見ると、味噌汁もうまい。聞いて見ると、その味噌は津和野つわのから來るといふ。日ごろの自分のすきなものからいふではないが、宿で出す汁椀の蓋を取つて、その香ひをかいで見たばかりでも、おほよそその土地を想像し得らるゝやうに思ふのが私の癖である。同じ山陰のうちとはいつても、これまで私達が旅して來た土地のことに思ひ比べると、こゝにはかなりの相違を見る。こゝは一つの獨立した地方のやうでもある。山口縣を通して入つて來る「西」の刺激は、つい隣にまで迫つて來てゐるやうにも見える。出雲の大社近くまで東から早く延びて來てゐた山陰線が、漸く數年前にこの邊の開通を見たといふことは、この地方の人達に取つてゆつくり身構へする時の餘裕を與へたらしい。一萬二千町歩にもわたる奧地の自然林に炭燒の煙の登るのを見、多量の製炭が架空索道によつてそこから運び出さるゝやうになつたのも、そんなに舊いことではないといふが、これなぞもその一例であらう。破壞にも、建設にも、鐵道がこの山陰の西にもたらしたものは、割合に靜かな地方の革命であつたらう。
 朝飯をすますと間もなく土地の人達が誘ひに來てくれた。私達は連立つて醫光寺の近くまで歩いた。
 商業地らしい益田の通りから寺の方へ折れ曲つて行くと、ある家の垣のところに濃い緑が眼についた。こゝにも夏蜜柑の樹があつた。私と一緒に並んで歩いて行つた大谷君はそれを私に指して見せたが、さういふ同君は日露戰爭當時の話を私に聞かせたばかりでなく、この地方へ逃げ込んで來た露艦の水夫のことを自分でも思ひ出したやうであつた。日本海の海戰はこゝから遠くない沖合で戰はれたのだ。二十人ばかりの露艦の乘組員が一隻のボートで着いた時は、誰も敗殘の兵士が救ひを求めに來たと思ふものはなく、敵が攻めて來たとばかり狼狽したものであつたといふ。この話は眼に見えるやうだ。それらのロシヤ人が上陸を許され、食物をあてがはれた時は、土地の人の與へた夏蜜柑に皮のまゝかじりついたともいふ。夏蜜柑にはこんな話が殘つてゐた。もつとも、その話をする大谷君は私なぞよりずつと年の若い人だ。日露戰爭當時の記憶は、話す人よりも反つて話される私の方に濃いとは思つたが。
「いゝもんやろ、醫光寺の門やろ。」
 この古い俚謠の殘つたところが、私達の指さして行つた寺の入口であつた。高くがつしりとした唐門の上には、額なぞも掛かつてゐて、雪舟の遺蹟にふさはしい。石段を上つたところにまた總門がある。ちやうど住職の留守の時で、私達は古い本堂の前手から庭づたひに僧坊の奧へ出た。苔蒸した築山と泉水との見えるところへ行つて立つた。
「これが雪舟ののこした庭です。何かかう大きなものをつかんで、非常な力でそれを壓搾してあるやうに見えますが――」
 かうした大谷君の言葉を聞くにつけても、私は行く先で逢ふ山陰地方の人達が、それ/″\住慣れた土地にあるものをよく見てゐるのに感心した。こゝへ來て見ると、靜かに隱れてゐるやうな庭の眺めが一切を忘れさせた。石の美もよく捉へてある。縱の面と横の面との兩樣の配置は、省けるだけを省いたもののやうに見える。誰もこの庭から石一つ除き去ることは出來まい。誰もまた、この庭に石一つ附け加へることも出來まい。積み重ね/\したところに潛んでゐるものは、深い立體的な感じを伴ふ。これは心の庭だ。遠い中世紀は、まだこんなところに殘つて、私達の眼の前に息づいてゐるかのやうでもあつた。
 留守居する寺の人達が、茶なぞを勸めてくれるのもうれしくて、私達は住職の居間らしいところからもこの庭を眺めた。建物の内部も廣くて、古い十六羅漢の木像なぞを置き並べた部屋もあつた。
 思はず時を送つた。同行の人達に促されてこゝを辭しかけると、本堂の前あたりの庭のところへ來て、挨拶する人に逢つた。大谷君のお父さんだ。息子さんの方は、あるひは年よりも老けて見えるし、お父さんの方は、また若々しくて、そこへ並んだところはちよつと親子のやうに思はれないくらゐだつた。
 醫光山の上にある庵は慈善庵といつて、大谷君の祖父にあたる人の開基にかゝるといふ。こゝまで來たついでに、ぜひともその庵のあるところまで登れ、さういつて勸めてくれるのはお父さんだ。その時は龜井君とも醫光寺まで同道して來たが、同君が益田の驛長といふいそがしい職務の中で、いろ/\と私達を世話してくれるのはありがたかつた。龜井君は大谷君親子の言葉を引取つて、いかにもはつきりとした調子で、
「一生の願ひとあれば、お登りにならないわけにいかないでせう。」
 この人もなか/\勸め上手だ。數百階ある石段の横手には、別に山の上へ導く坂道もある。手に汗じみたハンケチを握りながら、松林の間を攀ぢ登つて行つて見ると、十一面の觀音を安置してあるといふ小さな庵の前へ出た。益田の町、吉田の村から、石見の平野の一部が、その高い位置から見渡された。長門富士なぞも西の方に望まれて、春先の雉子の鳴くころも、思ひやられるやうなところであつた。日本海々戰の當時には、この邊までさかんに砲聲の聞えたことを語り出すのは大谷君のお父さんだ。庵の後の方へ私達を連れて行つて、そこから領巾振山ひれふるやまを指して見せるのは息子さんの方だ。楊桃やまもゝといふ木の枝に實のつてゐるところも、私達がこの山の上へ來て初めて見たものである。それは「もつこく」を想ひ出させるやうな木ぶりで、小さな實は苺より赤黒い。四國あたりにはこの楊桃やまももはめづらしくないともいふが、初めての私なぞには仙人でも食ふ木の實か何かのやうに思はれた。すくなくも十年のよはひは延びる。そんなことを語り合ひながら、私達は庵の前に腰掛けてめづらしい木の實を味はつたり、またそこいらを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて遠く山の間に續く白い街道を望んだりした。

 醫光寺から萬福寺までは、それほど離れてゐない。歩いても知れたほどだ。青い麻畠の間の小道もめづらしく、樂しかつた。この邊には、麻、などの畑も多い。
 萬福寺に來て見ると、雪舟の[#「雪舟の」は底本では「雲舟の」]築いた庭がこゝにも古い寺院の奧に光つてゐた。硬質な岩の間に躑躅つつじを配置して、その石山を中心とした庭の意匠は、醫光寺の方で見て來たものと大體に一致してゐる。こゝには池の片隅に燒石を置き、一方の青い楓の樹のかげに三つの石をおもしろく按配して、風致はかならずしも一樣ではない。いはば姉妹の庭である。
 書院も廣かつた。私達は思ひ/\にすゞしい風の來るところにゐて、年とつた住職が勸めてくれる茶をのみながら、この庭を眺めた。
 住職は、赤松、高野松などの太い幹の見える庭の一部を私達に指して見せていつた。
「向うの竹藪のあたりはいくらか變つてゐますが、その他は大體に昔のまゝです。私共は子供の時分からこの庭を見てゐます。」
「どうでせう。この庭の方が醫光寺よりも纏まつてゐるやうに見えますが――。」
 と大谷君はいひ添へたが、私にはどつちも好かつた。どつちの庭が姉で、どつちが妹であるとさへもいへなかつた。醫光寺を見た眼で萬福寺の庭を見ると、あの長く垂れさがつた古い櫻の枝のかはりに、こゝには岩の間から身を起した大きな蘇鐵がある。一方の庭に白く咲き殘つてゐた山梔くちなしのかはりに、こゝには腹這つてゐる磯馴そなれの松がある。かすかに鯉の動くのが見えるほど薄濁りのした水のかはりに、こゝには青い蓮の葉で滿たされた池がある。どつしりとした古風な石燈籠が一つこの池の水に臨んで、その邊には圓く厚ぽつたい「つはぶき」も多く集めてあつた。前手のみぎはのところに見える、あやめなぞの感じもよい。仲のいゝ友達のやうな蓮の葉が物をいつてゐる側には、河骨かうほねも夢を見てゐた。
 その時になると、私もわざ/\この山陰の西まで旅して來た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の深い心の殘つてゐることも知らず、このよい庭も見落して行くところであつたと思つた。私は住職がそこへ取出して來た記念帖のはしに、僅かばかりの言葉を書きつけた。
「古大家の意匠になりし庭園を前にして、しばらく旅の時を送る。昭和二年、七月十九日記念。」
 かうして萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこの柳のかげに吉田行の自動車を待つた。益田川の河岸に藺草の並べて乾してあるのも眼についた。醫光寺境内の山の上から望んで來た領巾振山はその橋のほとりからも見えた。
 その時になると、又、私は日ごろの自分の考へ方を改めなければならないやうなものが、こゝにも一つあつたことを思つた。どうも雪舟の[#「雪舟の」は底本では「雲舟の」]藝術は親しみにくいと考へたやうな、その多年の疑問は、今度の旅で見事に覆へされた。やはり、來て見て動かされた。
 石見いはみといふ名が示してゐるやうに、いはばこゝは石の國である。古い時代の岩石の崇拜は、この地方に限つたことでもなく、伊豆あたりの神社にもそれを見つけるといふが、益田にあるあま石勝いはかつ神社といふやうな古祠そのものがすでに、この地方のことを語つてゐるやうにも見える。雪舟の藝術に感ずるやうな石の美は、東洋的ではあつても、必ずしもそれが支那的であるとはいひきれないやうな氣もして來た。私はこの石の國に來て、何となくそれらの關係を讀み得るやうに思つた。その人の愛した自然を拔きにして、製作のみを單純にいつて見ることの危いのをも感じた。
 吉田の大喜庵は、萬福寺から半道ばかりも離れて、高津たかつの濱を望むことの出來るやうな小高い山の上の位置にある。そこには雪舟の古い墓もあつた。故人が隱棲の跡には見晴らしのよい新築の寺が建てられて、そこでも茶の馳走なぞになつた。男のさかりを思はせる年ごろの人が今の住職をしてゐて、晩年の雪舟が餘生を終つたやうな地點から更に出發しようとしてゐることも頼母しい。私達は寺の縁先に腰掛けさせて貰つてそこでもまたしばらく旅の時を送つた。青田を渡つて來る風もすゞしかつた。

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