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弘法大師の文芸(こうぼうだいしのぶんげい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:20:58  点击:  切换到繁體中文

弘法大師の事に就きましては、年々こちらで講演がありまして、殊に今日見えて居ります谷本博士の講演は、私も拜聽も致し、又其の後小册子として印刷せられましたものも拜見いたしました。それで先づ弘法大師に關する總論と申しますか、兎に角弘法大師に關する全般の觀察に就きましては、殆ど谷本博士の講演に盡きて居りますので、其の外に別に新らしい事を見付け出し得ようと云ふことはありませぬ。其の後矢張り同僚の一人松本博士などからも、何か密教に關する講演がありましたさうです。それは私共一體分りませぬことでありますから、是はどうせ讀んでも分らぬと思つて、餘り拜見も致しませぬ。それから又是はこちらで講演をせられたものではないのでありますけれども、印刷物として配布せられたのに、幸田露伴博士の何か小册子がありましたやうで、是も弘法大師の文學上に關係したもので、是も一通りは拜見いたしました。何れも皆結構なもので、何も其外に私が今日新らしく申上げようと云ふことはありませぬ次第でございます。
 所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事にはいり過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。勿論それ等の事も既に谷本、幸田兩博士の研究に於て、重もなる點は發表されて居りますので、私が申上げるのは段々枝葉に亙ると云ふことは免がれませぬ。どうぞ其の御積りで御聽きを願ひます。餘程是は聽かれる方々に取つては御迷惑なことであらうと思ひますけれども、兎に角弘法大師の盡力されたことを此處で細かに申上げる次第でありますから、私に對する御勤めでなく、宗祖弘法大師に對して御勤め下さる御心で暫く御清聽を願ひます。
 それで弘法大師が著はされた書籍の中の一二のものに就いて批評を致して見ますと、弘法大師でも文藝上の著述が澤山ある次第ではございませぬ。是は谷本博士の講演の中にも、隨分いろ/\御骨折りになつて研究せられたものでありますが、其の一つは文鏡祕府論であります。此處に持つて來て居りますが、是は弘法大師のことに御注意になつて居る方は、どなたでも御承知でありますが、文鏡祕府論と云ふ本があります。此の本に就きましては谷本博士も大變に御骨折りになつて、研究せられて居りますので、一つはそれ等の事から私も刺激された傾きもあります。それから又私は元來此の本に對して存外多少の興味を有つて居る點もあります。それ等の點からして時々私は此の本を開いて見ることがあります。其の度に時々氣の附いたことをチヨイ/\と本の鼇頭あたまへ書入れを致して置いたり何かします。詰り今日どう云ふ事を申上げようかと困つた揚句、之を開いて見て、かねて調べ掛けたことがありますので、それから少しばかり端緒を得て調べたことを、今日申上げようと思ひます。所が是は話の面白くない割には存外話が込入つて居りまして、隨分御聽きにくからうと思ひますが、どうか暫く御辛抱を願ひます。
 此の文鏡祕府論と申しますのは、勿論弘法大師が當時の漢文を作り、詩を作ります者の爲に、其の規則を書きましたものであります。規則と申しましても、是も谷本博士の御講演の中にもありましたが、弘法大師が自分で御作りになつた規則ではありませぬ。其の當時支那に於て行はれて居ります詩文の法則となつて居るものを集めて、いろ/\取捨をされて書かれましたものであります。弘法大師が文鏡祕府論の序文を書きますに就いても、其の事を明かに御斷りになつて居ります。弘法大師が御若い時に、其の當時京都に大學寮といふものがありまして、此處で勉強されたといふことでありますが、其の時分に伯父さんか何かに當ります阿刀某と云ふ人、其の他大學の諸博士に就いて漢文を勉強された。又其の後入唐をして居られる時に、さういふ事を注意されたと云ふことを御斷りになつて居ります。其の際に詰りいろ/\其の當時行はれて居つた詩文の法則の本を御覽になつたものと見えます。其の結果それを集めて皆んなの爲になるやうに、俗人でも坊さんでも、兎に角詩文を作るものゝ便になるやうに、一つの本を作つたら宜からうといふ考が出られたものと見えました。所が色々なものが澤山出ると、いろ/\本に依つて相違があり、又同じ所があり、隨分面倒である。本は非常に澤山にあるけれども、其の中肝腎のことは大層少ない。それで自分の病氣として、さういふものを見ると、其の儘打捨てゝ置いて、其の通り書くといふ氣にはなれぬので、兎に角いらぬ所は省いて、宜い所だけを殘して置く、即ち添削をしたいといふ考になつて、それで段々重複して居る所は削つて、重もなる肝腎の所を殘して、文鏡祕府論といふものを作つたのであるといふことを言はれて居ります。是は支那から歸られてから幾年ぐらゐ經つて之を作られたかと云ふことははつきり分りませぬが、後に文鏡祕府論をもう一つ簡略にして、文筆眼心抄と云ふ本を書いて居られます。それは弘仁十何年かに之を書かれたといふことは分つて居りますから、文鏡祕府論は其の以前に出來て居つたと云ふことが分ります。
 先づ之を作られた由來は大體そんなものでありますが、之を作るに就いて弘法大師はどう云ふ書籍を重もに參考されたかと云ふことは、谷本博士が苦心をされた結果、其の種本とも謂はれるものを擧げて居られます。それは即ち大師の詩文集たる所の性靈集の中に王昌齡と申します人、盛唐の時分に有名な詩人で、絶句に巧みであつた人があります。其の人の著はした詩格と云ふ本があります。即ち詩の格式であります。それを土臺にして文鏡祕府論を書かれたらうと云ふ御考へであります。私も大變面白い御考へと思つて、それから段々調べて見ますと、勿論此の王昌齡の詩格と云ふものは、大師の文鏡祕府論の種本になつて居るやうでありますが、其の外にも隨分いろ/\な本を參考されて居るやうであります。所でそれはどう云ふ事を參考されたか、その本といふものはどう云ふ價値があるかと云ふことに就いて、少しばかり申して見たいと思ふのであります。
 それは矢張り大師は此の文鏡祕府論を書かれる時に、其の序文に於て既にどう云ふ本を參考したかと云ふことは、大方御斷りは言つて居られます。大師の祕府論の序文の中に斯う云ふことを言つて居られます。
『沈侯、劉善が後、王皎崔元が前、盛んに四聲を談じて爭うて病犯を吐く』
といふことがあります。唯だ斯う申しては分りませぬが、沈侯と云ふのは人名であります。南朝の齊の時からして梁の朝まで掛けての間に沈約と云ふ有名な學者がありました。此の人が支那で四聲と申しますものゝ發明者と言はれて居ります。四聲と申しますのは、詩を作る方はどなたでも御存じですが、平上去入と云うて、平聲と云ふのは平らかな聲、上聲と云ふのは上げる聲、去聲と云ふのは下げる聲、入聲と云ふのは呑む聲、斯う云ふ四つに聲を分けて、有らゆる文字を其の四つの聲に嵌めて、さうして研究することになつて居ります。それは南齊の時分、永明年間からして、此の沈約などが唱へ出して、盛んに行はれたので、之を用ひた詩を永明體と申して居りました。沈侯とはこの沈約のことであります。それから劉善とありますが、これは劉善經の經字を略したのでありませう。それは後に委しく申上げる場合になると分ります。此の人は傳記は分りませぬが、其の人の著述のことは分つて居ります。其の人から後、王皎崔元、是は四人のことを言ひます。王と云ふのは前に申しました詩格を作つた王昌齡であります。皎と云ふのは唐の時の坊さんで皎然と云ふ人であります。此の人の作つた詩式といふのが、今でも其の中の一部分、ちぎれちぎれとなつて殘つて居るものがあります。それから崔と申しますのは、是は崔融と云ふ人だらうと思ひます。此の人の著述には矢張り詩文の格法を書いたものがあります。元と云ふのは元兢と云ふ人であります。此人にも矢張り詩の法を書いたものがあります。是等は皆唐の人であります。それで沈侯、劉善からして以後、王皎崔元までの間に、いろ/\四聲の議論が盛んであつて、さうして爭うて病犯を吐くと書いてありますが、四聲といふものは詰り謂はゞ日本で申せば唄の調子のやうなものであります。唄を唄つても調子が間違ふと音樂に掛らない。それで音樂に掛るやうにする爲に、いろ/\調子に就いて議論があります。詩といふものは昔は歌つたものでありますから、之を歌へるやうにする爲に、此處を斯う云ふやうにしては歌へなくなるとか、此處は上げるとか下げるとかしないと、詩は歌へないと云ふ規則があります。其の規則をやかましく言つて、此處で斯う云ふやうにしてはいかぬとか、春雨の替歌なら春雨の替歌で、斯う云ふ調子にしなければならぬと云うて、規則を説いたものがあります。さう云ふ本があるので、それからして採つたと云ふことを茲に御斷りになつて居る。それでは今申しただけかと申しますと、まだ外にもありますけれども、兎に角此の六人の本を大師は參考にせられたと云ふことは明かに分つて居ります。
 所で其の大師が參考せられたと云ふことに就いてどう云ふ價値があるかと云ふことであります。是は面白いことには大師が參考せられた本の多くは、今日傳はつて居りませぬ。大抵は皆絶滅して、無くなつて居る。それで大師が之を參考して文鏡祕府論に採つてあるが爲に、其の人等の本の一部分と云ふものは、幸ひにして傳はることを得て居るのであります。詰り斯う云ふ人等の本、即ち今日無い本を、大師の文鏡祕府論で今日見ることを得ると云ふことになつて居ります。併しそれは今日どう云ふ所に價値があるかと云ふことを申して見ますと、今申しました詩の法、詩の調子、絶句なら絶句、律なら律、古詩なら古詩と云ふものは、是はどう云ふ風に作るべき法則のものか、それからしてどう云ふ所を間違ふと、是は詩の規則に嵌らぬものかと云ふことは、是は面白いことであります。それで今日に於て、唐の時並に唐以前の詩の法則を見ると云ふことになると、此の文鏡祕府論より外に、今では良い本が無いと云ふことになつて居ります。詰り詩と云ふものゝ沿革などを考へて見る、日本でも歌の沿革を考へて見る。今日でもいろ/\古い歌を詠む人もあり、新體の歌を詠む人もありますが、日本の歌が今日に至つた沿革を考へて見ると、萬葉集なら萬葉集の時代から、古今集とか、其の他三代集から段々今日に至つた由來を知る必要が出て來る。支那でも其の通りであつて、詩と云ふものが其の後も盛に行はれて居るが、唐の時の詩はどう云ふやうに出來て居つたか、唐の時の詩はどう云ふ規則で作つたのであるか、其の時の音律に合ふやうに出來て居つたのであるかと云ふことを、今日から之を知りますには、どうしても其の當時の人の詩の規則を書いたものを知らなければいけませぬ。所がそれは支那では傳はつて居りませぬ。支那で現在傳はつて居る本と云ふと、宋の時に矢張り坊さんでありまして、冷齋夜話、是は能く人が知つて居る本でありますが、其の本を書いた坊さんがあります。それは洪覺範と云ふ坊さんで、其の人の書きました天廚禁臠と云ふ本がある。是も餘り人の見ない本でありますが、それに宋の時の詩の法則が書いてあります。所がそれはどれだけの役に立つかと云ふと、一方詩と云ふものは、宋の時には既に音樂に掛りませぬのです。唐の時までは音樂に掛つて、歌ふことが出來た詩が、宋の時には既に音樂に掛らぬやうになつて居る。それで其の時にありました法則と云ふものは、是は音樂に掛るだけの價値のある法則ではありませぬ。それ以前の法則と云ふものは、支那には一つも殘つて居らぬ。支那は詩の本國でありますが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも殘つて居りませぬ。所が文鏡祕府論がある爲に、それが分るのであります。
 文鏡祕府論に引いてある本は、上は梁の沈約の本から、下は唐の時の本まで引いてある。それで又それ等の本を調べるに就いては、私共の專門の學問をする者は、いろ/\調べる道具があります。それは妙なものでありまして、大師がさう云ふ風に珍重して用ひられた本は、其の當時にはそれではどれだけにそれが用ひられて居つたかと云ふことを知らなければなりませぬ。大師が用ひられた本が、其の當時餘り行はれて居ないものであつたならば、今日殘つて居つても大切なものではありませぬが、大師の使つたものが其の當時にあつても重んぜられた本であつたとすれば、大師の文鏡祕府論と云ふものは、今日に於て非常な價値を有つて居るものと謂はねばなりませぬ。さう云ふ原本の價値を調べると云ふことになると、私共のやうな專門のことを致します者には、いろ/\調べ方があります。それは大體どう云ふものがあるかと云ふことは、今日でも分ります。それで實は斯う云ふ事を知らぬと云ふと、折角文鏡祕府論と云ふものゝ珍本だと云ふことは知つても、存外本當の價値を發揮し得ずに仕舞ふことがあります。それは既にさう云ふ例が實際あるのであります。此の文鏡祕府論と云ふものは珍本であつて、唐の時の詩文の法則を書いたものであると云ふことを注意したのは、勿論日本でも注意して居る人が無いではありませぬけれども、是は支那人が矢張り注意いたして居る。支那人で明治十三四年の頃からして明治十七八年頃まで東京の支那の公使館に來て居つた男で、楊守敬と云ふ人があります。此の人は今でも支那に居ります。先頃支那に騷亂のあつた時、武昌に居つたのが、今は避難して上海に居ると云ふことでありますが、今は七十幾歳かの老人であります。其の人が注意を致して、自分で著はした日本訪書志と云ふものに書いてあります。谷本博士も其の事を仰つしやつて居られますが、兎に角注意して居ることは事實でありますが、楊守敬も其の當時綿密に讀んだかどうか分りませぬが、兎に角珍本であつて、是は唐の時の詩の法則を知るには、大變貴重なものであると云ふことを知つて居るに拘はらず、其の法則と云ふものは、細々しいことばかりを書いてあつて、重大なことではないと云ふことを言つて居る。兎に角極めて細かな規則を規定してあつて、さうして何處にどう云ふ字を餘り入れてはいけないとか、どう云ふ字を入れゝば宜いとか云ふことを言つてありますが、管々しい細かいことには相違ないが、之を詰らぬことゝは言はれない。唐の時には現に詩の規則と云ふものは、さう云ふやうにありまして、其の規則にあるものは採られる。規則にないことは採られぬ。採る採らぬと唯だ申しては分りませぬが、詰り唐の時には詩でもつて文官試驗を致しました。即ち試驗の重もなる科目の中に詩があつたのであります。それで文官試驗に應ずる爲には、細かしい詩の規則を知らなければならぬ。一字の置き處が間違つても、一字の聲が間違つても、詩は落第を致します。それで當時の人は其の細かしい規則を記憶しなければならぬ。隨分厄介なことで、是は日本でも其の儘採り用ひました。日本でも大學の文章博士と云ふものになる爲には、矢張り支那と同樣に詩の試驗をして、一字でも聲が間違ふと試驗は落第を致します。それで其の時代には一字でも半句でも詰りさう云ふ規則と云ふものが非常に大切なものであつた。併しそれを皆研究して居つた。細かしい規則でありますけれども、それを知らぬと云ふと、當時の試驗の模樣も分らず、又當時の詩の作り方も分らぬのであります。詰りそれ程其の當時に於ては貴重なものであつた。それで管々しいことだからと云うて、又今日から見て餘り役に立たぬからと云うて、其の當時それ程に重んじて、一國の秀才を試驗をするのに用ひた規則を、唯だ詰らないものと一と口に言つて仕舞ふべきものではなからうと思ふ。楊守敬などは今日の支那に生れて、詰り當時の試驗と云ふものは、どう云ふものであつて、どれだけ規則が重きを爲したかと云ふことを十分に知りませぬから、それで唯だこんな管々しいことを澤山書いてあると云ふやうに言つて居りますけれども、詰り其の時勢から申しますと、さう云ふ規則と云ふものが、既にそれだけ大切なものである。

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